かえる作文帖

小説(掌編・短編)や随筆などを書いています。読んでくれると嬉しいです。

居酒屋の男と女(短編)

舞台背景を素描しなければならない。手短にやろう。

平日の夜の居酒屋。混み合っているが満員ではない。シラフで居ればうるさいが、酔いが回れば心地良く聞き流せる程度のざわめきである。酔っ払いばかりだが度を超えて騒ぐ輩は一人も居ない。不愉快な大学生の大声も、退屈に泣き叫ぶ子供の声も無い。忘年会や歓迎会のサラリーマンの大集団も幸いなことに見当たらない。要するに、三々五々、客の誰もが気分良くやっている居酒屋だ。

次に主人公らを登場させなければならない。これもさっさと済ませよう。

われわれが目を向けている舞台たる居酒屋の、中央付近に彼らは居る。二人と二人で四人掛けであるテーブル席に、彼と彼女はひとりずつ、合計二人、向かい合って腰掛けている。年若い二人で、未だ酒を飲みこなしている訳ではない。酒と知り合って間もない二人だが、彼ら同士の交友も酒以上に長くはない。お通しのモツ煮込みを食べてアッこれ美味しいですね、なんてぎこちない会話を交わしている、純情じみた男女二人である。ホントだ美味しい、と片方が答え、エエほんとうに、ともう片方が答え、会話が止まる。居酒屋のざわめきの海に二人ぼっちの孤島のしじま、黙りきって、上目遣いで疑るような視線を交わす。互いに何かを期待しながら、相手がそれを与えてくれないことをじれったく思っているような、(傍目からはそう見える、)そんなふたりが今回の主人公だ。

ここで、沈黙をやぶるもっけの幸い、彼らのもとに生ビールふたつと、『とりあえず』で頼んでおいた唐揚げがやってくる。彼らは乾杯、と声を(囁くように)交わして、ビールを一口飲み下す。そうしてまた、沈黙。

……さて、三人称の地の文はこのあたりで止めにして、以降は彼らに語ってもらおう。筆者は引っ込むことにして、この語りはとりあえず、息が詰まったように沈黙して向かい合っているふたりの、彼のほうへと譲ることにする。

 

ああ、もう、こんなに、さて、要するに、こんな居酒屋に来るんではなかった!(……こんな調子で宜しいか?つまり小説なんてものは一人で何役もこなす作業に他ならないから、エ゛ッ、エ゛ッ、エ゛ッ、ン゛ーッ、ン゛ーーンッ!……さあ、やっていくが、)……ああ、もう、こんなに、さて、要するに、こんな居酒屋に来るんではなかった!というのも、つまり、きみ、わかるかい?おれはこんな居酒屋、もとい、こんな異性と、こんな『気の置ける』あいてとふたりきりで、ぎこちない、こんな居酒屋に来るべきでなかったと申すのです、へ、へ、へ!……わかるかい?おれのいうことをおまえ、わかってくれるかい?

彼女を誘ったのはたしかにおれのほうだ。否定し難い。だがそれも、おれのあの発話を『誘った』と表現して良いのならばの話だがね。

つまりこういうわけなのだよ。聞いてくれ。彼女は、いまおれと向かい合って座っているこの女、上目遣いで下がり眉、困った表情のこの淑女は、大学の語学で隣の席の女なのだ。おれの大学の語学の講義は座席が事前に決定されていて(可能なら後ろの席でボンヤリしていたかったのだがなぁ、語学はそれを許さないのだ)、それで、おれに指定された席があって、……その、なんて言うか、そう!おれの隣に席を指定されたのがまさにこの女であって、おれは彼女と講義中にペアワークを事あるごとにやっていた、もとい『やらされていた』わけだな。(センセェ曰く「語学は口に出さなければ身につかない」、らしいよ!)それで、おれと彼女はペアワークのペアであって、つまり、望むと望まざるとに関わらず、講義の期間中そうやって会話を強制される人間とは、良好な関係を保たなければならないね?違うか?いや、少なくともおれはそう思ったのだよ、おまえがどう思うかは知らないけどね。おまえは、そう、おまえは或いは金剛石か何かのように、その確固たる自己でもて、(語学の講義のペアであろうが何だろうが、)必要なぶんだけ会話して、講義の前や講義のあとの時間はプイとそっぽ向いて、(挨拶すらせず!)やり過ごしていたのかもしれないね。おまえはそうかもしれないが、おれは違うんだ。あいにくおれはおまえのような強い精神力を持っていない。気まずさはおれには耐えがたい。だからおれは、講義のまえや講義のあとにとなりの彼女と、最低限の『こみゅにけーしょん』を取って、要するにアイサツしたり天気の話をしていたわけだ。[コンニチワ。曇りですね。傘忘れちゃったよ。……アオリストの活用むずかしそうだね。オツカレサマデス。サヨーナラ。]

