かえる作文帖

小説(掌編・短編)や随筆などを書いています。読んでくれると嬉しいです。

2018年初夏に書いたもの(短編)

 何べんも何べんも、会うひと皆んなに話してきて、けれどもこれで、あなたに話すこれっきり、最後にします。或る未練の話です。
 私がこの春、大学に入ったことは、あなたご存知でしょう。決して自慢するわけではないけれど、受験勉強に苦しむことなく、そうしていちばんに望んでいた大学に入ることが出来て、私は嬉しかったのと、まあこんなものか、そんな気持ちが半々でした。このまま私の人生は大した努力も挫折もなく、さらさらとすすんでいってしまうのかと思うと……、いや、そんなことはどうでも良いんです、とにかく、この春私は大学に入り、大学で数か月過ごして、そうして、生きていてはじめて、好きな女性ができました。名前を仮に、S、……いや、そんな冷たい名前を彼女には付けられない、彼女の人格や、その繊細なうつくしさが、そんなイニシャルなんかでまとめられては駄目です!彼女のことを、私の未練を、あなたにわかってもらうには、こんな機械的なアルファベットなんて絶対に使えない。彼女の名前も彼女の一部で、では、彼女の名前を明かしてしまおうか?いや、これも不可ない!彼女は、私があなたに今こうして、彼女のことを伝えようとしている、そのことを欠片も知らないんだ、彼女の名前を、それもこうして手紙で明かすだなんて背信行為ではないか、ああまどろっこしい、せめてあなたに直接会えて話せたなら!そしたらこんな、会話は文字には残らない、イニシャルだ何だのと、そんなことは気にせずに、すっ、と彼女の名前を伝えて、話が進められるのに。
 ……いいえ、さっき私は嘘をつきました。すぐ嘘をつくのは私の悪い癖です。私は人に良く見られようと、嘘をつくことを無意識に、けれども着実にこなしてしまう。私が彼女の名前をここに書かないのは、彼女への背信だとか、そういうわけでは全然なくて、私は、彼女の名前を紙に書くのが、怖いんです。信仰する神の名前を口にするのを憚る宗教があるように、私は彼女の名前をここに書くのを憚ります。彼女の名前、すこし気取ったようなその名前、けれども彼女の魅力を欠片も損なうことがなく、むしろ彼女の魅力をいや増しにするような、そんな彼女の名前!ああ、私はいま、ペンを止め、彼女の名前をこっそり口にしました。あなたにこの名前を伝えてあげられないこと、申し訳なく思います。けれども彼女の名前は紙に書かれるべきではない、その発音のうつくしさ、苗字と名前が綾なす鮮やかさの前で、ごたごたした文字は不要とも言える!いや、この理由は二の次です、私が彼女の名前をここに書けないのは、彼女の名前を書いてしまうのが空恐ろしいからで、しかし、彼女の名前を平然と(また嘘をつきました)、もとい嬉々として発音する一方で、彼女の名前を書くことを恐れるのは、これは矛盾ではないのだろうか、そう問われると私は返す言葉を知らなくて、ええ、しかし、いや、そんなことはどうでも良い!私はひとたびペンを取ると、つらつらとどうでも良い事ばかり書いてしまう。とにかく、重要なことは、私は大学に入り、数か月して、人生で初めて、好きな女性が出来ました。
 彼女を目にしたのは、大学の、日本文学の授業でした。彼女は背の低い、ポニーテールの黒髪の、どこか垢抜けない感じの女性、と言うよりも、より適切に表すならば、女性と言うよりも少女で、それで、いつも私の斜め前の席に座っていました。髪の綺麗な人だから、そうして私は綺麗な髪を眺めているのが好きだから、毎週毎週、この授業を、彼女の髪を見られることを楽しみにして、授業中、話を聴くのに飽きてくると、私は彼女の髪を眺め、彼女のことは、ほんのりと気になっていました。
 何回めの授業でしょうか、覚えてはいないけれど、先生が、あれは何だったろう、なにかの例として、三つほど、あまり有名ではない小説の名前を挙げました。そのとき、私の斜め前の彼女は、(彼女はふだんからよくノートを取るひとで、先生の話を逐一ノートに記入しているのだけれど、)その有名ではない三つの小説の名前を聞いているとき、ノートを取るのをやめ、そうして先生のほうを見て、相槌を打っていました。一つ目の作品名を聞いて相槌を打つ、二つ目を聞いて相槌を打つ、三つ目を聞いて相槌をうつ、まるで彼女は、決して有名ではない、寧ろ名前すら聞いたことのない人も沢山居るであろうその三つの小説を全て読んだことのあるかのように相槌を打っていました。
