かえる作文帖

小説(掌編・短編)や随筆などを書いています。読んでくれると嬉しいです。

市役所経由のバス(掌篇)

『市役所前』でバスは停まらなかった。

冬の朝だった。足元のヒーターと晴れた日差しで温まった、いつもどおりのバスの車内の、しかし誰ひとりとして『市役所前』で降車ボタンを押しはしなかった。車掌は「市役所前、通過します」と低く告げ、そうして私が降り立つべきバス停は横目にとおく過ぎ去った。

数ヶ月前から、或いはそれよりももっと前から、労働の日々がひどく億劫だった。職場の前でバスを降りることすらひとつの気苦労に他ならず、『誰かが降車ボタンを押してくれるんなら仕方がないから仕事へ行くし、誰もボタンを押さないならばそれはそれで構やしない、いっそそのままどこまでも』、と、付き合いの長い一種の破滅願望を抱きつつ座っていたら、今朝ついに誰も降車ボタンを押さなかった。

とうとう職場のバス停を無視して、それで何の感慨もなかった。ボンヤリと車内へ目を向けると、(空席の目立つ下りのバス、)『市役所前』が目的地である筈の見慣れた後ろ姿がそこここにあって、スーツやらオフィスカジュアルの彼らがしかし、一体何を考えているのか、私にはまるでわかりはせず、或いは私のように労働がうっすらと厭になっちまって久しいのかもしれない。茫漠とした気だるさの連帯したようなバスの車内で、ただ唯一、今年の春からこのバスで通勤しはじめたらしい新入職員の茶髪だけはキョロキョロと、かき回すように辺りを見まわしていた。(彼だけは未だ生活に押しつぶされていないようだった。)

振り返った茶髪は私の視線を捕まえると、食いつくように、

「あの、今日なんかあるんですか。どうして誰も市役所前で降りないんですか?」

と訊ねた。(バスの車内だというのに、ずいぶんよく通る声だった。)

とくに何があるわけでもない、ふつうの平日だよ、と彼に告げると、

「じゃあどうして先輩は、……同期じゃないから先輩ですよね?、先輩はどうして降りないんですか。いや、先輩どころか、皆さんどうして降りないんですか」

私もそうだけれど、きみはどうして市役所前で降車ボタンを押さなかったの。

「……恥ずかしながらおれは、自分でバスの降車ボタンを押したことがないんです。帰りもいつも駅まで乗るから」

それなら今から降車ボタンを押せば良い。つぎのバス停で降りれば、定時には間に合うんじゃないかな。スマホも持っているんでしょう?

私がそう言うと茶髪は一瞬逡巡したのちに、エイヤ、と降車ボタンを押した。「次、止まります」と車掌は告げ、じき『本町外れ』に停車した。

茶髪はバスを降りる直前、料金箱でicカード決済を済ませたあと、私のほうをクルリと見返し、「先輩は降りないんですか!」と大声で言った。私は彼にヒラヒラと手を振って、加えて車掌も「発車しますから早く降りてください」とやってくれたものだから、すごすごと茶髪は降り立って、バスはふたたび発車した。(茶髪は降車するや否や、スマホを片手に進路とは逆方向へと走っていった。)

……今やバスは市街地からとおく離れつつあった。次は坂下、次は浅間神社前、と、誰も降りないバス停を次々と通過しながら、対向車すらあまり無いような道だった。深山とかいうバス停で、背中の曲がった老婆がひとり降りていった。それでまたバスは発車した。

倦怠以外の何物でもなかった。誰も新しく乗り込まず、ほとんど誰ひとりとして途中で降りやしないその車内で揺られているのはきっと、私のようにどうにも日々が億劫になったせいで、ついぞ降車ランプを押せなくなってしまった勤め人どもの群れだった。終点まで揺られる早朝の亡霊。今さら降車ボタンが何だというのか。

早朝の実感が薄れてきたころ、バスは海沿いの道へと抜けた。始発のバス停からの運賃は優に二千円を超えていた。更にいくつかの停留所を無視してから、バスは海岸前で停車した。

亡霊の旅路は終わった。終点に着いてドアが開き、しかしすぐには誰も降車しようとはしなかった。しびれを切らした車掌が『終点です、降りてください』とアナウンスするに至ってようやく、思い出したように皆ポツポツと下車していった。

海岸のバス停に吐き出された私たちは、ゆっくりと、ひとりずつバラバラに散っていった。誰にも行くあては無いようで、また誰ひとりとして口を開こうとはしなかった。私は道路沿いをすこし歩いて堤防を上り、海へ向かって腰掛けた。

スマホを見ると、着信が5件とsmsが3通入っている。いずれも職場からだった。私は、……もし私が痛快なフィクションか何かの主人公ならば、このまま携帯を折ってしまって、そのまま海へと放擲するだろうと思った。それで私は携帯を海へ捨てることも出来ず、かと言って職場へ電話をかける気にもならなかった。

目の前には海があって、時間は未だ朝だった。……何をする気にもなれない私は、しばらくはただ海を眺めているほかなかった。

悪趣味な遊び(掌篇)

エッちゃんとサチがいつものように通りすがりの中年おやじを馬鹿にして遊んでいると、とうとう一人の逆鱗に触れた。そいつだって最初はほかの気弱な中年連中と同様に、私たちみたいな生意気な女子高生になす術もなく、怯えたように歩き去ってゆくばかりだったのだけど、しょぼくれて足早に離れゆく背中にサチの煽り文句、「そんな惨めな中年なのにどうして自殺しないんですかぁ?」とかいうそれが、どういうわけだか深く突き刺さってしまったらしい。急に踵を返した中年の顔はすごい形相で、吠えながらこっちにやってくる。怨嗟の叫びは言葉になって、

「聞きたいか! おれみたいな醜い、おしまいのような中年、先の見えきった中年が、それでもなお首を括らずに生き続けている理由を、お前ら、小娘ども、教えてやろうか!」

怒髪天の中年とは対照に、エッちゃんとサチはあまりに軽やかだった。ヤバいヤバい!、おっさん来たよ!、ってはしゃぎながら、小狡いネズミか何かのように、あっという間に逃げていった。けれども私がその逃走の群れに加わらず、それどころか立ち尽くしたまま動かないでいるのに気がつくと、ふたりの嬌声は悲鳴に変わった。(ユキ!、何してんの! キレたおっさん来てるよ!) 中年は私のすぐ目の前までやって来た。人気のない道の、とおく離れた安全圏からエッちゃんとサチが叫んでいる。

中年は、お前か!、と一声あげて私の両肩を掴み、前後に私を揺さぶって言う。

「お前か! 小娘、おれを馬鹿にしたお前ら小娘に、おれが! おれみたいな惨めなのが、お前らのような女子高生からしたら虫けらほどの、糞虫にも劣るこのおれが、便所虫が、どうして惨めたらしく生き続けているのか、教えてやろうか! ああ!」

真っ赤な顔してそう叫ぶ中年に、私は、

「ええ、教えてください」

かれの目を見ながらしずかにそう言うと、瞬間、中年の思考は化石したようだった。中年は私の両肩を握ったまま、私を前後に揺さぶるのをやめ、

「ええ、ああ、……教え、……知りたいのか?」

「はい、聞かせてほしいんです」

中年は私の肩から手を離し、呆けたように私を見ている。

「ああ、……そうか。ええと、」

エッちゃんとサチの声はすでに聞こえなくなっていた。私を置いて行っちゃったんだろう。薄情者め。

 

どうして首を括らずに惨めな生涯を続けているのかと訊かれれば、首を括るだけの覚悟がないためと言うほかなかった。いま同様に惨めであった大学時代、だが今よりは若くはあったあの時分、首を括ろうと本気で試みたことがあったが、ロープに首を通すところまでは行ったものの、最後の一歩が踏み出せずにやめた。ならいよいよ首を括る覚悟が出来るまでは生きてやろうと、こんなしょうもない生涯を我慢して続けているうちに、踏ん切りがつかないまま今に至ってしまった。こんな惨めな、醜悪な中年になるまで生き延びるつもりは毛頭なかった。だのに首を括る覚悟は今なお持てずにいる。あまりに惨めなこの生涯の、おまえらの言う通り、おれはあまりに惨めな中年だ。

そうやっておれの生涯があまりに惨めで畢竟続けるに値しないものであると自分自身でも判っているにも関わらず、おまえの友だちの小娘ども、品性も知性も美しささえ持ち合わせていやしないのに単に若いというだけであれほどまでに傲慢な、不愉快極まる連中に、とうとう我慢が効かなくなった。おれ自身この唐突な情動をハッキリと理解しきれずにいるんだ。(……ああ、おまえはあの連中と一緒に居ただけでおれを大して罵倒せず、それなのにおまえの肩をあんなにも強く握ってしまって、あの小娘どもと同列のようにおまえを憎んで、まったく済まないことをした。)

この歳まで首を括れずに来てしまったおれにも、ひとつの別の死が訪れつつある。或いはおまえらに感謝するべきかも知れなくて、と言うのもじきにあの不愉快千万なオトモダチ連中が、警察を連れて戻ってくることだろう。それでおれの『まともな!』生涯は終わる。おれは無垢で無実な女子高生に掴みかかった卑劣感に成り下がり、……いや、しかしおまえの肩を握っただけではおれの死まではいささか遠い。なあ、おまえはそうは思わないか?(おれを見るおまえの目は黒く美しい。) 単におれはおまえの肩を握っただけで、これではあまりに執行猶予だ。留置所、いや拘置所で、或いはそこでのお勤めを終えてから、おれが全き卑劣漢として、いよいよ八方塞がりの首を括る覚悟を決めるためにも、もし嫌でなければおまえ、おまえはきっとおれのため、惨め極まる中年の社会的自殺のために、ほんの少しだけ協力して、今からおれがお前になす不愉快を我慢してくれないか?

おれがそう訊くと、目の前の少女はエエ、構いませんよと、いとも涼しげに言ってのけた。この黒髪の、長い髪でひややかな目の少女は、……しかし、彼女がどういう積りなのか、おれにはまるでわからなかった。

 

 

中年の言うとおり、じきエッちゃんとサチは戻ってきた。とおくから何度も私の名前を呼びながら、警官を連れて走ってくる。

「来ましたね」

「ああ。それじゃあ、ごめんな」

そう言って中年は私を抱きすくめた。(よれよれの上着とシャツの、濡れた犬のような匂い。)エッちゃんとサチは悲鳴だった。警官も怒号をあげている。

「これで良いんですか」と、中年の胸でモゴモゴと言うと、

「いや、もっと明白にやっても良いかい」

「構いませんけど」

それを聞くと中年は私の抱擁を解いて、私の頭を両手で掴み、貪るような口吻をした。(瞬間、エッちゃんもサチも警官も息を呑んで、時が止まったようだった。)ふたりの顔がひとつになってしまいそうな烈しい口吻は、警官がかれを引き剥がすまで続いた。

 

今や中年は警官に押さえつけられて地面の醜いひとかたまりだった。歪んだ顔を真っ赤にして、何やら大声でわめいている。サチは地面にへたり込んで、大泣きしながら、ユキごめんね、ユキごめんねと繰り返す。エッちゃんは幾度も私に何かを言いかけ、そのたび言葉が出てこない。

「死んでくれればいいんだよ」

私がそう言うのを聞くと、サチの泣き声はいっそう大きくなった。エッちゃんは、そうだね、あんなクソジジイ、死んじゃえば……、と語尾も不明瞭に呟いた。

「ほんとうに、死んでくれたら良い」

盲腸で入院した話(随筆)

つくづく自分がなるとは思いもしなかったものにおれはずっとなり続けている。こんなにも惨めな25歳になっちまうとは思っていなかったし、公僕として働くことになるとも思っていなかった。いわんやこのあいだのように盲腸で入院することなんて想像だにしていなかったわけで、要するに、今日は盲腸で入院した話を書いてゆきたい。盲腸で入院した体験談がインターネットにひとつ増えたところで誰かを脅かしはしないだろうし、何ならひとつの症例として多少有意義ですらあるだろう。……しかしこれは何の言い訳だ? おれの書くものが誰かにとって有意義かどうか、そんなのはおれの知ったところではない!

それでは何のためにお前は盲腸で入院した話などというケッタイなものを書くのか?、と諸氏はおれを問い詰めるかもしれない。なぁに、簡単な話、少し前に退院後の検診を終え、ようやく飲酒が解禁されたものだから、こうやって良い気分で酒を飲みつつ、盲腸をめぐる思い出を辿り直すことを、またそれについて書くことを酒の肴にしているだけのことだ。

Q.盲腸のような不愉快な思い出を肴に酒を飲めるものなのか? A.もちろん盲腸の手術前や手術後すぐの期間は全き苦痛に他ならなかったが、そもそも大概の出来事は思い出として想起するならばたとい苦しんだ記憶であろうと懐かしさのうちに霞んじまってなんだか悪くないもののように感じられるし、それに、手術後しばらく経ってからの入院期間はどちらかと言えば労働の日々のうちに不意に現れた幸福な安息期間と言ってしまっても良いくらいで、幼年期の思い出を懐かしむように、甘美な、帰らぬ日々、その麗しき薫風の、……何だって良いや。前置きも御託もどうでも良い。以下に盲腸の発症?、から手術入院、そして退院までの思い出を書いてゆくつもりだから、おれが気楽に書くように、諸氏も気楽に読んでくれれば良い。

 

*盲腸の発症?について

唐突な激痛! というわけではない。少なくともおれの場合は違っていた。

或る木曜日、職場で昼飯を食ったあと、妙に腹の調子が悪かった。職場で食う昼飯なぞが消化に良いはずないのだから、腹の調子が悪いのはいつも通りのことなのだが、その日の腹痛はいつもとは違っていた。腹が痛くて雪隠に行けば普段なら何らかの解決を見るところ、その日は一向に解決に辿り着く気配が無かったのである。雪隠に行っても何も出ないし、かと言ってただ我慢していても調子の悪さが全く引かない。こいつは妙だ、もしかして盲腸にでもなっちまったか?、などと冗談めかして考えているだけの余裕が、しかしその頃にはまだあった。

定時退勤で帰路につく時分になってもまだ痛かった。腹がずっと鈍く痛んでいるのに雪隠に行っても何も出ない、そんな状況が優に何時間も続いていて、いよいよおかしいと思いつつ、帰りのバスに揺られながら、しかしまあ家に帰って酒でも飲めばどうにかなるだろう、たとえば風邪気味の日にだって酒を飲めば何とかなってきたように、この腹の痛みだって飲酒で紛れてくれるだろう。そう考えながら、痛みは相も変わらず恒常的に続いていた。

おれの腹が痛もうがバスはいつも通りに運行される。最寄りのバス停から徒歩で家に着き、風呂に入って晩飯を食い、それからおれは頼みの綱、百薬の長たる酒を飲んだ。さて結果は? ……第三のビールを一本と、レモンの酎ハイを一本飲んだが、微塵も効きやしない!

こうなってしまえばどうしようもない、万策尽きちまっているのだから、平日の僅かな自由時間を切り捨てるように、早々に眠っちまうほかなくて、午後七時過ぎに整腸剤を飲んで布団に入り、眠ろうとするおれに対し、盲腸がその本領を見せはじめた。

平坦な痛みが、ほとんど平坦なまま、徐々に痛みの強度を増してゆき、たとえば腹を下した時なぞは体勢を変えたり腹を温めることで痛みを多少はマシに出来るところ、この痛みはどんな体勢をとったところで微塵も苦痛がマシになりやしなかった。痛む場所こそときおり変わるが、痛む強さはほとんどずっと同じ調子で、そんな痛みが、少しずつ、少しずつ強くなってゆく。(痛みが弱くなることは決してない。)報われることのない無駄な寝返りを何度も打ちつつ、おれはようやく気がつきはじめて、曰く、どうやらコイツは『マジで』尋常な腹痛ではない。何ならほんとうに盲腸か、或いはそれ以上の何ものかだろう。いずれにせよ苦痛が我慢の閾値を越えはじめたものだから、夜の九時過ぎ、普段着に着替えて近所の救急外来へ赴いた。

 

*病院(一軒目)の話

救急外来の待合室で待たされている間にも変わらず痛みは増していった。あまりに痛むものだから、じっと座っていられずに、立ち上がったりうずくまったりしつつ、ほんのわずかでも痛みがマシになる体勢を探していた。それで結局、椅子の座面に膝を乗せ、背もたれに逆向きにもたれかかるような格好に落ち着いた。(この頃には既に、お行儀良く座っていられるだけの心身の余裕が無くなっていた。)

苦しみのさなか、待ち時間もずいぶんと長かったように記憶している。三十分だか一時間だか、どれほどの時間を待っていたのか、正確なところはわからないが、おれ以外誰ひとりとして居ない待合室で、苦痛に呻きつつお医者様から呼ばれるのを待ちながら、待ち時間の終わりの予兆が一向見えてきやしないことが辛くて堪らなかった。何たって受付番号もなければ他の客のひとりすらも居ない、一切の目安が無い夜の病院だ。暖色の照明がかえって寒々しい空間で、徐々に増してゆく腹痛と、終わりの見えない待ち時間に、おれはもう、どうにかなってしまいそうだった。しかし幸いにもおれが発狂してしまうよりも先に医者から声をかけられて、待ち時間は終わってくれた。待ちに待った診察の時間だ。それで、腹を透視する写真やら触診やらその他何やらを経た挙句、ようやく盲腸(正確には虫垂炎か?)の診断が下りた。診断がおりて、それで苦痛が微塵も和らぐわけではないが、盲腸だとハッキリしたなら話が早い、不愉快極まりない盲腸を、さあ今すぐにでもおれの腹から引きちぎってくれ!

ところがそう話は早く進まない。お医者様の言うところでは、この病院には盲腸手術の設備が無いもので、云々云々、要するに、紹介状を書いてやるから今日は一旦家に帰り、明日また別の病院に行ってほしいとのこと。冗談だろう? 勘弁してくれよと思いながら、怒る気力も絶望する気力も失せていて、単にもうハイ、ハイ、と先生の言葉に頷きながら、腹が痛くて堪らなかった。

盲腸が痛くて病院に来た人間をそのまま帰すわけにもいかないから、盲腸を『散らす』点滴を病院でやって、それから痛み止めを土産に持たしてやるという。この点滴でだいぶん楽になる筈ですから、とお医者様は言っていて、結局これはほとんど嘘だったのだが、事前にそれを知り得るはずもなく、蜘蛛の糸、藁にも縋る心持ち、その霊感あらたかな点滴を受けるためにおれは、看護師の押す車椅子に乗って、診察室の隣の部屋のベッドへ移動した。ベッドの上に横になり、点滴を受ける前に、吐いた。

まずいです吐きそうです、と言うおれのもとへ、看護師は急いで小さいバケツ?、を持ってきてくれて、ベッドの上で惨めな虫のようにうずくまりながらおれは、泣きながら吐いた。酒の飲み過ぎ以外で吐くのは初めてのことだった。

(余談だが、盲腸の苦痛のさなか、吐いているときはほかの時よりも楽だった。というのも、吐く直前や吐いたあとのわずかな時間だけは、どういうわけだか盲腸の痛みがスッと引いてくれるものだから、これ以降おれは何回か吐くことになるが、こみあげる嘔気は盲腸の苦痛を少しの間だけ遠ざけてくれて、もちろん嘔吐は気持ちの良いものではないが、嫌悪感よりも有り難さのほうが大きかった。(尤も、吐いてから少しすれば盲腸の痛みは執念深い蛇のように何度も戻ってきて、おれをキリキリと締め付けてきやがる。辛くてたまらなかった。))

吐き終わってから針を刺し、盲腸を『散らす』ための点滴を受けた。盲腸を散らす点滴を受ければ楽になる、というお医者様の話をおれは信じていて、期待しきっていたものだから、しばらく点滴を受けていても苦痛がほとんど引かなかったときには泣きたいほどだった。何十分かあと、効かなかった点滴の針を外して、それからおれはふたたび吐いた。点滴よりも嘔吐のほうがよっぽど腹痛を遠ざけてくれた。

鎮痛剤『カロナール』を3回分と、別の病院への紹介状を貰い、おれは家へと帰された。家に着いてからまた吐いた。

盲腸がこんなにも辛いものだとは思っていなかった。

 

*病院(二軒目)で手術するまでの話

七転八倒の苦痛のうちに夜は更けていった。長いことのたうちまわったあと、点滴が時間差で効いてきたのか、或いはカロナールが効いたのか知らん、そのうちに眠りに落ちていた。(尤も夜中に何回か目覚め、便所にえずきに行っていた。)

翌朝、目が覚めて驚いた。どういうわけだか、あんなにも痛かった腹が今ではほとんど何ともない! 心底ありがたい気持ちで部屋を出て、アアこれは熱のふらつきだ、と体温を測ると39度を超えていた。(嘔吐にしろ高熱にしろ、別の苦痛を感じていると盲腸の苦痛は引っ込むらしい。照れ屋さんなのだね。)

どれほど調子が悪かろうが家で寝ているわけにはいかない。盲腸をサッサとちぎり取ってもらう必要があるのだから、紹介状を書いてもらった病院へ、高熱のうちに赴いた。ここからがまた長かった。

まず、発熱のせいでコロナやインフルエンザの検査を受ける羽目になった。鼻に棒を突っ込まれ、結果が出るまで1時間ほど椅子に座って待っていてくれという。高熱が出ているときにジッと椅子に座っているのはほんとうに辛い。おれが頭を抱えていると、見かねた看護師がおれに点滴を刺してくれた。点滴をしていると熱の苦しさが幾分マシになってくれて、ボンヤリと待っていられるだけの気力が戻った。そのうちに検査の結果が出て、コロナやインフルエンザは陰性だという。第一段階クリアというわけだ。

それからおれは第二段階、つまり他の患者に混ざりつつ、X線やら肺活量やら心電図やら、盛りだくさんの検査を受けさせられることになった。ひとつ検査が終わればまた次の検査室へと移動する必要があり、また検査ごとにそれなりの待ち時間が伴った。熱で辛いのに横にもなれず、慣れない点滴スタンドとともに、何時間ものあいだ病院内スタンプラリーを強要されるのは、ちょっともう、勘弁してほしかった。熱のおかげで腹痛が引いているのは幸いだったが、言わずもがな熱そのものだって苦痛だった。

結局、全ての検査を終え、主治医の先生と話す段階に至るまで、4時間強の時間がかかった。

平日の13時過ぎだった。本来なら職場に居るはずのおれは病院の診察室に居て、いち患者としてお医者様と向き合っている。奇妙な夢のようだった。

先生はX線だか何だかの写真を見せながら、おれの盲腸について話してくれたが、写真を見ても話を聞いてもほとんどピンとこなかった。(そもそも熱で朦朧としていて、説明を聞くどころではなかった。)それから先生は、きょう手術したほうが良いと思います、とおれに告げた。ほかにも盲腸を『散らし』た後に手術する方法もあるらしいが、盲腸をうまく散らせずにかえって悪化した状態で手術なんてことにもなりうるという。先生が今日手術したほうが良いと言うならばそれを受け入れるほかない。だからおれも、今日手術でお願いしますと言った。それを聞くと先生は、わかりました、と言った。

そこからは事はわりあい早く進んでくれた。看護師に手伝われながら病衣(手術着?)に着替え、10枚ほどの書類にサインさせられて、それから手術開始の時間を待つため、おれ専用の病室へと連れてゆかれた。(感染症対策だか何だかで、入院後の何日かは大部屋ではなく個室での入院になるとのことだった。ひとりで居るのが好きだから、しばらくの間だけでも個室で入院できるのは嬉しかった。)病室には自分のためのベッドがある。ここでようやくおれは、長かった検査やら診察やらの何もかもを終え、横になってひと休みするに至ったのだ。

 

*手術前後の話

休んでいるあいだ、病室に来た麻酔医や看護師から色々と説明を受けたはずだが、熱で朦朧としていたから、聞いた話の内容を今ではほとんど覚えていない。横になったまま手術の時間を待っていると、別の看護師が来ておれを呼んだ。また何かの説明かと思っていたが、手術の準備が整ったという。(やっとおれの身体の中から不愉快な盲腸を引きちぎってくれるらしい!)手術室まで車椅子で押してゆこうかと訊かれたから、お願いしますと応えた。熱に加えて腹痛も幾分戻ってきていたものだから、もはや立って歩ける心地ではなかった。

廊下、エレベーター、廊下、手術室。初めての手術だが緊張も何もありはしなかった。おれがやることなんてなにひとつなく、眠っているうちにすべて終わっているのだから。(或いはふたたび目覚めないなんてこともあるのかも知らないが、眠っているうちにおれが死んでいるなら、そんなことはおれの知ったことではない。)とにかく、腹痛と高熱の原因たる盲腸を、一刻も早くおれのなかから取り去って欲しかった。

手術台に乗せられ服を脱がされて、全身麻酔の呼吸マスク?、を口にあてがわれた。おれは不眠がちだから、もし全身麻酔がうまく効かなかったらどうしよう、或いは不完全に効いて手術中に目覚めるなんてことになっちまったら……、などと不安に思っていたが杞憂だった。医者は「眠くなってきますよぉ」などと言っていたが、おれは一切眠くならず、つねと変わらぬ意識のまま、唐突に、三呼吸目で気絶した。

 

終わりましたよ、と声をかけられ目が覚めた。先ほどと同じ手術室だった。終わったのか。生きている。無事に手術が終わったようだ。無事かどうかはまだわからないのか? ……どうだって良いや。とにかく盲腸はおれの中から取り去られたらしい。

おれが横たわっている台、手術台?、がガラガラと動きはじめた。看護師らが運ぶ手術台に仰向けになったままおれは手術室を出て、廊下、エレベーター、廊下、そして個室の病室に着いた。ここでヨッコラセ、とおれを持ち上げ手術前に寝ていたベッドへ移すのか、などとボンヤリ考えていたところ、なんと手術台がそのままベッドの位置に収まった。『手術台だとおれが思って寝ているコレは、どうやら病室のベッドらしい!』ずいぶんと気が利いていてありがたかった。

腕に点滴があるのは言わずもがな、尿道には管が入っていて、口には酸素マスクをあてがわれていた。心電図用のシールも貼り付けられていたかも知れない。時刻は18時前だった。スマホを触っても良いですか、と傍らの看護師に訊くと、構いませんよ、とのことだから、しばらくはスマホをいじって過ごしていた。こんなものなのか、と思った。(ただ尿道の管だけは異質だった。身体をすこし動かすたびに、意志とは関係なしに管を通して尿が出てゆく感覚がある。まるで漏らしているようで、気分が良いものではなかった。)

酸素マスクも尿道の管もその日のうちに取り去られた。確か夜の22時過ぎごろに、さっきの看護師がもう一度やって来て、これら二つを取ってくれた。酸素マスクを外すのは至極簡単なことだったが、尿道の管を抜くのは苦しかった。息を吸って、息を止めて、息を吐いて、の息を吐くタイミングで管を抜いてくれるのだが、管を抜いている最中、おれの吐息は苦痛混じりの呻き声でしかなかった。(血だって混ざっていたろうと思う。)

管が抜ければ点滴のスタンドと共に自由に外を出歩ける。看護師が、すこし歩いてみましょうか、とおれを消灯後の廊下へと連れ出した。身を起こして立ち上がると、よっぽど酷い体勢で手術をされていたのか知らん、肩の周りがひどく凝っていて痛かった。

暗い病院の廊下を看護師と一緒にエッチラホッチラ歩いて自販機の前に辿り着き、お茶を買った。(手術後は歩くのも一苦労だった。)そうしてそのまま来た道を戻り、ベッドに横になるのを見届けてから、本日はお疲れさまでした、就寝です、おやすみなさい! 看護師は出てゆき、おれは病室にひとりだった。生涯初の入院一日目の晩で、部屋は冷房でずいぶんと寒かった。

 

*入院生活

さて、ようやくおれは入院生活について書けるわけだ。ここまで書いてきたものはすべて入院生活について書くための助走に過ぎない。おれはおれの入院生活をふたたび味わうためにこの文章を書いていて、……書いていたはずなのだが、いざ入院生活を思い返してみたところで、ハッキリとした思い出は残っておらず、あるものといえば入院の日々のうちに抱いていた情動の残滓くらいのものだ。そういうわけで、おれが入院生活について語るとき、それはどうしても漠然とした断片的なものにならざるをえない。

結局おれの入院生活は何だったのか? 簡単にまとめてしまうなら、入院の日々は退屈な日々で、また幸福な日々でもあった。可能ならおれはもう一度入院したいくらいだ。いや、もう一度などと言わず何度でも入院したい。入院をみずから望むなんて、冗談を言っているのだろうとおまえは思うかもしれないが、冗談でも何でもなく、ほんとうにおれは、ふたたび、みたび、入院したい。

ある意味で入院は旅よりも良いとすら思う。たとえばおまえが旅に出れば、旅先の環境はおまえに観光やら飲食やらを要求する。要求を拒んで日がな旅館でだらけていることだって出来なくもないが、そうやって旅先で何もしないでいると、別に悪いことをしているわけでもないのに、どういうわけだかおまえは後ろめたくなってくる。要するにおまえは旅先であろうが行動を要求されているわけで、その『行動をしなければ損したように感ぜられる性質』は、労働のはざまの常なる休日と全く同じい。単なる休日であろうと旅先であろうと、社会に組み込まれきったおまえの行動原理には、つねに労働が現前している。労働が無い日にはせめて人間らしくあろうとあがくおまえは労働の奴隷であり、かつまた余暇(これは労働の裏返しだ)の奴隷ですらある。『余暇』はおまえが『暇』であることを許さないのだ。

一方で入院は余暇ではないが、余暇よりもなお余暇らしい。リハビリの必要がないおれに対して入院が要求することはたったひとつの根本原理、曰く『病人は病人らしく、何もしないで休んでいろ!』

よろしいか諸君! 何もしないで休んでいることに罪悪感が伴わず、それどころか入院患者の名のもとに何もしないことが正当化され望ましいこととされている、これほどまでに徹底された素晴らしい『暇』が、果たして入院のほかにあるだろうか? おそらく無いだろう。もしあるならば是非ともおれに教えて欲しい。頼むから。(唯一挙げるとするならばそれは献血後の休息時間だろう。ボンヤリと座って甘いジュースやしょっぱい菓子を飲んだり食ったりしていることが要求される、あれもなかなか余暇じみていて、だがそれも十五分や三十分そこいらの短い余暇だ。)

畢竟おれの入院生活はそういった意味での全き余暇、大手を振って何もしないでいられるところの余暇だった。リハビリだってありはせず、ただ起きて飯を食い、ときおり縦になって売店を冷やかしにいったりして、そうして夜になれば眠る。脳みそがふやけちまうほど退屈で、それが言いようもなくうれしかった。こんなにも満たされた気持ちで退屈を持て余すことができる日々を、労働者の身分で堪能できるとは思ってもいなかった。几帳面にもおれは毎食の病院食(ぜんぶで15食だ)をスマートフォンで撮っていたのだが、退院後、まるで旅先の写真を眺めるような心地でそれらを何度も見返した。彩りのない食器に盛られたしょぼくれた病院食を見なおすたびに、病院に帰りたい思いが懐かしさと混ざり合って泣きそうな心持ちになる。労働にまみれたこんな人生なんて丸ごとくれてやるから、あと一か月ほど入院させてくれやしないか。対価としておれの残りの人生を丸ごと全部くれてやる。幸せな退屈のうちに一か月の入院生活を送って、それきりぜんぶおしまいで良い。おれは今のおれの生涯が大嫌いだ。もう何もかも厭で厭で堪らない。助けてくれ、今すぐおれを入院させてくれ!

