かえる作文帖

小説(掌編・短編)や随筆などを書いています。読んでくれると嬉しいです。

四国を一週間旅した話(紀行文)

むかしの旅の話をしようと思う。

なぜむかしの旅の話をするのか?それは私の未来が真っ暗であるから、せめて明るい思い出にあやかろうとしてのことである。モラトリアムの終焉をすぐそこに控えた私はもう、ふたたび気楽に旅を出来る身分にはなり得ないだろうから、つまり、学生時代の追憶に縋るようにしてこれからの数十年を生きてゆくことになるのだけど、この文章は、これから先、周縁の労働者としてみじめな生涯を送っていくだけの私にも、僅かながらも輝かしい(旅の)思い出があったという事実を示すための文章であり、またその思い出を私みずからが辿るためのよすがとなる文章でもある。……要するに、今から私が書いていくのは、かつての旅の思い出の整理、その過程かつ結果そのものである。幸いなことに、旅のさなか私は数十枚の写真を撮っていたから、そういうものを見て当時を思い出しつつ、切なさに胸がきゅっとなる情動をとどめずに、懐かしさと絶望がないまぜになったような心境を、追憶に寄せてここに記そうと思う。

 

*一日目

今から三年前の六月十三日だった。三年前というと私はまだ大学二年生で、つまり未だスロットに出会う前、私のお年玉貯金が潤沢に残っていた時分だった。酒の味すらまだ知らず、今のように精神が堕落しきってはいなくて、また、他ならぬ自分が大学を留年するだなんて想像だにしていなかった時分でもある。(就活でこんなに苦労するとも当時は思っていなかった。或いは微かな予感はあったかもしれない。しかし、今となってははっきりしない。)とにかく、この旅は三年前の六月十三日から始まる。まずはそこから書きはじめよう。

六月十三日は平日ど真ん中の水曜日、もちろん大学の講義があった。私は二限と四限を取っていて、その日も私は二限に出るためいつも通りに教室に入った。講義のはざまの休み時間の、人の体温で生ぬるい教室、その教室のぼんやりとした雰囲気。教室に満ちた懈怠をかきわけるようにして私はいつもの席に座る。私の隣にはいつも通りの斎藤くんが居る。(斎藤くんとは知り合いだった。)いつもと全く変わりない、退屈な、休み時間の教室でしかし、私ひとりだけ、いつもと違ってわくわくしていた。或いは表情にまでそのわくわくが溢れていたかもしれない。

私は斎藤くんに話しかける。ねえ、私はいつもと違うこんな大きいリュックサック背負って講義に出てきたわけだけど、どうしてだと思う?(斎藤くんは怪訝な顔をする。私は続ける。)……そう、二限が終わったらそのまま旅に出るんです、講義なんか丸ごと無視して、ほぼ一週間、四国に行くんです!(斎藤くんは呆れていた。)この大きなリュックサックには一週間分の着替えだとかが詰まっていて、あとね、見てこれ、旅行の予定を書いたノートなんだけどどう思う?鉄道に詳しいひとの目から見て、あとほら、これはね……、

そのうちに先生が来て講義が始まり、講義が終わり、私は教室をあとにする。斎藤くんはたしか、去り際の私に、よい旅を、だなんて言ってくれたような気もする。私は斎藤くんを、教室を、文系棟を、大学を置き去りにして駅に向かい、空港に向かう電車に乗る。今日の四限も、明日明後日の講義だってもう知ったこっちゃない。私はこれからの旅路の素描を脳内でなぞる。駅から空港へ。空港から空港、それからフェリー。するともう、念願の、……四国!こうして私の旅は始まった。

(ここで諸氏が気になっているやも知れない点を補足しておこうと思う。諸氏は言うだろう、つまり、「何で二限には出席したのか?」と。私はそれに答えて言う、「飛行機が午後三時ごろの飛行機だったから、出席してから行けたのだ」と。もう一つ諸氏は問うかもしれない。つまり、「旅行なり何なりは長期の休暇にでもすりゃあ良かろうに、また何たって大学の学期中にそう逃げるように旅に出たのか?」と。それを聞いた私はニヤリとして答える、「そうまさに、私は『逃げるように』旅に出たかったのです、わかるだろう君ら、つまりあんな、すし詰めの教室に詰め込まれて、生温かい教室の、不愉快な講義を数回、数十回と受け続けていれば、しまいにはもう気が滅入ってきちまって、何もこんなことをするために私は生まれてきたわけじゃない、とそう思うわけです。もちろんそんな気晴らしは長期休暇にやれば良いだろうが、しかし私は逃げ出したかった。わかるかい君ら、一方では生温い教室でボンヤリと講義を受ける学生たち、一方では四国の太陽のもと、弾むように旅をする私、そのコントラスト!誰も私を知らない土地で、栩栩然として心遊ばせる心地を、君らわかるかい、しかもそれに、大学を一週間サボるなんて背徳感が混じり合って、それがまたいやましに旅情をかき立ててくれるとすれば!それはもう、講義をサボることでしかなし得ない、宝石のような日々であるのだよ。……さあ、実際に、私の旅は佳いものだった。私は生涯の選択で数限りない失敗を犯してきたが、講義を一週間サボって旅に出たあの決断だけは、胸を張って、正しい、とそう断言できるよ。まあとにかく聞いてくれよ、私の数少ない、輝かしい思い出の日々を」。諸氏は以降、しずかに私の話に耳を傾ける。)

さて、諸氏に長々と逃避行の良さを語っている間に、私を乗せた電車は新千歳空港駅に到着した。ここから飛行機に乗って神戸まで飛ぶのであるが、……まぁ、こんなところを長々と書いても仕方がない。私は飛んだ。新千歳から神戸まで飛んで、神戸に着いた。飛行機は速い。

神戸からフェリー最寄りの三ノ宮に着いたのは夕方だった。夜行フェリーの出発までにはかなりの時間があったから、中華街を散策がてら夕飯にし、それでもかなりの時間が余った。仕方がないからフェリー乗り場に早々に赴き、ぼんやりと時間を潰すことにした。果たして時間は潰れた。(要は三ノ宮はさして私の印象に残らなかった。)