こうやって最低限の、おれにとっては最低限の関わりだけで語学をやり過ごそうとしたわけだな。そんでもって今日の昼が最後の講義だったのだよ、語学の講義の最終講。肩の荷が降りる思いだったね、何故ってこれきり彼女との浅くてぎこちないコミュニケーションとオサラバできるのだから。

いよいよ最後の講義が終わって、いつもは講義の終了後1分くらい話してから退散していたのだけど、これきりおしまいであるわけだから、今日だけは早々に教室を出ちまって構わなかったのだが、しかしそういうわけにもいかなかった。何故ってそれじゃああまりに露骨だし、いつかまたどこかで彼女と会わないとも限らないしね。だからおれはいつも通り彼女との浅いコミュニケーション、お互いの深いところに決して踏み入らない、毒にも薬にもならない最後のそれをして、それで、おしまい!、の、筈だったのだが、……おれも気が緩んでいたのだろうな、冗談めかして、「機会があれば語学の苦労をねぎらって打ち上げにでも行きたいですね!」なんて、口走っちまった。

一瞬、時が止まったように間が空いて、おれは、シマッタ!と直感したが、後の祭り、英語で言えばアフターワード・ダンシング!

彼女は言った、

「ええ、是非!……じゃあ、さっそくだけれど、今日はどうですか、あたしは今晩、時間があるから」

こんな不意打ちがあるか?おまえはこんな一撃を喰らった経験があるか?つまり、ある種の社交辞令としての言明にバッと食いつかれるような経験が。おれは初めてだったよ、びっくりしちまったね!

さて、ここでおれはこうやって食いついてきた彼女をうまいこといなせれば良かったのだが、いつだったか、浅いコミュニケーションのなかで、夜はいつだって間違いなくおれは暇なんです、だなんて自己開示しちまっていたことが瞬時に脳裡をよぎった。馬鹿だねおれは。バカひとつ。まだあるよ。おれのバカはひとつにとどまらないんだ。つまり、今にして思えば今日だけ用事があることにして、お流れにしてしまえば良かったのに、(なんたってお互いに連絡先すら知らないのだからね!)おれはそうせず、つまりおれの脳みそは不測の事態をまえにすると真っ白になっちまう。(これがふたつめのバカだ。バカふたつ。)まるでガラクタな脳みそに導かれるまま、おれの口蓋はエエ、だかアア、だかそんな呻きを口からもらして、……そのままおれは、取り繕うように、精いっぱい感じよく聞こえるように言った!

「良いね、良いね!それじゃあ、五限が終わったら大学棟の玄関で落ち合いましょうか、それで良いです?」

「ええ、そうしましょう」

彼女はニッコリ笑った。そういえばニッコリと笑う彼女を見るのは初めてだったが、片頬にだけえくぼが出来るんだなぁ、とおれは、そんなどうでも良いことばかり記憶して残っている、おれの脳みそ、男性名詞a語基の活用はすでにまっさら忘れ去ったにもかかわらず、彼女のえくぼ、笑顔が、……バカみっつ!