……概して幸福だった入院生活も、入院直後の二、三夜は辛かった。といってもそれは手術後の苦しみというわけではなく、もっぱら酒が飲めない苦痛のためで、入院以前は毎晩欠かさず酒を飲んでいた身としては、突如命じられた禁酒が非常に苦しかった。酒が飲めない病院の晩、量の少ない入院食は、窮乏のうちに過ごした大学時代をおれに思い起こさせ、(食うものもなく酒も飲めず、白湯をガブガブ飲むことで空腹を誤魔化しつつ黴臭い本を読んで過ごした大学時代の冬の晩、)ジリジリとひもじかった。とはいえ三日も酒を飲まずにいれば、禁酒の晩につきもののあの焦燥感もなくなって、要するに酒が身体から、脳髄から抜けきったことになるのだろうが、そうなると酒のない晩も苦痛ではない。夕食の病院食をモグモグ食べて、温かい茶を飲み、消灯の時間になれば眠る。

病院食は不味くて食えたものではない、という言明をよく耳にするから、病院食の味については当初覚悟していたが、分量こそおれには足りなかったものの、味については別に食えないほどではなかった。少なくともおれは毎食の配給を楽しみにしていたくらいで、尤もこれはおれの味音痴のためかも知れない。目を瞑って飲んだなら赤ワインと白ワインの区別もつかないだろうおれにとって、味の可否などさして気になりはしなかった。別に薄味だとも思わなくて、ただ何度も言うが、量はすこしばかり少なかった。量の少なさを誤魔化すために、『よくかんでたべよう』の授業を受けた直後の小学一年生のように、それはもうよく噛んで毎食食べていた。

入院中に何よりも後悔したこと、それは本を持ってゆかなかったことだ。オシマイのような労働者生活のうちに読めずにいた幾つかの長い小説を集中して読む絶好の好機であったのに、荷造りのおれは高熱にうなされてそれどころではなく、結局一冊も持ってゆきやしなかった。或いはトマス・マンの『魔の山』やそれに準じた小説が置かれていないかしらと思いつつ、一縷の望み、点滴スタンドと共に売店に寄ってみたものの、病院付属の売店では古臭い文学なぞお呼びでないようで、結局オール讀物やら旅の手帖やらを買って戻り、無感動に読み捨てて仕舞いにすることしか出来なかった。(あんなにも退屈で幸福な入院生活のうちに、長くて質の良い小説があれば、どんなにか素晴らしかったことだったろう!)

……いま急に思い至ったのだが、おれにとって入院が良い思い出であるのは、個室で過ごした時間が長かったためかもしれない。本来ならば個室の入院は二日間きりで、その後大部屋に移されるはずのところ、大部屋に空きが無いだか何だかの理由で、運良く個室に四泊出来た。その後は大部屋に移されたものの、大部屋では二日だけ過ごして退院した。こうやって入院生活を思い返してみても、帰りたいような懐かしさとともに想起されるのは個室で過ごした日々ばかりで、大部屋のことはさして印象に(良くも悪くも)残っていない。

ああ、やはりそうだ。おれが入院の日々に帰りたいと思うとき、それは単に入院することだけを意味しない。おれは個室にふたたび入院したいのだ!

 

おれが過ごしていた個室は、どことなくビジネスホテルじみた部屋だった。ひとひとりを収容する手法がある程度システマタイズされると、旅館であろうが病院であろうが、行きつく先は結局ビジネスホテルなのかもしれない。大きく異なる点といえば、ベッドに酸素ボンベやらナースコースやらリモコンやらが付いていて、かつそのベッドが可動式であるというくらいのものか。

朝、まどろみを終えて目を覚ませば、ベッド脇のリモコンをいじって身体を、もといベッドを起こす。『あたまが あがります』という機械的な音声が流れ、上半身が徐々に起き上がる。眠ることも雑誌を読むことも出来そうな半端な傾斜で操作を止め、たとえばカーテンでも開けにゆけば、冴えない千葉県の市街地だ。とはいえ入院の身としてはそんな冴えない市街地ともだいぶん隔てられちまった気がする。ふたたびベッドに戻ってボンヤリしたり、雑誌を読んだりしていると、点滴を替える看護師や、巡回のお医者様がポツポツとやって来る。そういった来客はあるものの、ほとんどの時間のおれは病室にひとりきりで、しあわせな退屈を抱きながら、しずかな心持ちでベッドに腰をかけていると、じきにトレイを持った看護師がやって来て、おれに言うのだ。「○○さん、朝ごはんですよ……」 おれは朝ごはんをモソモソと食べ、食べ終わってしまえば次の飯までやることもなく、……

 

……ああ、あんな退屈の日々にふたたび帰ることが出来たなら!

 

*退院について

腹痛が始まった木曜日から一週間後の木曜日、大部屋で朝飯を食ってから退院した。一軒目の病院の救急外来、二軒目の病院での手術・入院、それと退院後の検診、全て合わせて八万円弱の出費だった。

新入職員は なきごえを おぼえた!(随筆)

労働者になって早や六ヶ月目である。私が労働者としてやっていけていることを私自身、未だに信じられずにいる。スーツを着て家を出るたび、何か悪い冗談のような気分で街を歩いているが、どうやらこれは冗談でも何でもないらしい。まったく勘弁してくれよと思う。

さてところで、私は労働者になって以来一度も泣いていない。上に書いたような泣き言こそはしょっちゅう口にするものの、私生活や労働に際して涙を流したくなるような局面には(幸いにも!)これまで一度も直面しておらず、とは言っても近ごろは日曜日の夜が来るたび眠れない日が続いている。たった二日間程度の息継ぎじみた休息では、来たる五連勤の溺れるような絶望を癒せるはずもなく、ソリの合わない上司との避けがたいコミュニケーションに対する不愉快が、安逸な睡眠から私をとおく隔てて、日曜日が来るたび私は決まって眠れずに、いや、日曜日だけではない、労働に起因するこんな類の不眠が、近ごろは日曜日以前の夜にすら侵食してくるようになってしまった。(とくにここ二、三週間の私は、土曜日はおろか、本来喜びの晩である筈の金曜日の夜のうちから早くも日曜日の終わりを予見して眠れないようになってしまった。シラフで目が覚めている時間なんて短ければ短いほど良いというのに、こんな仕打ち、あんまりじゃないか!) 

こういう類の不眠は単に休日の絶望を煽るのみに留まらず、平日の労働にも着実に影響を及ぼして、……だが、ここで私がしたいのは不眠の話ではない。不眠の話だってしようと思えばいくらでも出来るが、こんなのは気が滅入るばかりで宜しくない。もうすこし気楽な話をしよう。

 

休日にときおり会っている気の置けない友人に仕事の泣き言を言いつつも、しかし実際に涙を流すことはなく、土曜日も日曜日もアッという間に明けてゆき、不眠を伴った苦痛の幕開け、月曜日の朝が来るたびに、勘弁してくれと思いつつどうしようもない労働に従事する、そんな不愉快な労働者生活の連続のさなか、私は『鳴き声』を習得した。

この記事のタイトルの『なきごえ』は『泣き声』ではなく『鳴き声』である。

今から私は、私の鳴き声の話をする。

高校の部活や大学のサークルといった、"成熟した"人間が集うコミュニティに所属する人間はある種の『鳴き声』を自明の道具として習得し活用しているものだが、中学の陸上部以来あらゆるコミュニティに背を向けたまま、ほとんどの交友関係の網からも抜け落ちて、やることといえば狂ったように散歩をするか、天井のシミを数えるかくらいしかしてこなかった私のような人間にとって、『鳴き声』を習得すること、もとい『鳴き声』の存在やその活用の余地を知覚することがそもそもひとつの苦労であった。(もっとも、一度その鳴き声の存在と使用可能な局面を理解すれば、鳴き声を使用することにさしたる苦労は伴わない。とはいえ鳴き声も言語使用の一環だから、習熟には一定の練習が不可欠である。)

鳴き声という表現でピンとこない諸氏については、以下のような状況を考えてみてほしい。

 

1、出勤後一度挨拶を交わした先輩職員と、数分後に給湯室でバッタリ会ってしまったとき。先輩職員は「おお、」とだけ言う。こちらも何か言葉を返さねばならない。

1、廊下で他の職員(お互いに若く、面識が皆無)とすれ違った際の、最も簡略化された挨拶。向こうは「…ッス」と言う。こちらも何か言わないわけにはいかない。

1、供覧の書類が私の所へ回ってくる。隣の係の先輩職員が、何やら言葉にならない発話を伴って、私のもとへ書類を置く。私も何か言葉にならない発話でもってこれに応える必要がある。

 

以上の状況、すべてが鳴き声の出番である。私が今よりもなお新入職員だった時分、こんなシチュエーションに遭遇するたび、とっさにうまい返事が思い浮かばず、どうしようもなくテンパっちまって、トンチンカンな返事をしたり、不用意に口籠もることだって頻繁で、みずからの社会性の低さについて鬱々と思い悩む羽目になっていたが、何のことはない、ぜんぶ鳴き声を発しておけば良かったのだ。だれひとり、鳴き声の応酬にスムーズさ以外のものを求めていやしないのだから。

鳴き声の最も簡略化した形、それは「…ッス」といった発音で、単に歯の隙間から息を吐くだけで事足りる。もっともこれはいささか簡略に過ぎるから、目上の人間に頻発するのは避けられたい。鳴き声でももう少しだけ正式なもの、それは口腔内ですこし音を籠らせたあとに「ます」という言葉だけをハッキリと発話したもので、これは非常に汎用性が高い。朝、いちど挨拶を交わしたか定かではない相手としばらくしてすれ違った時などにも使えるから、便利なことこの上ない。「ます」の前のうまく聞き取れない部分については、相手が勝手に補完してくれるか、或いはそういう鳴き声として理解してくれていることだろう。畢竟、鳴き声さえ発していれば大抵のコミュニケーションは何とかなるようだ。

 

……とおいむかし、子供のころ、ポケモンをやっていた時分、『なきごえ』はたしか、相手のステータスを下げる技だったと記憶している。今わたしは大人になり、労働者として生活しながら、鳴き声を日に何度も発しつつ、しかし摩耗してゆくのは自分ばかりで、鳴き声を発し、鳴き声を発し、頭を下げて、時間になれば家に帰り、そしてまた翌朝になれば職場に行って鳴き声を出す日々を送っている。

こうやって鳴き声でコミュニケーションを誤魔化すうだつの上がらない大人になることを、かつての自分はきっと想像だにしていなかっただろう。

若かりしころの自分、嬉々としてポケモンで遊んでいたころの、小生意気な、将来に希望を抱いていた頃の自分。

しかしそんな小生意気な子供だって、今やこんなにもみっともない、泣き言や鳴き声ばかりを繰り返す大人に成り下がっちまっている。まったく、ざまあねえな、と思う。

北海道を一週間旅した話(紀行文)

 

カネが無くて呻いていた。

旅行へ出発する半月ほど前、一月末の無職の私は、どこへ行くことも何をすることもできずにいた。現金の持ち合わせがまるで無かったのである。四月からの労働者生活が始まるまえのラスト・モラトリアムたる貴重な期間、値千金たる時間が、行動と結びつかずにそのまま延々と腐っていた。時間が有り余っているならせめて本でも読めば良さそうなものだが、徹底したカネの無さは心の気力を根こそぎにして、ページを開く気力もわかず、日中はもっぱら昼寝で寝飛ばしてしまうか、或いは狂ったように何時間も散歩をしていた。もとい、そうでもするほか無かった。(バイト? 冗談はよしてくれ! 四月からイヤってほど働かされるってのに、よりによっていま賃労働なんて!)

奇跡のように何かが変わりやしないかと思って一度、財布のなかの貴重な数百円を使い、ファミチキとポッカレモンを買って公園に夕陽を眺めに行ったことがある。当然なにが変わるわけでもなくて、ただ小銭を無駄に浪費して終わった。全財産の半分を用いた気分転換の失敗だった。こうなればますます不貞腐れて横臥のうちに日々を送るほかなかった。

とにかくカネが全くなかった。大学を一年留年し、卒業後も就職が決まらずに、二年間も人より多くぷらぷらしていた生活の、最後の余暇が終わりつつあるにも関わらず、私は何もできずにいた。ラスト・モラトリアムの区切りとして、せめて最後に旅にでも出られればと、叶わぬ願いばかりを膨らませながら部屋でひとり腐っていた。

不愉快な日ばかりが続いていた。何をすることも出来ないそんな日々のうちに、いよいよ諦めムードが漂って、このまま身動きが取れずにモラトリアムは終了し、懲役数十年の労働者生活に突入するのか……と、空っぽの財布とおしまいのような自意識の狭間でなかば絶望しきっていた、そんな一月末のある日の晩、しかし、突然に! 思いがけない臨時収入が入ってきたのだ!(ご都合主義のような運の良さ!)

というわけで私はその日、臨時収入を用いて旅へ出ることを決心した。

こうやって旅への展望が開けることもあるものだ。

 

 

*一日目(成田→新千歳、札幌)

日時は飛んで二月十二日の朝七時ごろ、私は成田空港に居た。記念すべき旅、一人旅の第一日目だ。旅へ出られるのは素直に嬉しく、空港までの道中の北総線の運賃だって笑って許せる心地だった。

一人旅、……そういえば一人旅らしい一人旅をするのは大学二年生の初夏以来で、あのときは講義を一週間ほどサボって四国へ行ったものだった。大学の同級生がすし詰めの講義室で授業を受けているその一方で、私は四万十川沿いを自転車でくだり、誰もいない沈下橋を独り占めにして碧い水面に見入っていた、あの時間はほんとうに、他に代え難い幸福だった。そんな四国以来の一人旅が今回の旅で、可能なら今回だって私は夏を旅して回りたかったが(私は夏が好きなのだ)、お天道様に文句を言っても仕方がない。今は冬なのだから。

そう、他ならぬ冬だから、私は今回の旅先を選ぶのにすこし迷った。雪国以外の冬はどこを回っても夏に比べて精彩を欠くような気がしたし、かと言って雪国へ行ったところで何をするあても無いように思われた。温泉地へ行くことも考えたが、温泉地の旅館は一人客を歓迎してはくれないだろう。それに、温泉地で結構な費用をはたいて一泊なり二泊なりを過ごすなんて、それこそ社会人になってからすれば良いことだ(果たしてそんなことが出来るようになるまで私が労働に耐えられるか、それはまた別の話だ)。私はモラトリアムの有り余った時間を活かして長々と(、と言っても一週間程度ではあるが)旅行をしたくて、となれば費用もわりあい切り詰めなければならず、そのうえ旅行先としてある程度の期待が持てる地域を選ばなければならないわけだから、どうしたものかと、諸々考えた挙句、結局今回の旅の行き先として、北海道へ行くことにした。大学時代の五年間を札幌で過ごしていたのだから、今さら北海道へ旅行へ行くのもどうかとは思ったものの、しかし冬の北海道を一人で旅した経験は無いわけだし、それに何より、周遊きっぷが安かった。六日間特急にも乗り放題で12000円の切符の存在を知った時点で、私の心は決まっていたようなものだった。

そういう訳で二月十二日の朝七時ごろ、新千歳行きの飛行機に乗るべく成田空港に到着した。なんと言っても久方ぶりの一人旅だ。チケットの発券や搭乗手続きを済ませ、第三ターミナルの搭乗口で飛行機を待つ私の心は、これからの旅の素晴らしさを予感して、いやましの期待に打ち震えていた……! なんて調子でいけば良いものの、しかし私はそんな調子では全くなかった、生憎なことに。もちろん、道中の電車や、空港内を第三ターミナルへ向かって歩いている時などは単純にわくわくしながら過ごしていた。しかし、諸々の手続きを済ませ、出発ロビーで格安航空の飛行機を待つ段階に至った私は一転、旅への期待に震えるでなしに、航空機の運休や条件付き航行への不安に打ち震えるに至ったのだ。というのも、私が乗る飛行機よりも前の便が、どうやら条件付き航行、つまり新千歳の天候不良で着陸が出来なかった場合は成田へと引き返す運航になっており、それを知った私は『もし私が乗る便も条件付き航行や運休になってしまったら……』などと、初っ端から旅程が崩壊してしまう予感に戦々恐々としていた訳である。『ああおれの生涯はいつだってこうやってケチがつく』だとか、『初っ端から不穏な旅行なんてまさにおれらしいじゃないか、ケッ、全く結構なこった!』などと自らの巡り合わせを呪いつつも、アナウンスが流れるたび誰も彼もが会話を止めて耳を澄ませる出発ロビーで、おっかなびっくり過ごしていた。

そして結局、飛行機は数十分ほど遅れはしたものの無事に飛び、昼前に私は安堵とともに新千歳空港へ着陸した。心配が杞憂に終わる瞬間の、気が楽になる情動はいつだってありがたい。

新千歳空港からは鉄道で移動し、昼過ぎには札幌駅に到着した。念願の北海道、懐かしい札幌駅だ。

 

 

(ここで札幌駅の写真があると良いのだが、撮影していなかった。札幌駅の写真なぞ撮ったところで仕方がないもの。)

 

 

札幌駅から一歩踏み出すと、ほんとうに何一つ変わっていない街並みだった。それもその筈で、最後に大学生活のこの街を後にしてから未だ一年も経っていないのだから、街並みが大幅に変わっているわけもない。駅の北口は相変わらず工事をしていて不便だし、溶けた雪の水溜まりは厄介だった。

懐かしい、で片付けてしまうにはあまりに記憶に新しい札幌の街を、大学の構内へ向かって歩いていった。(せっかく五年も大学生活を過ごした札幌の街へ行くのだから、旅の最初の昼食は大学の学食で摂ることにしようと、旅程を立てた時点から決めていたのだ。) 私はうきうきしながら札幌の街へ踏み出して、旅人の身分として訪れる札幌の、だが、これは、……そう、はっきりと書いてしまおう。札幌の街を歩いているうちに、どういう訳だか旅情はガリガリとすり減ってゆき、それどころか学生として札幌を歩いていた時分の堪らない気分までもが次第次第に思い出されて、私は不愉快になってきてしまったのだ。(せっかくの旅だというのに!) というのも、思い出というものは時間を経るに従ってセピア色へと霞んでゆき、愉快なのもそうでないのも大概は『懐かしさ』の名のもとで何か良い経験であったかのように錯覚されるものであるが、久々に札幌の街を一歩一歩進んでゆくうちに、私の札幌に対するセピア色の懐かしさは剥がれ落ち、窮乏や孤独のうちに札幌の街を歩いていた学生時代の不愉快が、あまりに露骨に蘇って、……要するに、この街には私の生活の匂いが染み込みすぎてしまっていたのだ。ちょっとそこいらを歩いただけで、学生時代の数多の苦痛の面影が、街の空気や景色のうちに、頼んでもないのにちらついて、こうなってしまえば旅情も糞もありはしない!

 

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不運は続く。旅情の無さに文句を言ったところで仕方がないから、苦々しい心地で雪道を歩き、いざ大学の学食へ着いたは良いが、肝心の学食が閉まっていた。無職生活も10ヶ月になると、曜日感覚が無くなって、その日が日曜日だということを失念していたのだ。ほんとうに、私はいつだってこのザマだ。(自らの愚かさを取り繕うためという訳ではないが、コロナ禍以前は日曜日でも学食は開いていたことを記しておく。コロナ禍以降は学食の営業時間も曜日もよくわからなくなってしまった。)

ただ無駄骨だった大学構内の散歩を済ませ、昼飯にありつき損なった私の足は、かつて自分が暮らしていたアパートの方へと向かっていた。在学中は一度も入ったことがなかった近所の飲食店へ、折角だから行くことにしたのだ。(叶うことなら大学時代に行きつけだった定食屋に行きたかった。在学中の私にもそんな店が一軒だけあって、しかし大学四年生の時分に火事で閉店し、ふたたび行けなくなってしまった。私の生涯も、私の生涯をめぐる環境も、そんな風なことばかりだ。)

 

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昼食に選んだ店は二階にあった。学生時代はいつも俯いて通り過ぎるばかりだった道を見下ろすような格好の窓際席に案内されて、なるほどこんな眺めもこの街にはあったのかと思いつつ、暖かい店内とおいしい料理のために、旅情をすこし取り戻した。

さて、そうやって旅情を取り戻した私は次にどこへと向かったのか? 観光? いいや違う。 ……そう、札幌の駅前まで戻り、何やらうるさい店に入って、レバーを叩いたりリールを回したりしながら時間を潰すことにしたのだ。実は、その日は友人と会う予定が夕方にあり、空いた時間が手持ち無沙汰で、本来ならばこの空き時間で在学中に行き損ねた札幌の落ち穂拾いのような観光でもするつもりだったのだが、いざ札幌を歩いてみればかつての生活の匂いが染み込みすぎていたために、観光する気も失せちまって、それなればもう、パチ屋にでも行くほかないのだから、いったい旅先で何をやっているのだろうと思わないこともなかったが、そういった心の声を黙殺するようにレバーを叩き、ボタンを押して時間を潰した。三時間ほど過ごして負けずに済んだのだから、暇潰しとしては上出来だろう。旅情はふたたび消し飛んだが、まあ良いさ、私は札幌を目的にやって来たわけではないのだから。

そうして、十七時ごろにはスロットを切り上げ、地下鉄で西28丁目駅へと移動した。駅から十数分ほど歩き、マンションをエレベーターで上がれば、目的の部屋に到着する。ピンポンを押してドアが開けば懐かしい顔、札幌に暮らす友人だ。去年の三月、私がこの街を引き払う日に会ったのもこの友人で、長い別れを惜しんだものだが、まさかこんなにも早く再会を果たすことになるとは思ってもいなかった。それどころか別れの際、今生でふたたび会うこともあるまいと私のほうでは内心思っていたくらいで、そのことを目の前の彼に伝えると、そんなこと思ってたんだ、ひどいなあ、と言って笑った。兎にも角にも、尻すぼみになってゆくだけの私の交友関係の、数少ない友人のひとりに、札幌の地で再会したわけだ。(ちなみに、彼とは旅の六日目にもう一度会うことになる。)

旅行前、私は彼に、北海道の周遊きっぷの確保と、その日かれの部屋に泊めてくれるようにお願いしていた。そんな厚かましい私のお願いのいずれをも彼はこころよく承諾してくれて(ほんとうに有難いことだ)、私は一日目の宿と、これからの北海道旅行の周遊きっぷの確保に成功した訳である。そのお礼として夕食は私の奢りで彼と寿司屋へ赴いた。トリトン円山店だ。


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取るに足らない話をしながらトリトンの寿司を食べた。取るに足らない話をしながら美味いものを食うのは楽しい。取るに足らない話のできる、気のおけない友人と会うのは久々だった。

その後、彼の住むマンションへと戻り、酒を飲みながら話したり、トランプを切ったり、或いは私の書いたものを彼に読んでもらったりしているうちに、名残惜しいが夜は更け、翌日以降の旅程のために私は眠りの床についた。

旅というよりかは学生時代を思い出す一日目だった。

 

 

*二日目(札幌→帯広→釧路)

早朝六時にアラームが鳴り、起床した。友人宅をあとにして、西28丁目駅へと向かう。

 

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冬はつとめて、と言うがまったくその通りだと思う。とくに今から旅の実質が始まるというその瞬間に、まだ陽の昇らない雪道を進んでゆくのは気持ちが良い。私以外に出歩く人の姿もほとんど無く、心なしか空気も澄んでいるような気がして、学生時代の思い出の亡霊も私の邪魔をしなかった。(学生時代、日中こそ不愉快のうちに街を歩いてばかりの私であったが、深夜や早朝に出歩くのはもっぱら友人宅からの帰路の愉快な心地であった。そのためだろう。)

西28丁目駅からは地下鉄を経由して札幌駅へと辿り着く。さあ、周遊きっぷで旅立ちだ!

 

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このきっぷを用いて北海道を旅してゆく。

(ところで私は大学一年生の夏にもフリーきっぷを用いて北海道を鉄道で巡ったことがある。そのときは一部区間を除き鈍行にしか乗車ができないきっぷを使ったから、私の旅程を組む能力の拙さもあいまって、あまり都市を見て回ることが出来ず、移動時間ばかりが長い旅行だった。だが今回のきっぷでは特急列車に乗車することも可能だから、前回の旅では取り逃がしてしまった諸都市の観光、帯広だとか網走だとかに降り立つことも出来そうで、朝に目が覚めた瞬間から心が踊りっぱなしだった(、と思う)。)

 

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さんざ見慣れた駅名標の写真なぞを撮ってしまうくらい浮かれていた。

 

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七時五十八分発の特急列車に乗った。目指す先は帯広だ。

(余談だが、私はいくつかの写真をツイッターに上げながら旅をしていた。とうぜん自分が乗る列車の写真をツイッターに上げることもあったのだが、それを目にした鉄道に造詣の深い友人に『列車の撮り方がまるでなっていない』とリプライでお叱りを受けてしまった。私は鉄道を利用することや写真撮影を殊更に喜ぶところのものではないから、構図のことなど何ひとつわからなくて、そのために以下の紀行文には『まるでなっていない』写真や文章がたくさん並ぶことになる。(とくに写真についてはそうだ。)鉄道に詳しい皆々様におかれましては、どうかあまり目くじらを立てず、ああ下手くそな写真だなぁ、列車の良さをまるきり殺しちまってらぁ、と鼻で笑いながら読んでいただければ幸いだ。へへへ、……駄目ですかね?)

定刻通りに特急列車は動きはじめ、札幌駅をあとにして進んでゆく。成田から飛行機で飛び立つときよりも、列車で札幌を離れるときのほうが旅の実感が強いのは、やはり長々と過ごした札幌での学生生活のためだろうか。

 

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これまでずっと用いたことのなかった札幌駅の駅弁屋さんではじめて買った駅弁を車内で開けた。特急列車のスピードで流れる車窓を眺めつつ、こうやって駅弁をぱくついていると、いよいよ旅の心地になる。旅、ひとり旅、北海道のひとり旅!

 

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(車窓の景色。)

 

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十一時前に帯広駅へ到着した。車窓を眺めているだけで乗車時間は過ぎ去った。

帯広に着いたらすぐにしようと思っていたことがある。そう、昼飯だ。いくら平日とは言っても、昼時の飯屋は混むだろうし、私は人混みが何よりも嫌いだから、なるべく早く、店内が空いていて快適なうちに昼飯を済ませてしまいたかった。そうして帯広といえばまず豚丼が思い浮かぶ。(安直!) だから私は、あらかじめ調べておいた駅の近くの豚丼の店に直行した。

 

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これがその豚丼である(豚丼の『はなとかち』)。時間も早いからか店内も空いていて快適だった。帯広で豚丼を食べることが出来たのは嬉しい。可能ならいくつかの店を食べ歩きして回りたかったが、そんなことをするだけの胃袋の容量が私にはなかった。

豚丼を食べ終わり、時計を見ると、帯広を離れる予定の列車が来るまでザッと四時間強の時間がある。こうなれば観光をするほかない。帯広と聞いて一番に思い浮かぶのが豚丼だとすれば、二番目に思い浮かぶのは一体なにか?

 

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言うまでもない、ばんえい競馬だ!