さて、時間が潰れたあとの、夜中のフェリーターミナルである。乗船時間が近づくと、あんなにもがらんどうだったフェリーターミナルに人が続々と現れて、しかも平日の、ど真ん中の、水曜日の、こんな真夜中に!誰も彼もみな、私のように大学を抜け出して四国へ逃避行の旅に出るのかしらん、なんて思ったりして、おまけに旅情と深夜のコンビネーション、非常に昂っているものだから、或いは私、そのうちの一人にでも話しかけかねなかった。(こんばんは、あなたも四国に一人旅ですか?)幸い理性が働いた。私も彼らと同様に、黙りこくって乗船時間を待った。

フェリーターミナルの待合室は妙に静かな待合室で、たしかテレビが一台ついていた。そのテレビを見るともなしに見ている人、イヤホン付けてぼんやりする人、本を読む人、色々な人がそこには居たが、会話する人はひとりもおらず、うすら寒いような白い灯りの下で我々は、眠ることもできず、喋りもせず、ただ黙って座り、時が来るのを待っていた。(あるいはそれが夜行フェリーを待つ際のマナーであったのか?)そのうちに乗船が許可されて、すると私たちはみな生ける屍か何かのように、緩慢に、乗り込み口から、しずかにフェリーに呑まれていく……。

 

*二日目

六月十四日の早朝にフェリーは港に着いた。足を踏み下ろすとそこは、遂に念願の四国であった。「遂に!念願の!四国であった!!!」ではない。あくまで、「遂に念願の四国であった」、である。と言うのもそれは前日のフェリーの為であった。一人で夜行フェリーに乗るのが初めてだった私は、寝転がる場所の確保にまんまと失敗し、仕方がないからその辺の椅子に腰掛けて、何とか眠ろうとするものの、生来の不眠も手伝って全く寝つかれず、不本意な徹夜の果ての、遂に念願の四国であった。

しかしやはり、何と言っても念願の四国である。陽の射しかたからして北海道とは違っていた。陽の射し方の違いすら、なんだか妙に嬉しかった。

 

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港からバスで運ばれ、朝の五時半頃には高松駅前に着いた。高松駅は想像と違い妙に立派で、だがほんとうに四国に来ているという実感が、「高松駅」のその文字のためにますます高ぶる。眠れずに疲れ切った身体に、なんとも言えない喜びが充満するような心地がして、疲労歓喜がその体内に同居する私は、まあ、とりあえず、手始めに栗林公園に行くことにした。

 

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栗林公園は松やら何やらがたくさん植わった公園であるという。"高松 観光"で調べるといの一番に出てきた場所で、こんな朝早くから開園しているとのことだったから、朝飯前の運動がてら訪れた。園内を散策すると、調べたとおりに松やら何やらがたくさん植わっており、それが池やら橋やらと組み合わさって風光明媚を形作る、なかなかに良い場所だった。……一時間弱の滞在で満足した。眠れなかった身体に広い公園はとにかくこたえる。腹も減っていた。そこで私は朝食にすることにした。

 

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栗林公園をあとにして高松駅前に戻り、ふと目についたうどん屋でうどんを食べる。肉うどん。肉うどん!私はうどんのなかでは肉うどんがいちばん好きだ。甘い出汁が肉に染みているのが堪らない。この肉うどんの肉も確か甘くて、それがまた言いようもなく嬉しかった。天かすも好きだ。天かす、それもつゆに浸ってヒタヒタになりかけているようなのが特に好きだ。うどんそのものも言うまでもなく好きだ。これも甘みが染みていて幸せだった。肉も天かすもうどんも、何もかもおいしい肉うどんを、つゆまですべて平らげた。その甘さが、やさしい味わいが、昨晩眠れずにボロボロだった身体の隅々にまで染みわたった。

幸福だった。四国に来て、うどんが美味しくて、そして何よりも旅は始まったばかりだった。私は自由だった。おいしいうどんで胃袋が満たされていた。もう望むところは何もなかった。……いやそれは嘘だ。自由で満腹な私は、これからの旅を、四国を堪能することを望んでいた。そこで私は高松を後にし、松山へ向かった。(今にして思えば、移動が多く、まるで何かに追われるような旅行だった。だがまあ、若い時分にはそんな旅行も悪くはないだろう。もっとも、「若い時分」を終えた私は今後、旅行すらままならないような社会の周縁に取り込まれてゆくのだろうが……。)

たしか特急電車で松山へ向かった筈である。はっきりとは覚えていない。何しろ写真もない。記憶にも残っていない。私は肝心ところで写真を撮っていなかったり記憶が無くなったりする。所詮留年生の脳味噌なんてその程度の出来でしかない。(この時点ではまだ留年してはいなかったが。)だがおそらく特急列車に乗った筈だ。何しろ私は特急列車にも数日間乗り放題の周遊切符を買っていた筈で、それになんだか、高松から松山まで特急列車で行ったような気がしてきた。今してきた。自由席に乗ってわくわくしていた想いが今まさに蘇ってきた。虚構の思い出か真実の思い出かは判然としないが。しかしそんなことは些末なことで、要は私はおいしい肉うどんを啜ったのちに、そのまま松山へと赴いた。

さて松山に着いた。松山と言えば道後温泉がまず挙がる。もちろん私はそんな有名な道後温泉に行かなかった。……そう、行かなかった。松山駅から歩いて行くには遠いから、もし行くなら市電に乗って行かねばならなかったのだけど、市電に乗るのが怖かったから、道後温泉には、行かなかった……。代りに近くの美術館まで赴いて、熊谷守一展を観てきた。轢死体の絵が妙に印象に残った。

(じつを言うと松山の市電にも乗ってみたかった。ただ、慣れないことをして手間取って、周囲から冷たい視線を浴びせかけられるようなことが怖くて、乗れなかった。臆病のために乗れなかった。……同じ理由で私は、札幌を走る路面電車にも乗ったことがない。札幌の大学に千葉くんだりからわざわざ入学したにも関わらず、怖くて、路面電車に乗っていない……。)

 

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昼食も松山で摂った。昼食の写真は撮っていない。(馬鹿か?)しかし昼食を摂った店の貼り紙を写真に撮っていた。セイロンライス。これを食べたわけではないが、右下の注釈をよく見てほしい、なんとこのセイロンライス、写真もメニュー名もあくまで「イメージ」なのである。写真もメニュー名も何もかもイメージであるのなら、いったい何を信じればいいのかわからない。しかし妙に美味しそうではある。そして「忘れられない味」というのには注釈がついていないから、「忘れられない味」というのだけは本当なのだろう。……食べてみれば良かった。旅に出ているくせに私は、ほとんど冒険をしなかった。市電しかり、セイロンライスしかり、私は、もう、どうしようもなかった。