 

それからよっつめのバカを経て、つまり、約束をすっぽかせば良かったのに律儀にも待ち合わせ場所に行って、それだけじゃない、あろうことか彼女と会うのをすこし楽しみにしながら待ち合わせ場所に行く、そんなよっつめのバカを経て、おれは今、針のむしろに座っているのだ。屠殺場へと嬉々として進んでゆく愚かな家畜か何かみたいに。(血の匂いを嗅ぎとれないのだ、あいにくずっと鼻詰まりで!)……こんな惨めな話があるかい?そう、あるんだよ。実際にあるから今こうしておれは困っているのだ。

けったいな暖色の照明と酔っ払いどもの騒ぎ声、金いろのビールとしなびた唐揚げ!おれは独り言か何かのように、じゃあ唐揚げ食べてみようかな、と言って(それを聴いた彼女は笑顔のなり損ないみたいな顔してコクリと会釈する)、そのまま唐揚げをひとつ喰らう。五回くらい噛んでからビールで無理矢理流し込んで、うまいんだかまずいんだかわかりゃしないが、アァ美味いですね、と大げさに言って笑顔をつくる。彼女はふたたび笑顔のなり損ないみたいな表情で会釈する。(作り笑いをするときは目を細めると宜しいのだがね!)その表情を見て俺はハハハ……と笑い声だけ出して、なくなりかけのモツ煮に手を伸ばす。

居酒屋は騒がしいが、彼らのテーブルだけがまるでぽっかりと空いた黒い大穴のように静かで、周囲で湧いたざわめきはすべてこのテーブルへと吸われて消える。この沈黙の穴の底に居る彼と彼女の、彼女のほうは、ビールの水面を眺めつつ、しかし彼とはまるきり別なことを考えている。

つまり、彼女は思っている。やっぱりときどき揺れているんだ。

彼女のビールの泡はあらかた消えており、こまかい泡の残滓がきん色のビールに漂うその水面は、絶えずかすかに揺れていて、ビールの水面を眺めつつ、彼女はそれについて考えていたのだ。これは近くの国道のせいかしら。きっとそうだろう、トラックが速度を出して走り去るたび地面が揺れて、みんな気にしてないようだけど、店に入ってからずっとそうだ。(彼女の肉体的感官は、騒めきよりも揺れに鋭敏に反応する。)トラックが、いや、トラックだけに限らない、たくさんの車がすごい速さで走っている国道、あの国道に沿ってあたしたち、このお店に来たけれど、彼がお酒に誘ってくれて、あたしは、うれしかった、というよりは、……いや、あたしはすぐこれだ。いけない。あたしの考えは雲みたいにふらふらと、あくがれる、ってむかし古典の授業で言っていた、そう、体から、周りからあくがれて、軽くなると、あちらこちらへ行ってしまって、向かいの彼があたしを見ている。(彼女が意識をいま・ここへ戻すと、やはり騒がしい居酒屋で、彼はキリンでも見るような目で彼女を見ている。彼女と目が合うと彼は苦笑し、何でもない、というように手を振ってから、次に何を飲むかを訊く。)ええ、あたしはつぎは、レモンサワーで、食べものはお任せします。ええ、ありがとう。……それで、どこまで考えていたのだっけ。そう、彼に誘われてどう思ったのかってところだ。あたしはお店でお酒を飲むことがないから、だって、ともだちもみんな飲まないし、多いわけでない友だち、……みんな、どうしてあたしなんかと、仲良くしていてくれるのだろう。会ってからしばらく経つのに、まだあたしに良くしてくれて、あたしがぼんやりしていると、ホラまた魂が抜けてるよ、って笑いながら呼び戻してくれる。最初だけ愛想よくしてくれる人はたくさんいたけど、みんなあたしが、そう、あくがれるところを見たり、よくとんちんかんなことを言ったりして、そうして、疎遠になって、……彼もやっぱり、離れていくのだろうか。

彼女はふたたび、いま・ここへと舞い戻り、上目遣いで彼を見つめる。彼はビールを今しがた飲み干して、もとい、あと三回ほどに分けてちびちびと飲むつもりだったところに、彼女の、向かいに座った彼女の視線を不意に感じたものだから、そんなつもりでもないのに、ビールをすべて飲み干してしまった。彼女に不意に見つめられて困ったのはまさに彼である。何たって黙りがち、いや黙りがちどころか意識が頻繁にどこかへ飛んでってしまっているような彼女を前に、酒を飲み干してしまえばそれはあまりに手持ち無沙汰で、わかるかい、おれはつい先ほど追加の飲み物を頼んだばかりなのだよ。おれは、そう、最初こそしきりに場を盛り上げようとしていたが、彼女ったら聞いてるんだか聞いていないんだかわからないようすで、ああ、ほんとうにおれは、とんでもない奴と居酒屋に来ちまったなあ!ついさっきなんて酷かったよ、ねえ!おれが二度、追加の飲み物を何にするか訊いたのに、彼女まるで、