駅前の豚丼屋から競馬場まで歩いて行った。雪道で三十分ほどかかったが、よく歩く無職にとってはこの程度の距離、平気の平左だ。

ばんえい競馬、というより競馬場に来ること自体が初めてだった。馬という生き物は綺麗で格好良いものだから競馬場では馬の姿を見ているだけでも十分に楽しい、なんて言説を耳にしたことがあったから、今回の訪問は楽しみだった。もちろん馬を眺めるだけで終わらせる気は更々なくて、100円単位でチョビチョビと賭けて遊ぶつもりでいた。あわよくば今日の夕食代くらいは稼ぐことが出来れば、なんて都合の良い期待もしていた。

 

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(こんな様子でコースは一直線になっていて、道中には二箇所の障害物(小高い丘)が設けられている。)

 

第1レースは十三時の出走だった。 何も分からないながらに単勝馬連三連単をぜんぶで千円購入し、出走を待つ。(馬券ってマークシートで購入するんですね。私はそれすら知らなかった。) 馬を間近に見られるように、馬場に近いところへ陣取ると、陽射しがぽかぽかと暖かい、小春日和だった。

 

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そうして十三時がやってきて、いざ出走と相成った。スタートゲートをくぐり抜けた馬たちは矢のように、あっという間に私の目の前を通り過ぎ、ゴールゲートをぶち抜いた! ……といった調子を私はなんとなく想像していたのだが、実際は全く異なっていた。

まず、橇を曳く馬の速さは我々が歩くのと同程度か、速くても小走りくらいのスピードで、事実われわれは馬の先頭集団と並走、もとい並歩しながら競馬場を進んでゆき、ゴールまでを見届けるといった調子だった。こんな陽射しの暖かい日に丁度良い、幾分のんびりとしたレースだった。

そのうえ馬はよく立ち止まった。もちろん立ち止まるのにも理由があって、障害物の前で馬は立ち止まり、手綱を引いて反動をつける騎手とタイミングを合わせ、その勢いで障害物を乗り越えてゆくのだ。はじめて見たときはどうして立ち止まっているのだろうと疑問に思っていたが、騎手とのコンビネーションが為せる技と知り、なるほど凄いものだと嘆息した。(ただ、障害物の無いところで立ち止まることも度々だった。あれは何だったのだろう。サボタージュ? 『労働環境の改善を!』)

第一レースを制したのは忘れもしない、フンコロガシという名前の馬だった。私はフンコロガシの馬券を買ってはいなかった。千円ぶんの馬券は紙屑になった。

負けっぱなしじゃいられないと、私の心に火がついた。ずぶの素人であるくせにこうなってしまえば事の顛末は知れたものだが、一度熱くなった以上、自分ではどうにもなりはしない。火照った脳髄をそのままに、第二レース、第三レースと賭けてゆき、結局五千円弱も負けてしまった。(投資が5300円、回収が410円だ。)慣れないことをするものではない。

騎手を乗せた橇を力強く曳くばんえい馬を、興奮とともに並んで進み応援するのは、しかし得難い経験だった。だがまあ、ふたたび賭けることはないだろう。

その後、駅前に戻り、十七時四分発の列車で帯広駅を後にした。

 

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釧路駅には十八時四十分ごろ到着した。大学一年生の夏の旅行の際も釧路を宿泊地にしたものだが、そのときは道路を封鎖して何やらお祭りをやっていたことを覚えている。

駅の近くのビジネスホテルにチェックインして荷物を置き、夕食を摂るためすぐ外に出た。帯広からの特急列車に揺られつつ調べて決めた或る店へと赴いた。

 

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泉屋だ。ここのスパカツ(鉄板のスパゲッティにカツを乗っけた食べ物)が釧路ではお勧めだとインターネットに書いてあった。なのでここで夕食にした。

(余談。もし私の書いたこの紀行文を読んでいる人がいるならば、或いはこうも思ったかもしれない。曰く、『帯広では豚丼で、釧路ではスパカツの泉屋か。結構結構、おまえは全く結構な俗物だな。インターネットのグルメサイトのお勧めに則って動くのは大いに結構なことだが、食べるものにせよ見る場所にせよインターネットのおすすめどおり、旅の本質たる偶然性を殺しちまって、人様の作った安全な橋の上を渡って歩く確認作業のようなそれが、今まさにお前がしているその行為は、ほんとうに旅と言えるのか?』云々、云々。それに応えて私は言う。曰く、『へへぇ、まったくもって旦那のおっしゃる通りでさぁ! へ、へ、へ! あっしはね、旦那、まるで怠惰な人間ですから、なぁんにも予定を決めずに旅にでもゆけば、それこそどこにも出歩きもせず、ビジネスホテルに篭りっぱなし、メシだってコンビニ弁当で済ませちまうような屑なんです。持っている気力の量が根本的に人よか少なくて、すぐ楽なほうへと流れちまうんだ。だからこそ、せっかく旅に出たのなら、たとい人が作った安パイのような道であっても、それをしるべに予定を立てて、見る場所、食べるもの、いくつかは決めて、マァある種の心地良い拘束とでも言えらぁね、そういった旅程に則って動くのが、あっしのような愚図にとっての精いっぱいで、同時にそれが楽しみなんだ。……なぁ旦那、はばかりながら申し上げるが、あんたはご存知ないでしょう、あっしのように学殖や生気に欠けた愚図にとって、旅にせよ生涯にせよ、『自由』なんてものは苦痛以外の何物でもありはしないんですよ。旦那の言うような偶然性を楽しむ余裕も、偶然性を楽しめるだけのあらゆる資本も、決して持ち合わせてはいないんです。だから旦那、そんなあっしを、そんなあっしの凡庸な旅を、どうか勘弁しちゃあくれませんか』、と。)

 

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階段を昇って店内に入った。平日とはいえ夜七時過ぎの飲食店だ、多少の待ち時間は覚悟していたものの、入店するや否や四人掛けのソファー席に通され、こうなれば脳裏に『名物に旨いものなし』といった言葉がちらついてくる。いささか不安になりながらもスパカツを頼むと、あまり待たされることもなくやって来て、(ジュージューと音を立てる鉄板、)いざ手をつければこれがしっかりと旨かった。なんと言っても上に乗っているカツの柔らかさには驚かされた。ふたたび釧路に訪れる機会があればまた行きたいが、ボリュームがそれなりにあったから、歳を取って胃袋が脆弱になるよりも前に再訪できればと思う。(これを書きながら涎が出てきた。)

夕食後、ビジネスホテルに戻って眠った。旅はまだ始まったばかりだった。翌朝の出発に寝坊するわけにはいかない。

 

 

*三日目(釧路→網走→北見)

朝の七時二十分、ビジネスホテルのベッドに附属のアラームに起こされた。

 

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(ビジネスホテルの窓から撮った釧路駅。)

 

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朝食はホテルのバイキングで摂った。バイキングの盛り付けには美的センスが如実に顕れる。昔からずっと美術の成績が悪かった。

朝食後、身支度を済ませて釧路駅へと向かい、列車を待つ。私が乗る予定の列車のホームでは早くも人が列をなしている。こんなにたくさんの人に待たれていれば列車のほうでもやって来ないわけにはいかない。なので列車は到着した。しれとこ摩周号という名前らしい。こんにちは。

 

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八時五十七分にしれとこ摩周号は釧路駅を発車した。釧路湿原オホーツク海を車窓に臨んで網走へと向かう列車だ。夏の釧路湿原は以前の旅行で目にしていたから、冬の湿原がどう様変わりしているのか楽しみだった。が、どこまで行っても雪景色だから、冬の湿原に感じるところはほとんど無かった。(地理や植物学の素養があれば、或いは車窓の冬の湿原だって楽しむことが出来たのかも知れない。私にはできなかった。)

 

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(道中、車窓に鶴を見た。)

 

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網走へと近づいた車窓からはオホーツク海が見え、そこには氷が浮かんでいた。たぶん流氷だろうと思う。海に氷が浮かんでいるのを目にすると、いよいよ北海道に来た気がする。流氷にお目にかかるのは初めてだった。

 

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昼前に網走駅へ到着した。滞在時間は五時間強の予定だ。

北海道へ旅に出る前、冬の北海道で何をするのがお勧めか、幾人かの人に訊ねた。すると流氷船を推す声が多かったから、網走では流氷船に乗ろうかと思っていたが、インターネットで予約しようと調べたところ、生憎なことに締め切られていた。或いは予約が無くとも当日席やら何やらでなんとかなったのかも知れないが、すっぱりと諦め、網走監獄へ行くことにした。

 

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バスに乗り、網走監獄へ到着した。バスは立ち客が何人も出るほど混んでいて、人いきれの湿度のなか、私は勘弁してくれと思いながら、縮こまって揺られていた。

 

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入監料を払って監獄へ入り、すぐに私は料金所で貰った地図を開いた。まずは昼食を摂りたかったのだ。網走監獄では網走刑務所の監獄食を食べられると聞いていて私はそれを楽しみにしていたから、地図で場所を確認すると、食堂はなんと料金所の外にあった。現在時刻は十三時前、食堂のラストオーダーは十四時半。監獄を急いで回って退監し十四時半に間に合わせるか、それとも一度引き返してまず食堂に行き、再入場して監獄を巡るか、どちらにするか逡巡した挙句、先に昼飯を済ませることにした。時間に追われて監獄を巡るのも馬鹿らしかったし、腹の虫がうるさかった。(監獄の広さに鑑みるに、この選択は大正解だった。) ぽつぽつと門をくぐって入監してゆく観光客とは反対に、私ひとり順路を逆走して退監し、監獄食堂へと赴いた。

 

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監獄食だ。麦飯なんて口にするのはいつぶりだろう。案外ふつうに食べられるものだなぁと思いつつも、どことなく味気なさを感じてしまうのは、……サンマの身が痩せていた。サンマの不漁のせいなのか、監獄食としての気分を出すための演出なのか、(サンマ、サンマ、サンマ苦いかしょっぱいか、)いやそもそも美味いサンマを目当てに監獄食を頼んだわけでは全くないから、要するに、たといサンマの身が痩せていても、網走監獄の情緒を微塵も損ないはしない食事だった。

腹ごしらえを済ませて網走監獄へ再入監した。少なくとも二時間弱は監獄の施設を見て回った筈だ。事前に想像していたよりも見て回る場所がたくさん有って、帰りのバスを一本ぶん遅らせた。(もう少しだけゆっくり見て回っても良かったかもしれない。逐一写真を上げることはしないが、施設として非常に充実していた。)

十五時半よりもすこし前のバスに乗って網走駅まで戻った。本来乗る予定だった列車にはまだしばらく時間があったが、一本早い鈍行に乗って北見へ向かうことにした。(要は一時間ほど早く網走を切り上げた。)ほんとうなら市街地のほうも見て回りたかったが、網走監獄のバス停でバスを待つうちに身体の芯まで冷え切って、観光の気分ではなくなってしまった。

 

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(これに乗った。愛嬌のある顔つきの列車だと思う。)

 

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十七時半よりもすこし前に北見駅へと到着した。ビジネスホテルに荷物を置いて、晩飯を求め北見市街へと繰り出した。

 

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(晩の気温は-8.0℃だった。翌朝七時に確認すると、-13.0℃まで下がっていた。)


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北見市街は歩道を庇(雁木?)で覆うような格好になっており、お陰で非常に歩きやすい。そんな歩道を煌々と照らす蛍光灯の白い灯りの、しかし立ち並ぶ建物はシャッターを降ろした店が多く、午後六時だというのに人影はまばらだった。人混みが苦手な身としては混雑よりかは有り難いが、市街地にこうも人が少ないのはいささか淋しく感じられて、誰もかれも皆、いったいどこへ行ってしまったのだろう?


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誰もかれも皆、焼肉屋に居た。北見が焼肉の街であるというのはどうやら嘘ではないようで、閑散とした市街地の様子とは裏腹に、『味覚園』の店内は人にあふれて賑わっていた。事前に予約を取っていたから良かったものの、もし予約をせずにいれば或いは北見の焼肉にありつくことが出来ずに終わっていたかもしれない。

 

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五千円で食べ飲み放題のコースを選ぶ。まずはビールを一杯飲みつつ、肉が来るまで北見式焼肉の説明を読んでいた。これまで私は、焼肉といえばタレ!、程度の単純な感性で生きていたから、下味をつけない肉に塩コショウを付けていただく北見式焼肉のやり方に、期待半分、疑い半分の心地でいた。やったことのない焼肉の食べ方は楽しみだけれど、何だかんだ言ってもタレのほうが美味いんじゃないの?、などと疑念を抱きつつ、ビールも二杯目にさしかかる頃にやって来た肉を実際に塩コショウで食べてみると、なるほど塩コショウで食べるのも悪くない。……いや、悪くないどころか、タレと塩コショウで食べ比べてみたところ、下味のない肉にはタレよりも塩コショウのほうがふさわしく感じられ、要するに、これは、美味い!

私が北見式焼肉の虜になるまで、そう時間はかからなかった。

 

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肉が旨ければ酒がすすむし、酒がすすめば旨い肉を食べたくなる。ただでさえ舌も喉も潤っているこんな状況に加えて旅の心地、つまり、日本の北の極寒の地の焼肉屋で私ひとり、何に気兼ねすることもなく焼肉を喰らっているという、旅特有の心地が加われば、心身ともに満ち足りて、もう何も言うことは無かった。

(そういえば一人で焼肉屋に行ったのもこれが初めてのことだった。最初の経験がこれほど充実していて果たして良かったのか、私は知らない。)


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(食べ放題セットについてくる、高い肉の一枚ずつ。)

 

飲みたいだけ酒を飲み、食べたいだけ肉を食べ、満ち足りた心地で味覚園をあとにした。満ち足りた心地でいれば夜の北見をすこし散歩したくなる。そうして呑気に散歩をしていると、歩道の境目でツルンと綺麗に転倒し、おまけに迷子になりかけた。二十一時過ぎにビジネスホテルへたどり着き、風呂等済ませ翌日に備えて早く眠った。

総じて北見は良い街だった。(ただこの頃には私は既に旅の終わりの影に怯えつつあった。私が何か楽しいことをしていれば、いつだって余計な考えが水を差す。)

 

 

 

*四日目(北見→おんね湯、留辺蘂旭川)

翌朝もそれなりに早かった。たしか早朝六時には起床した筈だ。

この日はバスで出発した。北見バスターミナル始発の七時十六分のバスに乗って、目指す先は終点、『道の駅おんね湯温泉』だ。

晴れた冬の朝の雪道をバスはひた走り、八時半ごろ終点に到着した。(路線バスにこれほど長いこと乗車するのは久々のことで、念のため酔い止め薬を用意していたが、幸いにも必要なかった。) 私を含め三人が終点で降りた。残りの二人はすぐにどこかへ消えていった。

……さて、列車であれば乗り放題のフリーきっぷを持っているにも関わらず、一体何のためにバスに乗って温根湯温泉へやって来たか、疑問に思う人も居るかもしれない。もちろん、列車のみでは温根湯温泉までたどり着けないためではあるが、ではなぜ私は鉄道で行ける他の場所ではなく温根湯温泉を選んだのか? 聡明な読者諸兄は既に気がついているだろう。ご推察の通り、温根湯温泉に訪れたのはこのためだ。

 

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そう、北きつね牧場の観光だ。北きつね牧場とは名前のとおり北きつねがたくさん飼育されている場所で、北きつねがたくさん居る場所があるならば、これはもう、行くしかない。

(昼過ぎまでこの辺りで過ごしたが、温泉にはもちろん入らなかった。)

 

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(バス停から北きつね牧場までの道中の眺め。見渡す限りの雪景色に、見渡す限りのひとりだった。)

 

バス停から歩き、十分ほどで北きつね牧場の建物の前に到着した。他に観光客が待っているかと思ったが、私以外には誰も居ない。開場の九時までにはしばらくの待ち時間があった。まだかなぁまだかなぁと入り口の前で待っていると、なんと時間より前にも関わらず、係の人がやってきて、どうぞ、と中へと入れてくれた。(嬉しい!) ありがとうございます、とチケットを買い、牧場内部に入場する。

 

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入場してすこし歩くとこういった感じの順路があって、

 

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きつね、


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きつね、


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きつね!!!

従業員のかたを除いて誰ひとり居やしない北きつね牧場を、マスクの下でニヤニヤしながら歩いて回った。きつねが、たくさんのきつねが、遠くに近くにたくさん居て、雪の上で朝陽を浴びるきつねの毛は金色なんだ。きつねの体毛はふわふわしていて、しかしきつねにお触りすることはできないから、遠くから、あるいは近くのきつねをじっと眺めることしか出来ず、というのもきつねは写真を撮ろうとスマートフォンを取り出すと、ムクッと起き上がってとおくへ去ってしまうことばかりで、これはもう、下手くそな写真を撮ることなんぞ早々に諦め、多数のきつねと一人の私のこの環境を満喫し、きつねをたくさん目に焼きつけたほうがお得だろう。

(とは言え写真も何枚も撮った。撮った写真を後々になって見返すことが、旅先での気楽な呼吸を思い出すためのよすがとなって、全き苦痛に他ならない日常生活の心痛を幾分やわらげてくれることを、身にしみて私は知っている。)

何てったって誰もいないこの北きつね牧場の独り占めの、幸福な(、幸福だった!)、その独り占め状態はしかし、ちょうど朝九時を境に破られた。中国語を話す大集団がやって来て、私の幸福な孤独は永久に失われた。(北きつね牧場を去るときに、大きなバスを目にしたから、どうやら彼らは観光バスでやって来たらしい。こんな辺鄙な北きつね牧場を訪れるプランが海の向こうで組まれているのかと思うと、なんだかすこしおかしくもあった。)

 

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(人間用の順路にお座りしているきつねだ。前脚を揃えて可愛いねえ。)

 

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(このきつねは私の靴をスンスンと嗅いで去っていった。)

 

順路を一回りするだけなら五分とかからない北きつね牧場に、四十分ほど滞在した。(人が増えるときつねもそわそわしはじめて、私ひとりのときよりも活発に動き回っていた。) 一生ぶんのきつねを目にした気がする。わざわざとおくバスに乗ってまで温根湯温泉にやって来た甲斐があるというものだ。

北きつね牧場から道の駅のほうへと戻り、次に私は水族館へ訪れた。北の大地の水族館だ。

 

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規模の小さい水族館とのことだから、どんなものかと思っていたが、これが存外に面白くて、たとえば滝壺を下から眺める趣向の水槽があった。温根湯温泉を訪れる際、北きつね牧場については多少調べていたものの、この水族館についてはほとんどノーマークの状態だったから、事前に期待をしていたわけでもなく入った水族館が趣向を凝らした展示をしているのを目にして、まず驚かされたのを覚えている。

 

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(水面が凍った水槽。)

 

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(なにやら可愛い両生類。)

 

この水族館には私以外にも数人の客が居た。バスはしばらく来ないはずだから、みんな自家用車やレンタカーでここまで来たのかなぁ、良いなぁと思いつつ、展示をひと通り見て回った私は、大部屋の隅のドクターフィッシュのコーナーでひとり、魚に手の皮を食わせていた。こうやってぼーっと魚に手の皮を食わせるのは楽しい。しばらくそうしているうちに、右手にも左手にもドクターフィッシュが寄りつかなくなったから、仕方がない、と観念して水族館をあとにした。乗る予定のバスが来るまでには二時間はある。結果はわかりきっていたが念のため一本早いバスがあるかを調べてみる。案の定そんなものは無かった。

北きつね牧場と水族館を見て回り、やることはもうなにもなかった。想定よりも長く暇な時間が出来てしまった。散歩して周囲を歩いてみるのも手だったが、雪深い道をすすんでゆくのにどれほどの時間がかかるかわからないし、バスの本数もまばらだから、結局道の駅からとおく離れるわけにもいかなかった。時間は二時間残っている。

腹が減っていたからスマホのマップで飯屋を探すと、幸いなことに道の駅の近くに一軒だけラーメン屋の表示があって、朝の十時からオープンしているという。ああ有難い、目が覚めてから何も口にしていないんだと思いつつ行くと、ラーメン屋は開いていなかった。なみひととおりでなく気持ちが凹んだ。

未練がましくその辺りを見て回ったり(、土産物屋などいくつかの店が軒を連ねている場所だった)、道の駅まで戻ったりしているうちに、時刻は十一時前、行くはずだったラーメン屋のすぐ近くの店が開いて、見ると飲食店のようだった。救われるような心持ちで二もなく入店した。先客はひとりも居なかった。

 

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豚丼を注文し、ゆっくり食べた。可能ならバスが来るまでのあいだ過ごしていたかったが、長居するのも恐縮で、三十分ほどで引き払った。その後は道の駅の建物内部のベンチのひとつでうたた寝をしながら一時間弱もの時間をつぶした。(屋外は耳が痛いほどに寒いが、屋内の窓際は陽射しがポカポカで良い気持ちだった。) そうしてようやくバスの時間が近づいて、乗り損ねるのが怖かったから十分前にはバス停の前に陣取った。雪に埋もれかかったバス停の前に佇んで、……佇んでいると寒くて仕方がなかったから、バス停の前をウロウロしていると、時間通りにバスは来て、ああ、二時間ものあいだ待ちに待ったバスがやって来た!

私は温根湯温泉をあとにした。

……多少無理をしてでも温泉まで歩いてゆき、日帰り入浴でもしてくれば良かったのかもしれない。

 

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昼下がりの空いたバスで留辺蘂駅までやって来た。ここから特急列車に乗って、旭川駅へと向かう。

 

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留辺蘂駅は無人駅だった。そういえばこの旅行で無人駅を利用するのはこれきりだった。


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(プラットフォームには私の足跡しかない。)

ホームの待合室には私ひとりしか居なかった。冬の無人駅にひとりぼっちで列車を待つのはなんだか心細い。風が吹くたび待合のドアはガタガタ鳴り、それがまた言いようもなく寂しかった。到着時刻が近づくと、駅のホームに放送が入って、定刻より十数分ほど遅れるという。放送が切れればふたたび私は一人ぼっちで、そのうちにもし列車が来なければ、なんて不安な心待ちにもなってくる。

その後、列車は予告どおりの遅れと共にやってきて、私は無事に留辺蘂をあとにした。事前に取っていた指定席へ向かうと、指定席車両の人の多さは満席に近く、まったく勘弁してくれという思いだった。無人駅でひとりぼっちも淋しいが、特急列車にたちこめる人いきれもまた煩わしく、なかなかままならないものだ。


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(この列車に乗って旭川へ向かった。やって来る列車をきちんとスマホで収めるつもりが、シャッターが遅れてとんでもなく見切れてしまった。下手っぴ!)

 

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(夕暮れの車窓。)

 

旭川駅へ着いた時刻は覚えていない。おそらく十七時よりは前だろう。モダンで巨大な旭川駅を脱出し、駅の近くのビジネスホテルへチェックインする。すこしだけ休憩し、夕食をとるため街へとくり出した。(夕食は旅の醍醐味の一つだ。酒を飲むようになる前はそのことが実感としてわからなかった。)

さて、旭川で私は、どの店に夕食へ行くのか事前に決めていなかった。というのも、旭川で食べたいものとして『新子焼き』(=若鶏を焼いて甘辛いタレを付けたもの)に目星をつけていたのだが、新子焼きを出す店は市内にたくさんあるようで、となると一つには絞れない。どうしたものかと迷いつつ調べていると、どうやら旭川には『ふらりーと』なる呑兵衛のための路地があるらしく、そこには新子焼きを出す店が何店舗か集中しているという。それならばまあとりあえずは『ふらりーと』まで行ってみて、それからは店構えやら何やらでピンと来たところに入れば良いかと考えるに至った。(『ふらりーと』なる路地がどういうものか、気になっていたのもある。)

 

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『ふらりーと』に到着した。夜の帷にとおく呑み助をいざなう黄色い灯りがつづいている。さあ、どの店に入ろうか。

 

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そうして私は『べてい』に決めた。こういった店構えの居酒屋、つまり外から店内の様子がわからないような店は入るたびに緊張する。若干の覚悟と共に引き戸を開けて、

……ああ、素敵な店だ!

店内を一目見てすぐに気に入った。昭和の雰囲気のある店内で、……とはいっても私は昭和を知らないから、昭和風の、とでも書いたほうが適切かもしれない。昔ながらの店構えで、……しかし、昭和風だとか昔ながらだとかそういった類いの形容をいくら重ねたところで説明にはならない。何と言えばいいのだろうか、つまり、何十年も前からずっと焼き鳥屋としてやっていた店が今もなお続いているといった風情の店で、当世に媚びるところの一つもない、飲み屋のなかの飲み屋、或いは、……どうだって良いや。要するに旭川に一軒の焼き鳥屋があって、その内装が琴線に触れた。(写真でもあれば良いのだが、写真をパシャパシャと撮り散らかすような雰囲気の店では無かった。)

私が訪れたのは十八時過ぎで、まだ晩も浅かったからか、店内はカウンター席に常連客の一人きりだった。(女将がひとりで切り盛りしている、ちいさな店だ。) 私もカウンター席に腰掛けて、まずはビールを頼んでから、おすすめが何かを尋ねてみると、チャップという部位が良いという。言われるがままチャップを頼み、お通しをつまんで備え付けのテレビを見ながら注文品を待つ。それからチャップがやって来て、爪楊枝でチャップを食べながら、最初のビールを飲みきった次は熱燗にした。それから私は、そうだそうだ、新子焼きを食べに来たのだからと思い出し、新子焼きを注文して、出来上がった熱燗をコップに手酌で注いで飲みながら、チャップをつまんで、……

 

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(新子焼き。)

 

……なにやらひどく寛いだ心地で酒を飲んでいたことを覚えている。新子焼きは多少値が張ったが旨く、しかしどんな味だったかは覚えていない。たぶん甘辛い味だったろうと思う。(とにかく旨くはあったはずだ。その上に量も多くて嬉しかった。) 熱燗をちびちびとやりながら、チャップと新子焼きのほかに焼き鳥を何種類か頼んだ筈だが、それも記憶があやふやだ。夜が更けるにつれて店内の客は徐々に増え、だが酒も進んでいたから人が増えても気にならなかった。新子焼きを食べては熱燗を飲み、焼き鳥を食べては熱燗を飲み、ああ熱燗のお代わりを下さい。あと焼き鳥の、××を二本……、店の空気はやわらかく、肩肘張ることもまるでなくて、しまいには私、最初から居た常連客と酒を飲みつつなにか話をしていたようだ。

旭川の冬の飲み屋で、良い具合に酔っていた。

 

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ビール一杯と熱燗三合、チャップと新子焼きと焼き鳥数本で『べてい』を、『ふらりーと』をあとにした。二軒目に行こうか迷ったが、翌朝もまた早いから、ビジネスホテルまで戻り、翌日に備えて早々に眠った。(気持ちよく飲んだあとの帰り道は、冬の夜の雪道だろうと心身ともにポカポカとして、心地良かった。)

 

 

*五日目(旭川→(札幌)→函館)

早朝の六時前には起床した。本日は午前中を丸ごと使って函館までの大移動だ。

 

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(早朝の旭川駅。遠くからズームで撮ったところボケボケになってしまった。)


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六時四十五分発の特急に乗って旭川を後にし、まずは札幌駅へと向かった。この列車は自由席を利用したが、人がほとんど居らず快適だった。


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札幌駅に到着後、二十分弱の乗り換え時間を経て、八時四十七分発の函館行きの特急に乗る。函館までの乗車時間は長かったのであらかじめ予約しておいた指定席を利用した。指定席車両はほとんど満席で、或いは完全に満席だったかも知れないが、そんなことはいちいち確認していない。

 

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札幌駅の乗り換え時間で購入した駅弁を車内で食べた。加熱式の駅弁も気になってはいたが、満席に近いであろう特急列車の車内で加熱式弁当を温めることを想像すると気後れし、そのために寿司を購入した。しかしいざ車内に乗り込むと、加熱式の駅弁を購入していたツワモノがすぐ近くに居て、ああ私もそちらにしておけば……、などと多少の後悔をしながら、朝飯代わりの寿司を食った。

この日の午前中については他に語るべきところはない。景色を眺めたりうたた寝をしつつ、とにかく列車で移動していた。

 

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デデドン! 函館駅に到着した。時刻は十二時半をすこし回っている。乗り換え時間も含めれば六時間弱も移動していたことになるが、別段身体が痛くなるようなこともなかった。きっとまだ若いからだろう。

函館には大学二年生になる直前に一度訪れたことがある。鉄道に造詣の深い大学の友人ふたりに連れられて、関東から札幌までの旅の道中だった。その際に市電で各地を回ったり函館山に登ったりと、多少の観光はしていたから、今日は函館を見てまわるつもりは別になかった。では一体なんのために函館へ?