そして松山を後にした。美術館に行って昼飯を摂って、松山をあとにして、電車に乗った。『私よ、私よ、なぜ慌てる?留年することを察して、恐ろしいのか?』なんて声が聞こえてきそうだが、そうではない、実はこの日の私の主たる目的地は下灘駅にあったのだ。うどんも良かったが、私は何よりも下灘駅を楽しみにしていた。諸氏も下灘駅の名前くらいは知っているだろうと思う。青春18きっぷのポスターに幾度か使用されている駅で、電車にとりわけ詳しい訳ではない私も、そのポスターをインターネットの画像スレッドで目にするようなことが間々あって、そこから醸し出される旅情にひどく憧れていた。いつかは行ってみたいと思っていた。下灘駅には感じたこともないような風情が、そう、素晴らしい風情が私を待っているものだと、手前勝手に信じ込んでいたのだ。無人駅の、海に面した無人駅の風情をひとりきり、素晴らしい風情を謳歌できる筈だと、そんなふうに、信じ込んでいた。

だが当然そんな風にうまくはいかなかった。

灘駅に私が乗った鈍行列車の着く直前から、何やら厭な予感がしていたんです。駅に電車がはいっていくと、ホームにはたくさんの、電車の写真を撮るひとびと、ああ嫌だなぁ、でも、私のずっと憧れていた駅だから、嫌な予感を抑えつつも降り立ってみて、しかし、私は下灘駅に、降りてみなければ良かった。降りるべきではなかった。

私は降りた瞬間、激しく後悔しました。私が想像していた風情や情緒は、それこそひとかけらもなくて、大学生の集団や、定年後の夫婦、それによくわからない人々が、ぺちゃくちゃと喋り散らして、写真をパシャパシャと撮り散らかして、そこには風情の、情緒のひとかけらすらまるでなくて、私は、もう、死んでしまいたかった。

とにかく人が多かった。そして騒々しかった。たとえばバイカーのおじさんが女子大生のグループにこれまでの旅の自慢をしていて、女子大生はそれを興味なさそうに聞き流していた。

いたたまれなかった。ひとりきりの旅情なぞ望むべくもなかった。そこでは私こそが他ならぬ異端者で、パシャパシャと写真を撮り散らかす彼らが、下らないお喋りをする彼ら、情緒の蹂躙者たる彼らこそが、正しかった。

もし人類が滅びたならば、私はそのときにこそ、もう一度下灘駅に降り立ちたいと考える。いいや、人類が滅びでもしない限り、ふたたび下灘駅に、行くものか。私はあの場所を、人間がいる限り、はげしく憎悪し続ける。あの場所には、もう、情緒も、風情のひとかけらすら、残ってはいない。

だけれど、下灘駅は、ひとが一人も居なければ、この上なく、愛おしい処であったろうと思います。もしそこにひとが一人も居なかったならば、下灘駅はなによりも美しい思い出になったでしょう。

 

……御高説は沢山だ。要するに私は下灘駅に全く馴染めやしなかった。次の電車が来るまでの一時間とすこしのあいだを、付近を散策するなどしつつ何とか潰して、鈍行列車が来るや否や私はそいつに飛び乗った。下灘駅のことなど早々に忘れて、今晩はもう、予定された宿に赴き、ただ眠るだけだった。私は車窓の景色も無視してスマホをいじっていた。あんなにも楽しみにしていた下灘駅があのザマで、それがあまりに悲しかった。

それから、乗り換えを経て宿泊地たる宇和島に着いた。夜の八時過ぎだったと思う。ここに至ってうどんの祝福が切れた。下灘駅での落胆が呼び水となり、昨晩の徹夜の疲れが私の身体に舞い戻った。二日分の疲労が私にのしかかった。そんなザマではもう、どこか気の利いた店を探す気にもなれず、それに翌朝も早いから、コンビニでパンをいくつか買った。旅をしている筈なのに、どこにでもあるコンビニのパンを買って晩飯にするなんて、なんだか勿体ないような気もするが、しかし、私は、疲れていた。

パンを買い込み、予約していたビジネスホテルにチェックインした。どこかうらぶれたビジネスホテルで、受付を、うだつの上がらない風体の男ひとりが切り盛りしていた。私と彼を除いては客も従業員も見当たらなかった。手続きをして鍵を貰い、ようやく休める、ようやく眠れると思いつつ、ふらふらと部屋に向かおうとすると、受付の男が私を呼び止めて言った。

「新聞をどうぞ」

見ると男は私に新聞を差し出していた。サービスなのだろうか。しかし新聞を読む気力も今はもう無いし、それに読まないものをわざわざ貰うのもなんだか申し訳なかったから、結構です、と私は告げた。すると男は驚いたような顔をした。

「ほんとうに良いんですか?」

「ええ」

「テレビ欄も?」

妙に食い下がってくるな、と思った。パンを食って風呂に入ってあとはもう眠るだけだから、テレビ欄も要らなかった。だから私はもう一度、断るつもりで、大丈夫です、と告げた。それを聞くと受付の男は不思議そうな顔をして、そうですか、とだけ言った。新聞を断られて不本意そうですらあった。私は彼にぺこりと会釈して、新聞を持たずに自分の借りた部屋へと入った。パンを食べ、風呂に入り、テレビを見ずに、ベッドに入った。たとい読まずとも新聞を貰っておいても良かったのではないかとふと思い、しかし次の瞬間には寝入っていた。

 

*三日目

六月十五日は朝の五時過ぎに起床した筈である。すぐにチェックアウトをして、新幹線に飛び乗った。

 

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周遊きっぷで新幹線に乗れるだなんて有難い。ここから江川崎駅まで新幹線に乗って、江川崎駅から中村駅まで、四万十川沿いをサイクリングで下るのが当日の予定だった。

