かえる作文帖

小説(掌編・短編)や随筆などを書いています。読んでくれると嬉しいです。

拝啓ファム・ファタル(上)

 私と彼女の逃避行およびその顛末について書いていこうと思う。あなたもきっと気に入ってくれるだろう。だが、なにぶん私は文章を書き慣れていないから、調子が出るまで読みづらいかもしれない。どうか我慢してほしい。実際私はどこから書き始めればよいのかわからない。少なくとも私の両親の生まれから話を始めるような必要がないことぐらいは理解しているつもりだ。どうしようか。

 ……さて、どうしようか考えたが、端的に私と彼女の出会いの場面から書いていくのが良いと思う。それで良いだろうか。というのも、すてきな書き出しを思いついているんだ、聞いてくれ。『それは見覚えのある顔だった』。どうだろう、良いと思うんだ。少なくとも私は良いと思う。実際私と彼女はそんな調子で出会った。ああ、私の話にきっとぴったりな書き出しだと思う。この書き出しでやっていこうか。

 

 

 それは見覚えのある顔だった。

「あなた背が高いし、いつもヨレヨレのTシャツばっかり着ているでしょう。だから教室の中じゃとても目立つのよ。今だってこの近くでいちばん目立っているもの」

 一人で飯を食い始めようとしたその瞬間、唐突に、向かいの席からそんな言葉を浴びせかけられ、顔を上げると目が合った、その女の顔に見覚えがあった。私は彼女を、ロシア文学と宗教学で幾度か目にしたことがある。しかしこうして学食で会うのは、もとい、彼女から言葉を掛けられること自体が、初めてだった。

「それに、その髭も酷いわ。まばらに伸ばした髭はみっともないって自分で気が付かないの?無精髭くらい毎日当たんなさいな」

 私ではない誰かに話しかけているのではと思った。だが彼女は確かに、他ならぬ私を見ながら続けた。

「それとも、無精髭のみっともなさを指摘してくれる友達も居ないのかしら、あなたには」

彼女は日頃この時間に昼食にするのだろうか。そうして学食で向かいに座った人間全員に、この調子で当たり散らすのだろうか。(そうと知っていれば今日私は昼飯を抜いたのに。)

 たまたま巡り合わせが悪かったのだろうか。というのも、普段だったら私はこの時間、つまり十二時台に学食へ行くのは避けているのだ。何故って、十二時から十三時までの昼休み、二限と三限の狭間であるそんな時分に学食に行けば、混んでいて居心地が悪いのは判り切っているし、それに空席もなかなか見つからなくて、仮に運よく空席を見つけることが出来たとしても、今の私みたいにこうやって、向かいの席のアグレッシブな異性に謗られる羽目にならないとも限らない。向かいの席の異性から謗られるのは珍しいケースかもしれないが、ならば現に私が直面しているこの謗りは何なのだろう。やはり巡り合わせが悪かったとしか考えられない。

 ほんとうに、本来ならば私はこの時間に学食には行かない。決して行かない。今日だって、ひどい寝坊さえしなければ、十一時半ごろ大学に着いて、まだ混むまえの学食で、いつも通りひとりで優雅に昼飯を摂る予定だった。そんな積りだったのに、こんな寝坊をしたばかりに、煩い学生で混みあったこんな学食で昼を食べる羽目になり、そんな学食ではひとりぶんの空席を見つけることにすら難渋し、やっと見つけた座席に座っていざ昼食を食べ始めようとすれば、向かいの席の話したことすらない女から容姿や孤独についての非難が飛んでくる始末だ。後悔してもしきれないが、いまさら後悔したところでどうしようもない。畢竟肝心なのは、受けた非難に対して私がどんな受け答えをするかであろう。

 彼女は私を馬鹿にして満足したのか、呆然とする私を尻目に、味噌汁を旨そうに啜っている。(学食の味噌汁が旨いはずないのに。)皿を見ると彼女は既にほとんど昼飯を食い終わっている。一方の私はイザ昼飯だ、という段階で出鼻を挫かれ、(それも全く話したことのない女から中傷を浴びて!)こうも言われっぱなしじゃあ収まりもつかず、一旦は手に取りかけた箸を置き、彼女に何と言い返してやろうか、アアそのバチバチに開けたたくさんのピアスお似合いですね、と皮肉を言うか、或いは、人の見た目についてトヤカク言うものではないですよ、と穏便に抗議するか、もしくは、あなたは身長が私よりもだいぶん低いから私よりかは目立ちませんね、とこうやるか、或いは、あなたも講義室でいつだって独りぼっちで知り合いらしき人すら居なさそうですよね、と挑発するか、あるいは、短い黒髪が綺麗ですね、と言ってやるか、いやこれは褒めてしまっているなぁ、と、まあ、その、いろいろと逡巡したすえに、しかし彼女の右隣に腰掛けている男は強そうな男で、今はそっぽ向いてオトモダチと話しているようだが、彼こそが彼女の友人だとか彼氏だとか、そんなことだってあり得るわけで、(こいつはきっとラグビー部だ、)或いは私が彼女に抗議した瞬間を見計らって私を恐喝するのだろうか、とか、彼女の左隣に腰掛けているキツネみたいな顔した女子大生、こいつもまたそっぽ向いてほかのオトモダチとペチャクチャやっているが、こいつも私が彼女に抗議した暁には私のほうをバッと見て、鬼の首を取ったかのようにまくしたててくるかもしれなくて、まあ、要するに、そんなことだって、ありえないわけではないから、私は、穏便に、かつ精いっぱいの皮肉を込めて、

「あの、初めましてですよね。どなたか人違いをなさっているのでは?」

と、日和見のような返答をした。

 ……ああ、何たる惨めさ!唐突な侮辱に抗議することすらも私はできなくて、男一匹としてこれほど情けないことはないが、(しかしあらかじめ言っておけば、今後私はもっと情けない境遇に陥っていくわけだが、)対する彼女は私の発言を聞くと、チラと目を上げ、味噌汁の椀を口から離して、容赦なく言うわけだ。

「目の前の人間をどうやって人違いするって言うのよ。それにそんなことどうでも良いわ。私の質問に答えなさい。そもそもあなたには友達が居るの?無精髭だとかそれ以前に、そもそも、あなたには友達が居るの?居ないの?」

 ……今にして思えば、私はこのころからずっと彼女に振り回され続けてきたわけだ。最後までそうだった。彼女のペースに巻き込まれ、私は彼女に譲歩しつづけていった。いや、譲歩という言葉は正しくないだろう。最初から私には、保つべきものや私自身なんてなにひとつありはしなかったのだ。だからこそ私は彼女に最後までついていった。だがそのことはいずれ分かる。とりあえずは話を進めよう。

「ええっと、あの、この席に座ったのが悪かったですか?その、空席のように見えたから、もしかしてここは貴女のお友達の席だったり、」

「いいえ。あたしはひとりよ」

「じゃあ僕が座るまえにここ空いてますか、と一声かけなかったことを、こうして貴女は怒っているんですか?」

「まさか。学食の空いている席なんだから好きにすれば良いわ。」

「でも僕に怒るような調子で僕の服装やら友達の居なさ加減を、貴女は言って、」

「別に怒ってなくってよ。怒ってたらあんたに味噌汁ひっかけてさっさと次の授業に向かってた。それよりもこんなしつっこい問答のほうにあたしは苛々してきたわ。あんたは見た目に気を遣わないくせして心ばっかりウジウジと繊細ぶるのね。あたしがあんたに話しかけたのは、いつもよく教室で見かけるみっともない格好のあんたがそうまでみっともない理由を知りたかったのよ。たまたまあんたがあたしの目の前に座ったこんな機会にね。さあ、これで三回目。いい加減答えてくれると嬉しいわ。あんたにはあんたの見た目のみっともなさを指摘してくれるような友達はいないの?」

 私は顔が真っ赤になるのを感じた。いくらなんでもあんまりじゃないか。こんな侮辱は初めてだった。彼女の右隣の男が私のほうをチラと見た。私は耐えがたくなって席を立とうとした。昼飯なんてどうでも良かった。この場所から、いや彼女から立ち去りたくて、だがすかさず彼女は私に、「待ちなさい」と声をかけ、

「次の授業は一緒よ、あんたはあたしに気がついてないみたいだけど。いまあんたが答えないっていうんなら別に構いやしないけど、あたしあんたについてって、あんたが答えてくれるまで付き纏ったっていいのよ。幸い授業もいくつも被っているみたいだし。あんたはあたしから逃れられないし、あんたはあたしがこうして付きまとう限りあたしの問いに答えなきゃならないのよ。」

 私は、立ち上がりかけた腰をふたたび降ろした。爆破解体されたビルが沈むように壊れていく気分だった。彼女はそれを見てうっすら笑みを浮かべながら、

「さあ、話しなさい。あんたはあたしに物語らなくてはならないの。あんたに友達は居るの」

 どうしようもなかった。私は私のみっともなさを彼女に話すほかないようだ。こうしていつまでも付き纏われても困ってしまう。いや困るどころでは済まないだろう。

「僕にも友だちは、一人だけど、たしかに居ました」

「『居ました』ってことは今は居ないのね。死んだの?」

「まさか、縁起でもない。居ました、って言ったのは、つまり、僕とそいつが、そいつの名前はイシヅキ、つまり、ええっと、石ころの石にムーンの月で、石月って名前なんですけど……」

「良いわ。その調子で話し続けて。」(彼女は私のほうに目も向けず、昼食の皿の千切りキャベツの食べ損ないを箸でつまみながら言った。)