 

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一つ目はここ、ラッキーピエロに行くためだ。前回函館を訪れた際は昼食も夕食もラッキーピエロで食べたのだが、とても美味しかったことを覚えている。あれから五年、もう随分とご無沙汰だから、フリーきっぷもあることだし、ひさびさにラッキーピエロを食べにやって来たという訳である。

 

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さあ昼飯だ。チャイニーズチキンバーガーは相変わらず美味しくて、私の写真だとしょぼくれてしまっているが、こればかりは写真の下手さが恨めしい。(前回訪れたときは昼にはチャイニーズチキンバーガー、夜にはたしかカレーを食べた。あのときのカレーも美味しかったから、折角ならばバーガーだけでなくカレーも注文すれば良かったのに、どういうわけだか私はそれをしなかった。今これを書きながら、カレーを注文しなかったことを非常に後悔している。私がふたたび函館へ行くことはあるのだろうか。ラッキーピエロのために三日ほど函館へ行きたい。)

ラッキーピエロをあとにして、ビジネスホテルのチェックイン開始までの時間を、手近な場所のパチ屋で潰した。今回函館は食べ物のためだけに来たのだから、観光をする気は毛ほども無く、事実私は函館を去るまで一切の観光をしなかった。

(余談。今回の旅行で私は北海道のいくつかの都市を回ったが、同じ道内でも寒さの度合いは全く異なった。もちろん日によって差はあるのだろうが、たとえば函館や札幌は分厚いダウンでは暑いくらいで、前を開けたり腕にかけつつ街を歩いた。その一方で北見や留辺蘂はしっかりと(?)寒く、ダウンだけでは覆えない耳が冷たく辛かった。あれほど寒い地域へ行くならヘッドホン型の耳覆いを持参するのも無駄ではないのかも知れない。)

十五時になったのでホテルにチェックインをした。部屋でしばらく休憩し、それから今日の夕飯を買いに出る。

 

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ハセガワストアだ。これも函館にやってきた理由のひとつで、と言うのも前回の旅で函館に来たとき食べ損なってしまったから、今回はそのリベンジも兼ねてやって来たというわけだ。リベンジとは言ったものの、購入自体はあっけなく済み、名物のやきとり弁当を持ってホテルの部屋へと戻った。

 

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やきとり弁当! 夕飯はやきとり弁当だ。その他にもセイコーマートで酒やら菓子やらを買い込んだから、それらを食べたり飲んだりしつつ、函館でひとりぼっちの宴会をした。

(せっかくの函館にも関わらず、どこも見て回らなかったが、旅の中にも一日くらいはこういった日があったって良いだろうと思う。)

 

 

*六日目(函館→森→札幌)

翌朝、目が覚めてひどく気分が悪かった。やらかした、典型的な二日酔いだ。閉じ切った空間でひとりで酒を飲んでいると、どういうわけだか調子が外れて限界間際まで突っ走ってしまう。大学時代も私は頻繁にこんな調子で飲んでいた。とりわけ留年以降の日々はそれが顕著で、数少ない友人のほとんどが卒業・就職し日本各地に散ったなか、私だけが大学五年生をやっていて、後輩に知り合いもいないから、ほとんどひとりぼっちでいた、そんな日々の退屈や孤独や希死念慮のうちに酒量は増え、日が沈むや否や酒を身体に流し込んだ。値段が安いストロング系飲料や、紙パック入りの一リットルワインは私の強い味方(敵)だった。……不愉快な二日酔いの日はこうやって、不愉快な大学時代を思い出してしまう。

ちょっと勘弁してくれよ、と思うくらいに調子が悪かった。函館に来た目的のひとつに海鮮丼を食うことがあったのだが、そんな気分では更々なかった。だが食べずに帰るのももったいなくて、しかしそれほどたくさんの量を食べられるはずもない。ビジネスホテルをチェックアウト後、リビングデッドのような心地で海鮮市場を徘徊し、量のすくない海鮮丼を出してくれる店を探した。食品サンプルや店先の写真を眺めつつ、行けども行けども威勢の良い盛りかたの店ばかり、普段ならこういったものに喜んで飛びつくが、今はただもうその半分で良いのに、勘弁してくれよ、どこか安息の地はないか、客引きは止してください、なにか二日酔いに効く薬はないか、とにかく座って落ち着きたいが、助けてくれ、助けてくれ、そう思いつつふらふらと歩いているうちに、ここはと感じる店がある。店先のメニューによるとハーフサイズで出してくれるうえ、乗っけるものも選べるらしい。さあどうしようと悩んでいると、「すぐ入れますよ」と声をかけられ、アアでしたらそうしますと、特に逆らわず入店した。(もとい、逆らう気力も店を探す気力も残っていなかった。)

 

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グッタリしたまま注文し、しばらく待つと海鮮丼がやって来た。味噌汁の器と比べてもらえば分かると思うが、ご飯茶碗よりもすこし大きいくらいのサイズだ。ありがたい大きさではあるものの、この大きさですら今の状態で食べ切ることができるかわからない。残したら申し訳ないなぁと思いつつ、まずは味噌汁に口をつけ、

……そうして私は生き返った。あまりに急で、嘘のような話だが、温かい岩海苔の味噌汁がてきめんに効いて、みるみるうちに私は二日酔いから復活したのだ。ほんとうに。自分でも驚いてしまうくらい急に、岩海苔の味噌汁は二日酔いの影響を私のなかから消し去ってしまった。

 

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こうなれば途端に海鮮丼はその本来の輝きを取り戻す。ウニもイクラもとても美味しく、すぐに完食してしまい、今度は量が足りなかった。もっと海鮮丼を食べたかったが、何がきっかけで二日酔いの苦しさがぶり返すかもわからない。これから列車に乗るのだから、リスクの高いことは避けたくて、二杯目の海鮮丼を諦め私は駅へと向かった。結果的に満ち足りて終えた朝食だった。

(惜しむらくは私はこの店の名前を覚えていない。私を二日酔いから救ってくれたあの店は、なんという名前だったのだろう。)

 

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十時五分函館発の特急に乗った。途中下車の森駅まではすぐなので指定席を取らずにいたが、自由席は空いていた。人の流れを見るにむしろ指定席ばかり混雑していた。


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十一時前に森駅へ着いた。列車に乗っても問題はなく、二日酔いからは完全に助かったようだ。

森駅での滞在は四十分程度、つまり次の特急列車がやって来るまでの時間を想定していた。というのも、ここに来たのはたった一つの目的のためで、

 

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そう、森駅へはいかめしのためだけに立ち寄ったのだ。子供のころから桃鉄で森駅のいかめし屋は何回も独占してきたものの、実際に食べてみたことは一度もなく、どんな食べ物かずっと気になっていたものだから、これを機に現地に行って食べてみることにした。

 

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『いかめし』は想像していたよりも小さな折詰の駅弁だった。柴田商店にて購入した『いかめし』を駅の待合室に持ち帰り、開いてみると、中には二匹のイカが居る。イカのなかにはモチモチとした米が詰まっていて、なるほどこういう仕掛けなのかと思いつつ、改札待ちの時間のあいだにモッチャモッチャと完食した。

 

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(森駅からすこし歩いたところの道路。気持ちの良い冬の朝だ。)

 

駅舎のなかで待っていると、そのうちに改札の時間になったから、駅員にきっぷを見せてホームに出た。これでもう旅の行程はほとんど終わったようなもので、あとは札幌に戻るだけだった。そうして明日には千葉へと戻り、以降は就労の準備が始まってくる。四月からは労働者になるのか、ああ嫌だなぁなどと考えつつ、ふと目を上げると、

……ホームの景色に心を打たれた。何の気もなしに、ただ列車を待つために出たプラットフォームは、先ほど下車した際には気が付かなかったが、素晴らしい雰囲気の場所だった。

 

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ホームの奥には低い壁を隔てて海が見えた。とおく海には船が浮かび、すぐ向こうにはカモメが飛び交っていた。


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向かいの乗り場には函館へ向かう鈍行列車が停車していた。ゴウンゴウンと音を立てる鈍行列車と、ときおり鳴きかわすカモメの声、それ以外はまったく静かな場所だった。私以外の誰も居ない。(直前になってひとりの男が同じ列車に乗るため現れた。)

 


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跨線橋内部の空気は昼前の陽射しで柔らかかった。窓には海が見える。


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特急列車が来るまでの時間を、おだやかに感じ入るような心地で過ごした。もっぱら駅弁を買うためだけにやって来た森駅のホームが、こうやって風情のある場所だとは思ってもいなかった。

何よりも人が居ないのが素晴らしかった。駅舎には何人かの人が居たが、ホームにはほとんど私ひとりきりだった。駅にしろちょっとした景勝地にしろ、その場の情趣を精いっぱい感じ取りたいならば、周りに人は少なければ少ないほど良い。その点において森駅は言うことなしだった。(もちろんこれは旅行者の勝手な言い分だ。)

(余談。現地に赴き情趣を楽しむ、これは旅の醍醐味のひとつだが、情趣のある場所であろうと人が大挙して訪れればまるで台無しになってしまう。その良い例が下灘駅で、もしあの場所に独りぼっちの情趣を求めて夕方にでも赴けば、ホームにひしめく人混みに、居た堪れなくなること請け合いだ。人の姿を避けるようにして画角を切り取り、『映える』写真を撮るだけならばそれでも大いに結構だろうが、今や下灘駅は旅情を期待して行く場所では決してない。私は救いがたいほど愚かだから、四年前の初夏に四国を一人旅した際、そんな旅情を求めて下灘駅に降り立って、激しく後悔する羽目になった。あんな場所には行かないほうがマシだった。)

 

十一時三十八分発の特急に乗って森駅をあとにした。もう少しだけ森駅のホームの雰囲気を感じていたかった。

その後、十五時前に札幌駅へと到着した。旅先での最後の夜だ。ホテルへとチェックインし、シャワーを浴びてひと休みして、夕方になってから出かけた。

人と会う約束があった。

私は旅の締めくくりを、札幌に居る友人らと会って終わらせることにした。

 

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友人二人を伴ってスープカレー屋に訪れた。彼らは大学の頃からの友人であり、また私が留年しても札幌で会うことの出来た唯一の友人たちでもあった。(片方は同じ大学の大学院へと進学しており、もう片方は卒業後も札幌に暮らしていた。)(すでに卒業しているほうの友人が、一日目にも会った彼だ。) 私が北海道に居ることを知った友人が私に連絡を取って、三人で会う運びとなった。

彼らと会って話していると、まるで大学時代に戻ったような気分だった。それもそのはずで、我々の境遇は昨年度からほとんど変わっておらず、唯一わたしだけが留年大学生から無職へとジョブチェンジを果たしていたものの、留年大学生と無職の差異など無いに等しいものだから、畢竟我々は昔と同じ状態だった。大学五年生の頃、彼らと会っていた時分とほとんど同じ心持ちで、スープカレーを食べながら、とりとめのない話をして、それがなんとも懐かしかった。

晩飯を終えれば二次会だ。コンビニで酒やつまみを買い込んで、大学院へすすんだほうの友人宅へとなだれこむ。さんざ訪れたアパートの部屋で、しかし彼は大学院を卒えれば地元で働くらしいから、この部屋もこれで見納めになる。(友人たちが一年早く札幌を引き揚げていった際にも思ったことだが、慣れ親しんだ知人の部屋に今となっては赤の他人が住んでいることを思うにつけ、いわく言いがたい寂しさを覚える。座標が同じ部屋であろうとそこは見知った友人の住居ではなく、とうぜん私たちが集まる場所でもない。)

そうして私たち三人は彼の部屋で、これまた昔と同じように過ごした。気兼ねない大学生の心地で過ごす、最後の機会があの時間だった。私は無職の生活を終え、部屋の主たる彼も地元へ帰ってゆく。北海道と宮城と千葉、我々三人で会うことは或いはふたたび無いかも知れず、しかしそんなことなど忘れたように、ケラケラと笑って過ごしていた。大学生活の落ち穂拾いか、ふいに訪れるロスタイムのような、この上なくありがたい時間だった。

あっという間に夜は更けた。円山に住む友人が地下鉄の終電に間に合うように、日付の変わる前に解散した。地下鉄の駅まで友人を送り届けたあと、ビジネスホテルへの帰路に私はひとりきり、札幌の深夜はやはり静かで、……不愉快な思い出で満ち溢れていた筈の札幌を、こんなにも懐かしいような寂しいような心地でふたたび歩くことになるなんて、想像してもいなかった。

ビジネスホテルにたどり着き、支度を済ませて眠った。旅の終わりの最後の夜はいつだって寂しいが、大学生活の追想のような今晩はその寂しさもひとしおだった。

 

 

 

*七日目(札幌→新千歳→成田)

七日目は単なる帰路に過ぎなかったから、何一つ書くべきことはない。目が覚めてチェックアウトし、空港まで移動して時間を潰して、それから飛行機で成田へ帰った。それだけだ。無理になにかを書こうとすれば不愉快ばかりが溢れ出て、たとえば土曜日の新千歳空港の人混みは心底耐えがたかった。

この日唯一の良かったことは帰路の格安航空が珍しく定時運行をしていたことで、これまでも私は成田新千歳間は格安航空で何往復もしてきたが、定時で到着地に着いたのはこれが初めてだったような気がする。それが唯一の良かったことだ。

 

 

****

これが私のモラトリアム終焉直前の旅行の全てだ。在学中はさして見てまわることの出来なかった冬の北海道を、多少は堪能できたと思う。平日の期間を主として各地を回ったお陰か、人の数の煩わしさに辟易することも多くはなく、また札幌の友人らと大学生の頃のように会って話せたのは素敵だった。

四月から私は働き始めることになる。働きはじめれば旅に出られる機会は格段に減るだろうし、またそういった機会に恵まれた際にも土日を用いた旅行が主となる筈だ。そうやって土日を用い、いざ旅先に赴いたところで、旅先は同様の考えの社会人らで混み合っているだろうから、人いきれのなかきっと私はいたたまれなくなるだろう。旅に出たことを幾分後悔する羽目になるかもしれない。今回のような旅、平日を主として一週間を用いた気楽な旅はふたたび出来ないのではないかとすら思う。

何か明るいことを書いて締めくくりたかったが、旅を終えてしばらく経った今の私には、就労への不安と諦観ばかりが残っていて、明るいことなど書けそうにない。……ただ、この旅の局所局所に、いくつかの忘れがたい、素晴らしい瞬間が存在していたことは確かだ。そういった記憶をよすがとして、これからの労働者としての生活を、まあ、結局のところ、やっていくほかないのだろう。

 

海とユータナジー(小説)

 誰しも、心穏やかに過ごした生涯の一時期をひっそりと胸中に抱いているものだ。それはたとえば、ひたすらに落書きをして過ごした夕方の留守番のひとときであったり、或いは風邪を引いて学校を休んだ昼下りの家の透き通るような静けさの思い出であるかもしれない。いずれにせよ、誰であろうと心穏やかに、気兼ねなく過ごした記憶を、時期や内容に差こそあれ、幾つかはたしかに持っている筈だ。

 私は違う、とあなたは言うだろうか。私にはそんな時期はなかった、今現在もそうであるようにいつだって苦痛や激情に塗れながら気張り通しの生涯だった、と、あなたは断定のように言い放つかもしれない。或いはあなたはこうも付け足して言うだろう、つまり、よしんば穏やかな思い出とやらがいつかの私にもあったとして、とおくかすかに立つ陽炎のような、そんな無力な思い出どもが、生き馬の目を抜くがごとき今の社会でやっていくに当たっていったい何の役に立つのかね、と。そんな思い出なぞは有ろうが無かろうがどうだって良いだろう、肝心なのは今現在のみずからの地位や財産ではなかろうか? なあ君、年収はいくらだ? と、そう言ってあなたは自分でも気がつかぬうちに顔を歪めておぞましく笑う。

 しかし、(と、私はここであなたに異を唱えたい。私は穏やかな思い出を擁護するところのものであるから。) しかし、生活の苦難や激しい感情の連続を前にして、ともすれば霞んでしまいがちな平穏な日々の思い出を、今この瞬間に思い起こせないばかりに丸ごと無かったことにしてしまうのは、果たして現前する苦痛や激情に呑まれた挙句の錯誤ではないと、あなたはそう言い切ることができるだろうか? それに、あなたがいま送っているであろう修羅のような日々のために、なにもあなたの思い出までをも雑紙か何かのように火にくべてしまうことはないだろう。そして、思い出を火にくべてしまうよりもなお悪いのは、思い出のかすかな呼び声にもっぱら耳を貸すこともなく、狭い木箱に割れた陶器と一緒くたに封じこめ、修羅のような日々にあわせてみずからも修羅と成り果ててしまうことではないだろうか?

 ……だが、こんな御託はどうだって良い。こうやってごたごたと書き連ねることも、まるで修羅や激情に属することのようで、よろしくない。

 ブローティガンのような気持ちで書いていこう。

 これから私が書くものを読んでもらえれば、あなたはきっと、忘却の淵に沈んでしまった平穏な日々の断片や、忘れたふりを決め込んでいる心穏やかな記憶の破片、或いはそういった記憶に伴うゆるやかな情動を、連想のように思い起こすことになるだろう。

 私はあなたに、かつて私がこころよく過ごした場所のことを書いてあげようと思う。何しろずいぶん長いこと暮らしていたから、今でもたくさんのことを覚えている。きっとおだやかな、それでいてなんとなく愉快な話になるだろう。西瓜糖の匂いを思い出すように、あなたに読んでほしいと思う。もし可能ならば落ち着いた心地で、それも、ゆっくりと読んでほしい。

 そのころ私は海で過ごしていた。海の名前は最後までわからなくて、単に『とてもあかるい海』とだけ呼んでいた。だから今からあなたにするのは、とてもあかるい海の話だ。 
 

*海、その一

 とてもあかるい海にはいつも私が居るきりだった。あんなすてきなところに誰も行こうとしないだなんて、いま思えば不思議なことだが、……しかし、『いま思えば』だなんて野暮な言いかたは止そう。というのも、かつて私が過ごした日々は、『いま思えば』何から何まで不思議な日々であったのだから。

 とてもあかるい海がどんなところか、案内するように教えよう。簡単なことだ。草のトンネルをすこし歩いて抜けてしまえば、それでもう、とてもあかるい海に着く。いつだって私はそのように行った。それがいちばんの近道だったもの。

 その海はなんと言ってもとてもあかるい海だから、砂浜に一歩足をふみこむと、あまりの日差しにとっさにつむったまぶたの裏が真っ白になって、何も見えなくなってしまう。(私だけでなくあなたもきっとそうなるだろう。) 目をかたくつむって立ち止まっていると、そのうちなんとなく慣れていくから、しばたたかせたりしながらも慎重に、まぶたを段々とひらいてゆくと、みずいろの海と白い砂浜がとおくまで広がっているのが、ぼんやりとわかるようになる。

 それで、このあたりでようやく、「まぶしい」って言葉が頭に追いついてくるわけだ。

 耐えがたいほどの白さがまぶしさへと代わり、そしてまぶしさにも慣れてきたあなたが、とおく海を眺めたり、いつだって誰もいない砂浜を目を細めながら見渡していると、じきにまわりの白砂が、コップに移したソーダ水のようにパチパチと跳ねているのに気がつくだろう。(とてもあかるい海の砂は、だいたい足首くらいの高さまで跳ねるんだ。)

 そうやって砂が跳ねるのをあなたはなにか珍しいものを眺めるように見るかもしれない。もしあなたが裸足であれば、自分のまわりの砂だけでなく、足の裏にもパチパチと跳ねる砂の感触を覚えるだろう。それは心地の良い感じだから、すぐにあなたの気に入るはずだ。

 それからあなたは砂のことはひとまず置いて、あかるい海へと泳ぎに行く。気のすむまで泳いだり浮かんだりしたあと、波打ち際まで戻って来れば、浜辺には気持ちよさそうに跳ねる砂があるから、あなたは我慢しきれず横になってみるだろう。砂の上へ仰向けに横たわったまま目を閉じて、(まぶたの裏はまぶしくて白い、)背中には跳ねる砂の刺激を感じながら、きっとあなたは思うはずだ、「ああ、これは良いね」、と。

 さて、日差しがまぶしくてパチパチと砂の跳ねるきれいな海、これがとてもあかるい海のすべてだ。

 

*海、その二

 とてもあかるい海で私は不愉快を抱えなかった。朝が来るたび私はとてもあかるい海に行って、砂浜に足を踏みこめば、真っ白なまぶたの裏の明るさに、嫌なものが蒸発してしまうようだった。

 (嫌なものっていうのは、だいたいが前の晩に見た悪い夢のことなんだ。)

 それに、とてもあかるい海に退屈することだってなかった。だいたい、晴れた海と白い砂浜(それもパチパチと跳ねるやつだ!)を前にして、思い悩んだり退屈したりするほうがよっぽど馬鹿らしい。

 いや、違うかな。

 馬鹿らしいとか、そんなことを考える暇もなく、私はとてもあかるい海を、単に心から楽しんでいた、とそう言うほうが正しいだろう。

 とりわけ私はよく横になっていた。すこし沖のほうまで泳いでいって、あおむけに目をつぶり、海を枕にぷかぷか浮かんでいるのが好きだった。波の具合でときどき顔に水をかぶることがあって、そんなときにはクジラの潮吹きみたいに口から水を吹いてから、まぶたの裏越しにお日さまに笑いかけてやる。沖で浮かぶのに満足したら、浜まで泳いで戻ってきて、今度は砂の上にあおむけになる。私はこれも好きだった。背中や腿の裏にパチパチ跳ねる砂の感じはとても良くて、しかし跳ねて顔に乗る砂は厄介だから、シャツで顔を覆ったり、それか顔だけ日陰に入るようにする。(日陰の砂は跳ねないんだ。) しばらくすると身体の下の砂も跳ねなくなるから、そうしたら隣にずれたりするか、ふたたび沖まで泳いで出る。

 そのあいだじゅうずっと、海も日差しもとてもあかるいままだ。

 

*海、その三

 そうやってとてもあかるい海にしばらく居ると、そのうちにどこからか口笛のような音が聴こえてくる。長いしずかな口笛で、周りを見ても誰もいないから、ほんとうは口笛ではないのだろう。しかし、たとえそれが口笛ではなく、たとえば風の音だとしても、風は口笛を吹いてはいけないなんて決まりはないのだから、その口笛のような音、やっぱりそれは口笛だ。私はこの口笛だって気に入っている。

 口笛が聴こえているあいだ、砂はパチパチと跳ねるのをやめて(口笛に遠慮しているのだろうか?)、とてもあかるい海は波音と口笛きりになる。そのあいだ私は、目を閉じてあおむけになったまま、それらに耳をすませていたり、あるいは調子をあわせていっしょに吹いてみたりする。節をまねて歌ってみようとしたこともあるけど、それはなんだかうまくいかなくて、一度やってみただけで止した。

 だからだいたい、しずかに聴いていることが多かったかな。

 しばらくして口笛がやむと、ふたたび砂がパチパチと跳ねるようになる。しかしすぐにもとどおりってわけではなくて、まるで遠慮がちな拍手みたいなんだ。つまり、口笛が終わってからすこしすると、勇気のある最初の一粒の砂粒が跳ね、それにつられてまわりの砂も跳ねるようになり、それがだんだんとひろがっていく。

 そうやって砂浜はもとどおりのパチパチした砂浜になる。

 しかしときどき、いつになっても最初の一粒が跳ねようとしないことがあって、そんなときには私が砂をひとつかみ掴んで放り投げてやることにしている。そうすると、投げた砂の落ちた場所から呼びあうように砂が跳ねはじめて、それが浜全体に広がっていく。あれを見るのはとても愉快だ。

 だから私は、口笛が終わったあとにもしばらくはじっとしたまま、砂の跳ねはじめる音が聴こえるかどうか、耳をすませて待つことにしていた。砂の音が聴こえればそのようすを眺めるし、砂の音が聞こえなければ砂を投げてそのようすを眺める。

 

*ユータナジー

 口笛が終わり、もとどおり砂が跳ねている浜を見るころには、だいたい私は満足している。

 もう、今日は十分かな。

 それで私は砂を払って服を着て、草のトンネルを通り、私が暮らす場所へと帰る。トンネルをくぐっているあいだは振り返ってはいけないんだ、何故って、とてもあかるい海に戻りたい気分になってしまうから。そんなことを繰り返していたら、いつまでも海から離れられずに困ってしまう。

 それに、また明日だって来られるのだもの。

 草のトンネルを抜けてリコリスの畑を越え、橋を渡ると、ユータナジーに着く。とてもあかるい海とは違って、私が住んでいたところには名前がある。

 それがユータナジーだ。

 むかしユータナジーといえば、とてもあかるい海までふくんだ辺り一帯を指していたという。しかしいつからか、とてもあかるい海はユータナジーからはずれてしまった。それに、これまでユータナジーだった場所に暮らしていた人びとも居なくなって、それとともにユータナジーと呼ばれる範囲も狭まってゆき、いまでは私が暮らしているこの建物だけがユータナジーと呼ばれている。

 だから、この辺り一帯にも、とてもあかるい海にも、もはやほんとうの名前なんて無いのかもしれない。名前があるのは、石造りの、幽霊屋敷のような、このユータナジーだけ。

 ドアを開けてユータナジーに入ると、うす暗いロビーには一見誰もいないようだった。しかし私にはわかっていたから、すこし周りを探してみると、思ったとおり、ひとりのボーイがランプのかさを掃除しながらそこに居た。

「ただいま」と、私は彼に言った。

「お帰りなさいませ、ムシュー。海からお帰りですか」と、手を止めてボーイは言った。彼は私をムシューと呼ぶ。ムシュー、ムッシュ、そう呼ばれるのはなんだか素敵だ。

「うん、そうだ。とてもあかるい海だよ」と、私は言った。

「なにか御用でしょうか」と、ボーイは言った。

「いやなに、ただ挨拶をしたくてね」

「左様ですか」

「うん、それじゃまた」

「ごゆっくり」

 そう言ってボーイはふたたびかさを拭くのに戻り、私は部屋へと休みにもどる。

 

*ボーイ

 ユータナジーのボーイとは長い付き合いだ。私がここで暮らすようになってから、彼はずっとボーイとして私の面倒をみてくれている。

 私と彼はずいぶんうまくやってきたんだ。

 たとえば、私が彼に用事があるとき、ロビーに降りて周りを見渡してみればいい。そうすれば私は彼を、たとえばデスクで書き物をしていたり、床を掃除していたり、あるいは壁際に何をするでもなく立っている彼を、すぐに見つけることができる。私は彼のそばに寄って、彼に用事を言いつける。

 一方で(、これは珍しいことではあるが)、彼のほうで私になにか用があるときは、私がロビーを通ったときに、視界のすみで彼の姿がかすかによぎることがある。それはつまり、彼が私に用事があるということだ。彼はふだん、周りを見渡しでもしない限り、私の視野に入りこむようなことをしないから、もし彼のすがたが視界に入れば(あまりにそれとない調子で視界のすみに、かすかに姿がよぎるのだ!)、それはすなわち彼のほうで私に用があることを意味する。そんなときには、私は彼の意図に気がついていないような、偶然挨拶する気になったようなふりをして彼に近づいて、言う。

「やあ、おはよう」

「おはようございます、ムシュー」

「これから海に行ってくるんだ」

「左様でございますか」

「良ければ砂でも取ってこようか」

「砂は結構でございますが、ムシュー、もしご迷惑でなければ、……」

 こんな調子だ。

 そうやって私たちは長いことずいぶんうまくやっていた。

 

*宿泊料

 ボーイに挨拶をして私はじぶんの部屋に戻った。

 私の部屋は簡単な部屋だ。書き物机と椅子、ランタン、ベッド、衣服棚、それと壁には窓がある。

 窓を見れば、外はあかるい盛りのようだった。もちろん、とてもあかるい海のあかるさには、ユータナジーはとうてい敵わないけれど。

 書き物机の上にはいつも、ランタンのほかにはなにも置かないことにしている。ボーイが毎日、私が海から帰ってくるまでに領収書を置いていくから。ほら、今日だって置いてある。(今日は銀色の縁取りの領収書だ。) この領収書だってむかしはなかったのだから、私はこの話もしなければならない。

 たしかユータナジーが今よりももうすこし広かったころのある日、どうしても支払いが気になって、ロビーで私はボーイに訊いた。(そのとき彼はちょうどデスクでなにかを仕上げているところだった。)

「ねえ、今いいかい」

「ええムシュー、何なりと」ボーイはデスクから顔を上げずに言った。

「私はずいぶん長いことここで暮らしているよね」

「お気に召していただけたようで何よりです」

「いつからここに居るかも覚えていないんだ」

「なにぶん長いご滞在ですから」と言いながら、ボーイは紙にハンコを押した。

「それで、支払いもずいぶん溜まっているんじゃないかなと思うんだ」

「支払いは、」と、ここでボーイはデスクから目を上げて私を見、「もうお済みですよ」と言った。

「ほんとう?」と、私はびっくりして言った。

「ええ、毎日しっかりとお支払いいただきありがたいです、ムシュー」

「毎日? 誰が払ってくれているんだろう」

「他ならぬあなたからいただいておりますよ、ムシュー」

「でも私はずっと、なにも払ったことがない気がするのだけれど」と私が言うと、ボーイはひと呼吸置いてから、しずかな口調で、尋ねるように、

「ねえ、ムシュー。本日は海に行かれないのですか」といった。

「海には行くけど、でもね、」

「何も心配なさることは無いんですよ、ムシュー。では、いってらっしゃいませ」

 そう言ってボーイは頭を下げ、それで私たちの会話は打ち切りになる。(こうやって彼が話を打ち切ると決めれば、私はそれに従うほかない。)

 さて、その日、とてもあかるい海から戻って部屋に入ると、書き物机のうえに赤い縁取りのついた紙が置いてあって、見ればボーイの字で『本日ぶんの宿泊料、たしかに頂戴いたしました』とだけ書いてあった。

 つまり、これが領収書ってわけだ。

 その日以来、海から帰ってくるたびに別の領収書が書き物机に置かれているようになった。(文面はいつだって同じだが、縁取りの色が日によって違うのだ。)

 毎日律儀に領収書が置かれているってことは、私はたしかにボーイに何かを支払っているはずで、……しかし、何を支払っているのだろう?

 でも、ボーイが心配しなくて良いって言っていたのだから、心配しなくて良いのだろう。いつだって彼の言うことに間違いはないのだから。

 領収書をそのままにして、私はベッドに横になり、すこし休もうと思って目を閉じた。

 

*夜をとばして、朝

 夕食の時間まで休むつもりでひと眠りしたら、朝になっていた。

 これはたまらないや。

 ユータナジーで私はまれにこうやって、夕食を忘れて次の朝まで眠りこんでしまうことがある。そういうことはたいてい、とてもあかるい海で過ごしすぎて疲れてしまった日に起こるから、とてもあかるい海がいくらすてきな場所だからといって、あまり長くは居ないように、気をつけなければならないわけはそこにある。

 ユータナジーの夕ごはんを食べそこなってしまうなんて、もったいないからね。

 けれど、ひさびさに悪い夢も見ないでよく眠れた。窓の外からはあたらしい日がさしている。昨日とおなじように今日も晴れだ。とてもあかるい海の砂は、はやくも跳ねているだろう。

 私は食堂に降りていって朝食にしようと思った。それで、ベッドから起き上がり、廊下へのドアを開けようとノブをひねった、その瞬間、となりの部屋のドアがきしみながらひらく音がした。

 こういうときは、すこし待ったほうが良い。

 私はドアノブをにぎったまま、開けようとしたじぶんのドアをひらかずに、息をひそめる。そのまま耳をすませていると、となりのドアを開けた誰かは廊下へと出てドアを閉め、階段のほうへと遠ざかっていくようだった。その足音はだんだんと小さくなってゆき、階段へとさしかかるころには、まったく聞こえなくなった。

 私はその足音が消えてからもしばらく待って、それからゆっくりとドアを開けた。薄暗い廊下に出て、右にも左にも誰もいない、しずかな廊下だ。私はホッとひと息ついて、それから食堂に行くために、階段のほうへと歩いていった。

 

*幽霊たち

 ユータナジーでひとの姿を見かけることはほとんどない。もちろん、ロビーで辺りを見渡せば、ボーイを見つけることはできる。けれど、ロビーや廊下でボーイ以外のひとの姿を目にすることは、全くと言っていいほどに無いんだ。もちろん、ユータナジーに暮らしているひとの数が少ないっていうのもあるのかもしれないけれど、私たちはたがいに顔を合わせないように、日ごろからそれとなく気を配ってもいる。

 だから、姿を見ることこそ滅多にないが、ささやかな気配を感じることはしきりにある。

 たとえば、うすくひらいた窓の隙間から、ひそかなささやき声を聞くことがある。

 たとえば、階段をのぼりきったその瞬間に、私の部屋とは反対側の廊下の扉が、まさに閉まったことがある。

 たとえば、ロビーのソファで本をめくっていると、嗅ぎ慣れない香水の匂いが鼻先をよぎることがある。(顔を上げればボーイが閉まりゆく玄関ドアにお辞儀をしている。)

 そうやってユータナジーで気配を漂わせるように暮らしながら、他人どうしの私たちは互いに会ったり、話したりすることはほとんどない。だから私は、いまユータナジーに暮らしている人間は、或いは私とボーイだけなのではないかと考えたりもする。私と彼だけが生きている人間で、ほかのささやかな気配や声、足音や匂いは、すべて幽霊の仕業ではないのか。

 そんなことを考えて、ユータナジーの幽霊たちを、懐かしいように感じている。

 私にとって彼らが幽霊であるように、彼らからしてみれば私こそが幽霊であるのだから。

 

*めずらしい、人

 階段を降りて食堂に入った。私が朝食にするころには、朝もずいぶん遅いからか、食堂にもやっぱり大抵はひとがいない。だから、誰もいないだろうと思いながら食堂に入ったのだけれど、今朝はいつもとは違っていた。

 食堂は、全体としてうす暗いユータナジーの建物のなかでは珍しく、大きい窓が光を取りこんでいてとても明るい。こんな朝も遅い時間に行けば、日の光がたくさん差し込んでまぶしいくらいだ。なので私はいつも決まって窓から離れた隅の席で朝食をとる。

 それで、その日私が見た彼らは、光のまぶしい窓際の席に座っていた。

 年老いた夫婦のようだった。むかいあわせに座っている彼らの、こちらに背中を向けているのは老人で、ナイフとフォークで取り分けながら何かをしきりに口に運んでいた。(きっとパンケーキだろう。) いっぽうで老人と向かい合って、つまりこちらに顔を向けて座っているのが老夫人で、彼女はティーカップを啜っていた。光がまぶしかったせいで、顔を見ることはできなかったけれど、たぶんうつむくようにしていたはずだ。

 さっきの廊下の足音は、彼と彼女の、どちらかのものだったのだろうか?

