かえる作文帖

小説(掌編・短編)や随筆などを書いています。読んでくれると嬉しいです。

果物売りの女(掌編)

もう久しく、まなじりが乾かない。

いつだって梅雨のような気分でいる。

 

 

 

くだものを売り歩く仕事をしている。梨やぶどうや、上からの指示があれば何だって売る。今日は桃をいくつか、訪問販売するつもりでいる。…あたしは要領が悪いから、くだものを売ることしか出来ないから…。

 

粗末な二階建てアパートの二階、その奥から二番目の部屋のまえに立つ。ぶかっこうでかすれた色のその扉は、やけになれなれしく、あたしは木組みの地獄を思いえがく。

 

ポケットから手鏡を取り出し、髪をととのえ、つとめて笑顔になろうとする。それからあたしはインターホンを押し、続けて声をかける。くだものの訪問販売です、くだものはいりませんか……

すると扉がギイ、と音を立て開けられる。背の低い痩せぎすの、年のころ30くらいの男。あたしは男が、そんな男がこの部屋の主であることを、なんとは無しに知っていた。こわばりそうになる顔をむりやり、あたしは笑顔をつくって言う。

 

「くだものの訪問販売です、いかがですか」

 

「何を売っているんだい?」(そう言った男の声は妙に甲高い。キンキンと耳に響いてしかたない。)

 

「今は桃を売っています……、おいしい桃ですよ、いかがでしょう……」

 

「……まあ、中に入んなよ。散らかった部屋だが、そこで話を聞こう」

 

 

男に招かれるがまま、あたしは部屋のなかに入る。狭くて散らかった部屋。ブラウン管のテレビには西部劇が途中停止されていて、(きっとビデオを見ている最中にあたしが訪ねて、それで再生を止めたところなのでしょう、)黒い拳銃が、画面越しにあたしに向けられている。

 

黒光りする拳銃。

 

 

男が口をひらく。「それで、あんたが売る桃っていうのは?」

 

「ええ、はい、……、こちらの桃です。(あたしは持ってきた桃の詰まった箱をひらいて、)ほら、きれいで、美味しそうな桃でしょう、いかがです?」

 

「なかなか悪くないね。買うよ」

 

「ありがとうございます、…では、早速」

 

 

あたしは桃を箱のなかからふたつ手に取る。表面にうっすらと生えた産毛がくすぐったい。

あたしは手に取ったふたつの桃を、そっ、と触れ合わせる。桃は触れあった部分から、たがいに吸いつくように、重なりあって、交じりあう境界が溶けあってゆき、そうしてふたつは、すこし大きなひとかたまりになる。

ぬるぬるとしたベージュのひとかたまりがうずうずとうごめいて、かつて二つの桃だったそれは、ぼんやりとしたひとかたまりになっている。…少しすると、そのひとかたまりから、小さな桃がひとつ出てくる。ひとかたまりのベージュのそれは、形と色を変え、林檎へと姿を変える。あとには小さな桃がひとつと、やけに朱くとろとろとした、熱に浮かされたような林檎がひとつ残っている。

 

 

「素敵な桃と林檎をありがとう。でもこの新しくて小さい桃は要らないね」

 

「ええ、皆さんそう言われます。でもご心配なさらずに。ほんの小さいうちに、あたしがこれを、小さな桃のほうは、棄てておきます。林檎は、桃の余韻の残滓として、あなたのもとに置いてゆきます。では、失礼します…」

 

「まあ、ちょっと待ちなよ…、ひとつ訊きたいのだが、ちいさな桃が出来るたび、それを捨てるのは、辛くないのかい?」

 

「ええ。…もう慣れました。…けれど、やっぱり、棄てるたび棄てるたび、とうめいな埃があたしの心に積もってゆくようで、すこし、つらいです」

 

「桃を売るのも辛いだろう?」

 

「ええ、…でも、こうでもしなければ、あたしは、あたしは頭が悪いから、生きてゆかれないから…」

 

「そうか、……なァどうだろう、おれがあんたの桃をぜんぶ買ってやろうか。これから先のぶんも、全て」

 

「えッ、それじゃあ、でも…」

 

 

あたしはあたしの目の前の、醜い男を見つめる。でも、もう、いいかも知れない。桃を売って歩くのが、これでお終いになるのならば、もう、これで、良いのかもしれない。

 

男は言う。

 

「良いんだ、おれはあんたのことが気に入ったから、桃をぜんぶ買ってやるよ。おれはしがない貧乏な会社勤めの人間だが、あんたさえよければ、ぜんぶ…」

 

「ええ、ありがとう、ほんとうに、なんと言えば良いんでしょう、…ありがとう」

 

「良いんだよ。……ところで、桃はいつまでも美味しいんだろうね?」

 

「……ええ、きっとそうですよ、先のことはわからないけど」

 

「おれの買う桃は、いつまでもきれいなのだろうね?」

 

「それは、…はっきりとしたことは、わからないけど、…でも、……いえ、わかりません」

 

「では、少なくとも、いつまでも、美味しいんだろうね?」

 

あたしは横目でブラウン管のテレビを見やる。黒光りする拳銃が、未だに、私のほうに向けられている。

やおら私は立ち上がり、桃の詰まった箱を持ち、男に、半ば叫ぶように言い放つ。

 

「やっぱり、あなたに桃は、もう、ふたたび売りません…、桃は、あなただけのものではないのよ……」

 

あたしは部屋を飛び出し、どこまでも走ってゆく。涙で視界がうるむ。いつだってこうだ。誰も彼も皆、こうなのだから、これじゃあ、駄目なんだ…。

 

 

 

もう私のまなじりは、久しく乾くことを知らない。

今日も私は、泣きながら止してしまって、たった一回しか売れなかった。

 

いつだってこうだ。