「……それで、その石月って奴と、友達だったんだけど、疎遠になっちゃったんです」

「それで?」

「それだけですが……」

「あのねえ、」と彼女は言い、私のほうに目を上げて、一拍置き、続けた。「それはさっきも聞いたわよ。イシヅキとあんたが疎遠になったんでしょ?あたしがさっき『それで?』って言ったのはね、イシヅキとあんたがどう疎遠になったのかそれを物語れって、そういう意味で言ったのよ。要するにあんた今友達居ないんでしょ?大学だけじゃなくて高校中学小学生のときの友達は?」(私は、みんな縁が切れてしまいました、と小さく返事をした。)「そう。友達も居ないのね。家族は?こんな辺鄙な大学くんだりまで出てきて、あんた今一人暮らし?そんなヨレヨレの服と無精髭ってことはあんた一人暮らしでしょ?」(私はハイ、と更に小さく返事をした。)「じゃあ尚更よ、あんたはあんたのことを話す相手も居ないわけ。分かる?あんたは全くの一人ぼっちなの。あたしの言ってること、合ってる?あんたは今まったくの一人ぼっちよね?」(私は、オッシャル通リデス、と消え入るような声で返事をした。彼女の左隣に座っている女子大生の口元が笑みを抑えきれずに歪んだ。盗み聴きしやがって!)「そう。だったら今あんたには良い機会が訪れているのよ、あんた気づいてる?気づいてないでしょう。あんたはあんたのことを、ましてやあんたの交友関係について誰ひとり聴いてくれやしない状況であるにも関わらずあたしがそこに現れてあんたの話を聴いてやる、ってそう言ってるわけよ。あたしの言ってることわかる?あんたはあんたのことについて語る絶好の、またとない機会を得たわけ。まったき孤独なあんたがよ。じゃあせめて精いっぱい物語んなさい。せめてあたしが愛想を尽かさないように、あんたのことを、あんた自身のことを、小説か何かみたいに、豊かに、面白く、物語んなさいよ。」

 私は気が遠くなるような思いだった。彼女の右隣のラグビー部も、彼女の左隣の女子大生も、どうやら彼女の知り合いですらないようだから、彼ら彼女らのグループ同士で話しているそぶりだが、いや、彼ら彼女らのそのグループの誰も彼もが、私と彼女の会話のなりゆきに聴き耳を立てているようだった。私は彼女に、いや、彼ら彼女らすらも前にして、私がどうやって石月と疎遠になったのかを(あまりに惨めに!) 話さなくてはならないようだ。

「僕と石月は高校時代からの友達だったんです。僕らは高校時代から親しくて、高校生の時分には気の合う知己らと一緒に、つまり仲良しグループみたいなのが出来ると思うのだけど、そういう仲良しグループのなかでも、僕ら二人、とくに仲が良かったんです。」

「さっきも言ったけど、」と彼女は口を挟む、「なるべく面白い調子で語んなさいね。あたしが席を立たない程度に、あたしの興味を引くように」

「……さっき僕は嘘をつきました。貴女に物語るために、話を単純にしようと思って嘘をついて、つい先ほど僕は彼と、高校時代から仲が良かった、とそう言ったのだけれど、じつは高校時代は全然、とりわけ仲が良かったわけではなかったんです。もちろん、仲たがいしていた、ってわけではないのだけど、単に、そう、単に僕と石月は、同じグループに属してはいたけれど、ただの、知り合いだった。」

「へえ、」と彼女は言い、続けて、「良いわね、その調子で続けなさい。今のところは良い感じよ。その調子で続けて。」

「……僕と石月はべつに仲良くなかったから、示し合わせたようにおなじ大学に行くことはなかったのだけど、その、石月は頭が良かったから、後期入試で同じ大学に入ってきたみたいで、」

「それは余分ね、」と彼女は言って、続けて、「べつにイシヅキの頭が良いとかそんなのどうでも良いの。何て言えば良いんでしょうね。その、」(ここで彼女は彼女の昼飯の皿に浮かぶドレッシングの油をぐるぐるとかき混ぜながら言っていた、)「なんてあんたに言えば良いのかしらね、……そうだ、わかったわ!イシヅキとあんたの思い出を話しなさい、それもいちばん心に残ってるやつを。時系列に沿って順番になんてつまらないから、あんたがイシヅキとやったこと話したことの中でいちばん印象に残ってることを話しなさい。事実を羅列するのは駄目よ、どうせサークルの新歓や基礎クラスでパッタリ顔を合わせてワーびっくりしたー、でそのまま仲良くなった、とかそんななんでしょう。凡庸ね。面白くないわ。話し方によっちゃマシにはなるでしょうけど、あんたきっと話すのも下手でしょう。だからいちばんの思い出を、あんたなりに面白くなるように気を配りながらあたしに話しなさい。そうすりゃ多少ましにもなるでしょう。さあ話して」

「一番印象に残っているのは、」

「だめ、やり直して」

「やりなおす?」

「話始めから気を配れって言ってるのよ。……落ち着いて。あたしはあんたに話をせがむし、あんたが話さないのは許さないけど、べつにあんたをパニックに陥れよう、ってわけじゃないのよ。落ち着いて話しなさいね。でも話すのを止めちゃだめよ」

(ここで彼女ははじめて私に優しい言葉を(比較的優しい言葉だ)かけてくれたから、つまり、もともとが理不尽極まりない出会いだったし、乱暴に私を晒しあげるように罵倒する彼女が、ああ、これがアメとムチって言うのかって思いながら、アメが、『落ち着いて』、のその言葉、その言い方のやさしさが、身に沁みるように嬉しかった。だから私は頑張って面白く話そうと思った。あなたは私を単純だと思うかもしれない。その通り私は単純だった。異性から話しかけられてうれしい、という感情も大いにあった。どういうわけか知らないが、彼女は私の話を聞きたがっている。エキセントリックなこの女に、私は私の話を聞いてほしいと、どういうわけだかそう思いはじめていた。)

「……雪の止んでいた晩でした。ある冬の夜中、僕と石月は居酒屋からの帰り道だったんです。疎遠になるまえ僕たちは、よく二人で酒を飲みに居酒屋に行って、その晩もそうでした。僕ら二人は行きつけの居酒屋で、夜も遅くまで飲んで、話していました。

 楽しかったんです。石月と酒を飲みながら話していて、今やどんな話で彼と盛り上がっていたのか、具体的にはほとんど思い出せないけど、たしかテクスト論とか、サリンジャーとか、ボルヘスとかチェーホフの話をしていたと思います。いっぱしの教養人気取りで、一丁前に僕たち、文学の議論をしていました。これまでに何万回も繰り返されてきて、これからも何万回と繰り返されるであろう、若い文系大学生の、凡庸な、そのくせ本人たちだけは優れた議論だとおもっている、要するに傍からは聞くに堪えない議論をして、でも僕らは、話している側からすれば、楽しかった。

 僕らは店を出てからも、帰り道、歩きながら話していました。夜も遅い雪道には人が居なくて、車もほとんど通らないからあまりに静かで、コンビニの灯と街灯、それと信号機の灯りだけが、静かでまっすぐな街並みに、どこまでも続いているんです。信号待ちで立ち尽くしているその合間に会話が途切れて、ちょうど信号が赤から青に切り替わりました。貴女知っていますか、信号灯が赤から青へと切り替わるときには、かすかにカチッって音が鳴るんです。」

「ねえ、」と彼女は口を挟む、「あんた昼ごはん食べないの?あんたの味噌汁もらって良い?」

「貴女が話せ、って言うから僕はご飯が食べられていないのだけど」

「別に食べちゃダメ、なんて言ってないわ。好きにすればいい。ただ一瞬でも話すのを止めちゃダメよ。あんたはあたしに話し続けるの。味噌汁もらうわね」

私が嫌だと言うよりも早く彼女は私の味噌汁を取り、旨そうに啜った。(学食の味噌汁が旨いはずないのに。)それから私の方を見て、

「何あたしを見てんの、話しを続けなさい。いまあんたとイシヅキは居酒屋の帰り道よ、それで?」

「僕もおなかが空いているのだけど」

「話していれば空腹も紛れるわ。話しつづけて。聴いてあげるから」

「……そうして飲み屋の帰り道、僕と石月は深夜の街の、とりわけ人気のない箇所に差し掛かったんです。さっきも言ったように冬だったから、雪や氷で道もよく滑って、それに僕ら二人酔っぱらっているものだから、千鳥足、何回も滑って、でも転びはしないで何とか歩いていたんです。

 しかし結局僕は転びました。石月と並んで歩いていて、雪道を見ながら歩いていた視界が、瞬間、唐突に、うすぼんやりと暗い夜空に切り替わったんです。僕は尻もちどころか背中、頭まで雪道に寝かせるようにして、綺麗にすっころんじまったらしかった。

 唐突に、気持ちよく転んだんです。夜の空にはちぎれ雲が浮いていました。車の音も聞こえないし、道には僕ら二人きりで、暗い冬の深夜です、僕は転んで石月は立ち止まっているから、まったく静かでした。なんの音もしない。星の見えない暗い夜空です。僕はなんだか妙に感動しちまって、すぐには起き上がらないで、すこし転んだまま横になっていました。さいわい体はどこも痛くなくて、上手に転んだんですね、静かな夜に道端に転んで、空を見上げていたんです。それで、うまく説明できないが、身に染みるような感動が僕の心を占めていったんです。

 それから僕は起き上がって石月とまた歩き出すわけだけど、僕は何とかしてあの感動を、つまり、綺麗に転んで夜空を見上げて路上に横たわりあまりに静かな、あのときの感動を、石月に伝えようとしたんです。もう文学の話なんてどうでも良かった。転倒に伴った感動を石月にも共有してほしかったから、僕は僕の足りない言葉の限りを尽くしてどう感動したか伝えようとするのだけど、僕は話すのが下手くそだから、石月にもいまいちピンとこないようで、……ほら、今だって貴女もピンときていないでしょう。単に雪の街の深夜に転んであまりに静かだった、そんなことにどうしてあれほど感動したのか、僕はうまく説明できない。でもほんとうに、静かな晩に転んで、なぜだか嬉しいような心地がした。」

「よくわかんないわ。あんたが言うとおりピンと来ない」

「ですよね。その場に居合わせた石月も、僕がどう感動したのか理解してくれはしなかった。彼は僕がひどく酔っ払っているものだと考えたようで、次に見えたコンビニに僕を引っ張っていって、僕に水を買ってくれたんです。実際僕は酔っていたから水を買ってもらえるのは嬉しくて、僕は彼に言うんです、『あとチキンも食べたい』って。そしたら彼、水に加えてコンビニチキンも買ってくれて、そう、彼は、水とチキンを私に買って、奢ってくれたんだ。彼はとても優しかったんです。彼は僕に水を飲むように言って、それからチキンを貪る僕を、憐れむように見ていたんです。でもそんな優しい彼も、僕がいったい何に感動していたのか、理解してくれなかった。僕の言うことを酔っ払いの繰り言としか思ってはくれなかった。」