 私は食堂の配膳台まで歩いてゆき、プレートにハムエッグスとキャベツ、それとソーセージを取り分けた。(ユータナジーの朝食はバイキングだ。) それからオレンジジュースとバターのかけら、あとはパンを二つ取り、最後にハムエッグスにソースをかけて、完成だ。きのうの晩を食べそこなってしまったから、いつもよりパンがひとつ多い。

 そのまま私はいつもの席、老夫婦から離れた食堂の隅に座って朝食にした。私に加えて彼らもいて、しかしほとんど変わらない、いつもとおなじ、しずかな朝だ。カトラリーと皿とが触れる音、あとは老夫婦がほんの短くささやき交わす声が背中に聞こえて、それ以外の音はない。

 パンの最後の一切れを食べ、オレンジジュースを飲み干して、プレートを片付けるために立ち上がって老夫婦のほうへ向き直ると、彼らはすでに居なかった。

 彼らが椅子を引く音も、歩き去る足音だって聞こえなかった。

 

*迷路

 ユータナジーのなかについて、もうすこしだけ詳しく書こう。

 ユータナジーには長いあいだ暮らしていたが、私が足を踏み入れたことがあるのはユータナジーのなかでもほんの一部の場所に過ぎなかった。というのも、ユータナジーの建物のなかは際限なしに広いんだ。ユータナジーの外観と内部の広さはあきらかに照応していない、なんて格好つけて言ってもいい。気を抜いて生活範囲から外れると、建物のなかであろうと簡単に迷子になってしまうから、どこかあたらしいところへ行きたいときは、ボーイに案内の手間をとらせるのを厭ってはならない。

 一度私は、ユータナジーのなかを探検のつもりで歩き回ったことがある。二階の広い廊下から、狭いほうへと、知らないほうへと足を進めていくうちに、ずっと二階を探索していたつもりが、一階ロビーの階段裏の通路から這い出す羽目になったんだ。

 あれはびっくりした。階段やはしごをおりた覚えなんてないのに、一階に出てきていたのだもの。

 そして私以上に驚いたのはボーイだろう。なんたって、机でふさいでロビーからは入れないようにしている狭い通路の、まさにその内側から私が、埃まみれで現れたのだから。

 あのときのことはよく覚えている。こちらに背を向けて棚を掃除していたボーイが、物音で気がついたのか通路のほうへと振り向き、それで私の姿を見て、目をまん丸にして驚いていた、あの、表情! あの顔は良かった。彼が驚いているのを見るのは、あれが初めてのことだった。 

 そのまま私たちは棒立ちのまま、しばらく机越しに見つめあっていた。

「ムシュー……」と、ボーイが先に声を出した。

「やあ、こんにちは」と、私は言った。

「ムシュー、どうしてそちらに?」

「掃除の邪魔をして申し訳ないよ」

「ねえ、そこには入ってはいけないのですよ、ムシュー」と、さとすようにボーイが言った。

「うん、私もそんなつもりじゃなかった」と私は言い、続けて、「このお屋敷はとんでもない迷路だね」と言った。

 それを聞いて合点がいったのか、ボーイは、「ああ、」と言い、「迷われたのですね」と納得して、仕切りの机をガガガと押してどかしてくれた。

「ありがとう」

「いえ。しかし、ムシュー。今後あたらしい場所においでになる際は、絶対にお声がけくださいまし。遭難してしまいますから」と、机を通路の前に戻しながら、ボーイは言った。

「遭難だなんて大げさだね」

「いいえ、ムシュー。次は遭難なさります」

「ほんとうにかい」と、私はきいた。

「ええ、間違いなく」と、いつもの調子でボーイは言った。

 それ以来私は、ユータナジーの知らない場所にはふたたびひとりで行かなかった。

 

*海、その四

 朝食を食べれば、さあ、とてもあかるい海の時間だ。

 私は食堂を出てロビーを抜ける。ロビーを歩きながら周りを見渡して、壁ぞいに立っているボーイの姿をみとめると、

「とてもあかるい海へ行ってくるよ」と、私は彼に声をかける。そんな私にボーイはしずかにお辞儀をかえすんだ。それから私が玄関のドアを開けていよいよ外へと出るまえに、もう一度振り向いて手を振ると、彼もふたたび頭を下げる。

 ボーイも私も、慣れたものだ。

 うす暗いユータナジーから外へ出ると太陽がすこしまぶしくて、でもこの程度のまぶしさは、とてもあかるい海に足を一歩ふみいれたときの、くらむような白さとは比較にならない。(ユータナジーの玄関を照らす太陽は、きっと手を抜いているんだろうな。) そのまま私は橋を渡り、リコリスの畑を越えて、とてもあかるい海へと至る、草のトンネルをくぐる。このころにはもう足取りもだいぶ軽くなっていて、いや、足取りが軽いと言うよりかは、楽しみな気持ちで歩調が急かされるように早くなっている、とでも言ったほうがふさわしいだろう。

 そんな早足のまま草のトンネルを抜けて、とてもあかるい海へとパッと足を踏み入れると、瞬間! 私の視界は真っ白になって、ああ、今日もとてもあかるい海に来たんだ! と、まぶたを固くつむりながら、しあわせな気持ちで心がいっぱいになる。

 それから私は一目散に海へと入る。脱いだ服を畳むことすらそこそこに、波打ち際へと駆けていって、水を吸った白砂を踏む感触、足首をなでる心地よい波、もっと進めば水面は腿、わき腹へとのぼってゆき、そのまま私は海を全身に感じながら泳ぎはじめ、太陽の真下まで来れば波を枕にあおむけにぷかぷかと浮かぶ、そこに至るまでの何もかもが、いつだって、何度経験してもうれしくて、たまらないんだ。

 この上ないうれしさのなか、私は長いこと、気がすむまで浮かんだり泳いだりした。そうやって満足するまで海にいて、今度は砂の上で横になろうと、満たされた心地で波打ちぎわに泳いで戻り、いつものように海からあがると、とてもあかるい海の浜辺に、その日は、ひとが居た。

 とてもあかるい海に、人がいる!

 あんなに驚いたことはない。なんたって、とてもあかるい海に私ではない誰かを見たのは、私のすべての経験のなかでも、そのとききりのことだったのだから。ユータナジーの中ですらひとの姿を見かけることはほとんどないのに、唐突にとてもあかるい海にあらわれた見知らぬかれは、まぶしい太陽に照らされて、ユータナジーの幽霊たちとはまったく異質な、たしかな存在感を持っていた。

 その男は手を頭の後ろで組み、足を交差した格好で、砂の上に横になっていた。白い中折れ帽を顔に乗せて、跳ねる砂や日差しをさえぎっている。そして彼のとなりには、海に入るまえに脱ぎ散らかした私の服が、きれいに畳んで重ねてあった。

 私は彼の横まで歩いてゆき、何かを言おうとしたのだけれど、すぐには言葉が出てこなかった。何しろこういうときには一言目になんと言うかがとても大事だから、考えあぐねて、彼の横まで歩いて来たは良いものの、口に出す言葉は思いつかずに、そこに立ったまま悩んでいると、彼のほうが先に喋った。彼は顔から帽子をすこし持ち上げて、私のほうに目をやると、

「やあ」と、言った。

「こんにちは」と、私が返事をすると、

「からだを拭いて、横になれば……」と言って、ふたたび帽子を顔にのせた。

 それで、私たちの関係は決まった。 
 

 

*蔵書室

 とてもあかるい海にいる彼と私の話をすすめるまえに、ユータナジーについてもうすこしだけ書いておこう。

 ユータナジーの私は多くの時間を部屋で過ごした。食事のときには食堂へ、とてもあかるい海へ行き来するときはロビーを通った。つまり私のユータナジーの生活のほとんどは、部屋と食堂とロビーだけからなっていたわけだ。

 だからここでは、部屋と食堂とロビー以外のユータナジーについて書こうと思う。

 部屋と食堂とロビーのほかに、わたしが行ったことのあるところとしては、バーと蔵書室が残っている。バーについてはすてきな話だからあとまわしにして、ここでは蔵書室について書いてゆこう。蔵書室には一度行ったきりで、それに、あまり良い思い出ではないのだけれど。

 蔵書室は、廊下を長く回り道するように歩いていった突き当たりにある最後の部屋だ。蔵書室に行くときにはボーイに案内してもらう必要がある。

 そうでないと、入り組んだ廊下で遭難してしまうからね。

 私がロビーのボーイに、何かしら本を読みたいのだけど、と声をかければ、ボーイはかしこまりましたムシュー、と言って、食堂の奥の廊下を通って蔵書室まで案内してくれる。しかし彼の案内は片道切符で、蔵書室の前までつくと、彼はもと来た道を引き返してしまうんだ。

「では失礼します、ムシュー。帰り道は明るいほうへと進んでゆけば、問題なく食堂の前まで辿り着けますから、くれぐれも冒険などなさらずに、道に迷われませんよう」

 そう言ったきり暗い廊下に私を残して、ほんとうに彼は引き返してしまう。

 これはちょっと不親切じゃないかな、とそのとき私は思ったものだ。

 蔵書室のなかのことはなにも書けない。というのも私は、蔵書室に入ってすぐに、まるで胡椒壺に飛びこみでもしたかのようにくしゃみが止まらなくなって、目もかゆくてたまらなくなってしまったから、手近な本を一冊手に取ったきり、さっさと蔵書室から出てしまったんだ。(蔵書室はとんでもない部屋だ。)

 それで私はふたたび、よくわからない本を手にして、蔵書室前の暗い廊下にひとりで立っているわけだ。もちろんボーイはもう居ない。しかたがないから、さみしい気持ちでひとりぼっちの帰り道をたどった。ボーイが明るいほうへと進んでゆけば、食堂前の廊下まで戻ってこられると言っていたから、彼のいうとおりに明るいほう、明るいほうへと進んでゆくと、往路の何倍もの時間はかかったものの、無事に出口にたどり着く。でもそれは彼が言っていたような食堂前の廊下ではなくて、またしても、ロビーの階段裏の通路なんだ。重い机で大部分が塞がれている、狭くてほこりっぽい通路。またここだ。

 以前の探検につづいて、またしても通路からあらわれた私を、ボーイはポカンと見つめて言った、

「ムシュー……、その、ムシュー……、また迷子ですか?」

「どうやらそうみたいだ」と、机越しに私は言った。するとボーイは、

「冒険は控えるようあれほどお伝えしましたのに」と、まるで子供を叱るような調子で言うから、

「きみの親切な道案内のおかげで、すてきな冒険になったよ。ほんとうにありがとう」と、すこしつめたく返事をした。その声のようすに気がついたのか、ボーイはハッとして、

「ああ、ムシュー。この度は私の不手際でとんだご迷惑をおかけしてしまい、誠に申し訳ございません」と、ずいぶん慇懃な調子で言って、深々と頭を下げた。それを見て、少し言いすぎたかもしれないと思った私が、

「いや、良いんだ。たまにはそういうことだってあるだろうから」と言えば、

「いいえ、ムシュー。ほんとうになんとお詫びをすれば良いか」と、彼にしては珍しく、感じ入ったような調子で言う。

「お詫びなんて構わないよ。いつも君には世話になっているからね」

「しかし、そういうわけには」

「そうかい。じゃあ、ひとつだけ良いかな」

「ええ、何なりと」

「はやくこの机をどけて、ここから私を引っ張り出してくれないかな」と、私は言った。

「ああ、ムシュー、そうだ、申し訳ない……」と、ボーイは言って、机をガガガと押して退かし、出てきた私の服から埃を払ってくれた。

「なあ、今日はいったいどうしたんだい。いつもの君らしくもない」と、私が言うと、

「いえ、そんなことはないですよ、ムシュー」と、ボーイはうつむきがちに返事をした。

 それで、私たちはふたりとも、なんとなくかなしい気持ちになってしまったわけだ。

 さて、ところで、この話には余談がふたつある。

 余談その一。この出来事があった次の日から三日間、ロビーには彼でない別のボーイが居た。そのボーイに、いつもの彼はどうしたの、と訊くと、「あのひとは風邪で寝込んでいますよ、ムッシュー。ぼくは風邪がなおるまでの代理です」と言っていた。

 やっぱりあの日のボーイは本調子じゃなかったみたいだ。だったらあの日、そうだと言ってくれれば良かったのに。水くさいじゃないか、とも思ったけれど、でもまあ、そういう気分のときだってあるものだ。

 余談その二。私が二度目の迷子になって以来、ロビーの隅にはちいさな本棚が設置された。そこにはボーイが見つくろってくれた本が何冊も並べてあるから、私はあんな蔵書室へとふたたび行かずにすむようになった。

「この本棚は便利だね」と、何度かボーイに言ったことがある。それを聞くたびに彼は、何も言わずにお辞儀をかえす。もちろん、いつもの落ち着いたしずかな調子で。

 そうやってボーイが冷静で頼れるようすだから、私は安心してユータナジーで生活できていたってわけだ。

 

*海、その五

 さあ、とてもあかるい海に戻ろう。

 その男と私は、砂浜にふたり並んであおむけになっていた。(もちろん、ふたりとも海のほうへと足をむける格好で、だ。) かれが白い中折れ帽を顔にのせていたように、私はシャツを顔にのせて、砂や日差しをさえぎっていた。

 でも、同じように顔へのせるなら、シャツよりも帽子のほうが、ずいぶんと気が利いている。私も帽子を持っていれば良かったのだけど。

 そうやって砂の上に寝ころがり、体の下で跳ねる砂の感触や波の音を感じていた。いつもと同じように砂浜に横になっているだけなのに、隣に彼が居るってだけで、なんだか不思議な気分だった。

 そんないつもとは違う心地で寝ていると、じきに彼が、

「この跳ねる砂は気持ちがいいね」と、私に声をかけた。私はそれを聞いて、服を脱いで横になればもっと気持ちが良いよ、と返事をしたのだけれど、うまく聞こえなかったようで、彼は、ん? とだけ言った。だから私は顔からシャツをどけて彼のほうへと頭を転がし、

「服を脱いで寝ころがれば、もっと気持ちがいいよ」と、もう一度言った。

「でも僕は日に焼けるのに弱いんだ」と、彼も寝転がったままこちらを向いて言った。

「そう」

「うん」

 それで私たちは帽子やシャツを顔のうえに乗せなおして、波の音と跳ねる砂の感触に戻る。

 そうやってしばらく横になっていると、日陰の砂が跳ねないように、身体の下の砂も跳ねなくなってくる。私の身体の下の砂も例外ではないから、弱まってきた砂を見捨てて元気に跳ねる砂のうえへと移るために、私は体を起こして、

「もうすこしそっちに寄っても良いかい」と、彼にたずねた。

「うん、かまわないよ」と、彼は帽子を顔からすこし持ち上げて言った。

「ありがとう」

「なんの、なんの」と、彼は言った。

 

*海、その六

 私は彼のほうにすこしだけ寄って、横になった。そうやって場所を変えれば、またあたらしい砂がパチパチと背中に跳ねて、気持ちがいい。

 背中の砂は気持ちがよくて、波の音は単調で、……それで私は、うとうとしてきた。

 体の下の砂がだんだんと跳ねなくなっていくことや、そんなときにはすこし横にずれると良いってことを、彼は知っているのだろうか。知っていなければ、教えてあげたほうが良いのかな。でももしかすると、もう、とっくに気がついているのかもしれなくて……、と、そんなことを考えながら、とりとめのない思考と眠気がまざるように、だんだんと私は、とてもあかるい海の浜辺で浅く眠りはじめていた。波の音、砂の跳ねる音は聞こえていて、意識だけがぼんやりと、いつもよりとおいところにぼやけている。

 こんなふうに、とてもあかるい海でうすく昼寝をすることも、私は好きで、気に入っていた。

 とりとめのない考えが、つながりのないイメージの泡へと変化して、意識はあいかわらずぼやけたまま、波の音や砂の跳ねる音が背景のように、単調に流れつづけている。そのまま、もうひとつ深いところへ眠りが進もうとする、そのあたりでちょうど、砂の跳ねる音がパッと止まり、そうして口笛が聞こえはじめる。

 とてもあかるい海の口笛だ。これもまた、いつだってうつくしい。

 誰もいないこの海で、どこからともなく聴こえてくる口笛を、彼はいったいどう思うだろう。ふたたび意識が焦点をむすびはじめた私は、彼のことを考えながら、口笛に耳を澄ませていた。

 すると、すぐ隣から、とてもあかるい海とは別の口笛が、ハーモニーになるように聞こえだしたんだ。

 彼の口笛だ。

 顔からシャツをどけて見ると、まぶしい日差しのなか彼は、半身を起こして、海の口笛の調子にあわせて口笛を吹いている。

「へえ、上手いもんだね」と、私は言った。

「まあ、聴いていなよ」と、彼は言って目をつむり、とてもあかるい海のメロディに耳をすませながら、切れ切れに、しかし音律が調和するように吹いている。

 私も彼とおなじように体を起こして、海の口笛と彼の口笛に耳をすませていた。

 これは良い。

 私は海の口笛とおなじ音階を追いかけるだけで精一杯だけど、彼のように、こうやってハーモニーになるように吹くことができれば、ずいぶん気持ちが良いだろうな。

 そうやってしばらくのあいだ素敵な気持ちで聞いていると、じきにとてもあかるい海の口笛がやんで、あわせて彼の口笛もおしまいになった。また砂がパチパチと跳ねはじめる。

「いやあ、素敵だったよ」と、私は言った。

「そうかな」

「うん、とても良かった」

私がそう言うと彼は、

「僕は詩人だったんだ」と言った。「詩を書いたり、歌ったりして、そうしてやってきたんだ」

「だから口笛もうまかったんだね」

「きみはなにをしてるの」と、彼は言った。「つまり、ここで何をしてるのかってことだけど」

「ここで暮らしているよ」と、私はこたえた。

「ここで?」

「そう。毎日泳ぎにくるんだ。泳ぎつかれたら砂のうえに横になる。海の口笛を聴いてから帰って、次の日の朝になればまた泳ぎにくる。そうやってずっと暮らしているんだ」

「それは、」と彼は笑って言い、つづけた。「それはとても素敵だね」

「ありがとう」と、私は言った。(彼がそう言うのを聞いてうれしかった。私も私の生活を気に入っていたから。)

 それから、ふたりでしずかに海を眺めるちょっとした時間が過ぎたあと、私は立ち上がって、

「今日は帰るよ」と彼に言った。

「僕はもうすこしだけここにいるよ」と、彼は返事をした。

「それじゃあ、さよなら」

「またね」

「うん、また」

 そう言って私たちは別れた。

 

*悪夢

 ここで、せっかくだから書いておきたいことがある。悪夢の話だ。

 とてもあかるい海やユータナジーに不愉快はほとんど存在しなかったが、数少ない不愉快のひとつとして、夜に見る悪夢があった。これはとりわけ私の夢見が悪かったためかもしれないけれど、しかし、それにしても、怖い思いをしながら目覚める朝が多かった。

 たとえば、こんな夢だ。

 朝食のユータナジーの食堂でパンケーキを頬張っていたら、なにかがガキン、と歯に当たる。とうぜんパンケーキの食感ではないから、何だろうと思って手に出して見ると、自分の歯が一本抜けていた。それを契機にバランスを失った私の歯は次々と口の中から抜け落ちはじめる。私はポロポロと抜け落ちる歯をどうにもできず、泣きそうな気分になりながら、せめてその歯を落とさないように、両手をうつわにして受け止める。ポロポロと抜け落ちる歯は止まることなく、私の両手は歯でいっぱいになって、私がいる場所も食堂からリコリス畑に変わっている。私はリコリスの畑の真ん中に座りこみ、両手のうつわに抜け落ちる歯を受け止めつづける。

 こういう夢を見た朝は、たとえば朝食の食堂に行きたくはなかったし、言わずもがなパンケーキを視界に入れることすら嫌だった。とてもあかるい海へと至るリコリスの畑も、その日は駆け足で通り過ぎた。

 しかし、こんな夢のもつ不愉快な情感も、とてもあかるい海のあかるさの前では、まるで無力に失われた。とてもあかるい海に足を踏み入れたときの、真っ白なまぶたの裏の明るさに、悪夢は決まって蒸発するから、私は悪夢の余韻に煩わされることなしに、海に浮かんだり、砂浜に横たわったりして、幸せに過ごしていたものだ。

 

*ユータナジーのバー、その一

 話を戻そう。

 とてもあかるい海で彼と別れたあと、私は鼻歌混じりにユータナジーへ戻った。草のトンネルを抜け、リコリスの畑を越え、橋を渡って。

 ユータナジーの玄関を開けるとうす暗いロビーはいつものようすだった。いつものようす、つまり一見誰もいないようで、しかしロビーを見回すと、ちゃんとボーイがそこに居る、それがいつものユータナジーだ。その日ボーイは、壁の絵の額縁のうえを掃除していた。

「ただいま!」と、私は言った。

「お帰りなさいませ、ムシュー。海はいかがでしたか」と、彼は言った。

「うん、良かったよ。ところで今日はね、海でひとに会ったんだ。めずらしいことだよ」

「そうですか」と、ボーイはしずかに言った。

「もしかしたらユータナジーにも来るかもしれないね」

「さあ、どうでしょう」

「もし来れば、きっと君も彼のことを気に入るよ」

「そうなれば幸いですね」

「それを伝えたかったんだ。じゃあ、また」

「ええ、ごゆっくり」

 それで私は部屋に戻って休み、彼は額縁のうえの掃除に戻る。

 部屋に戻って休んでいると、じきに日が暮れて夕食の時間がやってくる。二日連続でユータナジーの夕食を食べ逃してしまうなんてもったいないから、私は眠らず横になって、本を読みながら過ごしていた。(本を読みながら、とは言っても、行間や単語のふとした狭間から空想が飛んで、気がつけば海で会ったあの詩人のことを考えている、といった調子の、散漫な読書だ。) 窓の光で本を読んで、いよいよ文字が読めないほどに外が暗くなったころ、私は部屋を出て食堂に行き、夕食にした。(その日の夕食はグラタンだった。ユータナジーのグラタンはとてもすてきな味で、シチューの次に私は好きだ。)

 そうやって無事に、二日ぶりにユータナジーの夕食を食べることができて、満足だった。

 それに、昼間のとてもあかるい海も良かった。今日はいつもよりも、もっと楽しかった。

 あとはゆっくり眠るだけだ。

 そんな私が部屋へ戻るためにロビーを通ると、ボーイが物陰から歩み出て、ふと私を呼び止めたんだ。

「ムシュー、今よろしいでしょうか」

 ボーイが私を呼びとめるなんて、滅多にないことだ。だから、なんだろうと思って足を止めて、

「大丈夫だよ。何かあったのかい」と、私は言った。するとボーイは、

「バーにお連れしたいのですが、ムシュー。おいでいただけませんか」と言った。

 (さあ、これでやっとバーのことが書ける!)

「ユータナジーにバーなんてあったんだね」と、私は言った。

「ええ、長らくお伝えしませんで」と、ボーイは言った。

「そう。じゃ、行こうか」

 それを聞くと彼は頭を下げ、「ありがとうございます。では」と言って歩きはじめた。私は彼について歩く。

 彼の後ろに連れられて、バーへの道すがら、つまり、食堂奥の廊下から階段を降りて、その先の廊下をいくつも曲がりながら、私はその日のことを考えていた。ほんとうに今日は、めったにないことばかりの日だった。朝の食堂では老夫妻を見かけて、とてもあかるい海では詩人とすごし、晩にはボーイが私を呼び止めてバーへと連れていく。なんだか今日は、色々なことがたくさん起こる、いちばんふしぎな日のようだった。

 それで、いちばんすてきな日でもあったわけだ。

 ひとつのドアの前でボーイが立ち止まった。ユータナジーのうす暗い廊下にならぶドアのなかでも、ひとつだけ調子のちがうドアだ。そのドアのノブに手をかけて、ボーイは言う。

「こちらが、ユータナジーのバーになります」

 そう言って彼はドアを開け、私を中にうながした。私は「うん」とだけ言って、ドアをくぐって中へと入る。

 一瞬、とてもあかるい海に足を踏み入れたときの感覚がした。まぶたの裏が真っ白になって、うれしさに満たされていくあの感覚に近い心の動きで、しかし、バーの中はそれほどあかるいわけではないから、要するに、ひとつの別天地に踏み入れるときの感覚がそこにはあった。

 ひとが五人も入ってしまえばそれで満員になるような、ちいさなバーだ。そうして、止まり木にはすでに一人の先客がいる。見たことのある服の男だ。彼は私のほうへと振り向いて、

「やあ」と言った。

「こんばんは」と、私は言った。彼にまた会えてうれしかった。

「隣に来て、座りなよ」と、海辺で会った詩人は言った。

 

*ユータナジーの夕食

 ここで、ユータナジーの夕食についても書いておこう。ここを逃すと、うまい具合に話せないような気がするから。

 以前、ユータナジーの食堂でひとに会うことはほとんどない、と書いたと思う。朝食のときはそのとおりだ。しかし、夕食のときは別で、というのも、夕食の時間にはひとりのウェイトレスが給仕に入る。すてきな少女だ。

 彼女のことをわかってもらうには、彼女のふるまいについて書いていくのが良いだろう。それも、海で詩人に会った日の夕食を書くのがちょうど良い。
 夕食のとき、彼女は食堂の入り口近くで客がくるのを待っていて、私が食堂に入るといつも、会釈してから席まで案内してくれる。それはあの日も同様で、私が夕食の食堂に入ると、壁ぎわに立っていた彼女はフと気がついたように視線を上げて、いつものように会釈をする。しかしその会釈の直前、私のほうへと上げた視線が、尾を引くようにさみしげだった。

 これはどうしたわけだろう、と思いながら、私は彼女が案内してくれた席に座って夕食を待つ。(さみしげな彼女はめずらしいんだ。) それからしばらくすると、彼女が焼きたてのグラタンを持ってきてくれるから、ありがとう、と私が言うと、彼女はグラタンをテーブルに置きながら、すこしだけ、合図のように口角を上げてみせる。しかし、彼女の目はやはりかなしく沈んだままだ。

 私が夕食を食べているあいだ、彼女は私の斜め前に、すこしだけ離れて立っている。ほかに誰ひとりとしていないから、私につきっきりだ。(朝食と同じように夕食でも他の客の姿は滅多にない。) 彼女は減りかけたグラスに水を注いだり、落としたカトラリーをすぐ替えてくれたりして、よく気がつくウェイトレスなのだけれど、今日は彼女のあまりにかなしい雰囲気が、ふたりきりの食堂の空間にも広がっているようで、すこしやるせないような気分になる。

 それはそれとして、料理はいつだって文句なしにすばらしいんだ。

 グラタンを食べ終わって食堂をあとにするとき、出入り口まで彼女は私を見送ってくれる。これはいつも通りのことだ。しかし、食堂を出る手前で振り向いて私が、今日もおいしかったよ、ご馳走様、と告げると、いつもは頭を下げるところを、彼女は私の顔を見たまま、何かを言いたげにしている。

「一体どうしたの、今日は。ずいぶん悲しそうな様子だけれど」と、私が先に口火を切った。それを聞いて彼女はすこし言い淀んだあと、

「あしたはシチューが夕食ですよ」と、言った。

「ほんとうかい! それはすてきだね、寝過ごさないように気をつけるよ」と私は言い、それからすぐに気がついて、「でもそれは、さっき訊いた答えではなさそうだ」と続けた。すると彼女は、

「その……、きのういらっしゃらなかったから、もしかしてユータナジーの夕食に飽きてしまったんじゃないかって、今日もずっと不安だったんです」

 そう言って彼女は、悲しそうな目を一層かなしそうにして私を見すえる。

 つまり、彼女はこういう少女なんだ。

「いや、違うんだ。昨日は朝まで寝ていただけだよ」

「ほんとうに?」

「もちろん」

「それじゃあ明日も、そのあともずっと来てくれますね」

 質問とも断定ともつかない調子でそう言うと、彼女は悲しい表情を引っこめて微笑むのだけど、ニッコリとうれしそうなようすではなく、どこかさみしげな幽霊のように微笑んでいる。

「私がずっとここで暮らしているのを知っているのに」と、私がいうと、

「でも、みんな居なくなってしまうから」と、微笑みながらも、心配げに彼女は言う。

「私は大丈夫だよ」

「そうかしら」

「もちろん。明日のシチュー、楽しみにしているね。それじゃあ、また」

「ええ、おやすみなさい」

「おやすみ」

 それで彼女はお辞儀をして、私は食堂をあとにする。

 こういうわけで、ユータナジーで夕食を食べないのはもったいない。とてもおいしい夕食をたべそこなってしまうし、彼女に余計な心配をかけてしまう。

 

*ユータナジーのバー、その二

 バーの話に戻ろう。

 私は彼の隣に並んで座り、カウンターにはボーイが入った。

「ロビーに戻らなくても良いの」と、私がきくと、

「他にお客様は居ませんから」と、手を拭きながらボーイは言う。

「なるほどね」

「かれにも僕と同じのを」と、すでに何かを飲んでいる詩人がボーイに言った。それを聞いたボーイは「かしこまりました」と言うと、空色の瓶を手にとって注ぎ、私の前に脚の短いグラスを置いた。

 見ると、黄金色にうすく透きとおるような酒だった。グラスを揺らすと、蜜のようなとろみがある。どんな味がするのだろう?