 一方私は、その中の一つの小説だけは読んだことがあったけれど、読んだことのない残り二つのうち一つは名前すら聞いたことが無かった始末!私はじぶん自身文学が好きな積りでいたけれど、一つしか読んだことがなくて、三つ全てを読んだことのあるような彼女は、なんて教養のある立派なひとなのだろう!と、そのとき私の心は、彼女への感心で満たされました。感心?……いや、これは私の感情のぜんぶではない。正直に全てお話しします。私は彼女に、侮辱されたかのようにも感じたのだ。彼女の振る舞いが、まるで私の、今まで失敗せずにやってきた私の鼻をへし折るかのように、『その程度で文学を好きなどとはおこがましいにも程がある!』、そう言っているかのように感じられました。それ以来、私は彼女をはっきりと意識し始めました。或いは感心、尊敬の念でもて、或いは、こちらの方が割合として大きいです、敵愾心でもて!
 さてこうして私は彼女に対して強い関心を抱くようになり、彼女と話してみたいと思いはじめたのですが、しかし、あなたはご存知でしょうか、女性に、それも特に用事のあるわけでもない女性に話しかけることの難しさを!あなたは要領が良いですから、もしかしたら平然と異性に話しかけ、そうしてわけなく仲良くなってしまうのかもしれませんが、私はとてもそうはいかない。たとえば、私は高校時代、同級生の少女が私に話しかけたときの言葉を全て覚えています、「シャーペンの芯貸してくれない?」「そこのセロテープ取ってよ」、これっきりです!私が異性と親しくすることが如何に困難を極めるか、これでお判りでしょう。元来私は口下手で、じぶんから同年代の異性に話しかけることなんて、大学に入るまでのあいだ、記憶の限りでは一度も無くて、しかしこれは女性への興味が薄いことを意味しない、寧ろ逆です!私は異性への興味が人一倍強かったから、意識するあまり話しかけることが出来なくて、異性を前にするだけで歩くことすらどことなくぎこちない人間だから、きっと彼女らも不審に思って私に話しかけなかったんだ、私も彼女らに決して話しかけず、こうやって私は孤独を深くして、そして私には空想家のきらいが強くあったから、「シャーペンの芯貸してくれない?」や「そこのセロテープ取ってよ」を何百遍もリフレインして、何十倍にも膨らませ、(ますます深まる孤独、)そして、大学に入って彼女と言葉を交わすまで、ついぞまともに異性と話さなかった!
 ……そうです。私と初めてしっかりとした会話をしてくれた女性(、それもぜんぶで数時間にも亘って!)は、私が近代文学の授業で強く意識することになった、彼女だったのです。彼女は私と、事務的な用事ではない、しっかりとした会話、つまり、会話を目的とした会話、純粋に会話を楽しむための会話をしてくれた、初めての女性だった!
 聞いてください、私は上手く立ち回ったんです。彼女に自然に話しかけるために、ずい分悩んで、また、思い切って、そうして、偶然うまくいっただけかも知れないけれど、とても上手に立ち回った。まあ聞いて下さい。
 私は、尊敬と敵意の入り混じったよくわからない強い感情を胸に、如何にして彼女に話しかけるか考え始めました。「あの三つの小説を読んだことがあるようだけれど凄いですね」、いいや、唐突にそんな風に話しかけたなら不審者だ、いや、問題は話しかけるその内容ではない、寧ろ話しかけるきっかけで、しかし、私と彼女のあいだには何の接点も無いではないか、さて諦めてしまおうか、けれども諦めてしまうには余りにこの感情は強すぎて、そう、私はこんな気持ちを抱いたことは初めてだったから、ただ悩むほかなくて、何も思いつかずに数日が経ち、その間に行われた授業もただ出席するだけで頭には入っていなくて、まるで熱病にでも冒されたように、ずっと彼女に話しかけるきっかけを考えつづけて、そうしてきっかけなんてものは概して突然やってくる!