「そう。」

「そうなんです」

「……それで、そんな優しいイシヅキとあんたはどうして疎遠になったの?」(彼女は私から奪った味噌汁の器に張りついたワカメを箸でつまみながら言った。)

「石月にカノジョが出来たんです」

それを聞くと彼女はヘヘッと(微かに)笑って、それから言った、

「じゃああんたはカノジョが出来たイシヅキに捨てられたのね。何遍もいっしょに、二人きりで居酒屋に行っていたイシヅキに」

「いえ、違うんです」

「あら違うの」

「ええ、違うんです。……石月は彼女が出来てからも僕と仲良くしてくれたんです。でも、石月の中身がまるきり変わっちまっていて、要するに、石月はカノジョの話しかしなくなっちまったんだ。僕がドストエフスキーの『白夜』を読んだよ、って話をすれば、彼はアアオレもこないだそんな風に彼女と長々と話したんだ、ってカノジョの話をしはじめて、僕は『白夜』の話をしたいのに石月のカノジョの話を聞かされている。僕がバタイユの『眼球譚』を読んだよ、って話をすれば、(いずれも彼が僕にかつて薦めてくれた小説です、)彼はアアオレもこないだ彼女と初めて寝てさぁ、ってカノジョの話をしはじめて、僕は『眼球譚』の話がしたいのに、石月のカノジョの話を聞かされている。しまいには石月、僕の見た目にまでケチをつけはじめて、『おまえももう少し見た目に気を遣えよ、ほらその無精髭を剃ったりしてさ。そうしないと彼女の一人も出来やしないぞ』なんて私に言うようになって、それで僕は、心底辟易しちまった。石月のなかの魅力的比重がそのままカノジョに注がれてしまったようで、そんな石月と、僕は、だんだんと会わないようになって、石月がこんど飲みに行こうよって連絡してこようが、どうせカノジョの話ばかりするのだから、僕はそれを断って、疎遠になっていって、唯一の友だちの石月と疎遠になっていって、それで、僕は、結果的に、こうしてひとりになっちまったんです。」

 学食を見渡すとだいぶ空いてきていた。昼のピークは終わったようだ。彼女の右隣の男も、左隣の女も居なくなっていた。いずれも次の授業に向かったのだろう。

「そう。……それで、」と私の向かいの彼女は言い、続ける。「それであんたはあんたの無精髭をミットモナイって言ってくれる唯一の友達を、失ったわけね」

「そういうことになりますね」

「そんな襟周りがヨレヨレのシャツを着てるのもそういうわけね」

「このシャツは気に入っているんですけど、さすがに何年も着ているからみっともないですか、やっぱり」

「ええ、非常にみっともないわ。無精髭と相まって最低ね。あんたとイシヅキの話はつまんなかったけど、そのヨレヨレのシャツよりはマシだったわ」

「それは良かったです。僕としても話した甲斐がありますね。……ところでもうすぐ次の授業、三限がはじまる時間だから、そろそろ行きませんか。僕は何も食べていないですが、まあ、良いです、貴女は僕と次の講義が一緒ですよね、(貴女がそう仰ったんですものね、)そろそろ次の教室に向かいませんか」

と、私が言うと、彼女は時計を見て、

「ああ、たしかにもう昼休みも終わりね」

「そうなんです。行きましょうか」

「行かないわ。」

「行かないんですか」

「ええ」

「じゃあ僕は行きますね」

「駄目よ、あんたも行かないの。」

と言って、急に彼女はテーブル越しに身を乗り出して私の左手首を掴んだ。私は異性に腕を掴まれるのはあのときが初めてのことだったから、ドギマギして、しかし私は未だ真面目で不器用だった、講義に行かなければならないと思い込んでいて、

「どうしたんですか、次の授業は貴女も一緒ですよね、行きましょうよ」

と私は言うのだけど、彼女、それを聴くとヘヘッ、とまた笑って、

「駄目よ。あんたは次の授業には行かないの。あんたあたしを、あたしが掴んでるこの手を振りほどける?出来ないでしょう、あんたはそんな乱暴なことはできないわよね。あんたは勇気もないし、あんたは淋しいの。だからあんたはあたしをふりほどけないのよ。あたしはイシヅキみたいにカノジョの話をしたりしないわ。あたしあんたの話を聞いてあげる。あたしあんたが気に入ったわ。あんたの見た目は最低だけどね。あんたのウジウジしてるところも嫌い。でもあんたが今こうして一人ぼっちなところだけは気に入ったの。あんた、あたしについてくれば良い。見た目はあたしが整えてあげるわ。そうすれば多少マシにはなるでしょう。あんた、これからずっとあたしと一緒に居なさい。少なくとも、次のしょうもない授業なんてサボれば良いの。あたしと一緒にね。大丈夫、安心してサボれば良いわ。と言うよりあたしがあんたを行かせない。三限がはじまる時間まであたしあんたを離さないわ。どうしても三限に出たいっていうなら止めないわ、あたしの手をふりほどいて次の教室に向かいなさい。そのときはあたしにふたたび話しかけないでね、あたしもあんたを無視するわ」

「滅茶苦茶なことを、仰るんですね」

彼女は私の言葉を聞き流して、私の手を掴んだまま、もう片方の手で髪をかき上げた。彼女のピアスが眩しく光った。

 時計を見ると十三時三分前だった。多くの学生は既に慌ただしく出ていった。私と彼女はそれきり黙りこんだ。私は何も言えなかった。椅子に座ったまま硬直して、私は彼女の手を振りほどけず、振りほどこうともしなかった。彼女は私の手を掴んだまま、私と目を合わせなかった。

 そのまま長いこと経った。五分経った。(長い五分だった。) 彼女はふと時計に目をやると、私の手を離して、

「三限は始まってるわね。あんた遅刻して行くの?」

「……いえ、遅刻して教室に入って、教室じゅうの人から見られるようなことが、僕は苦手だから、今日は、良いです。それにそもそも、貴女が僕の手を掴んで、」

「じゃあ今は暇なのね」

「……四限までは暇です」

「そう、そしたら」、彼女は言い、続けて、「しばらく外に出ましょうか」

「でも僕はまだ昼ごはん食べられてないですよ、ほらこんなに残ってて、」

「良いから。あんたはあたしについてくればいいの。食器もプレートも片付けないで置いておけばいいわ。行くわよ」

「でも、」

「でももムカデもないの。黙ってあたしについてきなさい。……いや、黙らなくても良いわ、つまりね、あたしのいうとおりにあんたはしていれば良いの。それでたくさん話をしましょう。あんたの話をたくさん聞かせて。それ以外はぜんぶあたしの言う通りにして」

反抗する気力もなかった。私は、頑丈な首輪を嵌められた鬱病の大型犬のように彼女の後ろをついていった。
 


 しばらく外に出ましょう、と彼女は言っていたから、私はほんの散歩のつもりでついていって、四限には出るつもりでいたのだけれど、出ずに終わった。そのまま彼女との逃避行が始まったのだ。そのはじまりのことをあなたに詳しく教えてあげよう。
 

 

 学食を出ると晴れた六月の昼だった。学食に入ったときと同じだ。最近は晴れた六月が続いている。気持ちのいい初夏だから、大学の樹々も青く繁って散歩にはちょうど良い。

 私が通っていた大学には小さな川が流れていた。(敷地の広い大学だからそういうことがある。たとえば川のほかにも牧場がある。牧場に行けば牛も居る。) 川の周りにはゆるやかに芝生が広がって、休み時間の大学生や観光客、幼稚園生(なんと大学のなかに幼稚園もあるのだ) の憩いの場所になっている。私はこの憩いの場所の近くを通り過ぎるばかりで、この中に憩ったことなど一度もなかった。ひとりで憩ってもどうしようもない。ひとりでここで憩おうとしても周りには友達同士やカップルがたくさん居て耐えがたい。誰も彼もが楽しそうに見える。私一人で入ったところで周りの目が気になって、憩うどころでないだろうから、これまでに足を踏み入れることがなかった、そんな場所に、彼女に連れられるがまま、やって来た。

 川沿いのベンチに私と彼女は腰掛けた。水のせせらぐ音が聞こえる。とおくで男子大学生三人組がフリスビーを投げてはしゃいでいる。川の向かい側では数人の幼稚園児が保母に見守られながら遊んでいる。

「ここにはよく来るんですか」

「いいえ」

「気持ちの良い場所ですよね」

「そうね」

「僕はここでこうやって休むのは初めてなんですよ、お恥ずかしいことですが」

「そうでしょうね」

「……僕は、人とベンチに並んで座って、静かに、話したり話さなかったりすることを、のどかなことを、してみたかったんです」

「イシヅキとはしなかったの」

「石月とは、ふたりで酒を飲みに行くように仲良くなったのが、秋ごろのことだったから、今みたいな時期にここで、つまりその、ここは過ごすには今くらいの時期がいちばん良いと思うんだけど、そんなことは、……要するに、しなかったです」

「へえ」

 風が吹いて彼女の髪が揺れた。フリスビーを後ろに取り損ねた大学生が走って取りに行った。

 川の向かいでは幼稚園児たちがキャアキャアと黄色い声で跳ね回っている。そのうちのひとりがおぼつかない足取りで川へ向かって駆けるのを、保母が危ないよ、と声をかけ、止める。別の幼稚園児がバッタさんだ、と声を上げ、捕まえようとしている。

「のどかですね」

「そうね」

「……僕はまた何か貴女の気に障るようなことをしましたか」

「いいえ。……すこし考えごとをしていたの。今も少し悩んでる。ちょっとだけ静かにしていて。ごめんね」

「ええ、構いませんけど」

 バッタさんだ、と言った幼稚園児がバッタを捕まえようと駆け回っては屈みこみを繰り返している。なかなか捕まえられないらしい。と、そこに、別の幼稚園児が現れて、彼もまたバッタを追いはじめる。二人してバッタを追いかけて、そうして後から来た園児が先にバッタを捕まえた。

「決めたわ。……ねえ、あんたの学生証を見せて」

「僕の学生証ですか?」

「そうよ。ほら、出して」

私は彼女に言われるがまま学生証を取り出して、彼女に渡した。(電子マネー機能のついたカード型の、プラスチックの学生証だ。) バッタを捕まえ損ねた園児がバッタを捕まえた園児に、それちょーだい、と言っている。対してバッタを捕まえた園児は、これぼくのだよ、と言って譲らない。ちょーだい、ちょーだい。いやだよ、いやだよ。それが何度か繰り返される。

「学生証の写真だと、」と彼女は言い、続けて、「学生証の写真だとあんたも髭をちゃんと剃ってたのね」

「そりゃまあ、その頃は僕もまだ、若かったから」

 バッタを捕まえ損ねた園児は繰り返される意味のない問答にしびれを切らし、実力行使と言わんばかりに、力づくでバッタを奪い取ろうとする。もちろん奪われる側もただでは渡そうとしない。バッタを握りしめ体を振るい、必死に抵抗する。バッタちょうだいよ、やめてよ、と言いながら二人の園児がもみ合っている。そんな喧嘩に気が付いた保母が、二人の園児を引き離しにかかる。喧嘩する園児とそれを引き離そうとする保母に、そこにいた園児のほとんどが注目する。

 そんななか、ある一人の園児だけが喧嘩には目もくれず、こちらをじっと見つめている。

「高校生のころの写真?」

「そうです、大学入試のときに撮ったのを、そのまま学生証の登録に使いまわしたやつです」

「そう。」

風が吹いて彼女の髪が揺れる。ピアスに日が当たって銀色に光る。

一人の幼稚園児がこちらを見ている。

「じゃあ、これ折っちゃうわね」

 やめなさい、と保母が言う。喧嘩しないの。どうしたの?