 

 

***ここいらで慎重な読者諸兄は首を捻ったことだろう。いや、首を捻った読者諸兄がひとりでも居てほしいと私は願う。(居なければそれは相も変わらず拙作の失敗を意味する。)というのも私は、諸氏に断ることなしに語りの主体をパラパラと切り替えており、それこそが拙作で私が表現せんと望むところのものである。

卑怯な三流奇術師のようにネタバラシをしてしまおう。つまり、『おれ』と『あたし』(と『私』)の語りが交錯、混濁してゆくさまを描くのが拙作の目的である。酒をつうじて、或いは思惟の共通点をつうじて、もしくは共通点など何もないところで無理やり、語りがフイと入れ替わったり、或いはなだらかに移行していくさまを描きたいのだ。読者諸氏においてはその点注意されたい。要するに、拙作の語りの混濁は、それ自体ひとつの目的として行われている。***

 

エ゛ッエ゛ッエ゛ッ、ン゛ー、ン゛ーッ!!!(これは声の調子を整えるための大げさな咳払いだ。)さて、続けるがよろしいか?よろしいね?……ああ、ほんとうにおれは、とんでもない奴と居酒屋に来ちまったなあ!ついさっきなんて酷かったよ、ねえ!おれが二度、追加の飲み物を何にするか訊いたのに、彼女まるで、目を開けながら眠っているかのようにおれを、おれの声が聴こえていないかのように、無視しやがって、さすがにおれも絶句して、彼女を見つめつづけていたんだ。すると奴さん、おれの視線に気づいたようで、夢の世界から戻ってくる。彼女はビクッと身体を震わせ、視線を上げて、おれの顔を、驚いたような顔で見つめかえす。(なんでおまえが驚いているんだ?驚いたのはおれのほうなのに!)だからおれは三度目の問い、彼女に追加の飲み物を何にするかを問うて、そうして今度は返事が返ってきた。おれはホッと安堵して店員を呼び、レモンサワーふたつと、あとおすすめの食べ物は何かを店員に訊いて、チャーハンとポテトがおすすめらしいからそれを注文した。ふだんおれは店員におすすめを訊くようなことはしないのだが、ではなぜ今日に限ってそんな野暮ったいコミュニケーションをしたのかというと、要するに、この沈黙から逃れていられる時間を一刻も長く引き伸ばしていたかったんだ!おまえわかってくれるかい、居酒屋の店員はおれのオーダーや質問に対してニコヤカに即座に明瞭に返事をしてくれるのだよ!翻って彼女だよ、おれの目の前にいるこの女は、……駄目だこりゃ。また目を開けたまま眠ってら。しばらく帰ってこないだろう。あぁあ、こんな二人酒は独り酒となんにも変わりゃしないわな。まあ良いや、チビチビやりましょうや。そう思いながらおれはビールを口に運び、飲んで、飲みきらず少し残して置こうとしたその、瞬間!またしても!唐突に!彼女はおれをその眼差しで刺し貫いた!この女はたいがいボンヤリフワフワしているが、まれにこうやって不意打ちを食わせてきやがる!(そもそもこうやって居酒屋に来ているのだって不意の彼女の一撃のせいではなかったか?いや、そうだ!)おれはその視線に射すくめられたようにして、ビールのジョッキを置くに置けず、そのまま、すべて飲み干して、それからテーブルの上に置いた。チビチビやる予定のビールを飲み干しちまったんだな。