想像してみてほしい。晴れた朝、四万十川沿いを延々と自転車で下ってゆく。その途中、しずかな碧色した四万十川にかかる沈下橋を、ひとりきり、自転車で渡ってみる……。それはもう、下灘駅と並ぶ私の夢だった。そして下灘駅が駄目だった以上、私の四国への、風情や旅情への憧れの成否は、このサイクリングの出来にかかっていた。そのためにはどうか、天気が佳いものでなければならない。祈るようにして、私は江川崎駅に降り立った。

 

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江川崎駅である。いやはや、なんとまあ、まさにサイクリング日和の、素晴らしい天気であった。すこし雨もぱらついていたような気もする。なぁ、もしかして、私のことが憎いのか、下灘駅に引き続き、そこまで私の旅を台無しにしたいのか?私はもう、どうしようもなくて、ぐるぐるとすべてを責め苛んだ。そもそも大学を一週間サボって旅に出るような、そんなイカレポンチの根性曲がりの、性根が腐ったやつなんかに、うまいこといい天気が噛み合う筈も無いのだ、私の人生はいつだってそんなふうで、やることなすこと何もかも裏目に出る、ならいっそ何もしないほうが良いのかもしれないが、しかし、もう、ああ、知ったこっちゃあない!雨が降るなら降れ、雷が鳴るなら鳴れ!殺すなら殺せ!……私は、もう焼けくそになって、最初決めたとおり、四万十川沿いをサイクリングで下ることにした。

 

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不幸は続いた。幸いにも雨が止み、サイクリング自体の支障は無くなったが、今度は沈下橋のほうに問題があった。折れているのである。折れていて立ち入れないのだ。天気も曇り、沈下橋も渡れない、そんな、もうどうしようもない、何もうれしくない状況で、しかし沈下橋は一本ではないから、泣きたいような気分で自転車を漕ぎ、次の沈下橋にたどり着いた。

 

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またもや、だった。またもや沈下橋を渡ることが叶わなかった。……だがここに来てようやく、私にも運が回ってきた。雲の隙間から青空がのぞきはじめたのだ。もちろん川面は空の色を照り返すから、曇りと晴れとでは川の美しさも異なる。半ば諦めきっていた私は、自転車を漕ぎながらすこしずつ良くなっていく天気を見て、期待で胸が高鳴った。或いは私が望んだような、素晴らしい四万十川を目にすることが出来るかもしれない。

そして、実際にそうなった。これまでずっと曇り空の川沿いを自転車で走っていた私は、そのとき、ようやく、晴れた川の美しさを目の当たりにしたのだ。

 

 

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幸運は続く。沈下橋はいくつもあって、そしてすべての沈下橋が折れていたわけではない。私は、渡ることのできる沈下橋までたどり着いた。

 

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周りには誰も居なかった。天気は晴れて、川面も言いようもなく美しかった。ずっと渡ってみたかった沈下橋を自転車で渡ることができ、そしてなによりも、こんなふうに旅情を感じていられるのが心の底から嬉しかった。沈下橋に腰掛けて、しばし恍惚とした。

 

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自転車で四万十川沿いを下る私は、そうして沈下橋を渡り、沈下橋に腰掛ける私は、あのときまさに、旅をしていた。旅の真っ最中で私は、「旅をしている!」と、そう強く感じていた。いま、ここで、他ならぬこの私が、旅をしている!奥底から沸き上がるような歓びで心は満たされた。旅情のある場所でひとりきり、旅情を満喫している嬉しさったらなかった。(私が四国の青空のもとでこんなにも自由な一方で、とおい大学の街の学生どもはすし詰めの教室で、概論の講義なりなんなりをぼんやりと受けている。それもまた少し頭をよぎり、しかしそんな底意地の悪い喜びはすぐに消え去った。)とにかく私は嬉しかった。幸福だった。生きていた。私が心底から「生きていた」のは、ほんとうはあのときだけだったかも知れない。私の生は、過去も未来も何もかもすべて、あの旅の、あのサイクリングの、あの沈下橋の、限りなく幸福なあの一点に集約されるために存在していたのかも知れない。そう思えるほどに幸せだった。私の旅の最も幸福な一点、或いは私の生涯の最も輝かしい一点は、まさにあの、四万十川での瞬間だったと言える。……ほんとうに、幸せだった。

 

 

昼には中村駅に着いた。自転車を返却して昼食にする。

 

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ふと目についた麺類の店で昼を食べた。食べたものの写真は撮っていない。おそらくサイクリングであまりに疲弊していたためだろう。自転車に乗っているとはいえ、普段運動とは縁遠い生活を送る人間にとって、40キロもの距離は体に響いた。どんなに心が景色によって満たされていても、疲れるものは疲れるのだ。

 

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その後電車に乗り、中村駅から高知駅を経て大歩危駅へと辿り着いた。大歩危駅の近くのホテルにチェックインし、温泉に入り、夕飯を食い、寝た。四万十川の幸福のために、私はその日じゅう満足し切って、昼食以降のことは特に記憶に残っていない。(都合の良いこと以外は何もかも忘れてしまう私は、政治家に向いているのかも知れない。)

 

*四日目

翌日、六月十六日の朝に目が覚めた。毎日一度は目が覚める。

ホテルをチェックアウトし、大歩危駅まで送迎バスで送ってもらう。大歩危駅に着く。しかし電車には乗らず、そこから更に別のバスに乗りかえる。本日まず目指すのは『かずら橋』である。四国に行くなら『かずら橋』も観に行くと良い、と私に教えてくれたのは、たしかツイッターの知己であった。その言葉にそのまま従い、私は『かずら橋』行きのバスに乗った。(ところで、私にそう教えてくれた彼女はいまどうしているのだろうか。顔も見たこともないが、元気にしていると良いと思う。)

長いクネクネとした山道を、バスに乗ってクネクネ走っていると、『かずら橋』に、まあ、すぐに着く、という訳ではなくて、つまりこの辺りは秘境だから、山道を長い間クネクネと走っていると、何も無い山のなかに、たとえば突然、温泉ホテルが現れる。周りにほとんど何も無いこんなホテルで、三日、あるいは一週間、二週間、だいたいそれくらいのあいだ温泉に浸かってノンビリできたら、脳みそがふやけて、ずいぶんと身体に良いだろうと思う。しかし私は一生涯そんな悠長な身分になれやしないだろうから、考えるだけ虚しくて、要するに、温泉ホテルを発ったバスはまた何も無い長い山道をクネクネとずっと進んでゆき、クネクネ、クネクネ、すると今度は山の斜面を切り開いて出来た小さな集落が現れる。こんな山奥の街で生まれ育ちでもしたらずいぶん面白かろうと憧れもするが、蓋しそれは気楽なベッドタウン育ちの人間の楽観的な妄想に他ならず、実際に私がそこに住めば虫やら不便さやらで三日も経たず根を上げるであろう。そしてまた私は悲しくなって、だがバスは私の感情など気にせずに、またクネクネと山道を進んでゆく。クネクネ、クネクネ、すると今度こそ『かずら橋』へと辿り着く。