 忘れもしません、あれは水曜日の哲学の授業でした。寝ても覚めても彼女に話しかけるきっかけを考え続けていた私は、幽霊のようになりながらその日の授業の教室に入り、授業のはじまる五分前に入室したから、教室も半分ほど埋まっていて、さてどこに座ろうか、そう思いつつ並ぶ座席を見た途端、瞬間、(そう、私は脳の信号が電気信号であることを体感した!)ひとりきり座っている彼女の姿が痺れるように目に入った!私と彼女は日本文学だけではなくて、哲学の授業も同じで、これは話しかけるきっかけとして十分ではないか!
 私はもう、いや、私の頭の内奥の、これまでの考えも、彼女に話しかける段取りも、なにもかもみな吹っ飛んで、一直線に彼女の座るその席のほうへ歩いてゆき、彼女のとなりに腰掛けました。柄にもなくそんな大胆なことをしたものだから(、もしかしたら私は本当に熱病になっていたのかも知れない)、彼女が私の姿を凝視しているのを感じます。私はそんな視線を無視したまま哲学の授業のノート、それに筆記用具を鞄から出して、授業を受ける準備が終わった途端ふい、と彼女のほうを向き、(幸い彼女はまだ私のほうを見ていました、)
 「あれっ、もしかして、日本文学の授業を取ってますよね?」
 ああ、何と情けない醜態、無様さ!もう少し気取った言葉をかけられなかったのか、このポンコツ!阿呆!ろくでなし!これではてんで駄目ではないか、ほら彼女もポカンとしているではないか!何もかも駄目だ、大失敗だ!
 そう自責する私の姿を尻目に、彼女はその表情を、呆れたようなそれから納得したようなものに変化させ、
 「あら、よくご存知で!」
なんて気取った返事を返してきて、それがもう、何とも言えず彼女のようすに釣り合っていたから、これはもう不可ない。私は、いや、私が彼女に抱いていた敵愾心は霧消して、私の精神は完全に彼女に服従した!
 不思議なもので、こうやって一度言葉を交わしてしまうと、じぶんでも驚くほどに、まるで旧来の知己でもあるかのように彼女と、流れるように会話をして、また、会話を楽しむことが出来た!会話の内容はほんとうに些細なもので、やれ日本文学の講義は面白いだの、やれ周りに文学の好きなひとが居なくてつまらないだの、その程度のものだったけれど、先生が来て授業が始まるまでの五分弱、平然と異性と会話出来ていることが私にとって驚きで、それに、嬉しかった。
 そうして話していると先生が来て授業がはじまり、私たちは何も無かったかのように黙り込んで授業を受けて、私は幸福感に浸ってぼんやりしていると、いつの間にか授業が終わっていました。きっと私と彼女の会話は幻のような、一時の幸せで、授業が終わってしまった今、また知らない同士のようにしてばらばらになってしまうのだろう、そう思っていたけれど、あの日の私は生涯のなかで、最も幸せな私だった!私は、彼女が私にどうか話しかけてくれないものだろうか、そう思いながらだらだらと机の上のものを片付けて、しかし彼女は私に話しかけず、けれども彼女も私同様、だらだらと後片付けをしていて、(きっと彼女も話しかけられるのを待っていたんだ、)そうして我々はほぼ同時に机の上のものを片付け終えて、私が彼女をちらりと見ると、彼女も私をちらりと見ていて、そして我々はにこりと会釈し、ふたたび話し始めた!