彼女はなおもおれを見ている。おれも彼女を見つめかえすと、必然的に目があって、その目の茶色い虹彩が、思っていたよりもずっと明るい茶色をしていて、(視線があうこととは畢竟、視線の往復、無限回の視線の往復に他ならないが、)その茶色い瞳で見つめられ、見つめかえして、見つめられ、また見つめかえして、見つめられ、見つめて、あたしは、なんだか、唐揚げを食べたくなってきた。瞳も唐揚げも、そのどちらも茶色だから、そこから意識が連想して、それがそのまま現実にある唐揚げと結びつき、瞳を見る目があたしの食欲と結びついたんだ。(ことばにしてあらわすとそういうしかただ。)こうやって、連想ゲームみたいにして、いびつな数珠みたいに考えが流れていくさまは、まるであたしが、そう、あくがれて体から抜けだして、いろいろなことを考える方法そのもので、あたしはこういうことが好きだ。飛び石のうえをぴょんぴょん跳ねていくようにして意識を飛ばし、ぼんやりと考えに夢中になって、それであたしは周りのひとを困らせてしまう。目の前の彼だってその被害者だ。彼があたしの数少ない友だちみたいな物好きであれば良いなぁ、そうでなければ申し訳なくて、あたしは、彼の茶色い瞳を見つめたまま、唐揚げ一個いいですか、ってたずねると、彼はエエどうぞどうぞ、って慌てて言って、あたしのお皿に唐揚げをふたつも取り分けてくれた。あたしはありがとう、って言って笑って(うまく笑えているかなぁ、)そうして唐揚げの一個を取って、半分だけかじって、もぐもぐと、……ああこれは、黒胡椒がふりかけてある。黒胡椒でも、山椒でも、あたしはピリッとするものが好きだ。もし味覚が視覚的なものだとすれば、いちばん綺麗な味覚はこういう辛さだと思う。真っ暗な部屋で静電気がパチッと光るようで、いまは冬じゃなくて初夏なのだけど、つまりそんな、線香花火のひとひかりのしだれ柳のうつくしさ、夏の、……夏といえば、そういえばあたし、夏、ちょうど去年の今ごろ旅をして、2泊3日のひとり旅、大学を投げ出してひとりきり、四国の地を踏んで、初夏の四国の澄んだ空気の、すきとおったような青い風景を見たのだった。見た、というよりかそれは、五感をぜんぶ、丸ごと使って、感じていた、というほうが合っているかもしれない。2泊3日なんかじゃなくて、もっと長いこと居られたら、居られれば居られるだけよかっただろうと思っていて、(あたしは今でもそう思っているのだが、(だからふたたび機会があれば四国に行きたい、))たとえば、四万十川にかかる沈下橋はすてきだった。青空を反射してしずかに流れる四万十川にかかっているちいさな橋、それが沈下橋に他ならなくて、沈下橋沈下橋でも下流にかかっているそれはいけない、何故って人が多いから、つまり観光客が手軽に来れてしまうから風情もなにもありはしなくて、要するに、江川崎駅からレンタサイクルを借りて、上流にかかっている沈下橋から見て回ると、これはもう、人は居ないし情緒に富んだ、四万十川沈下橋を、青空の下でひとり占めできるというわけであるが、ねえ、おまえ、わかってくれるかい、このすばらしさを!おれは生涯であれほど幸福だったことはないね、澄んだ青空の下でおれは沈下橋を独り占めしていたんだよ、ああ!いまこうしておれの話を聴いているおまえは、ましてや今こうして居酒屋でおれの目の前にいる彼女なんかは決して知りやしないだろう、四万十川の、また四万十川沈下橋の美しさなど!ボーっとしやがって、レモンサワーとつまみが来たってのに一口も手をつけやしないじゃないか、おればかりゴクゴク飲んでバクバク食べて、向かいの彼女は、こんちくしょう、なんの夢を見ているんだ?こんな居酒屋で、こんなやかましいところで、目を開けたままどんな夢を見ているんだ?あるいは何も考えちゃいない、なんてことすらあるだろうね!……だがそれも、いや、たとえそうであろうが、そんなこと、おれの知ったことではないがね。