 

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『かずら橋』とは蔓や木材(やワイヤー)で出来た橋である。渡るのには通行料が必要で、橋の向こう側にとくに用があるわけでもないが、せっかくなので渡ってみる。(通行料とはこの場合、体験料に他ならない。)

 

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思った以上に足場の木材の間隔が遠く、なるほどこれはいささか怖い。他の人々も大概みなおっかなびっくり渡っていた。(また、これらの写真はすべてスマートフォンで撮ったのだが、もし落としでもしたら恐らく川底へ真っ逆さまだと考えると、スマートフォンを持つ手にも力が入る。自分自身が落ちることよりも、スマートフォンを落とすことの方が数倍怖い。)

 

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なんとか無事に、奇跡的に無傷で橋を渡り切ることができた。死ぬかと思った。あんな怖い経験はもう私の生涯にはふたたび訪れないだろう。そんな恐ろしい橋を渡って左手の道をすこし行くと、雰囲気の良い料理屋があった。私はたしかここで串刺しの川魚を食べた筈だが、どういうわけだが写真を撮っていなかった。なぜ撮らなかったのか頓と判らない。過去を思い出しながら文章を書く際に、このような写真の不足は非常に困る。勘弁してほしい。もう一度四国に行ってどんな魚だったか確かめたい。もとい是非とも行かせてほしい。四国に行きたい。ふたたび四国に行きたい!

……『かずら橋』観光を終え、バスに乗り、長々と、クネクネとした道を戻って、大歩危駅へと帰ってくる。そこから私はふたたび電車に乗って旅をする。

さて、ずっと書こう書こうと思っていたことがある。四国を電車で回っていると、駅のホームで何遍か見かけたこいつについて。

 

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そう、らぶらぶベンチ。らぶらぶベンチについて書きたかった。見ての通り座面が中央に向かって傾斜しており、ここに座ったカップルはどうしてもひっつかざるを得なくなる、そんなトチ狂った代物である。「ア〜、タッちゃん、人前でそんなにくっつかないでよぉ(笑)」「なぁにミサこそくっついてきてるじゃないか、だいたいミサがこのベンチにおれと座りたいって言ったんだろ?(笑)」「もーッ、タッちゃんのいじわるぅ(笑)」みたいなバカップルが使うんだろうな、と、私はこのベンチを見る度に忌々しく思っていた。……が、このベンチに実際にカップルが座っているところを、私は旅行を通じて一度も目にすることが無かった。そもそもこんなふざけたベンチを使う人間が果たして一人でも居るのか、と諸氏は訝しむかもしれない。……ひとり、居たのだ。らぶらぶベンチに腰掛ける者を、私は大歩危の駅で目にした。

それは『かずら橋』から戻って来、ホームで電車を待っているときだった。私は普通のベンチに腰掛けて電車を待っていた。さすがに一人でらぶらぶベンチに腰掛ける勇気は無かった。それに普通のベンチもいくつか空いていた。なので私は持ち前の臆病を発揮して、普通に、普通のベンチに腰掛け、ぼんやりと電車を待っていた。……しばらくすると、駅舎から恰幅の良い一人の男が現れて、駅のホームにやって来た。まだ電車が来るまでは時間があったから、彼も座る場所を探していた。そのまま彼は、普通のベンチに腰掛けるのか、と私は思っていたが、なんと彼はとくに気にするでもなく、平然と、らぶらぶベンチの真ん中に、ひとりで腰掛けた。らぶらぶベンチに!一人で!他に普通のベンチがあるにも関わらず、彼はらぶらぶベンチに腰掛けたのだ。

それを見て私は雷に打たれたような衝撃を受けた。彼は私のチンケな価値観を丸ごと葬り去ると同時に、らぶらぶベンチの見えすいた意図も平然とぶち壊したのだから。お二人さま向けのコンセプトも、真ん中に寄っていく構造もすべて無視して彼は、最初かららぶらぶベンチのど真ん中に腰掛ける。他のベンチが空いているにも関わらず、らぶらぶベンチを避けもせず、普通のベンチと同じようにしてらぶらぶベンチに腰掛ける。私がらぶらぶベンチについてウダウダ考えている一方で、彼はひとり、男一匹、らぶらぶベンチに腰掛ける。らぶらぶベンチの中央に座り、それでいて平然とする彼に、私は強く憧れた。私もあんな、図太い男になりたいと思った。らぶらぶベンチの真ん中に男一匹で座る彼は、ただらぶらぶベンチに男一匹座っているというその事実だけで、私にとって崇高の対象にまで高められたのだ。私もらぶらぶベンチのど真ん中に一人で座るような男になりたい。私もあんな風に、暗に自分を対象から外しているようなものを、あるいはその構造を、あざやかに、かつ平然とぶち壊せるような人間になりたい。

……それから電車が来て、私は乗った。彼が私と同じ電車に乗ったかはわからない。ただ、私の脳内の片隅にあるらぶらぶベンチの、そのど真ん中には、いつまでも彼が腰掛けている。

 

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乗り換えを経て徳島駅に着いた。徳島で撮った写真はこれ一枚きりである。何を思って上の写真を撮ったのか、何故駅舎や駅名標ではなくてこれを撮ったのか、またどうしてそれ以外を写真におさめようとしなかったのか、今となってはわからない。しかし実際、徳島では私は特になにもしなかった。写真に撮っておくべきようなことは一つもしなかった。昼飯をなんとなく目についた店で食べ、周囲をすこし散策し、それからすぐ、鳴門に向かう電車に乗った。それだけだ。(ただ徳島が悪かった、という訳ではない。徳島にも四国の雰囲気が充満していて、そんなところに居られるだけで、たといなにか素晴らしい観光などしていなくとも、なんとなく嬉しくなってくる。その点において徳島は良かった。)

