かえる作文帖

小説(掌編・短編)や随筆などを書いています。読んでくれると嬉しいです。

最後の退屈(随筆)

いま私が送る日々は擦り切れた反復から成っている。

一冊の本がある。どのページも同一の文字列から成っている。この本を読むなら最初のページに目を通すだけで充分だ、二ページ目以降は最初のページの引き写しに過ぎないのだから。わざわざ何度もページを捲る必要はない。残りのページは一ページ目の反復に過ぎない。一ページ目を読んだならそれきりやめて、ほかの本を読み始めたほうがよい。

それをわかっていながら私は最後までページを捲る。同一の反復されるページを繰り返し繰り返し捲っている。どのページもほとんど同じだが、私はその本を、終わりまで淋しく捲り続ける。(ときおり誤植が紛れているが取るに足らない些細な差異だ。)

そんなふうにして近ごろ生活している。つまり、反復の本の同一のページを最後までめくるようにして。毎日同じように退屈した日々を送っている。そこにはほとんど差異はない。退屈だがどうにもならない。終わりまでページを捲らなければならない。

大学の講義は終えた。おそらく卒業はできるだろう。一人暮らしのアパートともおさらばだ。その一人暮らしのアパートを引き払う日までにはしかししばらく間があって、宙ぶらりんのそんな日々、私は同一のページを捲り続けるように暮らす。日々同じように空しい生活を送っている。単調な反復で、退屈で、贅沢な退屈で、嫌になるほど退屈で、退屈に私は食傷した。

……だがいつの日か私は、こんなやるせない退屈の反復すらを懐かしく思い返すようになるのだろう。こんな憂鬱な、孤独な、単調な、最後の空白を懐かしむ日が、今よりももっと悪い日々が。(それはきっと労働に追われる日々という形をとっている筈だ。)きっと最低には底がない。そして私の生活はこれからもっと悪くなっていく。暗闇の坂道を下っていく心地だ。ここが下り坂の終わりだと思いながら、しかし一歩踏み出すごとにもっと下がっていく。(私は足を止めてはならない。)

これは私の、大学を終えて一人暮らしのアパートを引き払うまでの目的のない日々の、モラトリアムのおしまいの、退屈な反復の日々の、最後の退屈な日々の、任意の一日の日記である。

こんな退屈な日々の反復はこれきりおしまいだろうから、そのなかの代わり映えしない一日を、果たされなかった青春の墓標かなにかのようにして、せめて書き留めておこうと思う。

朝に目が覚める。……嘘だ。朝でもなければ「目が覚める」といったハッキリした調子でもない。

昼過ぎに或る意識が水面に浮かび上がって大気に触れる。

明け方の小舟に一人の男が乗っている。朝ぼらけ、霞がかった春の早朝。湖岸からとおく漕ぎ出した彼は、湖の中心、舟のうえに立ち上がり、ジッと水面を見つめている。両手で一本の長い棒を携えている。彼は水面に向かってしずかにその棒を構える。

やがて水底から水面に私の「意識」がゆらゆらと浮かび上がってくる。「意識」が浮かぶにはまだ早い。彼は私の「意識」を長い棒もて水のなか深くへと沈めかえす。私の「意識」は水底に沈む。

しばらくするとふたたび水面に私の「意識」が浮かび上がる。まだ早い。彼は長い棒で「意識」を水底へと押し返す。

 

遠くでからすが鳴いている。

 

みたび水面へと私の「意識」が浮かび上がる。陽は高く上ったが、まだ早い。彼は長い棒で「意識」を水底へと押し返す。

それを何度か繰り返す。ときおり浮上する私の「意識」を彼は水底に押しかえす。何度も。湖面に水死体のような「意識」が浮上するたび、それを水中へと沈めるのだ。何度も。湖面に何度も浮かび上がる私の「意識」を、彼は何度も沈める。

八度目に私の「意識」が浮かんだとき、彼はふたたびそれを沈めようとはしない。正午だからだ。彼は私の「意識」を浮かび上がるまま放っておいて、岸へと漕いで帰っていく。私の「意識」は水面に、大気に触れる。ぶくぶくに肥えた水死体の如き私の「意識」はあらわになる。明け方から繰り返し浮かびきれずに沈められていた私の「意識」はようやく昼過ぎに浮かび上がる。

起床だ。

幾度目の二度寝を繰り返した私は、薄い睡眠を貪っていた私は、昼過ぎに起床する。お早う、の時間は過ぎ去って、こんにちは、の時間だが、どちらであろうが構いやしない、挨拶の相手も居ないのだから。

目が覚めてもすぐに活動をはじめるわけではない。もう数分だけ待ってほしい。寒いんだ。私は一瞬だけ布団から出てストーブを点火し布団に戻る。(俊敏なハチドリがとんぼがえりをするように。)少しして部屋が暖まり、それからようやく私は起き上がって、布団から出て布団を畳む。(今度は不機嫌な熊が巣穴から這い出るときのように。)