「まあ、飲んでみなよ」と、彼は言った。ボーイのほうを見ると、かれもしずかにうなずいた。

 うながされるままグラスに口をつけ、舐めるようにして一口飲んだ。すると、舌先にふれる黄金色の酒、それは味ではなく風景だった。とてもあかるい海の情感が瞬時に舌を、頭をよぎる。沖まで泳いで仰向けになり、太陽の下で目を閉じて、愉快にぷかぷかと浮かんでいた、あの心地!

 どういうことだろう。これはほんとうに酒なのか? たまらず私はもう一口飲んだ。今度は味わうように口に含んだ。すると、やはり脳裏にうかぶのは、とてもあかるい海だった。水面が身体を撫でる感覚、仰向けの私に照る白い太陽まで感じられるようだった。まぶたの裏にまぶしさが明滅する。

「太陽と海の酒だね」と、グラスを置いてすこし茫然としながら私は言った。「景色が見えた」

「さすが、ご名答」と、詩人は言う。「これは、すごいよ」

「かつて、ユータナジーが海まで広かった頃の酒です」と、ボーイは言った。「まさにあの海で作られていたものでした。今ではもう、ここにほんの少し残っているきりです」

 私はその酒に夢中になった。飲んでいると、はじめは太陽と海だったそれは、いつからか跳ねる白砂へと変化していく。

「並んでまた、砂のうえに横になっているみたいだ」と、私は言った。

「うん、そうだ」と、詩人は言った。「砂が背中に当たるみたいに気持ち良いね」

 そうやって私たちは、太陽に照らされるように酒を飲んでいた。

「きみは飲まないのかい」と、あるとき私はボーイに訊いた。「きみとも一緒に飲みたいな」

「私は下戸ですよ、ムシュー」ボーイは続けて、「しかし、ありがとうございます」

 そう言ってかれは新しいグラスに酒を注いで私の前に置く。見ると、私の手元のグラスはもう空っぽだった。

「気が利くね」

「お褒めにあずかり光栄です、ムシュー」と、ボーイは言って頭を下げた。

 

*ユータナジーのバー、その三

 そうやって心地よく飲みながらグラスを三杯くらい空けたころ、私は彼に、

「ところで夕食は食べたの」と、きいた。「つまり、ユータナジーのグラタンをさ」

「いや、食べてないよ」と、彼は言った。

「じゃあ、明日からのお楽しみだね。ユータナジーの夕食は素晴らしいんだ」

「そう」

 あした、という単語を口にしたとき、彼の肩がピクリと跳ねたような気がした。

「それに明日はシチューなんだよ。私はシチューがいちばん好きだ」

「うん」

「君もシチューを食べたら好きになると思うよ」

「なるほど」

「ひとが増えたら給仕の子もきっと喜ぶよ」

「へえ」

 どういうわけだか、彼はうつむいてこんな返事しかしなくなってしまった。こんな調子の会話ったら無い。

「ねえ、もう眠いのかい」と、私はきいた。

「いや、そんなことないんだ」と、ふと気がついたように頭を上げて、彼は言った。「もっときみの話を聞かせてよ」

 でも、どう見たって彼は頭を落として眠そうにしていたんだ。そうでなければ、なにか考えごとをしているか、そのどちらかのようだった。

「そう急ぐことはないだろう」と、私は言った。

「ユータナジーには時間がたくさんあるんだから。明日もあさっても、ずっとさ」

 そう私が言うのを聞くと、彼はウーム、と考えてから、

「じゃあ今日は、あと一杯だけ付き合ってくれないかな」と言った。「それで今日は、おしまいにしよう」

「うん、それがいい。なんだかきみは眠そうだ」

「ごめんよ」

「いや、良いんだ」

 私と彼は手もとの酒を飲み干して、ボーイから最後の酒を受け取った。すると詩人は、

「実はね、すこしだけ眠かったんだ」と言った。それから酒を一口飲んで、「でも、もう大丈夫」と笑って言った。「眠たいままじゃ、もったいないよね」

「無理することはないさ。あしたの朝ごはんを寝過ごしてしまうよ」

「朝ごはんはどんなふうなの」

「バイキングだよ。朝の食堂はまぶしいくらいだ」

「それは、すてきだね」

「きっときみも気に入るだろうと思う」

 そう言って私は酒を一口飲んだ。(とてもあかるい海のまぶしさ。) そのまますこし黙って酒を飲んでいると、

「よければ明日、一緒に食べないかい。ほら、朝ごはん、はじめてだからさ」と、彼が言った。

「うん、君さえ良ければ」と私が言うと、

「ほんとうかい、良かった」と、彼は言った。「君がいてくれて良かったと思う」

「そんな、大げさだね」

「ふふ」と彼は笑って、それから残りの酒をいちどきに飲み干し、立ち上がった。「さあ、お会計だ」

「もう終わりかい」

「ああ、また明日の朝に会おう」

 その日の最後の一杯がこんなにはやく終わってしまって、私は名残惜しかった。

 立ち上がった彼はポケットから小さな皮袋を取り出して、それをそのままボーイに手渡した。ボーイはそのずっしりと詰まった皮袋の中身を見ようともせず、

「これではあまりに多すぎますよ」と、詩人に言った。

「良いんだ」と、詩人はボーイに言う。「僕にはもう、必要ないから」

 そう言って、彼は私に「それじゃあ」と挨拶したあと、すぐにバーの扉を開けて出ていった。「アッ、ねえ!」と私が呼びとめる声も聞こえなかったように、ドアは閉まって、彼は行ってしまった。

 ユータナジーの迷宮に、ひとりっきりで!

 私とボーイは顔を見合わせた。

「大丈夫かな」

「すぐに気がつかれるでしょう」

 果たして彼は戻ってきた。彼は苦笑いしながらドアを開けてバーに戻り、

「どうやら、帰り道がわからないんだ」と言った。

「そう、ユータナジーのなかは迷路なんだよ」と、私は言った。

「君が飲み終わるまでここで待っているよ」と、私の隣に座りながら詩人が言うと、

「でしたら、もう一杯いかがですか」と、ボーイが酒を注いで差し出した。

「良いのかい?」

「ええ、もちろん」

「うん、それが良いよ。私ももうすこし話したいから。なにもそんなに急ぐことはないよ」

「そうかい? それじゃあ、お言葉に甘えようか」

 そうして彼と私は、最後の一杯(今度こそ最後の一杯だ!)を、今度は口笛を聞くような気持ちで飲んだ。

 
 最後の一杯を飲み終えた私たちは、ボーイにロビーまで連れられて戻った。もう夜も遅かった。

「今日はありがとう、楽しかったよ」と、私は言った。

「僕も楽しかった」と、詩人は言った。

「それじゃ、明日の朝だね」

「うん、ロビーで君を待ってるよ」

「わかった。じゃあ、また」

「おやすみ」

「おやすみ」

 それで今度こそ私たちは別れて、私は部屋に戻って眠った。

 眠りに落ちてゆきながら、明日も彼に会えるのがうれしかった。

 

*詩人との朝食

 窓から日が差して、目が覚めた。今日も天気は晴れだ。

 昨晩は、ほんとうに楽しかった。

 これから彼と朝ごはんを食べて、そのあとには一緒にとてもあかるい海に行くのかな。今日はかれと一緒に泳ぎたい。それで砂浜に横になるんだ。それから、あの口笛だって習いたい。

 夕食のときには、ウェイトレスにも彼を紹介できたら良い。きっと三人で楽しいだろう。夕食のあとはバーに行って、あの酒を飲むのもすてきだな。

 私は部屋を出て、彼が待っているロビーに向かった。約束どおりに彼はそこに居た。

「やあ」と、彼は言った。

「おはよう」と、私は言った。

「うん、おはよう。頭は痛くない?」

「そういえばぜんぜん大丈夫だ」

「僕もだよ。良い酒だった」

「ほんとうにね」

「それじゃ、行こうか」

 そうして私たちは朝食のために食堂に入った。まぶしいくらいに明るい食堂に、今朝は誰ひとり居ない。

 私たちは配膳台の前に行って、朝ごはんを取っていった。私はスクランブルエッグと焼きベーコン、オレンジジュースにパンひとつ、バターひとかけら、それからスクランブルエッグにケチャップをかけた。彼はクロワッサンひとつとジャム、それとコーヒーだ。

 それから私がいつもの自分の席、日のささない奥の席へ行こうとすると、彼が私を呼びとめて、

「ねえ、こっちにしないかい」と、窓ぎわのまぶしい席を指差した。

 きのう老夫妻が座っていた席だ。

「すこしまぶしくないかな」

「いや、あかるくて気持ちがいいよ」

 それで私たちは窓際の席に、向かい合わせに座った。やっぱり私にはまぶしかった。

 しかし、たまにはこんなのも良いものだ。

 それから朝ごはんが始まったわけだけど、私と向かいあって彼は、クロワッサンひとつを、たいそう時間をかけて食べていた。皿のうえでほんのちいさな一片をちぎりとり、ジャムを少し付けてから、口にはこぶ。よく噛んでから飲みくだし、そうしたらまた、皿のうえでほんの小さな一片をちぎりとり、ジャムを少し付けてから、口にはこぶ。ときどきコーヒーをひと口飲んで、そうしたらまた、クロワッサンをちぎり取る。手を止めて窓の外をぼんやりと眺める時間もたびたびだった。

 そんな調子で、まるで朝食の時間を引きのばすように、かれはクロワッサンを食べていたんだ。

「あまりおなかが空いていないの」と、私がきくと、

「朝はほとんど食べないんだ」と、彼は言った。「いつもそう」

 なるほど、詩人ってやつは少食なんだな、と私はそのとき、妙に納得したものだ。(大食いの詩人だって居るだろうにね。)

 そんな調子で食べているから、私がベーコンの最後のひと切れまで食べ終わったとき、彼のクロワッサンは三分の一ほども残っていた。私ばかり手持ち無沙汰じゃ悪いから、

「コーヒーをもう一杯取ってこようか」と、私がきくと、

「うん、それじゃあお願い」と、かれは言った。

 私がコーヒーと紅茶、それとバターロールひとつをあたらしいプレートにのせて戻ってくると、

「きみはたくさん食べるんだね」と、彼は言った。

「とてもあかるい海に行くんだもの」と、私は言った。「おなかが空いていたら、泳げないから」

「ああ、海。海か」と、彼はとおい思い出をたどるような調子で言い、続ける。

「あの海は、ほんとうにすてきだった」

「すてき『だった』、なんて。今日だってすてきだよ。明日も、その先も」

「うん、そうだ」と、彼は言った。「あの海は、すてきだ」

 それから彼は私の持って来たコーヒーを取ってひと口飲み、続けた。

「それに、このコーヒーだってすてきだ。ねえ、僕がゆっくり食べるのを許してくれるね」

「構わないよ」と、私は言った。

「ありがとう、もうすこしだけだから」と、彼は言った。それから彼は、

「ああ、それにしてもあの海はほんとうにすてきだったなぁ」と、独り言のようにつぶやいた。

 

*さよなら

 朝食を終えて、私たちはロビーに居た。

「さあ、とてもあかるい海へ行こう」と、私は言った。彼とふたたび海に行くのが、楽しみでたまらなかった。

 けれども彼は、

「ああ、……そのことなんだけどね、」と、決まり悪そうに言って、続ける。「今日は僕、用事があるんだ」

「ユータナジーで用事だなんて!」と、私は言った。

「そうなんだよ。そもそも、そのために僕はユータナジーに来たんだ」

「何をしに?」

「マンチニールの木陰で休みにさ」と、彼はいう。

「マンチニールの木陰」

「ある詩の引用だよ」

「ああ、きみは詩人だったね」と、私は言った。

「そう」と、かれは言う。「僕は、詩人だった」

「その用事は今日の昼だけ? 夕方には会えるかな」と、私はきく。

「どうだろう。でも、用事は昼で済むよ。それ以降はずっと、何もないんだ」

「それじゃ、夕ごはんはロビーで待ってるよ」

「そんな、先に食べていてよ」

「いや、待っているから。きっと来てくれるね」

「うん、もし行けたらそのときは行くさ」

「約束だよ」

「きっとね」

「それじゃ、また夕方に会おうね。私はとてもあかるい海にいるから」

「うん、わかった。それじゃあ、さよなら」

「ああ、またね」と、私は言った。

「さよなら」と、彼は言った。

 それで私たちは別れた。私はいつものようにとてもあかるい海へ行くために、彼はかれの用事とやらを済ませるために。

 私がユータナジーの玄関を出る直前、ロビーのほうを振り返ると、彼はボーイのほうに行って、なにやら話しかけているようだった。ボーイは出がけの私をチラと見て、しかし会釈も何もなく、詩人のほうへと向きなおった。

 

*別れ

 昼下がりに海から戻った。

 リコリスの畑を越え、橋を渡り、ユータナジーのドアを開けると、ロビーはしずかにうす暗くて、出来たての廃墟のようだった。詩人のかれの姿は見えない。

 と、私の視界のすみにボーイの姿がかすかによぎった。これはボーイが私に用がある合図に他ならないから、私はボーイに近づいて、

「ただいま」と言った。

「お帰りなさいませ、ムシュー。海はいかがでしたか」と、ボーイは言う。

「もちろん良かったよ。昨日のお酒にそっくりだった」

「それはよろしいことでした」

「うん。ところでね、何か私に用があるかい」

「いえ、今は、特にはございません」と、彼は言った。

「なにも?」

「ええ、なにも」

「フーム」と、私。それじゃあ、さっきのは見間違いだったのかな。

「そうか、なら良いんだ。ねえところで、かれの用事は済んだのかな」と、私は言う。

「ええ、すでに済まされたようです」

「マンチニールの木陰とか言っていたんだけど、何のことだろう」

「かれがそう申したのですか、ムシュー」と、ピクリと反応するようにしてボーイは言った。

「そうだ。いったい何なのだろうね」と、私も聞きかえす。

「さあ、わかりかねますが」と、ボーイは言った。

「ほんとうに?」

「ええ」

 私がボーイの目を見ると、ボーイも私を見つめかえす。たぶんボーイは詩人の言葉を分かっていたのだろうけど、いちどボーイが知らないと言えば、いくら問い詰めたところで無駄だ。

「そうなんだ」と、私は言った。

「お役に立てず申し訳ないです」と、ボーイは返事をする。

「いや、良いんだ。それじゃあ、また」

「ええ、ごゆっくり」

 それで私は部屋に戻って、夕食の時間まで休んだ。

 彼はどこに行っているのだろう?

 

 日が暮れたころ、目が覚めた。夕食にするためにロビーへ降りると、彼はまだ来ていなかった。

 もしかして、かれはもう、来ないんじゃないか?

 夕暮れの、彼の居ないロビーを目にして、私はなんとなく直観した。昨日の晩や今朝の朝食の彼の様子や、昼下がりのボーイの不自然な態度が頭のなかで繋がって、私の脳裏に悪い想像がたちあらわれた。その想像がさらなる細部をともない組み合わさってゆくまえに、私はそれ以上考えないことにした。

 きっと来るさ。だって、約束したんだもの。

 そのまま私はロビーのソファに腰かけて、彼を待つことにしたのだけど、ソファに座ったまさにその瞬間、視界のすみにボーイがよぎった。そのままボーイは視界のすみを出たり入ったりしながら、ゆらゆらと、徐々に私のほうへと近づいてきて、ソファに腰かけた私のすぐ横に立ち止まると、

「ムシュー、こんばんは」と、言った。

「ああ、こんばんは」と、彼を視界の隅に置いたまま、私は言った。嫌な感じだった。

「何かお手伝いいたしましょうか」と、ボーイは言った。

「詩人のかれを待っているんだ」と、私は言った。「今は君に用はないよ」

「そのことですが、ムシュー。昼に申しかねたことがあるんです」と、ボーイは言った。「お耳に入れるのが憚られまして」

「きっと良くない知らせだろうね」と、私はたずねる。

「生憎ですが、その通りです」

「じゃあ聞きたくないよ」と、私は彼のほうを見ずに、指を組んで前かがみに座りながら言った。

「ムシュー、聞いてください」

「嫌だよ」

「ムシュー、」

「やめてくれってば」

「かれは昼にユータナジーを発たれました」と、ボーイは言った。

 私は返事をしなかった。

 私たちはそのまま黙り込んでいた。蝋燭の燃える音すら聞こえるようだった。

「約束したんだ」と、それからしばらくして私が言った。「いっしょに夕食にしようって。かれも来るって言っていたんだ」

「心中お察し致します、ムシュー」

「約束したんだよ」と、私はボーイのほうを向いて言った。「ほんとうに、約束したのに」

 今度はボーイが返事をしなかった。

 

*ひとりの夕食

 それから、夕食の時間が終わってしまうからと言うボーイに急かされて、私は食堂へ向かった。夕食なんて気分ではなかった。

 食堂に入ると、ぼんやりとうつむいていたウェイトレスが視線を上げて私を見た。彼女は私を見るなりパッと表情を輝かせたものの、悲しげな私に気がつくと、そのうれしそうな表情も、困惑したように固まってしまった。

 席について待っていると、じきに彼女がシチューの鍋を持ってやってきた。(鍋になみなみと満たされた、金色のシチューだ。) そのまま彼女は私の皿にシチューをよそってくれる。いつも私はシチューのときには皿いっぱいに取り分けてもらって、そのうえおかわりもするのだけれど、今日は彼女がお玉で二回よそってくれたところで、「うん、ありがとう」と言ってやめさせた。いつもと違う私に彼女はほんとうにびっくりした顔をしてみせて、それから戸惑ってもいるようだった。

 そうやって私は彼のいない、さみしいだけの夕食を、作業のように終わりにした。

 食べ終えた私は部屋に戻るために、食堂から出ようとした。しかし、「ごちそうさま」と言って食堂をあとにしようとする私を、「あの!」と彼女が呼びとめた。

「なんだい」と、私は振りむいて、あまり親切でない調子で言った。

 彼女は私のつめたさに一瞬面食らったようになって、それから、

「その、今日のシチュー、美味しくなかったですか」と、弱々しい声で言った。

 彼女につらくあたって悲しませるのは筋ちがいだ。

 だから私は、

「ああ、ごめんよ」と、語調をやわらげて言った。

「ともだちが居なくなってしまったんだ。それで今日は食欲がなかった」

 彼女はなにも言わず、かなしそうな目で私を見ている。私は続けて言った。

「昨日会ったばかりのひとだったんだ。それでも、私たちはすぐに友だちになって、ずいぶん楽しくやっていた。海で横になったり、いっしょに酒を飲んだりね。それで、今日だってかれと約束していたんだ、夕ごはんをいっしょに食べようって。でもね、かれは夕ごはんを待たずにユータナジーから出ていってしまった」

 それを聞いて彼女はうつむいてしまった。

「かれと過ごして、とても楽しかったんだ。少なくとも、私はかれと仲良くなれたと思っていたのに、彼は私になにも言わないで行ってしまった」

 うつむいた彼女の顔は悲しみに満ちている。

「そういうわけで今日は、ほとんど食べる気になれなかったんだ」と、私は言った。「これで、おしまい」

 ふたりともすこし黙り込んで、それから彼女が口を開いた。

「私はその、なんて言ったら良いのか、わからないけど、……でも、ねえ、今日のシチューは、とっても良く出来たんです。いつもよりももっとおいしいシチューだから、つまり、その、……ごめんなさい、差し出がましいことかもしれないけれど、もし良ければ、もう少しだけ、シチューを食べてもらえませんか」

「またシチューを?」と、私はいう。「食欲がないのに」

「悲しいことがあったときには、おいしいシチューをたくさん食べると良いんです」と、彼女は言う。

「先ほど食べてらしたときは、上の空のような調子だったから、今度は味わうようにして、もう一度だけ食べてくれませんか。今日のシチューはバターをたっぷり使った、舌触りのやわらかい、きん色のシチューです。ひとくち食べれば、口のなかに幸せが沁みわたるようなシチューなんです」

 彼女がそう言うのを聞いて、悲しみばかりだった心の一隅が、かすかに光るような気がした。

 バターをたっぷり使った、舌触りのやわらかい、きん色のシチュー。

「そんなに美味しいの」と、私がきくと、

「はい、とんでもなく!」と、彼女は真剣な顔をして言った。

 そんなまじめな表情で、『とんでもなく』おいしいなんて言われたら、これはもう、かなわない。

「きみの言うとおりにしよう」と、苦笑するように私は言った。「もう一度夕食にしようか。でも、ほんのすこしだけだよ。私はいま、悲しいんだから」

「ああ、良かった!」と、彼女はパッと嬉しそうに笑って、言った。「今日のはほんとうに、今まででいちばんの出来だったんです」

 

*海、その七

 次の日、軽い朝食を終えてから、私はボーイに話しかけた。(ちなみにその朝はパンケーキ一枚と紅茶だけにした。何たって昨日、結局たくさんシチューをおかわりしてしまったんだもの。)

「とてもあかるい海に行ってくるよ」と、モップでロビーを拭いているボーイに私は言った。

「もう、よろしいのですか」と、手を止めてボーイは言った。

「もちろん彼がいないのは淋しいけどね」と、私は言い、続ける。「でも、またいつか海に来た彼と、会えないとも限らないから」

「おっしゃる通りです」と、ボーイは目を伏せて言う。

「それじゃ、行ってくるよ」

「ええ、いってらっしゃいませ」

 それで私と彼は別れる。私はとてもあかるい海に行って、彼はロビーの掃除を続ける。

 橋を渡り、リコリスの畑を越え、草のトンネルを抜けると、とてもあかるい海に着く。光る砂浜に踏み入れば、まぶたの裏が真っ白になって、彼がいない悲しみがやわらぐ。そのうちにまぶしさにも慣れてゆき、しばたたかせながら目を開けば、どこまでも青い海と跳ねる白砂の浜が見える。

 こんな景色を前にすれば悲しみはさらにすり減って、私は服を脱ぎ捨てながらしずかな海へと泳ぎに入る。沖に出て太陽の下で仰向けに浮かべば、まぶたの裏に太陽がまぶしい。浜に戻って横になれば、背中の砂が心地よい。

 浜に寝ころがり、跳ねる砂を背中に感じながら、私はうとうとと、夕食のことを考えていた。今日の夕ごはんは何だろう。でも何が出たっておいしいのはわかっているから、楽しみで、しかし、せめて彼も、夕ごはんを食べてからユータナジーを出発すればよかったのに。

 そのうちに口笛が聞こえはじめるから、私はそれに耳をすませる。どうすれば彼のようにハーモニーをつくれるのかわからない。だから私は、ただ静かに耳を傾ける。とてもあかるい海の口笛はいつだってうつくしい。

 そうやって二、三日と過ごしていれば、彼のことだってほとんど気にならなくなってしまう。

 とてもあかるい海とユータナジーは、そういうところだ。

 

***

 これで私の思い出話はおしまいだ。

 海とユータナジーを往復する日々を送りながら、長いあいだ私は幸せに過ごしてきた。とてもあかるい海のこと、ユータナジーのこと、詩人との思い出、ボーイやウェイトレスのこと、だいたいのことは書いたつもりだ。

 今、私はユータナジーに暮らしていない。あの穏やかでなんとなく愉快だったユータナジーをあとにして、あなたがたと同様の世界で、激情や苦痛ばかりが際立った、修羅のような日々を送って暮らしている。

 ユータナジーでの日々はもはや、とおい思い出となってしまった。そうして過去の思い出は、そのやわらかな肌触りを時々刻々と失ってゆく。いま私がユータナジーを回想しても、その場面、その情動があくまでも事実として思い出されるだけで、現在の私の感情は凪いだまま動こうとすることがなく、まるでぶ厚いガラスに隔てられているかのようだ。

 そのうちに私はユータナジーで過ごした日々を、風景や情動の記憶としてすら思い出せなくなるのだろう。いや、現にもう、そうなりつつある。とてもあかるい海のうつくしさも、ユータナジーのシチューの美味しさも、単に言葉としてしか残っていない。私の思い出は日々枯れていく。(注意深い読者なら、これまで私が書いてきた話のなかに、妙に精彩を欠いた箇所がいくつかあったことに気がついたかもしれない。それこそがつまり枯れてしまった思い出の箇所だ。)

 いつか私も、あなたがたと同じように、現前する生活の困難に押しつぶされて、あんなにも愛おしかったはずの思い出をそもそも存在しなかったと言い張るようになるのだろうか。或いは、思い出を記憶の隅に封じ込めて、みずから修羅と化しながら修羅の日々に全身を投じることになるのだろうか。

 あんなにも幸せだった、ユータナジーの日々。(この『幸せだった』も、今や実感を伴わない抽象的な言葉でしかない。)

 私はどうすれば良いのだろう。もう、ユータナジーには戻れない。とてもあかるい海をふたたび訪れることも叶わない。

 現在の私がどのようにして暮らしているのか、どうして私がユータナジーをあとにしたのか、そんなことは書きたくない。

拝啓ファム・ファタル(下)

前半はこちら

https://fog.hatenablog.jp/entry/2022/09/07/171459

 

 あなたはもう気がついているだろうか。私の視野は彼女に向けて急速に狭まりつつあった。きっとあなたは気がついているだろう。いま、これを読みながら、あなたは私の語りかたの変化に違和感を抱いている筈だ。彼女が私から日常を剥ぎ取って捨てていったように、私は私の語りから広がりを捨ててゆきたい。或いはあなたはそれを退屈に思うかも知れない。我慢して読んでくれれば良いと思う。さあ、話を続けよう。

 

 

 夜だった。それで私たちは一軒のビジネスホテルを見つけた。彼女はここに泊まるという。彼女がそう言ったから、つまり私だって今日ここに泊まるのだ。

「ここにしましょう。あんた泊まりますって言ってチェックインしといてね。出来る?出来るわよね?宜しくね。あたし明日着る服を買ってくるわ。あんたのシャツのサイズはLで良い?」

「ええ、それで構いませんよ、お願いします」

そうして私たちは一旦別れた。私は彼女が言ったとおりにこのホテルと宿泊契約を結ぶ必要があった。

 ロビーに客は居なかった。狭いロビーだった。何となく全てがくすんでいた。うらぶれた場末のホテルだった。

 受付にひとりの女が居た。私に気づかない様子で帳面をめくり何かを書き込んでいる。

「あの、すいません」

声をかけるとハッとして女は顔を上げた。その無防備な表情にすぐ笑顔を張りつけて女は言う、

「こんばんは、お一人ですか。予約のお名前を伺います」

「いいえ、二人です。それで予約もしてないです」

「でしたらこちらにお名前のご記入をお願いします。お部屋はどうなさいますか」

「ええ。……ごめんなさい、『どうなさいますか』っていうのはどういうことですか」

用紙に名前や住所を書きながら私は訊いた。(住所はあの街のものを書き入れた。) 女はそれを聞いて、

「ひと部屋取るかふた部屋取るかってことですよ」

と、にわかにざっくばらんな調子で言った。

「どちらのほうが安いですかね」

「もちろん、ひと部屋のほうが安く済みます」

「じゃそれで」

「ツインとダブルどちらになさいますか。ダブルのほうがお安いですが」

「ツインとダブルってどう違うんですか」

「ベッドの数ですよ」

「ベッドはふたつにしてください」

「ツインですね、かしこまりました。素泊まりにしますか、それとも有料で朝食もお付けできますけど」

「そうですね……、とりあえず無しにしておいて、あとから気が変わったら朝食を追加で申し込んだりってできますか」

「ええ、可能です」

「じゃあとりあえず無しってことで」

ここで私は用紙に名前やら住所やらを書き終わり、女に渡す。女はそれに目を通すと、

「承りました。宿泊料金は前払いになりますから、」

と言って彼女は支払いを要請する。そのまま私は財布を開き、千円札の一枚きり見当たらないことに気がつく。冷や汗が出る。

「いますぐ支払う必要がありますよね?」

「ええ、規則でして。お部屋の鍵をお渡しする前に料金の精算が必要です」

私は財布のなかを漁る。レシートの合間にお札の一枚や二枚紛れ込んでいやしないかとレシートの束を掻き分けて、すると、レシートとレシートの合間から、レシートが出てくる。

「ちょっと待ってくださいね」

「ええ、構いませんよ」

 私は財布を漁りつづける。明らかに現金が足りないことはわかっているが、入っている筈の現金が急に消えてしまったように財布のなかを探るフリをする。オカシイなぁお札が財布の隅っこに隠れちまったみたいだなぁ、なんてフルマイを演じてレシートの束をかき回しながら、私は、女に、何と言って謝ろうかと考えていた。(レシート、レシート、レシートの束。レシートの束で分厚い財布、合皮が剥げてぼろぼろの財布。) 予約もなく、ツインとダブルの違いも知らず、あまつさえ現金すらも持たずにホテルに来た私を、女はどう思っているのだろう。財布から目を上げ女を見る。笑みが目の辺りから剥げかかっている。私は愛想笑いで会釈し、目を下げ、レシートを最後に少し漁ってから、言う。

「申し訳ないんですがいま持ち合わせがなくて、すみません、じき彼女が来るから、そうしたら払えるんですが」

「でしたらそちらでお待ちください」

鼻白んだように女は言った。私はほんとうにスミマセン、と頭を下げ、薄汚いロビーのソファに座った。女は胡散臭げに私を眺め、それから帳簿をめくる作業に戻った。

 