 私たちは、まるで友人か、あるいは恋人同士のように話しながら教室を、講義棟を出て、別の講義棟から食堂へと移動する人たちの流れを前にして立ち止まり、五分ほど話しました。私が彼女と離れたくないように、彼女も私と離れたくないようで、それが言いようもなく幸せだった。しかしいつまでもこうして立ち止まったまま話しているわけにもいかないから、私は思い切って、(そう、私は自分にこんな思い切りの良さがあることをその瞬間まで知らなかった、)
 「もし良ければ、お昼をご一緒しませんか?」
なんて言葉を彼女にかけて、不安でした、心配でした、きっとあのときの私は緊張で顔を真っ赤にしていたでしょう。何てったって異性を昼に誘うのも、それどころか異性と友人のように話すことさえ、この日が初めてだったのだから。
 この私の一世一代、清水の舞台から飛び降りるような誘い(少々大げさ過ぎますかね、いや、しかし私はこれくらいの気概だった!)に対し、彼女は別段気にかけることもなく、寧ろ嬉しそうにして(、私にはそのように感じられた!)、ええ、良いですよ!と承認してくれて、このときの私の喜びは、とても言葉になんて出来ない。
 私たちは食堂へ行き、昼食がてら彼女と話した。そうして、私たちはずいぶんと親しくなった!
 私たちは昼休憩の間じゅう、ずっと一緒に話していた。つまり一時間弱!私は元来無口なタチで、人との会話は五分も続かないのだけれど、しかし、私と彼女は一時間弱もの間、ほぼ途切れることなく話していた!それにはもちろん理由があって、それは、彼女が話し出すと止まらない少女だった。彼女はその、華奢な身体からは想像がつかないほどに、一体どこにそんなにも沢山の話題を詰め込んでいるのかと思わせるほどによく話した!ずっと話し続けるものだから、しまいには聞くほうが辟易としてしまいそうだけれど、そんなことは決してなくて、私は万華鏡を覗いているかのように彼女の話を聞いていられて、それというのも、彼女の内面世界の豊かさに端緒する!彼女は私などとは比較にならないほど豊かな内面を持っていて、文学、音楽、映画、美術、その他美しいものならば何だってその内側に取り込んでしまうような少女で、ああ、そういえば、私は彼女と話しているとき、近代文学で例に上がったあの三つの小説を読んだことがあるのか尋ねたんです。そうしたら彼女、苦笑いしながら、じつはあの中の一つしか読んだことがなくて……、なんて言うものだから、それも読んだことのある小説が私とぴたりと一致していたものだから、ああ、私は彼女を思いきり抱きしめたく思った!
 惜しむらくは授業の存在、昼休憩のあとの三限が私の時間割には入っていて、彼女は三限が無かったから、これ以上なく幸せな会話の時間を、私は自分の意志で切り上げ、終わらせねばならなかった。別れ際、私と彼女は携帯の連絡先を交換して、そうして彼女は図書館に行き、私は三限の教室に向かった。連絡先を交換するとき、彼女の腕と私の腕がかすかに触れて、その触れた場所がいつまでも温かかった。
 実を言うと、ここで何もかも終わってしまえば良かったんです。あの日の大学帰り、私は車に轢かれでもしてしまえばよかった。そうすれば、これから先に話すような醜態は何一つ晒さずに済んだのに。しかし、これで最後だ、私はぜんぶあなたに打ち明けます。
 その後も私たちは何回か昼を一緒に食べることがあって、(『何回か』なんて言葉を使ってしまう私はやはり無意識のうちに自分を良く見せようとする営みから抜け出せていない、)二回です、二回きりです!私と彼女は、最初の昼を除くと二回、最初の昼を含めると三回、お昼を共にしました。
 二回めはまだ良かったんです。一回めと同じように、彼女がたくさん話して、私は相槌を打って、ときどき私も口を挟んで、私も楽しかったし、彼女も楽しんでいるように見えました。こんな幸せなお昼があと何度でも繰り返されれば良いと思ったし、繰り返されるものだと信じていました。
 三回めです、ええ、三回めのお昼です。もうお分かりでしょう。片一方ばかり話していて、もう片方は相槌を打つばかりの会話が、しまいにはどうなってしまうのか。
……話題が尽きてしまうんです。三回めの昼の途中から、いくら話題が豊富な人とは言っても、流石に彼女の話の種も尽きてきて、会話は途切れがちになり、次第に沈黙に支配されるような昼食、彼女は私に上目遣いで、責めるような、悲しそうな視線を送ってくるものだから、私までやるせなくなって、けれども私は口下手だから、話し出すことができなくて、しまいには彼女が、
 「じゃあ、そろそろ……」
なんて口にして、昼休憩も半ばにして私たちは食堂を後にしました。それっきり私たちは昼食を共にすることはありませんでした。
 しかし、私はどこまでもあさましく、無能で強欲な人間でした。最後の昼がそんな悲惨なものになってしまったにも関わらず、彼女の連絡先を知っているものだから、執拗に、何回も彼女を昼に誘って、ああ、こうして書いているだけでも恥ずかしい、彼女から楽しみを引き出そうとするばかりで、自分からは決して喋り出そうとはしなかった為に起きた、あの三回めの昼の惨事を愚かにも繰り返そうとしていたのです、私は!彼女は聡明だったから、そんな私の誘いをきっぱりと、しかし優しく断って、けれども私は莫迦だから、私の誘いをはねのける彼女を恨みさえした!
