かえる作文帖

小説(掌編・短編)や随筆などを書いています。読んでくれると嬉しいです。

まちあわせ(掌編)

『夜七時、駅前の喫茶店で』。

 

葉書には、これだけが書かれていた。裏を見ても、差出人の名前どころか、私の住所すら書かれていなくて、とうぜん消印もない。

 

あなた宛ての郵便物が一杯になっている、と大家に警告されたものだから、仕方なしにポストへ郵便物を取りに行った。どうせ私に届くのは、見たくない手紙か、見る必要の無い手紙ばかりだから、出来るだけポストを開けないように過ごしてきたが、大家がわざわざ私の部屋に出向いてまで警告しにきたのだから仕方ない、嫌々ながらもポストを開け、山盛りの郵便物を取り出すと、案の定読む気にもならない文字が所狭しと敷き詰められた凡百のダイレクトメールや広告ばかりで、しかし、その一番上に、件の、余白の目立つ葉書があった。

(しかし、一般のジャンクメールの類は、どうしてこうも頭が痛くなるような文字や色彩の使いかたをするのだろう。いつか、もし広告をつくることになったら、この葉書のように、余白を充分すぎるほどにとった、塀のうえで眠る猫のような、しなやかな広告をつくろう、そう私はふと思った。いまどきの広告の、文字を詰め込んだ醜いようすを見るかぎり、そちらのほうがよほど人の目を引くような気がするし、まぁ、私には、きっと一生そんな機会は訪れないのだけれど……)

 

部屋に戻ってジャンクメールをゴミ箱に突っ込み、私は例の葉書を持って、ベッドに腰掛けた。葉書を見つめながら、なんの気は無しに、その文字を分析しようと思った。丁寧な楷書で手書きされたそれは、しかし、上手いのか下手なのかわかりかねた。「喫茶店」の「店」の字がみょうに小さいような気もして、だがこれが正しい楷書なのかも知れないし、何も言えない。私は習字を習っていたわけでもないし、そういえば字はからきし駄目なのだった。

 

夜七時、駅前の喫茶店で。

 

キップルまみれの生活に、ふいに紛れ込んだ薄明りのような一葉きり、一文きりのこの葉書は、それでも、日々に固定されて凝り固まった私のこころを融解させるには十分だった。或いは紙の余白といったものは、精神の余裕を表すのかもしれない。そう考えると、小学生のころの『自由帳』の存在にも納得がゆく。

 

夜七時、駅前の喫茶店で。

 

……では、この葉書を書いたひとは、誰とも知れないそのひとは、精神の余裕の権化のような人なのだろうか?私のポストに、この、悪ふざけみたいな葉書を投函した、その人が?

 

夜七時、駅前の喫茶店で。

 

 

良いだろう、と思った。私のなかの、忘れて久しい遊び心、たとえば、ひとり娘が結婚して出て行って以来、めっきり淋しくなった老夫婦の家の片隅で、誰にも弾かれずに埃を被っているピアノ、そのピアノと床との僅かな隙間に黙って落ちている空色のビー玉のような、今やすっかり忘れ去られた遊び心のようなものが、ふたたび燃え上がるのを感じた。いつどこの誰とも知れぬひとが犯した悪ふざけならそれもそれで構わない、とことん付き合ってやろうと思った。

私は葉書を机に置き、身支度を整えて家を出た。

 

 

駅前の喫茶店には六時五分前に着いた。駅前の喫茶店、といえば、私の住んでいる街の駅前に喫茶店は一軒しかなくて、仮にこのあたりの人に駅前の喫茶店の場所を尋ねたとして、まず間違いなくこの店に着く。私も、今までに何度か利用したことがあって、それは専ら、ひとりでコーヒーを飲みながら、暇を潰すためだった。

ドアを開けると眩しさ、続いて喧騒だった。微かにジャズが流れていたが、それも話し声に掻き消され、途切れ途切れだった。ウェイトレスは私を奥まった席に案内して、私はアイスコーヒーを頼んだ。私はバッグから、吉田健一の文庫本のエッセイ集を取り出し、何度も読み返したそれを、何とは無しに読み始めた。