……そういえば徳島ではひとつだけ印象的に覚えていることがある。徳島城の公園をぶらぶらと散策していたとき、そこにはずいぶん人が居て、アァ徳島城は住民の憩いの場なのかなぁ、憩いの場とは良いものだ、羨ましいナァなどと考えつつ、しかし、彼らをよく見てみると、みなことごとく俯いて、スマートフォンを触っている。奴ら皆ポケモンGOをやっているのだと、そう私が察するまでに、あまり時間はかからなかった。こんな良い天気の、綺麗な公園で、みんなしてポケモンGOをやっている。面白いなぁと思った。とはいえ何となく不気味で、私はいそいそとそこから立ち去った。明るい日差しの綺麗な公園で、人々だけがディストピアじみていた。

 

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さて、鳴門へ着いた。鳴門は本日の宿泊地である。写真は鳴門駅のバスの時刻表で、と言うのも翌日にバスに乗って行く予定の場所があり、要は必要にかられて写真を撮ったのだ。そしてこれが六月十六日の最後の写真である。要するに、この日私は鳴門に着くなり、早々に活動を終えた。十五時過ぎに宿泊地にチェックインし、しばらくぼんやりとして、コンビニで買った晩飯を喰らい、またしばらくぼんやりとして、それから風呂に入り、最後にもう一度ぼんやりとして、それから、眠る。それで、おしまい。(旅に出ているときは何かするのも嬉しいし、一方で、旅に出ていながら何もしないのも、これもまた、楽しい。異化された旅の日々では何もかもが輝いて見え、幸福に感じられる。ビジネスホテルで何時間も意味もなくボンヤリとしていることすらも幸福だ。……幸福だった。)

 

 

*五日目

六月十七日に目が覚める。旅も早や五日目を迎えた。

チェックアウトをして鳴門駅前に向かい、そこからバスに乗る。市街をバスに揺られていると、本日の目的地にたどり着いた。

 

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そう、皆様ご存知、大塚国際美術館である。古今東西の名画の複製が、そりゃもう大量に展示されている美術館で、私もいつか一度は行ってみたかった。なので、行った。


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この美術館は展示されている複製の数の多さもさることながら、その入館券も非常に高い。前もって調べてその値段は知っていたものの、……2160円!2160円もあれば、一体何日間食い繋げるというのだろう。仮にも貧乏学生の端くれとして、わたくしは、券売機へと実際に2160円を投入する際、激しい逡巡がその脳内を駆け巡り、(2160円!)それが所作へと作用を及ぼして、私の手は激しく震え、小銭を取り落とし、(2160円!)発汗が止まらず、そのうえ、吐き気までもが、その、

……いや、止そう。誇張して言うのも阿呆らしいから正直に言うが、別に手が震えたとか、あるいは激しく逡巡したとか、そんなふうなことも別になく、要するに私は、券売機に淡々と2160円を投入し、平然とチケットを購入した。旅に出てまで金銭を気にかけるのは虚しいことだ。(もっとも、今後の私は、就活が全くうまくいっていない私は今後、きっと旅にすら出ることが出来ないような身分へと、薄給酷務の地獄へと、落ちこんでゆくのだろうが……。)

さてチケットを買い、実際に美術館の内部に入ると、非常に昔の美術作品(の複製)からはじまり、だいたい時系列に沿って累々と展示されていて、生真面目な観光客たる皆さんは展示順路に沿って、つまり時系列に沿って古代から観て回っていた。彼ら同様に私もたいへん生真面目な人間だから、最初は彼らと同じように、わかったような顔しながら、古代から延々と観ていたが、そのうちになんだかしゃらくさくなっちまった。こんなにもたくさんの人に混じって観るのも厭だったし(私は人混みがとにかく嫌いだ)、それに私は古代の美術作品には欠片も興味がなかった。わざわざ時系列に沿って観る義理もない。なので私はワープした。

 

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早々に現代まぎわへとワープした。これはたいへん効果的だった。誰も彼もみな時系列に沿って観て回っているものだから、こんな時代には未だ誰も辿り着いていないのだ。

 

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誰も居ない。

 

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誰も居ない!

私は現代の階層を、ただ一人きり、独り占めしてじっくり堪能した。ワープは完全な正解だった。もし早朝から大塚国際美術館に行く機会があるならば、諸氏、ぜひとも自分の興味ある時代にワープしてみることをオススメする。ひとりきり、好きな絵(の複製)を好きなだけ(、もとい後続の時系列連中がやってくるまで)たいそう静かに堪能できる。これはなかなか得難い経験だった。

さて現代まぎわの美術を長いこと観ていると、じき時系列連中が、そのなかでもとくに足のはやい連中(野暮天ども)が現れて、「現代アートはよくわからない」だとか「こんなもん俺にでも出来る」だとかの声で煩くなってきた。野暮天は嫌いだ。なので私は退散した。その時までに私はもう、充分に満足していた。

 

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美術館内にはレストランがあった。折角なのでそこで昼にした。プチブルめいた飯が出てきて、私はそれを哀しく食べた。Tシャツとジーンズの貧乏大学生(=私)には到底似つかわしくない飯だった。また、こんな飯を日頃食べるような身分になれやしないことを、当時から既になんとなく私は悟っていて、そのために私は哀しかった。飯を食べながら哀しかった。プチブルランチをひとり哀しく食べおえると、館内の残りのうちの一部をザッとさらうように観て、それから美術館をあとにした。(プチブルランチの哀しさは長く尾を引いて、絵を観るどころではなくなってしまったのだ。……もとい、現代まぎわの美術を非常にじっくり観ていたものだから、なんだか、疲れてしまった。)鳴門ではあと、渦潮を見た。海がぐるぐる渦巻いていて、ナルホド渦潮とはあんな感じのものなのだなぁ、と思いました。楽しかったです。

……鳴門の街並みも、美術館の周りも、ずいぶんと気持ちが良い処だった。晴れた清々しい天気の下ですべてが輝いて見えた。或いは旅の異化作用のためにそう思えたのかも知れないが、私の旅路のなかでも鳴門はとくにその雰囲気が良かったように思われる。そんな鳴門の街をあとにして、私はふたたび電車に乗る。今度はどこへ?ふたたび高松へ!だがそれは旅をするためではない、旅を終えるためにである。