 私は尚も失敗を繰り返します。ある晩、私は友人らと酒を飲んでいて(厳しくは追及しないでください)、それで、だいぶ気持ちよくなっていたものだから、何もかも上手くいくような気がして、あろうことか彼女に深夜、唐突に想いを携帯越しに伝えるようなことをしてしまった!携帯越しに、しかもテキストで想いを告白された彼女は一体どんな気持ちだったのか、申し訳なくて想像したくもないけれど、とにかく彼女は優しかった、私の想いを断りつつも、『ずっと文学好きの同志で居てください』なんて言葉を返してくれて、しかし私は自尊心ばかり高い愚図だった。これまで何もかも上手くいっていた、とりたてて大きな失敗をせずにやってきた私のはじめての挫折が彼女だった!彼女に想いを断られ、私は私の顔に泥を塗られるような思いだった!
 『思いだった』などと過去形で言っているが、止めよう、ぜんぶ正直に話します。私は今ですらそう思っている!思えばこれは、私にとっての最初の挫折だ!その挫折が、彼女によってなされたのが、私はどうしても赦せない!彼女が私を受け入れなかったことが赦せない!三度めの昼以降、彼女が私の誘いを何度も断り続けたことが赦せない!
じぶんがどれだけ不合理な、みっともないことを言っているかは重々承知の上です。前にも言ったように、私は強く空想家のきらいがあるから、じぶんが好きになったひとに、根拠もなく、愛されることを信じていた。しかし実際は、とうぜんそんな筈はなくて、或いは彼女が私に見せた、好意的な仕草、例えば私に最初に昼を誘われたときに嬉しそうにしていたあの様子も、みんな私の妄想かもしれない。けれども、私は彼女のことが、私を断った彼女のことが堪らなく呪わしく、しかし同時に、どうしようもなく好きなんだ。
 彼女はいつか、『桜の木が好きなんです』、そう私に伝えてくれて、ならば私は桜の木をすべて燃やしてしまいたい!桜の木を燃やしてしまったならば彼女はきっと、あの責めるような上目遣いで私を見るだろう、だが、私は彼女の愛を欠片でも注がれているものが憎くて堪らない!彼女は桜を、モーリヤックを、タクシードライバーを、キリコを愛し、彼女の友人らを愛して、そうしてその愛の対象は私ではない。彼女は決して私を愛さない。私は、彼女に愛されたかった。愛されるものだと信じていて、けれども駄目だった。……駄目だったんです。
 つい先日、彼女を見ました。私が食堂に入ると、彼女は男女入り混じった集団で、楽しそうに昼ご飯を食べていて、そういえば彼女は美術部に入っていると聞いたから、きっと美術部の友達でしょう、私は彼女の視界に入らないように踵を返し、食堂を、何を食べずに後にしました。もうふたたび、彼女と昼を食べることも、彼女と会話を交わすことすら無いでしょう。