ああいけない、おれはもう、だいぶ酔いが回ってきちまった。おかしいな。おかしい。おかしいんだよ。おれはこんなにすぐ酔っぱらっちまう筈は無いのだが、だっておまえ、見てくれよ、まだおれはビール一杯とレモンサワー半分を飲んだきりなのだよ!それとモツ煮と唐揚げと、あとポテトとチャーハンを喰らいながら、ビールとレモンサワーを、飲んでいて、ビールは既に飲み終わってしまったのだが、その白い泡がジョッキの側面に輪をえがいて残っているようすは、たしかエンジェルリングと呼ばれていたはずなのだけれど、あたしはどちらかといえば、なんとなく、音速を超えた飛行機が出す衝撃波だか雲だか、あれみたいだなと思う。じっさいに見たことはなくって、あたしの勝手な想像にすぎないのだけど、ゆっくり飲んでいたビールの空のジョッキに、ゆっくりと、もといあくがれながら飲んでいて、それなのに、音速だとか、そんなかっこいいと連関づけてしまうのは、不思議なような気がするけれど、……ああ、もうレモンサワーが来ていたんだ。あたしは彼のほうを見やって、彼はもうレモンサワーをとっくに飲みはじめているみたいだから、あたしも気兼ねなくレモンサワーを口にする。飲み慣れた味がして、いや、厳密にいえば飲み慣れた味そのものではなくて、飲み慣れた味に似た味がするのだけど、まあ良いや、つまりレモンの味がするんだ。(あたりまえか。)あたしが家でひとりでお酒を飲むときの味、缶チューハイはもっぱらレモンのお酒ばかり飲んで、とくに味が好きってわけでもないけれど、ほら、スーパーとかでもいちばん種類が豊富なのが、レモン味のお酒でしょう。そういうものを何種類も、高いのも安いのも、とりあえず買ってみて、あたしは飲み比べしてみたりするのだけど、そうしてみるとこれだけおなじ『レモン味』でも統一されずにたくさんの種類がある、その理由がよくわかる。レモン味っていうカテゴリーに、つまりわたしたちがそれを飲んでレモン味だ、ってそう思うカテゴリーに分類される個別的経験としての味覚的知覚は、しかしどのような方法により綜合されているのだろう。先天的に所持された観念をもとに個別的経験が分類されるのか、或いは個別的経験が点描のようにはたらくことによって観念が内部に立ち現れてくるのだろうか、もしくはそのいずれでもないしかたで個別経験、つまりレモンサワーを飲み、レモン味だ、って感じるのか、そんなものどうだってかまやしないだろう!要するにだ、おれが酒を飲んでそれが美味い、レモンサワーのつまみとしてポテトを食べ、またレモンサワーを飲んで、酔っぱらう、それ以上の何が必要だっていうんだ!……いや、それだけでは足りない、おれはひとり酒をしているわけではない!もうすっかり黙りこんでおれたちは酒を飲んでいるが、そろそろ口をきいたって良いだろう、いつまでも彼女に空想ばかりさせておくこともない。おれだっておまえと会話をしたい。おまえもそのつもりでおれと居酒屋に来たのではないか?なんでおまえはおれと一緒に居るんだ?どうしておれが打ち上げに誘ったときにおまえはあんなに嬉しそうな顔をしたんだ?社交辞令だとわかっていなかったのか?不意に反応されておれもびっくりして、だが少しおれはそれが嬉しかった。いざこうして居酒屋に来て、そうしておれが何度も会話をしようとしたのに、どうしておまえはろくすっぽ反応しちゃくれないんだ?なんたって目の前のおれを無視して魂をどこか遠くにおまえは飛ばしちまうんだ?おまえはいったい何を考えているんだ?どういうつもりなんだ?おれを見てくれよ。おれを通り過ぎて遠い一点を見るのをやめてくれよ。おれと仲良くしてくれよ!