 

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高松に着いたのは十八時ごろだった。夕飯はもちろん肉うどんだ。たしかこれは高松駅内のうどん屋の肉うどんだと記憶している。肉うどん尽くしの生活が送れる香川県民が羨ましい。

……さて、何事にも終わりがある。とうぜんこの旅にも終わりがあって、つまり翌日、私は神戸まで戻り、そこから飛行機で帰らねばならなかった。ふたたび大学のある街へ、退屈な日常へ、帰らなければならなかった。(高松に戻ってきたのも翌日の高松発の高速バスのためだった。)残念だったが、しかしまあ、満足もしていた。電車で四国を回ってみるようなことなんてそうそう出来ることではないし、かずら橋も、大塚国際美術館も楽しかった。言わずもがな高松のうどんは美味しかった。下灘駅は最低だったけど、でも私には、四万十川沿いを自転車で下る思い出が出来た。総体として幸福だった旅のなかで、そのなかでもいっとう満ち足りていたあの思い出さえあれば、懈怠まみれの日常なんて屁でもないような気がした。今後の人生だって、何とかやっていけるような気がした。(そして今もなお四万十川の思い出に私は助けられている。私の生涯はもはや、どうしようもない所まで来てしまったが、それでもあの沈下橋でひとりきり憩っていたあの瞬間を思い出せば、ふと胸が軽くなる。もうだいぶ色褪せてしまった思い出だが、それでもやはり、私のたいせつな思い出であることに変わりはない。)

うどんを食べ終えた私は高松駅からしばらく歩き、ビジネスホテルにチェックインした。翌日に神戸まで行く手段を再確認し、風呂に入り、名残惜しいが、眠った。

 

*六日目

六月十八日、目が覚めた。今日は北海道に戻る日で、旅の終わりの日であった。本来ならばその筈であった。本来ならば、というのはつまり、不測の事態が起こったのだ。

2018年6月18日の8時前に、大阪北部で最大震度6弱地震が発生した。高松に居た私はその時間には未だ寝ていた。そして地震の揺れでも目が覚めなかった。

 

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八時半過ぎに目が覚めた。目が覚めてから少しして撮ったのが上の写真である。なぜベッドの写真を撮ったのか?諸氏は私に問うだろう。私は答える。それはこのベッドの寝心地が、あまりに良かったためである。ほんとうに良かった。ぐっすり眠ることが出来、またすっきりと起きられた。朝目が覚めてまず、私はひどく驚いた。寝覚めが最高だったのだ。大袈裟に言っているのではない、現にこうして写真に残すほどに感動した。そのために、つまり私を感動せしめたベッドが何だったのかを記録するために、ベッドの上の紹介文を撮ったのだ。それが上の写真の顚末である。

最高の寝覚めでルンルン気分の私は、何とはなしにテレビをつけ、そしてまたもや驚いた。自分が眠っているあいだに、大きい地震があったのだ。そのことをテレビを通して初めて知り、しかし私は楽観的だった。電車ならともかく、バスで神戸まで戻るのに、さして影響はないだろうと(根拠もなしに)思っていたのだ。楽観的ではあったものの、それでもすこし不安だったから、ちょっと急いでチェックアウトし、高知駅へと向かった。

 

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高知駅に着いてまず私は何をしたか?バスの運行状況の確認?いや違う。……そう、肉うどんを食べたのだ。地震のあとだから交通機関が乱れているかもしれない。本来ならばそれらを朝食よりも先に確認するのが筋だろう。だが、もし交通機関がことごとくダメだったなら慌てたところでどうしようもなく、しかし交通機関がダメだと知ったら否応なしに慌ててしまう。そうなったらもう、ゆっくり肉うどんを食べるような気分には到底なれないだろう。だから私は何よりも先に、肉うどんを食べた。交通機関の状態を調べるよりも先に、肉うどんの食べ納めをしたのだ。私がしているのは通勤でも通学でもない、旅である。四国をめぐる旅の、それも最終日なのだ。だからこそ、四国での最後の食事は、慌てることなく肉うどんで〆たかった。なのでそうした。美味しかった。

肉うどんを食べ終え、高速バスの案内所に赴くと、乗る予定だった高速バスは運休していた。神戸へ向かう高速バスは軒並み運休で、高速バスの復旧を待っていたらどうあがいても飛行機の時間に間に合いそうもなかった。さてどうしたものか、と私は思った。予約した航空会社の窓口に電話をかけてみるものの、地震が起きて間もないから、とうぜん全く繋がらない。さて、どうしたものか。非常に困った。旅の最終日にこんなトラブルに巻き込まれるとは、まったくツイていなかった。

 

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なので私はもう少し、電車で旅をすることにした。飛行機は夕方だったから、うまくいけば電車でも間に合うはずだった。私は電車で神戸まで向かおうと、不規則な運行のなかなんとか神戸に近づいてゆき、そうして、なんと!

岡山で力尽きた。岡山までは何とかなったが、岡山からはどうあがいても神戸に近づくことが出来なかった。私以外にも岡山駅で足止めをくった人々が、周りにはあふれていた。さて、どうしたものか。

来ない電車を待っていても仕方がないから、航空会社に電話をかけることにした。こうなった以上、何とかして電話を繋げて、飛行機の予約を変更してもらうほかない。そう、なんとしてもここで電話を繋げなければならない、たとい何十回、いや、何百回掛け直そうが、繰り返しかけ直して、頑張らなければ、……なんて気合いを入れるまでもなく、数回目で電話はアッサリ繋がり、地震のせいで本日は神戸まで辿り着けない旨伝えると、無料で(そう、無料で!)翌日の飛行機に替えてくれるとのことだったから、そうしてもらった。こうして無事、飛行機の算段はついた。そのあとすぐに、岡山のビジネスホテルを予約して、あとには旅の、おまけの一日だけが残った。