腹が減っているからなにか食べようと思う。インスタント茶葉やふりかけやコーンポタージュの素をまとめて粗雑に入れてある段ボールを、野良犬のような心地で漁ると、スーパーで買ったパンが出てくる。出てくる、と偶然か何かのように言ったが、出てくることはわかっていた。二日前に買った菓子パン。消費期限は二日前。半額シールがついている。すこしだけ封を開け電子レンジで温めて食う。菓子パンの味がする。空腹が収まらないからもうひとつ食べることにする。ふたたび野良犬の気分で段ボールを漁るとスーパーで買ったパンが出てくる。出てくる、と偶然か何かのように言ったが、これもまた出てくることはわかっていた。二日前に買った菓子パン。消費期限は二日前。これにも半額シールがついている。すこしだけ封を開け電子レンジで温めて食う。菓子パンの味がする。もうひとつ食べたくなるが、もう買い溜めが無いことを知っているから段ボールを漁らない。段ボールの中にパンは無い。諦める。人間のように服を脱ぎ人間のように服を着て、ストーブを消し外に出る。(二つ目の菓子パンを食べたことを後悔している。もともとあれは明日食う予定だったから。)

図書館へ向かう。

退屈と窮乏を持て余した人間は図書館にでも行くほかない。少なくとも私はそうするほかない。だからそうする。いつだってそうする。図書館は暖かくて無料で本が読める。淋しいと思う。

テロテロになるまで着古したジャンパーのポケットに手を突っ込んで俯いて歩く。この街の地面は信用ならないから俯いて歩くほかない。雪や氷でよく滑る。俯いて歩いてもよく滑る。五年間履いた冬靴の裏は擦り減って頼りない。滑るために歩いているのか。歩くための靴を買う手間も費用も惜しんだ結果がこれだ。情けないと思う。こんな雪道ともあとしばらくきりの付き合いで、未練はない。別段愛おしくもないが、かと言って雪道を去ってせいせいするとも思わない。生涯はずっと辛いのだろう。なんならいま、滑った勢いで頭を打って気持ちよく死にたい。

散歩中の犬を目にする。ジャコメッティの『犬』によく似た犬だったからアッ、ジャコメッティの『犬』みたいな犬だなぁ、と私は思う。私も犬になりたい。心持ちだけは私だってジャコメッティの『犬』なのだが、私は犬以下の雑魚でしかない。雑魚メッティ。……ところで、ジャコメッティの『犬』の喩えがすぐに出てくる私のわずかな教養に、自画自賛、どうだろう、なあ私にだって多少の美術の教養が、と、話しかける相手も居ない。俯いて雪道を歩く。

また滑って転びそうになる。

図書館に着く。図書館では本を読む。本を開き、ツイッターを開いて、それから本に戻る。また携帯を触って、本に戻る。また携帯を触って、

そんなことを二時間か三時間ほど続ける。

すると夕方になっている。

アパートへ帰ろうと思う。

酒とスナック菓子を買ってアパートに帰る。酒を冷やし服を脱ぎ風呂を済ませて晩飯を作る。

いつも私は鍋を作る。鍋ほど簡単なものは無いとおもう。鍋なら私でも作れる。水を張り、熱して、鍋の素を入れ、豚肉、豆腐、人参、白菜/キャベツ、肉団子(、春菊)(、ほうれん草)を入れ、しばらく煮込めば、少なくとも食えるものが出来上がる。どうせ酒と一緒に流し込むようにして喰ってしまうのだから代わり映えのない味気なさもどうだって良い。構やしない。酒を飲みながら晩飯を淋しく平らげる。

 

帰り道、私のすぐ目の前を、色の白い女学生が横切った。目が覚めるような心地がした。足許に踏みしだかれた汚い雪は言うに及ばず、路肩に積もる雪の色も、私の前を横切ったあの女学生のやわらかく、すこし朱の差した白い肌には、決してとおく及びはしない。こんな淋しい雪の街で人ばかりがうつくしい。

 

晩飯を食い終わっても私は酒を飲み続ける。スナック菓子と一緒に酒を飲む。ずっと酩酊できない。却って脳髄の芯がつめたく冴える。いくら飲んでも飲み足りない。一人暮らしのアパートで酔うとこんなにもつめたく淋しいのか。毎晩それを確認して、毎晩新鮮に驚いている。そして飲む。

酒を飲み続けて晩は暮れる。

昼過ぎに目が覚めた、憂鬱な、退屈な一日が、酒を飲んでいれば飛び去っていく。(酒は飲用タイムマシーンだ。)酒は素晴らしい。そんな素晴らしい酒も尽きた。もう晩も遅い時間になった。日付も変わる。酒は無くなった。もっと買っておけばよかった。だがもう無い。だからそろそろ眠ろうと思う。私は睡眠薬を飲んで電気を消して横になる。……明日もまた同じ日が来る。昼過ぎに目覚めて図書館に行き、夜は酩酊のうちに過ごす日だ。ただ明日は鍋の具材を買いに行かなければならない。冷蔵庫のなかは空っぽだ。昼飯のパンも無いからそれも買わなければならない。となると朝一にスーパーに行って半額のパンを買わなくては、いやしかしそれは面倒だから明日くらいは昼飯を抜きにしたって、などと考えているうちに、もう、眠っている。

ふたたび目覚めなければいいと思うが、翌日も目が覚める。毎日一度は目が覚める。一度どころではすまない、私は何度も目が覚める。そうして昼過ぎに最終的に起床する。

そんな日々を、繰り返している。