(余談だが、人を待つときに読む本には、吉田健一のエッセイ集、それも食事や酒について書かれたものを読むのが一番好い。彼の文章はえてして難解で、初見の読者は迷路に足を踏み入れたかのように戸惑うが、慣れてしまえば他では味わえない奥深さに病みつきになる。また、彼の飲食の文章はその造詣の深さゆえに群を抜いた美しさを誇り、それが短長織り交ぜたエッセイ集ならば、(彼の文章は一文一文がそれ自体完結した世界を持つので、)或いは短いエッセイを頭から読んでも、長いエッセイを途中から読んでも、どこから読み始め、どこで読むのを終えても、私たちを受け止めるだけの懐の深さがある。読める時間を読むことが出来ない、ひととの待ち合わせをする際には、そういうわけで、私はいつも吉田健一のエッセイ集を携える。)

 

夜七時、駅前の喫茶店で。

 

七時になり、七時を過ぎ、八時を回った。アイスコーヒーを私はふたたび注文しなければならなかった。混雑のピークはとうに終り、BGMのジャズが煩いほど耳に入った。もうすぐで店じまいであるらしく、ウェイトレスは机を拭きながら、帰れ帰れと頻りに私のほうを見た。私は机に値段ぶんの小銭を置き、無造作に吉田健一をバッグにしまい、店員から目を逸らしながら足早に店を出た。

 

夜七時、駅前の喫茶店で。

 

時計を見ると、もうすぐ九時だった。

 

 

家に着き、バッグを置いて、私はしばし呆然と立ち尽くした。

解ってはいたし、それを承知で赴いた筈だ。それだのに、妙に空虚な、肩透かしを喰らった気がして、要するに、遣る瀬無かった。

続いて怒りが湧いてきた。身勝手なことこの上ない感情だが、どうしようもない。机の上に置いてある葉書の、夜七時、駅前の喫茶店で、の、特徴的な『店』の字が、葉書の余白までもが、私を嘲笑っているように思われた。

 

馬鹿にしやがって!

 

私は憤然として葉書を手に取り、破こうとして、

……ふと、白紙のうえの一点の曇り、そう言えば良いのだろうか、ある思いつきが胸をよぎった。私は葉書を持ち直し、みたび、まじまじと見直した。

 

夜七時、駅前の喫茶店で。

 

水を張ったバケツに色水を垂らしたかの如く、ある感情が私の胸中にぶわっ、と広がり、胸中に留まらず、私の全身を満たした。思わず笑いだしてしまいそうだった。そうか、そういうことか。

 

『夜七時、駅前の喫茶店で。』

 

引き出しのなかを急いで漁った。便箋かなにかが一番よくて、それでなければ葉書でも構わない、とにかくこの感覚の消えないうちに、書き記しておきたかった。引き出しのなかにはルーズリーフの束しかなくて、いや、もうこれで良い。慌てるがまま、机に向き合い、ペンを取った。

じつに、ルーズリーフを四枚無駄にして、ようやく書き上げることが出来た。最初の二枚は字がどうしようもなく気に食わなかった。次の一枚は字の大きさ、最後の一枚は字の位置が駄目だった。五枚めにして書き上げたそれは、たった一文、十数文字にしか満たないながらも、A4の、ルーズリーフの真ん中で、どっしりと、それでいて、盗み食いがばれた幼子のような愛嬌があった。

なんなら、あえて私が書き直す必要は無かったのかも知れない。書き直さずとも、この些細な喜びの連鎖の列には、私が受け取った葉書を使えば、加わることが出来たろう。だが、私は、私の手で、もとい、私の明確な痕跡を残したかった。……或いは、この葉書を手元に残しておきたいという気持ちであった。

私は、書き上げたルーズリーフのきれを手に、外に出た。でたらめに歩き、そうして出会った適当なアパートに入り込み、適当な部屋のポストにそれを入れた。願わくば、私のような人間に、このルーズリーフが、この悪戯の連鎖が届けば良いと願う。

 

『夜七時、駅前の喫茶店で』。