 

「どう?部屋ちゃんと取れた?」

ときおり胡乱げに私を見る女のまなざしにそろそろ耐えがたくなった頃、彼女はようやく現れた。服屋のビニール袋に加えてコンビニの袋も持っていた。だいぶ長いこと彼女を待っていた気がする。彼女が戻ってきて、私は救われる心地だった。

「いえ、駄目でした。貴女を待っていたんです」

「……ねえ、あんた、一人じゃホテルの部屋も取れないの?」

呆れたように彼女は言った。

「違うんですよ、部屋代が先払いで、おかねが無くてどうにもなりませんでした。貴女が旅費を持っているから」

「なるほどね。あんたを離したあたしが馬鹿だったわ」

そう言って彼女は私に袋を持たせると、私をカウンターに引っ張ってゆき、女に「幾らですか」と訊いて、あっという間に支払いを済ませ、鍵を受け取った。

 部屋に向かうエレベーターに乗る直前、カウンターを振り返って見ると、女は呆けたような顔で私たちを眺めていた。

 

 

 逃避行をつうじて彼女は私の日常を、私の身体から剥ぎとって捨てていった。彼女の求めるままに私は日常の匂いの染みついたものを手放して、だんだんと彼女の求める純粋な機械になっていった。それで私は思い出を語った。彼女は私の思い出にだけは手を出さず、それどころか私が話す思い出を、慈しむように聴いてくれた。

 私が純化されていく過程としての逃避行を、あなたに教えてあげよう。

 

 

 ひと部屋にしたのね、とエレベーターの中で彼女は呟くように言った。一本きりの鍵をふらふらと揺らしている。

「そっちのほうが安いって言っていたから」

「そう」

 閉じたエレベーターでそれきり私たちは静かだった。階の表示灯が上がっていく。私はやじろべえのようにビニール袋を持っていた。ふたりきりだった。

 チン、と音が鳴りドアが開く。私たちの泊まる部屋の階に着いた。彼女に続いて私も降りる。エレベーターから二歩踏み出して、そこで私はようやく、気がついたように、アッ、と声を出す。彼女は振り向いて私を見る。後ろでエレベーターが閉まる。

「どうしたの」

「僕、ひと部屋しか取ってないですね」

「さっきそう訊いたじゃない」

「いえ、違うんです。いや、そうなんですけど、つまり、その、……僕はひと部屋しか取っていないから、これは、良くないでしょう」

「なにが?」

「同じ部屋で寝るのは、その、……ねえ、貴女は嫌じゃないんですか」

「今さら別に構いやしないわよ。それよりも早く部屋に入らない?」

「いやしかし、」

「あのね、」と彼女は言い、続けて、「あたし疲れてるからこんな処であんたのウジウジした内省に付き合わされるのは御免なの。部屋を分けるにしても一旦あたしたちの部屋に入ってベッドのフチか椅子にでも座って決めれば良いでしょう。そう思わない?なにもこんな処で立ちんぼで議論することはないでしょう。その程度の気遣いを期待することすらあんたには酷かしら。」

「でも一旦にしろ部屋に入ったら、清掃やら何やらで、或いは部屋を変えるにしても余分な費用が、」

「ああ、くどい!」

彼女はピシャリと言って私を黙らせた。そのまま彼女は私の手首をギュッと握り、部屋までズンズン進んでいった。どうしてこんなに迷いなく進んでゆけるのかわからなかった。私は彼女の手を振りほどくことができないから、彼女に引かれるがままついてゆき、私たちは同じ部屋の前に着いた。嬉しくも恐ろしいような心持ちだった。

 解錠しドアを開けた彼女は、まず私を部屋に押し込んだ。それから彼女も部屋に入って、彼女はドアを閉じ、後ろ手で鍵をガチャリと閉めた。(私たちでふたりきりの一部屋だ。) ぼんやりと突っ立っているわけにもいかないから、私は部屋の奥へと進んで、彼女も私の後に続く。すぐに私たちは二台の白いベッドを目にする。

「へえ、ベッドはツインなのね」

そう言ってすこし考えたのち、彼女は二つのベッドの狭間に置いてある小物置きの灯り台を、引っ張り出して退けはじめた。何をしているのだろう。私は彼女のフルマイをぼんやりと眺める。彼女のピアスが激しく揺れる。

「袋、その辺に適当に置いて良いわよ。でもコンビニの袋には瓶も入ってるから気をつけてね」

そう言いながら彼女は灯り台を部屋の隅へと押しやってしまった。これで二つのベッドの合間には何もない。続けて彼女は向かい合った布団の一辺ずつをそれぞれのベッドに跳ね上げる。(蜜蜂のように彼女は動く。) 綺麗なベッドメイキングが台無しになる。
私は訊く。

「その、貴女が何をしているか伺っても宜しいですか」

いま、彼女は部屋奥のベッドの壁との隙間に立っている。

「……まだわからない?」

「ええ」

「大したことじゃないわ。ツインをダブルにしちゃうのよ」

そう言うが早いか彼女はガガガと押してふたつのベッドをくっつけた。あっという間だった。彼女の華奢な身体のどこからそんな力が出ているのかわからなかった。ツインのベッドはダブルになった。私はとにかく怖かった。

「その、貴女がどうしてベッドを、くっつけちまったのか、僕は伺いたいんですが」

「……ねえあんた、それ本気で言ってるの?」

「ええ」

それを聞くと彼女はにわかに色めきたったようすで私の前まで歩いて来、そうして私を見上げて睨む。私は彼女が怖かった。彼女は滔々と話しはじめる。

「どうやらあたしはあんたに何もかも教えてあげなきゃいけないのね。良いわ、教えてあげる。あんたがそのつもりならあたしも付き合ってあげる。よく聴いてね。良い?

 まずね、あんたがひと部屋しか取ってないって気がついたとき、あたしすこし感心したのよ。たとえそれが『安かったから』だなんて野暮な言い訳でも、まあ、良かった。あんたも少しはやるものね、ってそう思ったのよ。そのときだけはあたしあんたに感心したわ。……でもね、エレベーターを降りた瞬間始まったあんたのいつものウジウジは、あれ、最低よ。あんたは黙って部屋に入りゃ良かったの。あたしが嫌がってないんだから、あんたのひと部屋の判断は正解だったのよ。あんたあたしのことを今じゃまったく知らないわけじゃないでしょう、だったら少しは判ってほしいわ。あたしがもしあんたと同じ部屋で過ごすのが嫌だったら最初からそう言って断ってた。あんたまだわからないの。あんたはあたしの性格を知っているでしょう。……いや、あんたはわかった上でああやってウジウジして見せたのかしらね。だとしたら、あんたはあたしが『同じ部屋でも別に良い』、って言葉にして言ってくれるのを期待していたんでしょう。違うかしら。きっとそうね。そんなら理解できるわ、臆病なあんたらしい行動だと思う。あんたが最低なことには変わりないけどね。

 でもね、百歩譲ってそんなあんたの臆病さを認めるとしても、あたしがあんたに同じ部屋でも構いやしない、って告げたあとにもあんたはまだウダウダグチグチ言い続けようとしたでしょう。あれはなに?ほんとうにしつこくて腹が立ったわ。それこそぜんっぜん必要のない会話だった。あれは何だったの?……もしかして、ねえ、ウジウジした態度を演じているうちにあんたほんとうに同じ部屋で寝るのが怖くなってきちゃったの?あんたはまるで異性と縁が無さそうだものね。スケベ心を出したは良いけどよく考えると怖くなって、だからあたしが同じ部屋でも構いやしない、って言った後にも清掃料云々でマゴマゴ言い続けていたのかしら。だとしたら納得できるわ。そうなの?だからあんなふうにあんたはウジウジしていたの?もしそうなら、あんた、馬鹿じゃないの?

 ねえ、あんたの脳みそが丸ごとこわばって新しいことを何ひとつ受け入れられやしない、って状態じゃないならどうか覚えていてほしいんだけど、今後、金輪際、余計な尻込みでウジウジしてあたしをどうしようもなく苛立たせることは、しないでほしいわ。あたしが良いって言ったら良いのよ。可能ならあたしが言わないことも汲み取ってほしいけど、そこまでは期待しないから。あたしが手を引っ張っていく方向に、あんたにもついてきてほしい。あたしが望むのはそれだけなの。どうかあたしの言ったことを忘れないでね。……さあ、それじゃ、シャワーでも浴びて頭を冷やしてきなさい。クローゼットの中には浴衣なりバスローブなりが入っているでしょう。タオルもそこに入ってるかも知れないわ。あとコンビニであんたの下着も買ってきたから、サイズがわからなくて何種類かあるけど、ちょうど良いのを履きなさいね。またあとで会いましょう」

何も言い返すことはなかった。私は彼女が言う通り、コンビニの袋から下着を取り、クローゼットから浴衣を出して、浴室に入った。

 シャワーを出しっぱなしにして、長いこと呻いた。

 

 

 浴室から出ると彼女はウィスキーを飲んでいた。テーブルを差し挟んで二脚の椅子がある、その片方に彼女は腰を掛けている。テーブルの上にはウィスキーの瓶とグラスがふたつ、それとどこから持ってきたのかわからないがアイスペールが置いてある。片方のグラスは彼女が使い、もう片方は空のグラスだ。おそらく私のためのグラスだろう。彼女は座るようにと身振りして、私が座ると氷を入れウィスキーを注ぎ、私に差し出す。私はそれに口をつける。

「もしお腹が空いていたら、コンビニの袋にパンとかあるから」

床のコンビニ袋を見るといくつかのパンが入っていた。私は一番小さいパンを食べた。ひとつで充分な心地だった。

 しばらく黙って飲んでいた。重苦しい心地で、飲むほかないから飲んでいると、じきにグラスが空いてしまって、すると彼女は氷を足してふたたびウィスキーを注いでくれた。私は彼女に「ありがとうございます」と告げた。すると彼女も口を開いて、

「あのね、あんたが部屋を取っていたとき、あたし明日着る服を買っていたでしょう」

「ええ。」

「それでね、あんたにはこれを買ってきたの」

彼女は私に服を渡す。Tシャツではないようだから、開いて見ると、上下揃いの、これは、甚平?

「僕たちお祭りにでも行くんですか」

「お祭りがあればすこし寄ってみるのも良いかも知れないわ」

「余所行きの服に甚平、ってのも珍しいですね」

「あんたにはきっとよく似合うと思うの。あんなジーンズとTシャツよりも、こっちのほうが良いと思うわ」

「なんだか目立ちそうですね」

「あたしがずっと一緒だから大丈夫よ」

「貴女も何か、浴衣とかを着るんですか」

「まさか。あたしは普通の服を着ていくわ。あんた甚平を着てくれる?」

「僕は貴女の望むとおりにしますよ」

「そう、良かった」

 ふたたび私たちは静かになった。にわかに食欲が回復した私がコンビニの袋からもう一つパンを取り出して食べていると彼女は、

「そういやあんた昼ごはんを食べてなかったわね」
と言ってすこし笑った。それで私は明日の朝食を思い出して、彼女に告げる。

「受付で言っていたんですけど、有料で朝食を頼めるらしいですよ。とりあえず無しにしといたけれど、変更できるらしいから、どうしましょうか」

「別に良いわ。どこか明日、適当なところで食べましょう。買ったパンの残りを食べても構わないし」

 そんな話をしながらウイスキーを飲んでいると、あるとき彼女は何気なく手の甲に手の甲を重ねるようにして、そっと私の左手を掴んだ。

 彼女は言う。

「こんなふうに、あたしたち学食で逃避行を始めたのよね。あたしがあんたの腕を掴んで。」

右手で私を掴んだまま、左手で彼女もウィスキーを飲む。

「あのときは僕、逃避行をするなんて微塵も思い至らなかったんですよ。ただ三限だけをサボるつもりだったんです」

「あら、そうなの」

彼女はフフッと笑って私の手首をやわらかく離し、手の甲に指を滑らせる。人差し指と中指が尾を引くように私の手の甲を撫ぜる。

「それから学生証を折って、電車に乗って、僕らずいぶん遠くまで来ましたね」

「いいえ、まだまだよ。逃避行は始まったばかりだから」

手の甲から指を辿り、そのまま私の指に彼女は指を絡ませる。(彼女の右手と私の左手。) 彼女の指は白く細くて、私の野暮なそれとはまるで別物に思われる。白くて冷たい手の指先は繊細な飴細工のように、爪が短い。

「もっと遠くへ、あたしたち、どこまでも逃げてゆきましょうね」

「僕は貴女についてゆきますよ」

絡ませた指を彼女は切なげに這い回らせる。関節が足りないタコのように、私の指に巻きつこうとして、やりきれず、歯がゆげに私の指を撫でている。

「電車に乗るまえ、あんたは日常に帰りたい、って言ってたわね。今もそう?あたしから逃げたい?」

「もう日常に帰りたいとは思いませんよ。それで貴女から逃げ出しもしないでしょう」

為されるがままされていた私も彼女の指を求める。すると彼女は一瞬だけピクリと震え、それから尚ももどかしそうに私の指に絡みつく。探りあうように絶えず絡みあう私たちの指は決してひとつにはならない。私と彼女はとおく届かないものを夢見るように互いの指を交わし続ける。

「あたしから離れない、って誓ってくれる?」

「誓いますよ。……しかし僕は神をもたないから、何に誓えば良いですか」

絡んだ指をするりと抜けて私は彼女の手の甲を愛撫する。少しの間彼女は撫でられるがままじっとしていたが、すぐに手をひっくり返して下から私に触れようとする。私たちはくすぐるように互いの指先を触れ合わせて、じきにまた指を深く絡める。

「あたしに誓ってくれれば良いわ。あたしから離れない、って。あたしたち一緒に、ずっと離れないで、どこまでも逃げ出す、って。」

交わらせた手を彼女は強く握る。私も彼女を握り返す。互いの存在を、心持ちを確かめるようにして私たちは、絡めた手を握っていた。

「ええ、わかりました。誓います。僕は貴女に誓います」

それを聴くと彼女は安堵したように笑って、

「あたし、あんたのことが好きよ」

と言って手を離した。私は曖昧に微笑んで返事をしなかった。

 

 

 私たちの逃避行は会話で満ちていた。わずかな余韻と行動の隙間はすべて会話が埋める日々だった。言葉に満ちた逃避行のさなか、私だけでなく彼女も、言葉の水で洗い流すようにして、身についた夾雑物を丁寧に落としていくように、純化していったように思われる。あとはいくつかの素晴らしい沈黙があって、しかし、こんな御託をいくら書いても仕方ない。あなたが私の逃避行をそのまま経験できないことを可哀想に思う。だからあなたに話してあげよう。

 

 

 明け方に一度目が覚めた。いつものアパートの積りだったから、ホテルの天井は違和感だった。薄暗い部屋に鈍い頭を六分の一ほど転がせば、ほんのすぐ隣に知らない女が眠って居て、次の拍動は肋骨を突き破るようだった。その知らない女を私は実は知っていて、それが他ならぬ彼女であり、私は彼女と逃避行をしているのだと、そう思い出すまでに、外でカラスが二度鳴いた。(心拍が落ち着くまでには大分かかった。)

 彼女は安らかに眠っていた。眠る表情に険は無かった。こんなに華奢な白磁の彼女に引きずられて逃避行をする私はいま、彼女の隣に目覚めていた。彼女は何の心配もないように眠り続けている。私を信じ切っているようだった。寝息を立てる彼女の愛おしさに私の心は赤く染まって、私は、ふたたび仰向いて目を閉じた。彼女の微かな寝息に耳を澄ませて聴いていると、すぐに私は眠っていた。

 

 

 次に私が目覚めると彼女はとっくに起床していた。私は長いこと二度寝していたようだ。開かれたカーテンの外から気持ちのいい日が差している。身を起こし眼鏡をかけて見ると、彼女は昨日の椅子に座ってメロンパンにかぶりついているところだった。

「おはよう。あんたずいぶん寝てたわよ」

齧ったメロンパンを咀嚼し飲み込んでから彼女は言った。既に着替えを済ませていた。

「そんなメロンパン、昨日買ってありましたっけ」

「今朝起きてからちょっと買ってきたの。ほかに揃えたいものもあったから、ついでにね」

そう言って彼女は巾着と手提げ鞄の間の子のような革袋を持ち上げて見せる。中には小物が入っているようだ。革袋自体もそれほど大きくはない。

「出来ることならあたしだってあんたみたいに手ぶらで逃げ出したいんだけどね。そうもいかないのよ」

「僕にもそういうカバンとかあれば便利だと思うんですけれど」

「あんたは良いの。甚平を着て何も持たずにあたしに着いてくればそれで良いわ。……さあ、そろそろ目が覚めた?じゃあ甚平に着替えてきなさいね。あたしたちの逃避行の続きをしましょう」

そう言って彼女はふたたびメロンパンにかぶりついた。私はベッドから出て甚平を持ち浴室に向かう。浴室に入る前にふと振り向いて彼女に訊く。

「朝ごはん、僕のぶんのパンもありますか?」

「もちろん!」と彼女は応える。

 

 

 すべて済ませて私たちは電車に乗っていた。私は眼鏡と甚平だけを身につけ、何ひとつ持っていなかった。ジーンズもシャツも腕時計もホテルに捨て置いてきた。

 私はそれこそ手ぶらだった。ほんとうならレシートと身分証の詰まったあの財布だけは持っていく積りだったが、甚平のポケットが醜く膨らむのを彼女は潔しとしなかった。

「それなに、財布?」

「ええ、財布です」

私の財布を受け取って中身をチラと覗いたきり、

「あんたのこの汚い財布はここに置いて行きましょうね」と彼女は言って、保険証の一枚だけを抜き出して彼女自身の財布にしまった。そうして私の財布はベッドの上に投げ出された。(改めて見るとほんとうに汚い財布だった。) 私は彼女の言うとおり、私の財布を置きっぱなしにホテルを出た。

 甚平と眼鏡と、……ああそうだ、私は下駄を履いている。服屋に売っていたのを彼女はついでに買ってきたという。

「甚平にスニーカー、ってのも野暮だから。これ履いてついてきなさいね」

彼女の言うことも尤もだと思い、私は下駄を履いてホテルを出た。甚平と眼鏡と下駄、これが私の全てだった。(もちろん下着は履いていたが。) そうして今私たちは電車に乗っている。ロングシートの鈍行列車に私たちは並んで座っていた。

 甚平の私に向けられる奇異の視線は少なければ少ないほど良い。幸い朝よりも昼に近い時間の、それも田舎じみた電車だから、乗客なんてほとんど居らず、要するに、耐えがたいほど恥ずかしくはなかった。それに隣には彼女が居た。この頃には私はもう、彼女についてゆけば万事大丈夫であるかのような奇妙な安心感を抱いていた。彼女は物珍しげに車内の広告を眺めている。

 電車は揺れて、彼女のピアスが鈍く光る。それを見てふと気がついて私は言う。

「ピアスすこし減らしましたか」

私がそう言うのを聞くと彼女は私の方を見る。戸惑ったような表情をしている。

「あたし、今、びっくりしたわ。あんたがあたしの見た目のちょっとの違いに気がつくなんて、……いいえ、気がつけるなんて、あたし、全然、思いもしなかった。あんなヨレヨレのシャツを平然と着てたあんたが、ひとの耳許に気を配れるなんて、変な感じねぇ。無精髭も伸ばしっぱなしのこんなあんたが。すごく意外よ」

一拍置いて彼女は続ける。

「あんたがさっき言ったように今日はちょっと減らしたの。ホテルの洗面台の隅にポイって置いてきた。もっとも、減らしたのはピアスじゃなくてイヤーカフなんだけどね。最初からピアスは耳たぶの一つだけ。イヤーカフとピアスの違い、あんたわかる?」

そう言うと彼女は顔を背けるように俯き、髪をかき上げ耳を見せた。私はイヤーカフとかいう言葉を聞くのも初めてだった。耳の側面につけられたそれは、その、いくつかのイヤーカフとやらは、しかしどうやって取り付けるのだろう。

 私は彼女の耳を見つめていた。会話はなかった。耳許をよく見せようと思ったのか、彼女は髪をかき上げた姿勢のまま静止した。口を結んで目を伏せて、写真のように止まった彼女の、耳たぶのピアスだけが電車に合わせて小刻みに揺れている。

 私は彼女の耳許を、目に焼き付けるように見ていた。微分された時間だった。私はずっと耳許を見ていたかった。ほとんど時間は止まっていた。電車の揺れと線路の音だけがとおく聞こえるようだった。彼女の耳許から目を離せなかった。華奢な彼女の白い耳だった。ふと私はイヤーカフが彼女の心のいびつな外壁であると直観した。それで私は彼女の耳のやわらかい白さを見つめていた。

 静止していた時間はしかし次の停車駅を告げる野暮な電車に邪魔されて、彼女は微かに動き出し、私の方に視線を向け、「ねえ、もう良い?」と私に訊いた。もう良い、と訊かれたならばええ大丈夫ですありがとう、と応えるほかない。だから私はそう言った。彼女は手を下ろして私のほうに向き直り、

「ずいぶん長いこと耳を見てたのね」

イヤーカフがどういう仕組みなのか長々と見てもさっぱりでした」

「簡単よ」、と彼女はささやくように言う。

「挟むだけで良いの」

次の駅でも乗客は誰ひとり乗ってこなかった。

 

「何かあんたの話をしてよ」

鈍行の車内広告を眺めるのに飽きたのだろう、彼女は私にそう言った。

「どんな話が良いですか」

「あんたに関係のある話だったら何だっていいけど、……そうね、あんたが信号機を大嫌いだった、って話があったでしょう。あんなふうな話を聴きたいわ。つまりね、あんたがひとりぼっちで、ものやひとに怯えたり、それを憎んだりした、そんな話を聴きたいの。」

すこし考えて私は言う。

「そうですね……、断片のような話だけれど、ビニール傘とかマスクとか、自動ドアの話とかをしようと思うんですが、どうでしょう」

「よくわかんないけど良いと思うわ。あたしね、あんたの話を聴くのだけは嫌いじゃないの。楽しみにしてるわ。面白く話してね。さあ、話して。」

「ええ。貴女が楽しんでくれるように頑張ります。それじゃあまずビニール傘の話からしましょうか。

 大学に入学するまえ、あの街には梅雨が無い、ってそう聞いていたのだけど、実際に住んでみれば梅雨みたいに雨が続く時期はあって、僕はそれを興醒めに思っていました。いや、興醒めって言葉は適切ではないですね。つまりその、何となく期待していたことが、思っていたとおりにならなかったときの感情、これをいったいどうやって言えばいいのだろう、……やっぱり興醒めで良いのかもしれない。僕は、厳密には梅雨ではないその梅雨のような天気に、興醒めしていました。

 さて、ここで勘違いしてほしくはないのですが、僕が興醒めしていたのは、事前の想像と違えて雨が降り続いたっていう、言うなれば想像と現実の乖離にであって、降っている雨やその雨のなか大学に向かって歩かなければならないという事実そのものについてではないんです。僕は雨の日に外を出歩くことは嫌いではないし、どちらかと言えば雨の日のほうが晴れの日よりも好きだった。もちろん豪雨のように降る日はとても嫌ですよ、しかしね、ただ単にシトシト降っているような日に傘を差して歩いていると、そのときだけは僕は自然に歩けるんです。

 雨の日には自然に歩ける、ということを理解してもらうには、まず晴れの日について話すのがいちばん良いでしょう。つまりね、傘を持たない晴れの日には、僕と世界のあいだを遮るものがなにもないから、ひとの視線も笑い声も直接届いて、それが怖くて恥ずかしいから、僕は怯えるように俯いて歩くほかないんです。人から見られているなかで、どう腕を、足を動かせばいいのかまるでわからなくなっちまって、緊張して、歩きかたも不自然になってしまう。半袖から出る腕が恥ずかしくて、指先すらどんな形で歩けばいいのかわからないんです。夏の昼間の幽霊みたいに、ひとりでひっそりと居たいのに、腕も足も妙に重くてぎこちなく、恥ずかしくて、そしてそんなとき向かいから道いっぱいに広がった学生の集団が歩いてくれば最低です。彼らは楽しそうにふざけあって、まるで自然な調子で歩いている。彼らはみずからの歩きかたが果たして自然に見えるかどうか、気にかけたことなんてないんでしょう、いや少なくとも今この瞬間には気にかけては居ないはずだ。僕にはそれが羨ましくて妬ましかった。彼らを見ていると僕は僕自身ただひとり醜悪な化け物であるかのような気分になってくるんです。

 腕が、足が、あるべきしかたで動いている、そんな彼らとすれ違うため、僕はほとんど道の端ぎりぎりまで寄って歩きます。そうやって、身につまされるようにやっとの思いで彼らとすれ違えば、次の瞬間、後ろから彼らの笑い声が聞こえる!さっきまでただニギヤカだった彼らは、僕とすれ違うや否や、悪意のように笑い出したんです!『彼らはきっと僕を笑った!』そう信じ込んで僕は泣きだしそうな心地になって、さっきよりも更にぎこちないようすで歩くんです。そうやって僕をどこまでも責め苛む晴れた日の大学が、街が、大学生の集団が、僕は大嫌いでした。

 翻って雨の日です。今言ったような晴れた日と較べれば僕は雨の日が好きでした。傘を差して歩けば周りの視線を覆い隠せて、まずそれが僕を安心させます。どこからか笑い声が聞こえても、それは晴れの日のようには僕の心を傷つけない。これもまた傘のお陰です。傘は雨だけじゃなく視線も笑い声も遮断し減衰させてくれるのだから、こんなに良いものは滅多にない。それに天気が悪ければ路上で浮かれ騒ぐ学生の数じたいも少なくて、だから僕は緊張せずに、僕の足も腕も、本来そうあるべきような動きを自然に取り戻していました。水溜まりを避ける憂鬱なんて些細なものです。雨の日に僕は傘を差して安らいだ心でした。それで」

「ビニール傘の話よね?忘れてない?」

と言って彼女は口を挟んだ。私はそれに応えて言う、

「ええ、これからビニール傘の話もしますよ」

「あら、そう。口を挟んでごめんね。続けて」

「僕ばっかり話していて退屈ですか?」

「大丈夫よ。ただあんたがあたしに物語っている、ってことを忘れないでくれればそれで良いわ。さあ、あんたの話のつづきを聴かせて。あんたが大学の街でどんなに哀れだったのか、あたしにたくさん、面白く教えて。」

「わかりました、続けますね。それじゃ端的にビニール傘の話をしましょうか。

 さっきも言ったように僕は雨の日に傘を差して歩くのが好きでした。人からの視線を傘で遮ることが出来るからこそ僕にとって雨の日は素晴らしくて、だから僕はビニール傘なんて絶対に使いたくはなかった。透明なビニール傘なんて雨を遮る以外のなんの役にも立たなくて、人からのまなざしを遮れない傘なんてこれはもう、差す意味がない!僕は本気でそう考えていました。貴女は僕をおかしいと思いますか。考えすぎだとそう思いますか。僕には人の視線が怖くて仕方ない。たとえば、今だって僕は貴女の言うまま甚平を着ているが、人目を引くこんな格好で外に出ているのが、まるで裸のように恥ずかしいんです。貴女が隣に居なければ僕は今すぐにでも電車を降りて服屋に飛び込み一番無難なTシャツとジーンズを買って着替えたい。

 ……ねえ、ふと思ったんですが、今から服屋に行って着替えてきても良いですか」

「もちろん駄目よ。甚平であたしに着いてきなさい。それに今あんたは一文なしだから服屋にも行けないし、どのみちあたしから逃げられないわよ」

彼女はにわかに反応して言う。魚が掛かった釣り人のように私は続ける。

「承知しています。僕は僕自身を丸ごと貴女に投げ出したんですから。今更逃げ出す積りはないですよ。ですからどうか、貴女はきっと、僕を置いてどこか行ったりしないで下さいね。僕をそばから離さないでください。貴女が居なくなったらこんな知らない場所で甚平を着て、僕は羞ずかしさですぐ死んじまうでしょう」

それを聴きながら彼女は嬉しそうな顔になって、言った。

「さあどうでしょうね。……でも、しんから愛想を尽かさないかぎり、あたしね、あんたとずっと一緒に居てあげるわ。ときどきあんたにいじわるをするかもしれないけどね。あんたは何にも持たないで、人から浮いた甚平だけ着て、あたしにずっと着いてきなさいね。あんたの甚平は目立つけど、あんたに甚平はよく似合ってるわよ。影か背後霊みたいにあたしにずっと着いてきなさいね。それであんたはあたしに思い出を物語りなさい」

遠い目をして私の話をただ聴いていた彼女が、急に活き活きと嬉しそうな顔で言うから、私もほとんど嬉しくなって、

「ええ、僕は貴女が望むようにして貴女についていきますとも!ところで、ねえ、ひとつ訊いても良いですか!」

「何を訊きたいの!」(感動して声が大きく彼女は言った。)

「いえ、大したことではないんですがね。貴女はついさっき僕に、いじわるするかもしれない、ってそう言いましたね。僕としてはその、あんまりいじわるをされたくないわけですが、貴女はどんなことを僕にするつもりなんでしょう」

私は彼女がこういう話を続けたいことを判っていた。私がそれを判っていることを彼女もきっと気づいていただろう。私と彼女はこの瞬間、昼間の鈍行列車のなかで、心底幸福な劇を演じていたのだ。彼女は言う、

「あたしね、あんたが恥ずかしく思うことをしてあげるわ。要するにあんたは甚平を着て一人ぼっちで人目に晒されることが嫌なんでしょう?ならね、あたしはそれであんたを辱めるの。たとえば、」(と言って彼女はちょうど停車していた駅舎を指差して言う、)「たとえばこんな駅のホームにあんたをひとりで立たせておくの。」

寂れたプラットフォームだった。人の姿はちらほら見える。私は言う。

「そんなのは僕逃げ出してしまいますよ」

「いいえあんたは逃げ出せないの!あんたは何にも持ってないからね。お金も、身分証明書の一枚すらも持ってないから、逃げ出したいと思いながらあんたはあたしを待つほかないのよ。ちょっと待っててね、って言ってあんたを放っぽり出して、あたしはあんたを物陰に隠れて覗くんだわ。あんたはあたしに言われたとおりにプラットフォームで待ち続けるの。愚直にボーっと突っ立ってあたしを待ち続けるんだわ。」

「そんな、ねえ、」

「良いから黙って聴きなさい!そうやってあたしを待ち続けるあんたは、いいえ、甚平を着てホームに立ちんぼのあんたを、この駅のひとはジロジロ見るんでしょうね。こいつは何だ、無精髭で甚平を来たこの男はいったい何なのだろう、って、そんなふうにあんたを眺め回すんだわ!そういう視線が幾つもあるの。この駅には大学生の集団もいるかもしれないわね。そいつらはあんたを見て『何あいつ!』って嘲って笑うんだわ!そいつらの嘲笑が、あんたを悪く言うようすが、あんたにも聴こえるの。あんたは疑るような視線とか、もっと露骨な嘲笑に晒されて、きっと顔を真っ赤にして、ブルブル震えて泣き出しそうになるんでしょうね。なぁんにも持ち合わせていない甚平を着た無精髭の大男が、駅のホームで一人ぼっちで泣きそうになっているんだわ!ああ、可愛そう!あたしは物陰に隠れて遠くからあんたを眺めて狡そうに笑っているの。あんたはどんなに惨めでしょうね!」

「そんなの、あんまりですよ!」

私は彼女の興奮を煽るため、怯えたような調子で言った。それを聞いて彼女はますます感じ入った様子で続ける。

「それでね、羞恥に顔を真っ赤にしたあんたは、言われたとおりにあたしを待ち続けるの。あんたはそうするほかないからね。あたしなかなか帰ってこないわ。時間が経って、電車が発着して、それでもあたしは帰ってこなくて、あんたの羞恥に絶望が入り混じるのよ。あんたは思うの、『果たして僕はあの女に置き去りにされたのかもしれない』って、あんたはますます愕然とするの!あんたの脳髄は沸騰しそうにクラクラして、そうなったあんたの顔を見てみたいわ。きっとどんなに素敵でしょう!