「おっちゃう?」

 一人の幼稚園児がこちらを見ている。

「そう、折っちゃうの」

そう言うが早いか、突然、彼女は私の学生証をパキッ、と二つに折ってしまった。私の学生証はまっぷたつに割れた。

 驚いて、私はしばらく口を利けなかった。

 川の向かいでは保母に引き離された園児がふたりして泣いている。保母はふたりから事情を聞こうとするが、バッタを奪おうとした園児が大泣きしていてしばらく喋れそうにないことを見て取るや否や、彼女はもう片方の園児から話を聞く。バッタを握りしめ、しゃくりあげながら、あのね、ぼくのバッタ取ろうとしたの、と彼は保母に告げている。あのね、ぼくがつかまえたバッタ、取ろうとしたの。

 一人の園児がこちらを見つめている。私はことばを取り戻す。

「なんで、どうして僕の学生証を折っちゃったんですか。何やってるんですか」

「良いのよ、こんなもの。騒ぐようなことじゃないわ、捨てるわね」

そう言って彼女は私の学生証を川へと投げ捨てた。ふたたび私は絶句した。

 彼女が学生証を川へ投げ捨てるのを目撃するや否や、私たちを見つめていた園児はびっくりしたように目を見開いた。口まであんぐり開けていた。それからすぐに正気付き、立ち上がると、保母のほうへと駆けていった。保母の袖を引いて園児は言う。あのね、あのひとね、ごみを捨てたよ。川にね、ごみを捨てたよ。だが保母は喧嘩した園児の事情聴取と仲裁に忙しく、余計な園児を相手取る余裕がない。ちょっと待っててね、と言ったきり、喧嘩した二人に向き直る。

 私は捨てられた学生証を川から拾い上げるために立ち上がろうとしたが、彼女は私の腕を掴んで、引き留める。立ち上がれずに、私は言う。

「どういうつもりなんですか、一体貴女は。僕の、……僕の学生証が」

「そうキャンキャン騒がないで、みっともないわよ。小さい子供みたいに騒ぐのね。やめなさいな。あんた図体ばかり大きくてほんとうに小心者なのね。」

「そういう話じゃないでしょう、人の学生証を折って捨てるなんて、」

「じゃああんたもあたしの学生証を折って捨てれば良いわ」

彼女は財布から学生証を取り出すと、それを私に手渡した。

「はい、どうぞ」

わけがわからなくて、彼女の学生証を持ったまま、私は彼女の顔を見つめていた。

「ほら、あたしのも折っていいわよ。それで川に捨てて」

 彼女の瞳に日が差して、真っ黒だと思っていたその瞳は、日が差すと明るい焦げ茶色をしている。

 先ほどの園児は保母に話を聞いてもらえないことを理解すると、またくるりとこちらへ向き直って駆けてくる。そうして川へと手を伸ばし、流れ損なって澱みに浮いている私の学生証の片割れを拾い上げる。

 喧嘩をしていた児童のもう片方が泣き止んで、鼻をすすりながら保母に言う。あのね、ぼくが取ろうとしてたバッタなの。でも、さきに取っちゃって、くれなかったの。

「なにマゴマゴしているの。あたしの学生証をあんたが折るのよ」

「でも、僕は、もう、訳がわからないですよ、学生証を折られて、こんどは僕が貴女のを折るとか、そういう問題じゃないと思うんです」

「いいからあたしの言うとおりにして。」

川から私の学生証を拾い上げた園児はそれを持ってふたたび保母のもとへと駆けていく。せんせえ、ほら、ごみ捨ててたんだよ。このごみ。ほら。みて。保母はまた面倒くさそうにちょっと待っててね、と言うが、園児が持っている私の学生証の片割れに目を留めると、にわかに興味を引かれたようで、しげしげとそれを見つめる。

「じれったいわね、何を悩んでるの。あたしが良い、って言ってるんだからあんたは黙って折ればいいのよ」

「でも、僕は、」

園児が保母に言う。あのおねえさんがこれ、捨てたの。川にね、投げたの。園児が指さす私たちを、保母は疑るような目で見る。

「もう一度言うわね。私の学生証を、折りなさい」

「でも、」

保母と園児がこちらを見ている。

「折りなさい。」

どこかでものが割れる音がする。

「はやく折って」

川にね、ごみを捨てちゃだめなんだよね、せんせえ。

「お願いだから」

 私は彼女の学生証をふたつに折った。

「良いわ。そのままふたつとも川に投げて」

私は彼女の学生証を川に投げた。

「偉いわ。あんた最高ね。……さあ、それじゃあ行くわよ」

彼女はニコニコしながらベンチを立って、呆けたようにしている私の手首を掴み、私を立たせて、それから私たちは、いや、彼女と、彼女に手を引かれる私は、大学を、後にした。

 後ろからあの園児の声が聞こえる。ほら、また捨てたよ!せんせえ見てた?あのひとたち、また川に、ごみを投げたよ……。

 

 

 大学の門を抜けた。早足の彼女についていきながら私は訊く。

「どうして学生証を折ったんですか」

「あんただってあたしのを折ったでしょう」

「どこへ行くんですか」

「どこにも行かないために行くのよ、目的地なんて無いわ」

「目的地もなくさまようんですか」

「あんた野暮ね。そのとおりよ」

「そんなの、最後には破滅しかないじゃないですか」

「遅かれ早かれ人は骨よ。あんたまた大学に戻りたい?あたしは戻りたくない。」

「でも、」

「あんた、」と言って彼女は足を止め、私の方へと向き直り、続ける。往来だから人の目が集まって、私はそれを恥ずかしく思う。「あんたあたしに、ついてきてくれる?あたしはあんたにどこまでもついてきてほしい。あたしの、スローモーションの投身自殺みたいな、そんな逃避行に、ひとりぼっちのあんたについてきてほしいの。ねえ答えて。あんた、あたしについてきてくれる?」

「すると、……するとつまり、僕らこれから逃避行するんですか!」

「いまさら気がついたの!」(彼女はほんとうに驚いたような顔をした。) 「あんた鈍いのね。びっくりした。そうよ、逃避行するの。全部投げ捨てて、逃避行するのよ。あたしたちふたりで、どこまでも逃げるのよ。」

「逃避行だなんて、そんな、」

「あたしの学生証折ったうえに川に捨てたあんたが今さら何言ってんの。ついてきてくれるわね?」

「でも、」

「口ごたえしないで。ついてきなさい」

彼女はふたたび私の手首を掴んで歩き出した。私は子供のように手を引かれて歩くのが恥ずかしくて、

「ついていきます。ついていきますから、どうかそうやって僕の手を引いて歩くのをよしてくれませんか」

と言った。それを聞くと彼女はふたたび足を止め、振り向いて、

「良かった。ほんとうはね、あたしあんたに断られたらどうしようと思ってたの」

と言って笑い、私の手を引いたまま歩き続けた。
 

 

  *

 そうして彼女と私の逃避行が始まった。だが、その始まりは『逃避行』という言葉が一般に持つ繊細な美しさからはほど遠いものだった。ほんとうに、ほとんど美しい調子ではなかった。というのも、逃避行の一歩を踏み出した私たちは、まず、最寄りの駅へと向かった、とこう行くのが自然なうつくしい逃避行の流れで、何ならもっとうつくしく描写するならこれから私がこの章でおこなう記述はすべて不要だろう。彼女と学生証を互いに折って、その次の瞬間にははやくも電車内、それも空いた車両のボックスシートに向かい合わせに座っている、これがいちばんうつくしい。(何なら学生証を互いに折るあの瞬間を神聖な儀式のように描写することだって可能だった。) 小説のような美学に則って、不必要な描写をあらかた省き、彼女と私、ひたすらに逃避する、その逃避のあいまにすこし話して、黙り込み、電車に揺られ、ふたりなに思うとなくぼんやりと車窓を眺める、私たち、どこを目指しているのかわからない。あるいはもう、この電車は私たちの死に向かってひた走っているのかもしれなくて、けれども、たといそれでも、私は構わない。ふたりで死ねるならば、こんなやるせない世の中から逃避できるなら、それがいちばん幸せでしょう……、なんて物思いに沈み、西陽のなか電車は揺れて、みたいなのがうつくしい逃避行なのだろう。だがあいにく、この文章の、逃避行の主人公はどうやらこの私、どうしようもない男子大学生であった私と、それとよくわからない彼女、私は彼女と、今日唐突に学食でご飯をご一緒して、その流れでこれまた唐突に逃避行することになったのだが、そんな私と彼女の、それもこんな唐突な逃避行のスタートに、うつくしさなんてかけらもあるはずは無いのだ。……もっと言わせてもらうなら、うつくしい逃避行をしている彼ら、(別の小説に出てくるような彼らのことだ、)彼らだって絶対に服の準備やら何やら、そんな瑣末を、あなたの見ていないところで、語り手自身意図的に省いて、そうやってなんとか逃避行をうつくしく見せているだけに過ぎない。あなたにはわかってほしい。逃避行なんて本来、全くうつくしいものでも何でもない。たとえば彼女と私の逃避行は、まず銀行に赴き現金をおろすところから始まったのだ。