だからおれは彼女に言った、

「お酒けっこう飲まれるんですね、驚いた!お強いんですか?」

「……えっ、ごめんなさい、ボーッとしていて。今なんて?」

「……こうしていっしょに飲めて嬉しいですよ」

「どうして?」

「『どうして』?」

「あたしあなたを嬉しがらせること、なんにもしてないのに」

「……」

「唐揚げ、最後の一個だけど、もらって良いですか?」

「ええ、それは良いけれど、」

「ありがとう。……もうレモンサワー飲んじゃったから、あたしハイボール注文しますね。次なに飲みます?」

あたしがそう言うと彼はいや、まだ大丈夫です、って言うからあたしは、そうですか、って返事して、店員さんを呼びハイボールをひとつ頼んだ。もうすこし早いタイミングでハイボールを注文しておけばよかったと思って、何故ならレモンサワーを飲みきってからもう、どれくらいだろう、とにかくまだレモンサワーがちょっと残っているうちに彼にことわって、店員さんに注文すれば、そうすればお酒を切らさず飲み続けていられたのに。一本の糸がぷっつり切れたみたいに、レモンサワーとハイボールの合間が口寂しくって、……そういえばさっきかれはあたしに、いっしょにいられて嬉しいみたいに言っていたけど、前にあたしは友だちにも同じようなこと言われたんだ。そのときもあたし、どうして、って訊いて、そしたらその子、ケラケラ笑って、このプックリしたほっぺたが良いんだヨォ!って言いながらあたしのほっぺたをムニムニ触ったんです。そうやってほっぺたを揉まれながら、なんだかとっても懐かしくって、(かすかな記憶、)むかし、いとこのお兄ちゃんやお姉ちゃんにもよくほっぺたを触られ、引っ張られて、みんな笑いながらあたしのほっぺたで遊んでいたんだけど、あたしは笑ったりあるいは泣いたりいじけたりしながら、古い畳の和室だった、おばあちゃんの、今はなくなっちゃったおばあちゃんの家の一室であたしたちは遊んでいた。みんなで遊び回るとほこりが立って、そうすると、障子のすきまから差す陽の光が光線みたいに目に見えるようになる。あたしはあれを眺めているのが好きだった。遊び疲れて荒い息をしながらあおむけに横たわる畳の感触と、陽光の光線のやわらかさ、そうやって寝ころがっていると誰かがあたしに目をつけて、またあたしのほっぺたをつついたりこねたりする。あたしはなされるがままされていたり、あるいは跳ね起きてふたたびみんなの遊びに加わったりして、有り余る元気を元手に、尽きることなく、いとこみんなで、遊んでいた、あの、懐かしい和室。

「どんな本が好きですか?」

「最近読んだなかではバタイユの『眼球譚』があたし、好きというより衝撃をうけて、面白かったです」

「へぇ、……読んだことないなぁ」

「どんな小説が好き?その、あなたは」

「ぼくはあんまり文学とかくわしくないのだけど、サローヤンの『人間喜劇』が好きでした。優しい物語が好きなんです。」

「そうなんですね、今度機会があればあたしも読みます」

「ええ、ぼくも読んでみます。……その、バタイユ?でしたっけ?」

かれはあたしのほっぺたを触ったりしなかった。彼とあたしは(まだ)それほど仲良くないし、それに性別も違うから、ほっぺたを急に触ってくるはずはないのだけど、それでも、ほっぺたを触ってくるんじゃないかって考えが一瞬あたまをよぎって、それほど嫌じゃないと思った。いや、もしかしたら嫌かもしれない。よくわからない。ほっぺたくらいならいくらでも触ってくれればいいと思うし、一方でほっぺたであろうが気安くべたべたと触られるのは不愉快かもしれないとおもう。どうなんだろう。彼があたしのほっぺたを触ったとして、(つまり今あたしの向かい側に座っている彼が腰を浮かせてテーブル越しにあたしのほっぺたに触れたとして、)あたしがそれをどう思うのかは、つまり感情とは心的機械の運動の微分に他ならないから、あたしの心的運動を四次元のグラフのもとに置いたとして、……どうでも良いや。どのみち彼はあたしに触れやしないだろう。だからあたしの情動をわざわざ想定したうえでそれを無理に微分するような手間をかけることもないのだ。

 

彼女が向かいの席を見やると、そこには諦めたように肩を落としてレモンサワーの残りをちびちびと啜る彼が居る。彼らのテーブルにあったつまみのうち、モツ煮と唐揚げは既に無くなっている。追加で頼んだポテトとチャーハンのポテトの方も、ほとんど食べ尽くされていて、このポテトは細切りのそれではなく、ジャガイモの原型を留めているような三日月型のものだったから、ほら、そんなポテトはそう頻繁に食べる機会があるようなものではないし、あたしもいくつか食べたかったのに、ほとんど彼が食べちまったようで、あたしはすこし残念におもう。それにあたしは三日月型のこんなポテトが、

 

……彼女がポテトを食べられなかったことを残念がっていると、店員がハイボールを持ってきた。彼女はハイボールのジョッキを持ち、そのまま口に運んで、喉を鳴らすようにして、うまそうに飲む、その嚥下音、を、あたしはずっと気にしている。あたしはお酒を飲むときに、どうしてもビールのCMかなにかみたいにゴクゴクと音が鳴ってしまって、ひとりで飲むときは別にどうでもいいのだけど、