時刻は昼のすこし前だった。とりあえず飛行機と宿の算段がつきホッと一安心した私は、チェーン店の牛丼屋で牛丼を食べた。牛丼を食べながら、段々と冷静になっていった私は、しかしなんでこんな処でわざわざ牛丼を食べているのだろうと考えだした。高知でもう少し状況を見てそのまま留まっていれば、今日の昼、今日の晩、明日の朝と、もう三食肉うどんを食べられた筈だ。それを慌てて岡山まで出てきて、そればかりでない、あろうことか何処でも食える牛丼を喰らっている。何をしているのだろう。(牛丼を食べているのだ。)しかしまぁ、落ち込んでいても仕方がないので、折角だし、岡山でもひとつ観光らしいことでもしようと思い立った。そこで私は牛丼を食べ終えたのち、後楽園に行くことにした。

……後楽園までの道中で一度、リヤカーを引いたお菓子売りに捕まった。お菓子を買ってくれという。イエ結構です、と言って断ろうとしたが、それなら少しだけ商品を見ていってください、見てもらえるだけで大丈夫です!とのことだったから、別に急ぐ旅でもないし、そこまで言うなら、と思い、しばらく付き合うことにした。すると奴さん、水を得た魚のように、私にお菓子のセールスを次々と仕掛けてきて、そしてそのどれもが高い!しかし話が進んでしまった以上、途中で会話を打ち切るほどの勇気は私にはなくて、だから仕方なく、イヤ大福はチョット冷やして持って帰れないから厳しいですね、バームクーヘンはしかしお高い、アアそのお菓子は私はあんまり好きではなくて……、っていう風にノラリクラリとかわしていたら、しまいには奴さん、ムッとして、リヤカー引いて私から離れていってしまった。申し訳ないことをしたと思う。(旅を終えてから三年が経ったが、彼は今も岡山の駅前でリヤカー引いてお菓子を売っているのだろうか。今度もし岡山に行く機会があって、もしそこで彼に偶然会いでもしたら、ふたたびお菓子を売りつけようとしてくるのだろうか。そのときは私、三年前にも会ったよね、って思い出話をしてあげよう。そして私は、再開の折にはきっと、彼の売るお菓子を、やっぱり買わない。高いから。)

 

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リヤカー引いたお菓子売りを撃退し、無事に後楽園へとたどり着いた。後楽園はなんかスゲェ公園らしいので期待していた。

 

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そして実際良い処だった。園内の茶屋で抹茶と餅?のセットが売っていたから、買った。抹茶を飲むなんていつぶりのことだろう。そこから見える景色も良かった。良い景色を眺めながらの飲食は心が洗われるようで、たとえば私は団子喰らいつつ月見するような経験がないが、この風景のなかで飲むこの抹茶の美味さを思えば、或いは月見にもやってみる価値があるだろう。

のどかな公園だった。時間がゆっくりと、もとい、時間本来の質を取り戻したように、ただ流れるがまま流れている。老後はこんな、後楽園のひとときのようにのどかに過ごしたいと考えた。(あるいは今すぐ年寄りになっても構わなかった。)……まぁもっとも私たちの世代に、その中でもとくに私のような人間に、安逸な老後が訪れるとは到底思えないが。

後楽園を堪能し、朝からの地震のための慌ただしさが私のなかからすっかりと抜け落ちた。このあとどこか別の場所に行っても良かったのだが、しかしもう、ここいらでお終いにしたいような気もしたから、そのまま、予約したビジネスホテルにチェックインした。諸々済ませ、眠りについた。旅のおまけの一日は、慌ただしさから始まって、静謐のうちにその日を終えた。

 

*七日目

目が覚めた。帰る日である。この日は札幌に帰るだけだ。電車で岡山から乗り換えを経て三ノ宮、さらにそこから神戸空港へ。この日のことはまったく覚えていない。書くことは何もない。神戸空港に着き、そこから新千歳に飛ぶ。新千歳から札幌に電車で戻り、家まで帰り、それから寝た。旅の帰路は翌日の日常が浸出して生臭く、楽しむどころではなくて、それはもう、単なる作業に他ならなかった。つまり、私の6+1日の旅行のうち、旅行じみていたのは最初の六日間だけであった。

 

 

さて、三年前の旅の足跡を辿り直す長々とした工程が、ここでようやく終わりを迎えた。そして今、今に至ってようやく気がついたのだが、題名の「四国を一週間旅した話」、これは嘘である。嘘、もとい誇張である。私が実際に四国に着いたのは旅の二日目の早朝であり、私が四国をあとにしたのは六日目の朝であるから、つまり、要するに、私は四国に百時間程度しか滞在していないのだ。なので私は題名を「四国をめぐって一週間旅した話」、あるいは「四国を中心として一週間旅した話」とでも書き換える必要がある。だがまぁ、許してもらいたい。百時間は実質一週間みたいなものだ。月曜から金曜まで働いた、あるいは学校に行った諸氏は、(今週も一週間ガンバッタなぁ)と思うだろう。だがそれは五日間に他ならない。そうして私の旅も、二日目から六日目までの五日間の四国であった。どちらも同じ五日間であるならば、私の旅だけが一週間とならないはずは無いだろう。なので私の旅とは畢竟、「四国を『一週間』」旅したことに他ならないのだ。

……書き終えてしまうのが名残惜しい。書き終えてしまえば私は、四国の旅を二度終わらせたことになる。然しそれは同時に、四国の旅を二度楽しんだことであるのだから、二度目の終わりも甘んじて受け入れなければならない。

旅の追憶を辿るのは楽しいものだった。紀行文とでも言うのだろうか、しかし書くまでに三年の間が空いていて、それに適宜、話に流れを持たせるための、文体上の、あるいは細部のいくつかの脚色や省略、補完もおこなったから、精確性には欠けている。だが大まかな流れはこれまでに書いた通りのものだ。そのなかでもとくに、四万十川沈下橋での情動や幸福感は、本文でも幾度か示したとおり、今でも私のたいせつな思い出であり、またその際の記述は、当時の私の心境に寄り添っておこなった。諸氏も、もし四国に行く機会があれば、四万十川沿いを自転車で下ってみてほしい。それもなるべく若いうちに。

……いよいよもう、書くことが無くなった。今後あんな、四国での一週間のような日々を私が送ることはもう無いだろうから、非常に名残惜しい。これからの私はきっと、若さも時間も失われて、収入も少なく、ただ疲弊して老いてゆくのだ、たぶん。

可能ならば旅のはじまりの日に戻りたい。そうして私はふたたび四国を旅したい。全身で四国を、もう一度感じてみたかった。