 ……なにもあなたにいじわるしたくてこんな章を挟むわけではない。ただ私たちの逃避行にはそういった夾雑物のようなステップが間々あった。逃避行について書くなら、私はそれをも(序盤くらいは)伝えなければならないと思う。だから私は今からそのことについて書いてあげよう。なに、ほんの短く済ませて駅へ向かうから、我慢して読んでほしい。

 

 

 四限までのほんの散歩のつもりで彼女についていったのに、私は私の人生を丸ごと彼女へと投げ出すことになった。私は呆然と、彼女に連れられるがまま街を横切り、そうして私たちは一軒の銀行の前で立ち止まった。(と言うより彼女が立ち止まったので私も立ち止まった。)

「貯金を全額引き出して。ぜんぶおろせないなら上限いっぱいまでで良いわ。」

そう言って彼女は私をATMへと押しやって、彼女自身も別のATMを操作しはじめた。当然私には引き出し限度に引っかかるほどの預金はないから、(バイトもせずに仕送りとお年玉貯金の切り崩しで生きていたのだ、)彼女に言われたとおりに預金をぜんぶ引き出して、ぜんぶで九万八千円あった。

「いくらあったの。貸して」

私は彼女に九万八千円を手渡した。彼女は、少ないわね、と言ってそれを封筒のなかにしまった。彼女の引き出した現金が入った分厚い封筒に私の現金が一緒くたに混ざった。

 彼女は言う。

「これで、このお金であたしたちふたりどこまでも逃げるの。これはもうあんたのお金でもあたしのお金でもなくてあたしたちのお金なのよ、わかるわね?誰がどれだけ出資したかなんて関係なくて、このお金で私たちは逃避行する、その、逃走資金を、あたしがあんたのぶんまで持っていてあげるわ。それで良い?あんたあたしを信じてくれる?」

私は何度もうなずいた。私には彼女を肯定する以外の選択肢なんて無いのだ。学食と学生証のくだりでそのことはよくわかっていた。だから私は彼女のいうとおりにしようと、彼女に抵抗する気力なんてもうないと伝えるために、何度も何度もうなずいた。

 何度も頷く私を見て彼女は「赤べこみたいね」と言い、それから、

「じゃあ、行きましょう」

と言って、またも私の手首を掴んで歩き出し、私たちは駅へと向かった。

 今でも私は彼女に握られた手首の感触を思い出せる。

 

 

 彼女は逃げ出したいと言っていた。そんな彼女に巻き込まれ、引きずられるようにして私も一緒に逃げ出した。彼女がそうであったように、私もはやく逃げ出したかった。ただ、彼女の目的は日常からの逃避にあったのだが、私は日常からも、彼女からも逃げ出したかった。日常から逃げ出すことは彼女のおかげでうまくいった。だが今度は、私は彼女に捕まってしまったのだ。彼女と逃げ出して彼女からは逃げ出せなかった話を、これからあなたに聴かせてあげよう。

 


 私たちは駅に着いた。特急を待つ駅のホームで彼女は随分とご機嫌だった。

「ねえ、これからあたしたち何処へでも行けるのよ。あんたわかる?あたしね、ずっと逃げ出したかったの。それもぜんぶ投げ出すようにして。キャンバスからカッターナイフで切り取るみたいに、背景なんか置き去りにして、あたしどこかに行っちまいたかったのよ。ずっとそんなことをしたかった。だからいまあたし嬉しいの。あたしたち、何処へでも行けるのよ。この封筒のお金が尽きない限りね。お金を翼にして飛ぶみたい。調子に乗って飛んでいって、そうして最後は死ぬんだわ。イカロスみたいね。いいえ、イカロスじゃないかもしれない。よくわからないの。あたし何を言いたいんだろう。……ねえ、あたしが今どれくらい幸せか、きっとあんたにはわからないでしょうね」

「いや、僕にだって少しは理解できますよ。貴女がいまどれくらい嬉しいかなんて、僕には知りようもないですが、少なくとも僕にだって、貴女と同じように、日常から逃げ出したいと思うことは、これまでに数えきれないほどありましたから。」

「……じゃあそんな日常からの逃避が叶ったのに、どうしてあんたはしょぼくれた犬みたいな調子なの?せっかく逃げ出せたってのに、耳を伏せて尻尾を垂らして、ずいぶんと憂鬱そうなのね。あたしが手を離したらあんたそのまま地面にへたりこんじまいそうだわ」

 彼女と私が乗る予定の特急列車が来るまでにはあと七分ある。彼女は私の手首を握っている。私たちはどうやらほんとうに逃避行をするらしい。

 私は先ほどから怖くてたまらなかった。彼女は本気で、『ほんものの』逃避行を望んでいるようで、そうしてそんな『ほんものの』逃避行の最後には破滅しかないのだから、私の恐怖は間違っていないだろう。私は破滅をしたくはなかった。(破滅よりは日常のほうが幾分マシだ。)彼女がイカれているのだ。

 私たちが乗る特急列車の到着時刻は刻一刻と迫っている。彼女は私の手首を握って嬉しそうにしている。私には彼女の手を無理矢理振りほどくようなことはできない。

「逃避行よ?駆け落ちみたいに逃げるのよ?もっと嬉しそうにしなさいよ」

 私は彼女からの最後の逃避を試みた。手を振りほどけないなら言葉で説得するほかない。だから私は彼女に言った。

「実を言うとね、僕はそんな、逃避行をしたくはないんですよ。貴女わかりますか、僕はすべて投げ出してまで逃避行をしたくはないんです。もちろん、日常からは逃げ出したい。そう思っています。それは貴女と同じです。実際、僕も一度、日々の生活がたまらなくなって、一週間ほど大学をさぼって、そうして一人で旅をしたことがあります。でも僕は貴女ほど過激ではないから、日常を投げ出すような心地で一週間、旅をして、それから平然と戻ってきて、次の日は一限から講義に出ました。その学期はちゃんと単位を全部修得して、……要するに、僕はその程度なんです。僕はそんな、息抜きのような、逃避行からは程遠いような些細な旅行、そんなガス抜きができれば、それで十分なんです。

 僕だって日常が嫌いです。いいえ、大嫌いです。可能ならすべて投げ出したい、と今日までそう思っていました。でも、貴女のために逃避行が真に迫った今になってやっと気が付きました。僕は、日常そのものが無くなってしまうことが、日常から逃げ出さないことよりも、もっと嫌なようだ。日常をひたすらに嫌悪しながらも、退屈で孤独な、どうしようもないこんな日常のうちに属しながらも、ただ単に、何もせず、日常に文句だけを言い続けたかった。現にこうして貴女に連れ去られようとしてそれがはっきりしました。僕は貴女のようにすべてを投げ出して心底うれしい心地にはなれないようです。帰りたい。僕を日常に帰してくれませんか。貴女が僕を離してくれないから僕は貴女についていっているだけで、貴女に掴まれた腕が、僕の枷になっているだけで、貴女が僕に愛想を尽かして手を離せば、僕は平然と日常に戻るでしょう。日常に戻って、日常に文句を言いながら、すべて投げ出すことに憧れながら、日常を送るんです。

 臆病なんです。どういうわけだかわからないけど、貴女は僕を気に入ってくれたみたいで、しかし僕はあなたの好意に値する人間ではない。それに、貴女は僕を無理やりに逃避行に巻き込もうとして、それを僕は、はっきり言います、すこし迷惑にも感じているんだ。……ねえ、僕を軽蔑しましたか?軽蔑しないはずがないでしょう。僕を放してくれませんか。僕は未だ僕の日常に戻れるところに居るから。いや、貴女だってそうだ。貴女も日常に戻れるところに未だ居ます。ふたりで戻りませんか?学生証は教務に言って発行し直してもらって、僕ら今からでも遅くはないです、大学に戻って、そうして僕たち友達になりましょう。教室や学食で会えばお互いに日常についての文句を言い合って、とおくに逃げてしまいたいね、なんて叶わない望みを言い合ったりして、そうやって、日々をやり過ごして生きてゆきましょう。あしたのロシア文学の講義はソローキンの作家論をやるんですよ。先週に先生がそう言っていたでしょう、覚えていますか。それを聞いて僕は今週の講義をすこし楽しみにしていたんです。貴女も、いや、貴女がソローキンを読んだことがあるか知らないけど、講義を受ければソローキンを読んでみたいと思うかもしれないですよ。

 僕はあなたと、日々を、凡庸な日々を過ごしたいです。今みたいにこうやって破滅に向かっていく仕方ではなくて、つまり、その、全部投げ出すことに憧れながらも、そんな逃避は決してせずに、日々の些細なことに喜んだり感じ入るようにして過ごしたいんです。あるいはときどき、息抜きのように旅行をしましょう。それくらいだったら僕だっていくらでも付き合いますから。あなたはそんな日々は気に入らないでしょうけど、でも、そんな凡庸な日常だって、やってみれば案外楽しいことだってあるかもしれないですよ。僕らまだ間に合います。戻りませんか。いまから大学に、日常に、戻りませんか?……ねえ、僕を軽蔑したでしょう。僕は貴女の逃避行の相手として、そもそも全くふさわしくないんですよ。どうか答えてください。いまから一緒に大学へ戻りませんか。それか僕のことをどうか、放してくれませんか。」

 駅のアナウンスが入る。あと三分ほどで特急列車がホームに着くらしい。アナウンスが終わるのを待って彼女は口を開く。

「軽蔑もなにも、」と彼女は言い、続ける。(先程よりも更に嬉しそうにして。) 「最初っからあたし、あんたにはなんにも、なにひとつ期待しちゃいないのよ。あんたはあたしを誤解しているのね。ひと目見たときからあんたがどうしようもない愚図だってあたし、判ってたのよ。無精髭のヨレヨレのシャツの男子大学生に、なにを期待出来るって言うの?軽蔑はもう充分済ませているわ。あたしがあんたの無精髭を、服装を、ウジウジと腐りきった性根を、凡庸な日々に文句言いながらなぁんにもしやしない無気力さを、気にいるとでも思った?じゅうぶん軽蔑してるわよ。あたしがあんたを尊敬しているとでも思った?だとしたら思い上がりも甚だしいわ」