 

……ここで余談だが、彼女が飲んでいるハイボールが何のウイスキーを割ってできているかについて記述しよう。彼女がうまそうに飲んでいるハイボールは角瓶を炭酸で割って作られており、あたしはふだんハイボールを飲むときはティーチャーズでつくっているのだけど、しかしこれはこれで、美味しいと思う。こんど角瓶も買って、ティーチャーズと飲みくらべしてみようかと思って、というのもあたしのお父さんがハイボールを飲むときはティーチャーズでばかりつくっていて、あたしは他ならぬあたしのおとうさんからお酒の手ほどきを受けたものだから、……おとうさん、あたしがお酒を飲めるクチだって知ったとき、とっても嬉しそうに笑ったんだ。お母さんはお酒をぜんぜん飲めないひとで、あたしが未成年のころはよくひとりでお酒を飲んでいるお父さんに文句を言っていたんだ。背中を丸めてお酒を飲むお父さんは寂しそうだった。でもそれからあたしがハタチになって、お酒を飲めるようになると、こんどはあたしとお父さんがふたりしてひたすらお酒を飲むようになって、お父さん、とってもうれしそうになったから、つられてあたしも嬉しくなった。しかも、ふしぎなことに、これまでお父さんに文句ばかり言っていたお母さんも、相変わらず文句は言いながら、でもなんだか嬉しそうにしてあたしとお父さんが食べるおつまみを、作ってくれるようになったんだ。あたしが20歳になることで、あたしの家の、

 

エ゛ッエ゛ッエ゛ッ、ン゛ー、ン゛ーッ!良いかい?おれは彼女ににべなく振られちまったようで、こうなっちまったらもうどうしようもないから、おれももう、居心地も悪い、いやもとから居心地は最悪だったが、彼女のフルマイでおれはもう、いや、居心地が悪いとかそんな次元の話で無くなったのだよ。皆さんは、読者たる皆さんはわかってくれますね?つまり、もとより沈黙に満たされてばかりいたおれたちの席を、おれはなんとか盛り上げようと、彼女と仲良くしようとしたにも関わらず、わけのわからない、そう、ほっぺたのことなんか、ほっぺたはあたし、赤ちゃんから6歳くらいまでほんとにぷっくりしていたんだ。だからいとこのお兄ちゃんやお姉ちゃんにたくさんさわられていて、あたしもじぶんのほっぺたをよくぷにぷに触っていたりしたのだけど、あたしが大きくなるいっぽうでほっぺたは、だんだん、ちっちゃくなっていったんです。あたしの顔はすこしシュッとして、ほっぺたはちっちゃくなって、淋しい心もち、だからこそあたしの友だちがあたしのほっぺたをムニムニ触ってくれたとき、懐かしさといっしょにあたしは、そう、嬉しかったんだ。ほっぺたをさわられると同時に、ほこりっぽいあの和室に差しこむ陽のひかりが、

 

 

***もう、良いだろう。私が拙作で描きたいことは十分に行えた。つまり、語りが交錯し移ろうような文章を書くことが拙作の目的であったが、(それが成功しているにせよ失敗しているにせよ、)少なくとも『おれ』と『あたし』の語りが交錯していくさまは幾度も書けたし、可能なら泥酔したふたりの語りが判別不可能な程度にまで混ざり合うさまも描きたかったが、というのも、お酒を飲んだふたりの心がどういうわけだが(底が抜けたように)通じあう瞬間、いや、どうやって言えば良いんだろう、つまり、一個人と一個人として分離していたあたしたちが、より大きな場の流れに、なんていうか、飲み込まれる感覚、っていうよりか、場の流れにおいて誰も彼も開かれている、って表現するのが適当かもしれない。あたしはむかし、一度だけそんな経験をしたことがあって、そのときはまだ、お酒を飲めるようになってはいなかったのだけど、あたしと未だに友だちでいてくれるような子たちと、出会って数か月くらいの頃だったんです。毎週あたしたちは5限でおなじクラスだから、講義が終わったあとにいつも夜ごはんを食べに行っ***