「じゃあ、」と、私は、彼女が嬉しそうにそう言うのを知覚してほとんど絶望するように、だが一縷の望み、縋るようにして、尋ねる。「そんな軽蔑に値する僕をわざわざ連れていくことないでしょう。僕を、放してくれますか」

「いいえ放さないわ!あたしあんたを絶対に放さない!(彼女はほとんど叫ぶような調子だった。)もともと放すつもりはなかったけど、ますます放さないわ。なんでかわかる?わかんないでしょう。あんたあたしをなにひとつわかっていないみたいね。あんたは野暮で、鈍くて、まったく救われない人間だけど、あたしそれが嬉しいの。あたしね、あんたのことがますます気に入った。あんたのさっきの話を聞いて、あたしの逃避行の相手はあんたで良いと心底そう思ったの。

 あんたわかる?あんたのさっきの露悪的な話、あんた自身がいかに凡庸かを話す、そのしかたがあたしにどう思わせたのか、わかっている?さっきの話であたしが愛想を尽かして放してくれると思ったんでしょう。あんたまるきり逆の効果を生んだのよ。あたしますますあんたを気に入った。あんたのそのみっともなさ、鼻につく小心者、情けない小市民っぷりが、あたしね、大っ嫌いで、でも、それがそのまま大好きなの。惨めなあんたをあたし、今すぐにでも抱きしめたいと思ったわ。惨めなあんたの惨めさがあたしそのまま愛しいの。矛盾してるみたいだけど、これがあたしの正直なところね。アンヴィバレント、って言えば格好がついて良いかもしれない。あんたを軽蔑すればするほど、あたしあんたが気に入るの。

 あたしあんたが大っ嫌いだからあんたを無理やり連れていくし、あたしあんたが大好きだからずっとそばから放さないわ。あんたなんか大嫌い。だからあたしについてきて。あたしあんたを愛しているわ。大嫌いで大好きで、あたしあんたを気に入ったの。もう引き返せないまで遠くに連れていってあげるわね。どこまでもあんたの腕を掴んで連れていくの。あたしにむりやり連れていかれて、あんたは日常と仲違いして、それであんたには帰る場所がなくなって、そしたらきっと、今度はあたしに縋るようについてくるんだわ。最低ね。あんたに縋られるなんてぞっとする。でもそのときはあたし、あんたをもっと愛おしく思うんでしょうね。

 どこまでもあたしについてきなさいね。あたしがあんたの手を引っ張っていってあげる。あたしあんたを愛しているわ。気に入ってどうしようもないの。いつか無精髭も剃ってあげるわね。服も見繕ってあげるわ。……いいえ、違うわ。あたしね、あんたのものを、奪っていくの。みっともない無精髭も、襟のよれた服も、ろくに整えちゃいない髪の毛も。履き古したスニーカーも、メッキがはがれつつあるメガネも。そんなものぜんぶ、あんたからちぎり取って捨ててあげる。あんたに残るのはあんたの思い出だけよ。だからあんた、あたしについてきなさいね。あんたを連れて、あんたから日常の匂いのついたものを捨て去ってあげるから、あんたはあたしに思い出話でもしなさいね。あたし聴いてあげるから。あたしね、あんたを、絶対に逃がさないわ。あんたあたしのために死んで。あんたあたしのために生きて。あたしたち、これから死にに行くのよ。一緒に死んでね。一緒に死んでくれる?」

 私はもう、何の返事もできなかった。彼女がまくしたてることはまったく支離滅裂だったが、少なくとも私を放してはくれないことくらいは理解できた。彼女は私の手首をずっと掴んだままで、冷たいその手は、私の体温を、気力を、全て奪い去るようだった。ちょうど特急列車がホームに滑り込んで、私は彼女に引かれるがまま、特急列車に乗り込んだ……。

 私は彼女から逃げ出すことを諦めた。

 

 

 畢竟、彼女は私を手放してはくれなかったのだ。今後私は彼女に抵抗もせずについていくことになる。あなたはそれを納得してくれるだろうか。私の急な無抵抗をあなたは納得してくれるだろうか。或いは納得してくれないかもしれない。だが、そんなこと、私の知ったことではない。ある種の事実として私は、彼女についていかざるを得なかったのだ。
 じき彼女は私の手を引くことすらしなくなる。いや、私が彼女に手を差し出すようになる。それまではどうかあなた、あなたに私たちの逃避行を読んでほしい。或いはあなたは彼女を嫌な女だと思っているのかもしれない。だがもしそうだとすれば、それはあまりに一面的な評価だと私は思う。彼女は気が狂ってはいたが、と言うのもつまり、こうやって無関係な私を逃避行に巻き込んで連れ出していく程度には気が狂ってはいたのだが、彼女は、ねえ、……いや、止めよう。私がこれから物語ることを、あなたは単に読み続けてくれれば良い。私はあなたに物語ってあげよう。じき私は彼女を好きになる。好きになる、という表現は適切ではないかもしれないが、……どうでも良いや。私が彼女を好きになったように、あなたも彼女を気に入ってくれれば良いと思う。とりあえずは私の話を進めたい。

 

 

 特急列車に乗った私たちは指定席に座った。二人がけの席の窓際に彼女は私を押し込んで、彼女は通路側に腰掛けた。

 特急列車は私たちの街を置き去りにして加速していく。もはやどうにも戻らない日常がとおく後ろに取り残されて、すぐ見覚えのない景色だった。見覚えのない景色を過ぎれば、また見覚えのない景色がある。これから先ずっとそんな調子で進んでいくのだと思うと、私はどうにも心細くて胃が痛くなる思いだった。(そういえば、彼女と学生証を互いに折ったあの川のほとりのベンチに、私はリュックサックを置き去りにしてきた。大して高いものではないが、高校時代から気に入って大学の一人暮らしにまで持ってきた、お気に入りの黒いリュックだ。今もまだベンチの横に置きっぱなしにしてあるだろうか。それとも誰かが落とし物として届けただろうか。いちばん良いのはリュックを見つけた誰かがそれを気に入って、そのまま持ち去ってくれることだと思った。)

 彼女が車内販売の売り子を呼び止め、缶ビールを二本買った。私たちの旅費を入れた封筒から千円札を一枚抜き出し、それで支払う。

「もう酒を飲むんですか、それも二本も」

「そうよ、そんで一本はあんたのぶん。祝杯を上げましょうね。ビールで良かった?」

「……ついでに何かおつまみでもあれば嬉しかったですね」

「それもそうね、忘れてた。車内販売でものを買うのはあたし初めてだったの。緊張したわ。次に売りに来たときに買いましょう」

「車内販売には緊張して、学食で僕に話しかけたときは緊張しなかったんですか」

「どう思う?……ねえ、良いからとりあえず飲みましょうよ」

 それで私たちは乾杯した。私も彼女も、カンパイ、と声には出さなかった。プルタブを開け、しずかに缶を触れあわせ、それから一口目を飲んだ。

 車内は空いていた。私たちを除けばこの車両に乗客は三人しかいなかった。もしかしたら四人か五人くらいは居たかもしれない。私から見えたのは三人だけで、いずれにせよ車内は空いていた。(実際、彼らが何人居ようがどうだって良い。この話に彼らは一切関係してこないのだから。)

「それで、話を戻すけれど」、と私は言い、ビールをもう一口飲んで、続ける。「僕に学食でああやって声をかけてきたとき、貴女はどう思っていたんですか」

「まだ秘密よ」

「僕は知りたいです」

「教えないわ」

「でも、」

「ねえ、」と彼女は言って私を睨み、「あんた知らないだろうから教えてあげるけど、そういうことはもっと親しくなった適切な時分に訊くものなのよ。それかあたしが話したくなったときに勝手に話すわ。今はそのどちらでもないの。あたしが話を逸らしたり言葉を濁した時点であんたに察して欲しかったけど、駄目みたいだからはっきり言うわね。気安くあたしの内面に立ち入ろうとしないで。とくにあのときあたしがどう思ってたかなんてそんなどうしようもない野暮なこと、今後金輪際訊かないで。全然親しくもないあんたにあたしの感情なんて絶対教えたくないの」

急に豹変したように彼女は言った。(私には彼女の感情の機微がまったくわからなかったのだ。)私が取り繕うようにして、

「でも、……ねえ、……僕たち、これから一緒に逃避行する仲なんですよ!」

と言うと、彼女は冷たい猫のように、

「この逃避行の資金が尽きるまでにほんの少しでもあんたと親しくなれることを、あたし祈ってるわ」

と言った。

「僕も、そうなれば良いなって、思います」

「そう、それは良かった」

 それきり私たちは黙り込んだ。せめて車内が空いていることが救いだった。恥ずかしさで私は顔が真っ赤になった。(学食で彼女と出会ったときのように。) 私はビールを口に含んだが、羞恥ばかり大きくてもう飲めたものではなかった。

 列車は次の停車駅を告げて減速し、止まった。乗客の乗り降りは無かった。ふたたび走り出した列車は日常をますます遠く置き去りにした。

 

 

 彼女に話しかけられてからまだ数時間しか経っていないのに、私はドッと疲れてしまった。(私の置かれた状況もだいぶ変わってしまった。)

 彼女と私は黙り込んだままだった。私は車窓を眺めながらビールをチビチビ飲んでいて、飲み終わったころにふたたび車内販売がやって来た。彼女は売り子をふたたび呼び止め、ハイボールとスナック菓子を注文してから、「あんたは何にするの」と何事も無かったかのように私に訊いた。私は追加で酒を飲むような気分ではなくなっていたが、せっかく彼女が何事もなかったかのように振る舞ってくれたのだから、私も何事もなかったかのように、「レモンの缶チューハイをお願いします」と言った。逃避行資金の封筒から千円札を出して彼女が支払った。今度も黙って乾杯をした。

「こんどはおつまみ買ったけど、これで良かった?」

スナック菓子の袋を開けながら彼女は言う。そのまま彼女は、座席付属のテーブルの上に袋を置いた。

「ええ、ありがとうございます」

私がそう返事をすると彼女はスナック菓子を二つ、三つと食べてから、

「さっきからあたしたち、なんか退屈ね」

俯いてそう言い、またひとつそれを摘んだ。銀色のピアスが髪の隙間にかすかに見える。

「今日は僕にも貴女にも色々あって、疲れているから」

「まだ逃避行も一日目なのになんだか辛気臭いのね。……そうだ!(とここで彼女は私の方を向く、)景気づけに何かあんたの話をしてよ。あたしね、あんたの話を聴くのだけはそんなに嫌いじゃないから」

「僕の話ですか」

「そうよ!」

そう言って彼女はハイボールを飲む。あおるように飲んでいるから彼女の小さな喉仏の上下するようすがよく見える。白く華奢な首の内部にうごめくその器官は不釣り合いに思える。

 私は何を話すかすこし考えてから口にする。

「電車に乗るまえ、一週間大学をサボって旅行したことがある、って話をしたのは覚えていますか。そのときの話なんてどうでしょう」

「良いと思うわ。なるべく面白くなるように話してね。」

「ええ、努力します」

彼女の表情がすこしほころぶ。それを見て私も気分を取り戻す。

 私は話しはじめる。

「去年のちょうど今くらいの時期でした。まだ石月と仲良くなるまえで、つまり大学に入ってすこし経った、六月あたり、ちょうどそのころです。僕はもう大学に耐えられなくなりました。大学に居れば言わずもがな辛かったし、夜になれば息を吸うたびにまるで苦痛を吸っているような心地だった。

 何がそんなに辛かったの、と貴女は訊くでしょう。要するに僕はひとりぼっちだったんです。それがあの頃はたまらなく辛かった。いや、今だって僕はひとりぼっちなのですが、孤独に慣れきった今はまだマシです。大学に入学したばかりのころの、人並みに大学生活を送ることが出来ると信じていた挙句のひとりぼっちは、僕にはとりわけ辛かった。」

「今じゃあんたにはあたしが居るけどね」

「ありがとうございます。そう貴女が言ってくれるのが僕には心底嬉しいんです。……ほんとうですよ!」

「良いわ、続けて」

「ええ。

 高校までまるで華やかじゃなかった僕も、どうせ大学に入ってもなんにも有りゃしないさ、なんてうそぶいていた僕だけれど、心の底では或いは、なんて期待していたんですね。僕自身としてもそうだったし、僕の両親も祖父母もみんな、大学は楽しいところだ、なんて決まって言うものだから、それを聞いて知らず知らずのうちに、決して満たされることのない大学への期待を更に膨らませていたんです。……ねえ、ところで今思い出したんですが、入学を控えた僕に祖母がなんて言ったか、貴女知っていますか?彼女は言ったんです、『おまえは優しいから、大学で悪い女に引っかからないように気を付けなよ』って、そう言ったんです!それが今じゃこうですよ、貴女とこんな逃避行なんかしているんだから!まさか祖母も、僕が貴女ほどの悪女に捕まって了うとは想像だにしなかったでしょうにね!」

 これを聞いて彼女はクスクスと笑ってくれたものだから、私はしめた!と思い、話を続けた。

「それで、大学生活への期待のうちに僕は入学したわけです。今思えば新入生っていうのはずいぶんな厚遇を受けていたものですね。後悔先に立たず、なんて使い古された雑巾みたいな言い回しをしたくはないのですが、実際あのころは交友関係を広げる機会にたいへん恵まれていたわけです。それこそ大学の基礎クラスとか、一年生限定の運動会だとか、第二外国語のペアワークだって隣の人とある程度は会話するわけですし、部活やサークル団体だって新入生歓迎会をこれでもか、ってくらいやっていて、……そんな機会を、私はぜんぶフイにして、というのも僕は、人と話すのが、怖くて仕方なかった。今だって人と話すのは怖いけど(貴女は別ですよ、そもそも出会いからして唐突でしたからね!)、あの頃は人と話したりするのが、今よりももっと怖かった。それで私は、何やかんやあって、いや嘘です、何にもないままに、淋しさや辛さのうちにひとりぼっちの大学一年生六月を迎えたわけです。それこそ、全く、何もなかった。

 大学生活の孤独に僕がどれくらい絶望していたか、いくつか例を挙げて話すのが良いでしょう。たとえばあの頃、僕は信号機が憎かった。信号機が憎かった、なんて言っても何のことだかわからないでしょう。今から説明しますが、つまりね、これもまた僕の孤独に関わってくることなのだけど、大学に行けば、いや、大学の中だけではない、大学の行き帰りの路上にも、大学生が、大学生の集団がたくさんうじゃうじゃと居るわけです。貴女もご存知の通り、この街は(いや、もう『あの街』ですね)ほんとうに大学生だらけで嫌んなっちゃいますよね。それで、そんな不愉快な街に跋扈する彼らの合間を、僕は、どうやっても集団に混じれない僕は、ひとりぼっち、縫うようにして歩き去るわけですが、すれ違いざま彼らの会話が嫌でも耳に入るわけです。それは『このあとメシ食いに行こうぜ』だったり、或いは『サークルがほんとうに忙しくて』だったりするわけですが、そんな会話の断片が、ひとつひとつ、僕の心に、妙にキラキラとして鋭く突き刺さって、だって、貴女わかってくれますか、それは僕が望んでいた大学生活の断片でもあるわけだ!彼らが夕飯を共にしたりサークルに勤しんでいる一方で、僕はひとり冷凍食品を食べて眠るだけの生活なんだから、ああ!

 僕はね、彼らの会話を聴くのも、いわんや彼らの姿を見ることさえ耐えがたかった。あんな街では僕はまっすぐ前を向いて歩けやしないんです。だから僕は、僕の内面へと丸まっていくほかなくて、傷ついた心をいたわるように、俯いて、背中を丸めて歩きました。そうすれば大学生の集団を真っ正面から見ずにすむし、彼らの楽しそうな会話にだっていくらか耐えやすくって、しかし、そんな僕にも前を向くように強制する装置が路上にはたくさん置いてある。そう、信号機です。僕がどんなに打ちひしがれて俯いて街を歩いていようが、横断歩道に差し掛かれば信号機があって、信号機はこんな僕にも前を向くことを強制するんだ。前を見ろ、背筋を伸ばせ!……僕はそれが憎くて堪らなかった!せめて傷が浅くなるように、背中を丸めて俯いて歩く僕にすら、信号機は前を見て、赤では止まれ、青では渡れ、そう居丈高に命令する、その傲慢さが、僕には、たまらなく辛く思えたんです。もちろん今ではそんなことないですが、あの頃の僕はこういうわけで、信号機を心底憎んでいたんだ。貴女は僕を滑稽だと思いますか。しかし当時は切実だったんです。

 このころの僕と信号機を巡ってもう一つちょっとしたエピソードがあります。つまりね、僕は、淋しくて辛くてたまらない大学に向かうために、その日も家を出て歩いていたわけです。僕の家と大学のあいだには車線分離の大きな幹線道路があって、大学に行くためにはそこを渡らねばならないから、僕は赤信号を眺めながらぼうっ、と突っ立っていたわけです。それで、待っていれば信号なんて大抵いつかは変わるものだから、ご多分に漏れずその信号機も赤から青へと変わるわけですね。それを眺めながら、つまり、僕は、信号が赤から青に変わったのを目にしたにも関わらず、青信号を見ながらただ、突っ立っていたんです。信号が青に切り替わったにも関わらずですよ!僕はしばらくの間、ぼんやりと、青を見ながら、横断歩道を渡らずに、突っ立ったままでいた。と言うのもね、そのとき僕の内部では、信号の『青』と『横断可能』の意味作用の結びつきが分離しちまっていて、『青』が何を意味しているのか分からなくって、ゼブラにどうにも踏みだせなかったんだ。しばらくそうやって突っ立っていて、それから青と横断可能の意味作用の結びつきをハッと思い出し、急いで渡ろうとするのだけど、僕は渡りきれずに中州に取り残されちまった。一度で渡り切れるはずの横断歩道を意味もなく二回に分けて渡ったわけですね。へ、へ、へ!おかしいでしょう!あまりに馬鹿馬鹿しいことですが、そんなふうになってしまうくらい、当時の僕はどうかしていた」

「いいえ、あんた今でもどうかしてるわよ」

と彼女は口を挟んだ。彼女は続けて、

「ねえ、あんたわかってる?あんた一週間旅した話をするって言ってたのに、あんたが孤独だった話ばっかりしてんだから。あたしね、あんたの旅の話を聴きたいのよ。あんたがどれくらい淋しかったかとか、信号機をどう思ってたかとか、そんなことには見切りをつけて、そろそろ旅に出ても良い頃じゃない?」

私は彼女の言うことも尤もだと思い、続ける。

「たしかに貴女の言うとおりです!そろそろ旅を始めましょう!僕はね、僕の孤独をひとに聞いてもらおうとする段になると、言葉が溢れ出てきちまって、止まらなくなってしまうんだ。このことは石月にも悪い癖としてよく指摘されました。さあ貴女の言うとおり、旅の話に戻りましょうか。

 さて、旅の話に戻ると言っても、思い立ったその日に即旅行!とはいかないのが僕なんです。つまりね、孤独や講義の単調さに耐えきれなくなった僕は出奔を決め込んで、まず何をしたかと言えば、そう、旅先へ向かう飛行機の予約を取ったんです。みっともないことに僕は、時間割とにらめっこして、欠席してしまうと致命傷になりうるような講義を欠席せずにすむように日程を決め、飛行機を取り、そして大学から一週間(正確には五日とすこしですがね、)逃げて旅をして、ふたたび帰ってきたんだ。貴女からしてみればこんな旅、逃避のトの字にも満たない、ガス抜きにしか見えないでしょうが、あの頃の僕にとってはそうではなかった。大学を一週間サボって旅に出るなんてことは、仮令それが計画的な営みであったとしても、僕には重大な決断でした。大それた、日常との決別に思われた!」

 私たちを乗せた特急列車は暮れなずむ陽を浴び走り続ける。置き去りにされたあの街を眺めるようなとおい目の彼女に見つめられ、私はむかしの旅の話を続ける。

「飛行機の予約を完了した瞬間、僕は僕自身の心が言いようもなく軽くなるのを感じました!日常からの離反、決別、逃避行!あのときの僕にはその旅が大胆な逃避行のように思われて、心底うれしかったんです。これから僕は逃避行するんだ、しかもあと数日以内に!逃避行のさなかにはどんな心地がするんだろう、どんなに解き放たれて幸福に思えるんだろう。講義の途中で、或いは通学路で、先走ってそんなことを繰り返し想像しては、心をときめかせていました。

 こうなればもう、以前に僕を苛み続けた大学生の集団なんて気になりもしません。何故って、こいつらが日中、すし詰めの、息が詰まる大教室で退屈な講義を受けているそのあいだ、僕は日の光をいっぱいに浴びて逃避行をしているんだから!彼らが過ごすサークルも、彼らの晩飯も飲み会も何だ、僕なんて逃避行をするんだぞ!そんな気分だから、逃避行の二日前まで僕は、最高の気分でした。大学で僕が良い気分で過ごせていたのなんて、あの頃くらいのものでしょう。

 ところが、出発の前日にそんな素晴らしい気分は一転、地の底にまで落ちることになります。いや、とりわけ何があって、というわけではないのですが、要するに僕は旅の出発を翌日に控えて、旅の終わりをも先走って想像しちまったんです。それではなはだしく気落ちして、おかしいでしょう、旅に出る前から旅の終わりを考えてガッカリするなんて!でも僕はそういう性根の人間だから仕方がない。旅の前日、講義を受けながら僕は考えるわけです。明日からの逃避行の輝きが大きければ大きいほど、逃避行が楽しければ楽しいほど、私の日常の暗さや孤独がいやましに際立って、そんな光のような逃避行が終わり、またぞろ日常に帰ってくれば、希望に欠如したやるせない日々に一体僕はどうなってしまうのか、果たして生きる辛さに耐えられるのか、そんなふうに思い悩んで、意識を戻せば僕は講義室にいるわけですから、それでもう、耐えられなかった。大学生の集団も講義の退屈もこれ以上は御免だとでも言わんばかりに僕はその日、四限と五限を意味もなく放りだして帰りました。ただ座って講義を聴いているだけのことすら出来ないような心地でした。旅を翌日に控えて気分がおかしくなっていたんでしょうね。

 さて、ここからやっと僕が旅した話に入るわけですが、その前にすこしお酒を飲んでもいいですか。話し続けて喉が渇いてきたから」

「ええ、どうぞ。あとお菓子も食べなさいね。あんたの話は悪くないわよ、続けなさいね」

彼女はほとんど慈しむように私を見ていた。それが私にはたまらなく嬉しかった。

 私は缶チューハイを飲み、スナック菓子をいくつか食べ、もう一度缶チューハイを飲んでから、旅の話を続けた。

 


 ……さて、ここであなたに思い出してほしいのだが、私と彼女はいま、『ほんものの』逃避行をしている最中であった。大学も将来も何もかも投げ捨てて行く、目的地を欠いた、『ほんものの』逃避行の過程として私たちは特急列車に乗っていたのだった。そんな逃避行を書くにあたり、畢竟肝心なのは列車の中での私の物語ではなく、私たちの行く末、『ほんものの』逃避行の成り行きとその顛末ではなかろうか。少なくとも私はそう思う。だから私は話を本筋に戻したい。私の『にせものの』逃避行ではなく、彼女との『ほんものの』逃避行を物語ろうと思う。結局大学に戻ることになる私の一週間の逃避行など、所詮マガイモノ、日常のガス抜きでしかなかったのだから。

 私は彼女のことを語りたい。彼女のこと、彼女との逃避行について語りたい。だからあなたに語ってあげよう。(あなたは私の『にせものの』逃避行になぞ興味を持つ必要は全く無いのだ。)

 

 

「……それで僕は旅の仕上げを断念し、代わりにすこし療養所で休むことになりました。まったく元気だったのに、先生は私が旅を続けるのをどうしても許してくれなかった。それに、旅を途中で投げ出して休むのも、まるきり嫌ってわけではなくて、つまり海沿いの綺麗な処だったから、真っ白なカーテンがはためいて、真っ白なシーツ、清潔なベッドに身を起こせば、水平線が望めます。すこし窓に近づけば階段の下に砂浜が見えて、砂浜を二、三十歩もゆけば青い海です。患者は僕以外、誰も居ませんでした。

 考えごとしながら歩いていた僕のせいでもあったのに、先生はまるで先生自身ばかりが悪かったように言うんです。決して僕を責めようとはしなかった。滔々とくり返される詫びごとを、最初こそくすぐったいような嬉しいような心持ちで聴いていました。

『なんなら二日と言わず一週間、二週間でも居てくれれば良い、予後が急に悪くなったらいけないから。いやはや私のせいで心底申し訳ない……』、云々、先生は言い続けるから、僕はそのたびに、じき大学に戻らなければならないことを告げる。すると先生は目を丸くして、『ああ、そうだった、そうだった!いやはや学士様にかえすがえすもとんでもない失態を、この度は私の全き過失で……』、云々、とまた続く。しばらくは苦笑いして耐えていたが、それこそ延々と続くから、しまいには僕は厭んなって、どうかそんなお気になさらないでください、散歩をしてきます、と言ってベッドから立ちました。先生がオロオロして『アア急に立ってはいけない!お散歩なら私が付き添って、』とか言うのを遮って、僕は病院着のまま砂浜に下りました。

 昼下がりの初夏の晴れた日で、浜辺には誰も居ませんでした。そうして僕の足跡ばかりが砂浜に続くんです。病院着まで真っ白だから、まるで白昼夢の幽霊かなにかみたいだな、なんて楽しい空想にふけりながら、僕は浜辺を歩いたり、立ち止まって貝のかけらを拾ったりしました。もっとも、療養所から離れていこうとすれば、先生が大声で、『遠くまで行っちゃいけませんよ……!』って僕を呼び戻すから、診療所の前ばかりでうろうろ歩き回っていたわけですがね。

 そうやってうすぼんやりと、気持ちよく散歩していると、頭までふやけたようになってゆき、つまり僕は、誰も居ない道路に明滅する信号機の気分になるんです。(僕は信号機を憎んではいたが、たとえば車も歩行者も誰も居ない道路の赤信号の点滅なんて、これはたまらなく愛おしい。過去も未来も持たないようにひとりぼっちで明滅する信号機、単純な、ある種の、淋しい現象!) 僕は僕自身が単純な機械であることをボンヤリと直観してゆきました。歩くだけの至極簡単な機械です。そんな純粋な機械のように歩いていれば、水で洗ったようにして、降り積もった埃も澱も、あわいから流れ去ってゆくんです。僕の思い出も、後悔も、それから孤独も、私から離れてさらさらと砂浜に溶けていくようでした。海の音と砂を踏む音ばかりが頭を占めて、かすかな発汗も心地よい。大学生活も逃避行も霞んでいって、あるのは白い浜辺に現在だけの、機械としての、或いは風が吹くような一現象としての僕なんです。日常から、逃避から、とおく隔たって、それでまったく満たされていました。海の音が繰り返し聞こえて、」

と、ここで列車のアナウンスが入った。じき終点に着くという。終点に着いたならば列車から降りなければならない。私は話の腰を折られて不満だった。

「一旦ここまでにして降りましょう。悪くなかった。あんたの話ね、とっても、……悪くなかったわ」

彼女は歯切れが悪そうに言う。

「ええ、……そうやって貴女が喜んでくれるのが僕は嬉しいです」

私は私の話の感想をもっと聴きたいと思うが、それを言葉にはしなかった。

 私は彼女の目を、顔を見る。彼女のピアスが髪の奥に揺れている。電車が減速しはじめる。

 彼女は逡巡し、それから、覚悟を決めるようにして、私に言った。

「……あたしね。今ならあんたに言ってもいいと思うわ。その、茶化さないで聴いてね。学食で最初にあんたに話しかけたとき、ほんとうはあたし緊張していたの。いいえ、『ほんとうに』緊張していたのよ。」

それが、私たちが特急列車に乗ったばかりのときに交わした会話の回答だと理解するまでに数瞬かかった。理解して、それから私は意外に思って、彼女に言った。

「そうだったんですか!そんなふうには全然見えなかったですよ、貴女は僕を罵るような調子だったでしょう。あれは、……あれは緊張していたんですね!」

「ええ、そうよ!あたしとっても緊張していた!それをね、恥ずかしいのをこらえていま、あんたに教えたのよ。……だからね、あたしたちが会ったときの話をするのはこれきりおしまいね。ねえ、あんた、もう二度とこの話をしないって約束してくれる?

 あたしね、あんたに言わなくちゃいけない、ってそう思って言ったのよ。ほんとうは会ったときにどう思ってたかなんて、あたし教えるつもりなかったの。だからね、もうこの話はふたたび蒸し返したりしないって、あんたきっと約束してね。あたしね、恥ずかしいのをこらえて、あんたに教えたのよ」

そう言って彼女はほんとうに恥ずかしそうに目を伏せるから、私は彼女に恥じらいなんて感情があるのが心底意外で、それ以上に、いや、それも相俟って、私は彼女を愛おしく思いはじめていた。

「ええ、約束します!約束しますとも!僕はもうふたたび学食を忘れましょう!」

そう私が言うのを聞くとすこしだけ微笑み、

「さあ、降りるわよ」

と言ってから、彼女は残りのハイボールをいちどきに飲み干した。(照れ隠しのような調子だった。) 私も彼女にならって缶チューハイを飲み干そうとして、しかし持ち上げるとずいぶん中身が残っているから、飲みきれそうにないようで、ハテどうしたものかとまごついていると、「あたしがそれもらうわね」と言うが早いか彼女はそれを奪い去り、たちどころに飲み干してしまった。(彼女のちいさな喉仏が上下する。)

「そんな飲みかたをしていたら中毒になりますよ」

半ば呆れながら私が言うと、彼女は肩をすくめて言った。

「じきにあんたもわかるわよ」
 

 

 特急列車を降りて夜だった。私たちは駅を出て、並んで街を歩いていた。

「糸ようじみたいな月ね」

見ると細い三日月だった。

「毛抜きでピッと抜いてしまいたい月ですね」

「月にずいぶんな言いようね」

「なに、貴女だって。」

 私たちは気分良く酔って歩いていた。

 

 

 

後半はこちら

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