 そんなふうにあんたをしばらく一人ぼっちにしておいて、それからあたしはあんたのところにフと帰ってきてあげる。ごめんね、待たせたわね、ってそれだけ言ってあんたのところに帰ってきてあげる。あたしたち駅のホームで再会するの。あたしを見たあんたの目はきらめいて、そうして感極まったあんたはあたしを縋るように抱きしめるのかしら。あたしね、まんざらでもない筈よ。惨めで仕方ないあんたがあたしを抱きしめて、……ねえ、そんなときにあんたはね、あたしを抱きしめてくれれば良いの!」

熱に浮かされたようにまくし立てる彼女の頬は紅潮していた。きっと今の彼女の身体は火のように熱い。私も興奮していたが、あえて怖気付いたように言った。

「いや、しかし、……ねえ、そんなことを聴けばますます、そもそも僕は貴女から離れないと思います。つまりね、甚平で駅のホームに一人ぼっち、丸ごと羞恥であるようなそんな状況には耐え難いから、貴女が僕を少し待たせていようとしても、僕はそれには従わないで、きっと貴女に着いてゆきます。どんな些細な用事であろうと僕は貴女についていって、何故って僕はひとりになりたくないから、」

「いいえあんたは待ち続けるの!(彼女は叫ぶような調子で言った。) あんたはあたしが言う通りに、駅のホームだろうがどこだろうが、犬みたいに、あたしに言われたとおりに、あたしについてきたり、或いはあたしを待ち続けたりするんだわ。あたしが命じるとおりにね。あんたはそうするほかないのよ。……どうしてか聴きたい?」

「ええ、それを僕は聴きたい!」

「要するに、」(ここで彼女は一番嬉しそうに笑い、一拍置いて、続けた。) 「結局あんたは、どこまでもあたしの言いなりになるほか無いのよ。」

そう言い切ると彼女は突然、稲妻のようなキスをした。火傷しそうな唇だった。

「あたしあんたを愛しているわ」

恍惚として彼女は言った。

「あんたあたしとずっといっしょにいてね」

 

 

 あなたもすでに知っているとおり、私たちの逃避行は私の思い出話で満ちていた。私は彼女に昔の孤独を物語り、彼女もそれを望んで聴いてくれた。私たちはどこまでも逃げ出したが、たとえば電車での移動の最中、私たちは(基本的には)孤独な思い出話ばかりをしていた。だがそんなことは省略したい。私の孤独をめぐる話ではなくて、私が純化され完成されていくまでの過程を、そういうことを今からあなたに、象徴か寓話のように教えてあげよう。

 

 

 電車を降りて昼にした。ずいぶんと喋って疲れていた。私も彼女も何を食べたいわけでもなくて、風鈴の鳴る店に入った。蕎麦屋だった。(店を出るまでについぞ私たち以外の客の一人も見なかった。)

 私たちはテーブル席に向かい合って座り、水を持ってやって来た店員にすぐ注文を済ませた。それで二人ぼっちのしじまだった。薄暗い店内に窓の外ばかり白く明るい、晴れた昼下がりだった。テーブルの隅の調味料は薄い埃を被っていた。テーブルと言うよりかは卓とでも表記するのが適当かも知れない。私たちは卓に向かい合って腰掛けていた。時折り風鈴が鳴っている。窓がすこしだけ開いている。風鈴がまた鳴った。向かい側には彼女が居る。彼女を見ると、彼女は卓の一点をジッと見つめている。つられて私もそこを見た。鈍い銀色のものがあって、これは、柄のついた剃刀が置いてある。剃刀。気がつかなかった。剃刀?そうして私も剃刀に気がついた。こんな淋しい蕎麦屋の卓に剃刀がポツンと置いてあった。

「良い天気ね」、と彼女が剃刀を見つめたまま言った。

「明日までは晴れるってニュースでやってましたよ」

私たちは剃刀を見つめながら話していた。

「そうすると明後日からは雨が降るのかしら」

「いえ、明後日は雨で、そのあとどうなるのかは覚えてないです」

「そう」

彼女はずっと剃刀を見ていた。私はそんな彼女を見て、それから剃刀に視線を戻した。卓の上に乗っている剃刀は、柄に近い部分が錆びていた。

「たぶんそうです」

「だったら、雨のなか歩き回ったり電車に乗るのも厭だから、明後日はずっと泊まった宿に居ましょうね。二泊しましょう。或いは三泊、四泊、天気次第で延泊したいわね」

彼女は剃刀を見ながら言う。

「ゆっくり逃避行をしたいですね」

「ええ、慌てて行く先もあたしたちには無いものね。あんたの言うとおりだわ。ゆっくり逃げていきましょうね」

私たちは剃刀を見ながら話している。

「それが良いです。貴女と居れば僕は晴れの日だって怖くないから」

「傘を買うのも面倒だしね、晴れの日にだけあたしたち逃避行しましょう。雨の日は巣穴に篭るの。あんたと日がな宿に篭っているのは、どんな気分がするのか知ら。あんたあたしにたくさん思い出話をしなさいね」

「ええ、もちろん!」

私たちは剃刀を見ながらそれを手に取らず、剃刀なんて無いかのように話していた。

「楽しみにしてるわ。……アッそうだ、宿で篭っているときにきっと、イシヅキの話もしなさいよ。あんたとイシヅキの馴れ初めも、あんたとイシヅキがどんなことをしたのかも、まだあたしほとんど聴いてないから」

「石月の話を聴きたいんですか?」

一種の不文律が出来ていると、私はそう思っていた。私たちはこの剃刀に気づいていながらあえて無視して話すのだと、そう私は思いこんでいた。

「そう、あんたとイシヅキの話もあたしは聴きたいわ。あたしね、あんたの話なら何だって聴きたいの」

「嬉しいことを言ってくれますね」

「まあね。……ところで、ねえ、」

と言って、彼女は俄かに卓上の剃刀を手に取った。剃刀を持ってそれを矯めつ眇めつ眺めながら、そうして、彼女は言った。

「ねえ、あんたちょっと手を出してみて。」

私はギクリとして訊く。

「どうしてですか」

「良いから出して」

彼女は手に取った剃刀をくるくると回して眺めながら言う。私は更に訊く。

「剃刀を持った貴女にどうして僕は手を差し出さなきゃいけないんですか」

「良いから出して」

「僕に痛いことをするんですか」

「良いから手を出して」

「僕痛いことだけは耐えられないんですよ」

彼女は剃刀の刃を見ながら言う。

「大丈夫よ、良いから手を出して」

「僕の手を取ってなにをする積りなんですか」

「怖いの?ほら、大丈夫よ、見ててね、」と言いながら彼女は彼女自身の左手の人差し指の指先を剃刀ですこし切って見せた。血が小さな玉のように浮かんだ。彼女は切った指先を舐めて、言う。

「ほら、大丈夫でしょう。さあ、あんたの手も私に出して」

私は何が大丈夫なのかわからなかった。誰も居ない蕎麦屋の昼下がりの卓で、彼女は剃刀を持っていた。

「僕痛いのだけはほんとうに駄目なんです」

「最初だけすこしピッと痛むだけよ。大丈夫だから、ね?さあ、手を出して。」

剃刀を見つめながら彼女は言う。風鈴は鳴らない。彼女は剃刀を見つめている。

 私は彼女に左手を差し出す。彼女は左手でそれを取る。そのまま彼女は私の手首に水平に剃刀の刃を添える。私は思わず顔を背ける。それを見て彼女は笑って言う、

「ねえ、そっぽ向かないで。すこし痛いだけだから、しっかり見ていてよ」

「でも僕痛いのだけはほんとうに駄目なんです。じぶんの血を見ると気が遠くなっちまう」

「大丈夫よ。すこし痛いだけだから」

彼女は私のほうを見て言う。手許が錆びた剃刀の刃は鈍い銀色に光っている。風鈴は鳴らない。彼女は笑っている。私は唾を飲み込む。手許が錆びた剃刀の刃は鈍い銀色に光っている。私は剃刀の刃を見る。彼女は私の手首に刃を添える。私は今度は顔を背けない。

「目をつむらないでね」

剃刀の刃は鈍い銀色に光っている。私は目をつむってはならない。彼女は私の手首に刃をぴったりと付ける。私はそれを見ている。次の瞬間彼女は剃刀を引くだろう。私は目をつむってはならない。剃刀の刃は鈍い銀色に光っている。私はここで彼女に殺されるのかも知れない。剃刀の刃は鈍い銀色に光っている。

 と、ここで予定調和の蕎麦が来る。お待たせしました、と店員が蕎麦を持って現れる。それで彼女は私の手をパッと離して、なにごとも無かったかのように、ニコヤカに蕎麦を受け取って、アノこれテーブルの上に置いてあったんですが、と店員に剃刀を渡す。店員はそれを、アアごめんなさいね、と言って受け取る。ときどき剃刀を置き忘れることがあるんです、と店員は言う。そうなんですね、と彼女は言って笑う。店員と彼女は笑みを交わす。それから店員はごゆっくりどうぞ、と私たちに言ったきり厨房に引っ込む。風鈴がしきりに鳴っていた。私たちは蕎麦を食い、会計を済ませ、店を出た。

 店を出て彼女は言う。

「ひどい蕎麦だったわね。あれきっと作り置きよ」

「僕には味なんて判らなかったです」

「あらあんた味音痴なの?」と彼女は笑う。晴れた昼下がりの初夏の路上に誰も居ない。

 

 

 それで私はふたたび駅に戻る気分でいたが、彼女は私を反対のほうに引っ張ってゆき、私たちは少し歩いて、サインポール、そこは一軒の床屋だった。戸を開くと気安い中年の男が「いらっしゃい!」と私たちを迎えた。とうぜん私たちのほかに客は居なかった。店にはラジオが流れていた。

「本日はどうされますか」

揉み手をしながら私たちの方に歩いてきた中年の男は訊いた。ニコニコと笑みを浮かべていた。

「こいつの髪を切って、あとこのみっともない無精髭も剃ったげて。」

彼女は私を中年の男にすこし差し出すように背中を押して言った。

「髪型はどうなさいますか」、と中年の男は私に訊く。

丸坊主で良いわ」、と横から彼女は口を挟んだ。

丸坊主ですか!」

「ええ」

中年の男は彼女を見、それから私を見て、戸惑ったように、「宜しいんですか?」と私に訊く。私は応える。

「彼女が言うんなら僕はそうするほかないんです」

私がそう言うのを聞くと横で彼女が微かに微笑むのが分かった。一方で中年の男はへええ、と感心したように言い、私と彼女を交互に見比べ、それからまた、へええ、と今度は溜息のように言った。それから、

「坊主はどれくらいの長さにします?いっそぜんぶ剃っちゃいますか」と彼女のほうを見ながら訊いた。すると彼女は、

「任せるわ」

と言ったきり、突然興味を失ったように、中年の男に背を向けて、待合の椅子に座り、それきり口を開こうとはせず、置いてある雑誌を読み始めた。中年の男は困惑したように彼女を見ていたが、ふと向き直って私に訊く。

「あの、坊主の長さはどれくらいにしますか」

「お任せでお願いします」

「そうですか……。お任せですね」

「ええ、お任せで」

「地肌がどれくらい見えたほうが良いとか、そういう希望もないですか」

「ぜんぶお任せしますよ」

「ええ、さいですか……。わかりました、こちらの席へどうぞ」

中年の男は座らせた私に眼鏡を取らせ、甚平の上に布を巻き、霧吹きで髪を濡らして、そうしてバリカンで髪を刈り始めた。毛を刈られる羊の気分で髪を刈られていると、中年の男は私に訊いた。(髪を切る側と切られる側のあいだにはこうやって会話が生じるものだ。)

「このあとお祭りにでも行かれるんですか」

「近くにお祭りがあるんですか?」と私は問い返す。

「いえ、そういうわけじゃなくて、つまり今ジンベイを着てらっしゃるから」

「ああ、これは彼女の趣味です」

「なるほど、彼女さんの」

「はい」

私は向かいの鏡を見るが、眼鏡が無いから何もかもぼやけている。私の髪を刈りながら中年の男は続ける。

「お兄さん、尻に敷かれるタイプでしょう」

「そう見えますか」

「見えるも何も、何もかも彼女さんの意のまま、って感じがしますから」

「そうですかね」

「少なくともワタシにはそう映りますよ」

そんなことないわよ、と待合で雑誌を読みながら彼女は唐突に口を挟む。彼女に続けて私も言う。

「彼女の言うとおり、そんなことないですよ」

「なるほど、彼女さんの言うとおりにそんなこと無い、と」

「ええそうです」

それを聞くと中年の男はヘヘヘと笑う。バリカンで私の髪を刈りながら、中年の男はそれきりしばらく黙り込む。私は丸坊主になってゆき、それから私は丸坊主になる。中年の男はヨシ、と言うと声を張って彼女に訊く。

「彼女さん、カレシの頭はこんな感じで良いですか」

彼女は雑誌を置き私のすぐそばまで来て、私の頭を眺めて言う。

「あら良いわね、スッキリして涼しそう」

「まあ単に丸刈りにしただけなんですがね!」

そう言って中年の男と彼女はケラケラ笑う。私はなにがおかしいのかわからない。中年の男は続ける。

「頭の形が良いから坊主もだいぶ見栄えしますね、カレシさん」

「でもこうして丸坊主で無精髭の甚平だとまるで破戒僧か妖怪だわ」

「たしかにそうだ!破戒僧なんてまさにぴったりだ!こいつぁ一本取られたわい!」

そう言って中年の男と彼女はふたたびケラケラと笑う。私には何がおかしいのかわからない。私は私の頭を見たいが、正面の鏡で確認しようにも眼鏡が無いからよく見えない。髪を切られる私だけひとり除け者だった。ひとしきり笑ったあと、中年の男は言う。

「じゃそんな破戒僧をふたたび仏門に送り返すように、髭を綺麗に剃ったげましょう。モ少し時間を頂戴しますから、彼女さんはあちらでお待ちくださいね」

それを聞くと彼女は言う。

「ねえ、髭を剃るのをここで見てても良い?」

「そりゃまあ、別に構いませんが、面白いもんでもないですよ」

「大丈夫よ。こいつの八重葎みたいな無精髭が綺麗になるのを見てたいだけだから」

「なるほど、八重葎か!八重葎、……そいつぁ良いや!そう言われれば確かに見ていて気持ちいいかも知れないですね!」

中年男と彼女はみたびケラケラと笑う。先ほどから私はずっと黙りこくっている。中年男は奥からチャチな椅子を引っ張り出して私の斜め後ろに置く。

「そいじゃここに座ってカレシさんが綺麗になるとこを見ていて下さい」

「あら気が利くのね、ありがとう!」

「どういたしまして!」

中年男と彼女はケラケラ笑って、どうでも良いが、やっと私の髭が剃られることになったようだ。中年男は椅子を倒すと、私の顔をあっという間に泡まみれにして剃刀を取り出した。剃刀の刃は鈍い銀色に光っている。中年男は私に言う。

「さあ目を閉じていて下さいね、傍から見られるぶんには構わんですが、髭を剃るその人から見られていると、こいつぁいかにもやり辛い!」

目を閉じるとすぐ右頬に剃刀が当たるのを感じる。中年男と彼女が親しげにケラケラと笑っているのがよく聴こえる。私は剃刀の感触に集中する。私の髭が剃られていく。私は目を閉じ中年男と彼女の会話を聞くまいとする。髭が剃られていくのは良いことだ。剃刀が耳元を剃る。中年男と彼女が蕎麦屋の話をしている。剃刀が喉元を撫でる。彼女の笑い声がする。私は剃刀の感触に集中する。剃刀は反対の頬に移る。ラジオが遠く聴こえない。剃刀が喉元を撫でる。この中年男にでも私は殺されたいと思う。剃刀が唇の下を剃る。彼女はケラケラ笑っている。

 

 

 それで私たちは床屋の店前に立っていた。坊主にして髭を剃った私に彼女は、「もうすこし髪を短くしても良かったかもね」と言う。向かい合って立つと頭ひとつぶん彼女は背が低い。まだ昼下がりの晴れた路上だった。丸坊主に髭を剃った私は甚平と下駄と眼鏡だった。

「でもこれでやっと、あんたには何も無くなったわね」

彼女は感慨深げに言う。

「こうして髪も髭もないとさっぱりして良いものね」

彼女はひとりで納得したように言う。

「なぁんにも持たないであたしに着いてくれば良いからね」

私と彼女は床屋の前に立って向かい合っている。

「あんたはあたしのために思い出話を聴かせてくれれば良いから」

彼女の黒髪は綺麗だと思う。

「あとね、あんたは眼鏡も外しているほうが良いわよ」

彼女はすこし背伸びして私の眼鏡のつるを持ち、優しく眼鏡を外そうとする。私は彼女のためにすこし屈む。彼女は私の眼鏡を取り上げて畳み、そのまま彼女の服の胸元に掛ける。風景も足許も彼女の表情も曖昧にぼやける。

「ほらね。朝あんたの顔を見て思ったし、さっき髭を剃ってるときにも思ったの。あんたは眼鏡もないほうが良いわ。」

私は昼下がりの晴れた路上の幽霊だった。

「部屋に着くたび眼鏡は返してあげるから、日中は裸眼であたしについてきなさいね。甚平だけ着てなぁんにも持たずについてくれば良いからね。」

影法師のように私は立っていた。

「わかった?わかったわね?さあ破戒僧さん、もう行くわよ、ついてきて」

彼女は私に背を向け歩き出そうとした。私は彼女を呼び止めた。彼女は振り向く。眼鏡がないから彼女の表情もわからない。

「どうしたの」

私は言う。

「僕は歩けないですよ。その、何も見えないから」

「良いからついて来なさいよ」

「その、」と私は言い、俯いて、それからすこし言い淀んで、「ねえ、」と言い、彼女を見て、掠れた声で、彼女に言う。

「どうか僕の手を引いてくれませんか」

私は彼女の顔を見る。眼鏡がないから彼女の表情はぼやけて私にわからない。私は彼女におずおずと片手を差し出す。指先が垂れる。彼女は、すこし待ったあと、指先を優しく包むようにして握り、握った指先の、彼女は私の手を握った。彼女の手は冷たかった。彼女は私の手をまじまじと見るようにして握る。私は彼女にされるがまま手を握られている。

 そして私たちは歩き出した。彼女は私のすこし先に立ち、ゆっくりと私の手を引いて行く。

「足許が危ないときには言うからね」

「ええ、ありがとうございます」

「階段とか電車の乗り降りは危ないからとくに気をつけるのよ」

「もちろん、承知しています」

「そんなに目が悪かったのね」

「眼鏡が無きゃ貴女の顔もよく見えないです」

「あんたが見える距離まで近づいてあげるわ」

「そしたら今度は照れて口が利けなくなっちまう」

「あんたの目をくり抜いてあげたいわ」

「痛くないならそれも良いですね」

「あたしあんたのことが好きよ」

「僕も貴女のことが好きです」

「どこまでもあたしについてきてね」

「僕はもうぜんぶ貴女のものですよ」

「誇張でも何でもなしにその通りね」

「ええ、ほんとうに!」

私たちは静かに笑って話しながら、駅に着いた。プラットフォームの端でふたり、確かめるように会話して、電車を待った。電車が来て、乗った。段差に気をつけて乗った。扉が閉まり電車は出た。

 既にプラットフォームに私たちは居ない。

 

 

 さて、この時点で私には日常の匂いのするものがなにひとつ残っていなかった。私は彼女にすべてを剥奪され、あるいは譲り渡してしまった。それで私は幸福だった。残っているのは思い出と身体だけだった。私は思い出を話し彼女の期待を満たすだけの単純な機械として完成した。単純な機械として私は、毎日新しい甚平を着て彼女と一緒に逃げ回った。(私たちは脱皮のように毎日新しい服を着た。) 私だけでなく彼女も変わっていった。彼女のイヤーカフは日々すこしずつ減ってゆき、最後にはピアスの一つきりだった。彼女の刺々しいところはほとんど影を潜めて代わりに無邪気な少女だった。私たちは互いの求めるところを満たすなめらかなひとつの円だった。私は彼女に引かれるがまま何も持たずについていった。彼女は私に思い出を語らせた。大抵は話したことのない思い出を語らせ、だが気に入ったものは何度でも聴きたがった。思い出を彼女に話すのが好きだった。気に入った思い出を聴くと彼女の目は輝いた。彼女は私の話を子供のように聴いてくれた。電車の中や旅館の部屋で私の話を聴く彼女はまるで子供だった。彼女に手を引かれて歩く私は大きな子供だった。

 私は彼女のことだけを考えていれば良かった。彼女の期待を満たせば良かった。それが私の幸せだった。私には彼女のほかには何もなかった。ずっとこうやって幸せのうちに逃避行をしていたかった。私は彼女に連れ去られて幸せだった。それを彼女に伝えると彼女は得意げな顔だった。私はたまらず彼女の頬を片手でつまんだ。彼女の頬は柔らかい。彼女はこういうことを外でやると嫌がったがホテルや旅館の部屋では満更でもない様子だった。部屋で彼女は私に眼鏡を返してくれたから表情がはっきりと見えて嬉しかった。私は彼女に触れることが多くて彼女は最初は耳許に触れられるのをとくに嫌がったがじきに触れられるのを好むようになった。もちろん気の強い彼女のことだから自分から触れてくれ、なんてはっきりとは言い出さないし丁寧でない触りかたをすれば本気で怒った。しかし機嫌が良いときにそっと耳許を撫でると彼女は目を細めた猫のように満足げだった。しかしあまり長いこと触れているとこれもまた厭わしげに機嫌が悪くなって加減が難しかった。それとは別に彼女は指を絡ませるのを頻りに好んで私は彼女の頬の柔らかさ耳の繊細さ肌のきめ細やかさと共に肢体や指先の細い艶かしさをも愛していた。と、こうやって文学のように彼女を讃める文章を部屋のメモ帳に書いて見せたことがある。(降り続く雨の日の宿でさすがに手持ち無沙汰な昼だった。) それをサラリと読むと彼女は「あんたの口からあたし聞きたいの」と言い、メモを机に放り投げた。だが少ししてふたたびメモを手に取りもう一度読み返すと、「でもこうやってほめられるのも悪い気はしないわね」と言い、続けて「それでもあたし、あんたが話すのを聞きたいの」と言った。そうして彼女は話をせがんだ。

 彼女がとくに好んだ話に石月とのキャッチボールの話がある。秋の日の午後三時ごろに私と石月は彼の部屋で話していたが、ふと二人ともその気になってキャッチボールをすることになった。そのままスポーツ用品店に向かい軟式球に似せたゴムボールを買って公園に向かったは良いものの、いざキャッチボールを始めてみれば素手の捕球には硬い球で、(ふたりともグローブなんて持っていなかったのだ、)手のひらが痛え痛えと騒ぎながら、それでも石月とキャッチボールを続けて、なんだかとても楽しかった、という、まあ言ってしまえばそれだけの話なのだが、彼女はこれを妙に気に入り、何度も私に話させた。手のひらを痛がるシーンでいつも彼女はケラケラと笑い、そして話が終わると決まってしんみりした調子で言うのだ。

「あんたとイシヅキは良い友だちだったのね」

そう言って彼女は私に指を絡ませるか私を優しく見つめるかした。

 それである朝彼女は居なくなった。こうやって突然だった。

 目が覚めて隣に彼女が居なかった。そういうことはこれまでも時折あったが大抵すぐにパンを買って帰ってきた。しかしその日はずっと待っていても彼女は帰ってこなかった。チェックアウトの時間が来て、私は部屋から追い出された。そのままロビーで待ち続けたが、ロビーからも追い出された。仕方なくホテルの玄関で彼女を待ち続けたが、玄関からも追い払われた。これ以上ここでウロチョロするようなら警察を呼ぶぞとホテルマンに脅されて、私は途方に暮れてしまった。

 私はなにも持っていなかった。甚平と下駄しか私にはなかった。眼鏡も部屋から無くなっていた。いくばくの現金も持っていなかった。(逃避行資金はずっと彼女の管理だった。) 知らない街に何も持たず誰でもない私はひとりぼっちだった。実体を欠いた影法師は幽霊だった。私はほんものの幽霊になってしまった。

 彼女は私に愛想を尽かしてしまったのだろうか。いやそんなことはない筈だ。きっと彼女のことだから私を心底嫌になれば単にそう言って私を突き放しただろう。だいたい昨日だって私たちはいつものように話していたじゃないか。彼女は私の話を聴いて口を挟んだり笑ったりして、それはいつもの通りだった。何にも変わりはなかったと思う。いつものように私たちは逃避行をしていた。であればこれは何なのだろう。彼女は事故にでも遭ったのか。だがちょっとパンを買いに出て事故に遭ったとするならば部屋に私の眼鏡がないのはおかしい。私の眼鏡を持っていく理由が無いからだ。とするとこれはいつか彼女が言っていた『いたずら』だろうか。きっとそうだ。遠くから、いやすぐ後ろから私を見て、私が幽霊のように街を徘徊するのを『いたずら』として観察しているのだろう。

 私は足を止めて後ろを振りむく。すると後ろに彼女が居ない。(彼女どころか誰も居ない。) 私はそこらじゅうをグルグルと見回す。目が悪いからよく見えない。どうやってこんなところまで歩いてきたのだろう。ここがどこだかわからない。どちらに足を踏み出せば良いかわからない。誰でも良いから次に私とすれ違う人に手を引いて交番にでも連れていってほしいと思うが、誰も来ない。太陽が高いから昼だろう。とにかく人通りのある道に出ようと足を踏み出し、つまづいた。下駄の鼻緒が切れていた。それきり私は動けない。もう十分苦しんだからその辺の物陰からヒョッコリ彼女が出てくれば良いと思う、その、物陰から、彼女は出てこない。彼女はとおくから私を眺めて笑っているのだろう。私をもっと辱めようとしているのか。まだ足りないのか。思い切って彼女を呼ぼうか。こんな往来で大声で呼べば彼女はきっと現れるだろう。「恥ずかしいから静かにして!ほら、行くわよ」って言いながらまた私の手を引いてくれるだろう。そうして私は彼女に、どんなに途方に暮れて怖かったのかを話すのだ。彼女は嬉しそうな顔でそれを聴いて途中から私の指に指を絡める筈だ。或いは今回ばかりは反省して彼女は申し訳なさげに黙るから、そうしたら私は彼女の耳を撫でるだろう。

 私は彼女を呼ぼうとするが大きな声を出そうとすれば喉につかえて声は出ない。張り上げるように呼ぶ声のつもりが単なる呻き声になる。私は私以外の誰にも聴こえないような声で彼女を呼ぶ。もう少しだけ声量を上げる。私は彼女に話していたような声で彼女を呼ぶ。いずれにせよ誰も来ない。もう少し大きな声を出そうとすれば喉につかえて呻き声になる。私は叫べない。どうしようもないから私はその場に茫然とへたり込んで空想をする。ふたたび立ち上がれない。切れた鼻緒を意味もなくねじりながら彼女のことを考える。彼女はいつか物陰から現れるのだ。何気ない調子で物陰から出てきた彼女は私に気づくと、「こんなところで何してるの?」って呆れながら私を引っ張り起こしてくれて、それで、切れた鼻緒に気がつくのだ。彼女は一瞬私をおぶろうかと考えるが、しかし私は図体ばかり大きいからどうにもならない。彼女はきっと言うだろう。

「ああ、面倒ね!あんたどうしてこう図体ばかり大きいのかしら!」

私は彼女に言い返すのだ。

「僕だってこんな大きくなりたくて大きくなったわけじゃないですよ!」

「それもそうね」、と彼女は急に落ち着くだろう。それで彼女は私に裸足で歩かせるのだ。私は裸足で歩くのを嫌がるがどうしようもない。彼女は私をあやすように、

「次の服屋なり靴屋なりまで辛抱しなさいね」なんて言いながら、裸足の私の手を引くだろう。私たちは歩きながら話す筈だ。

「あたしたち服は毎日捨てていくけど靴だけはそういうわけにもいかないから、ねぇ、ほら、履き馴染みとかあるでしょうし」

「下駄の履き心地なんてそうも変わりはしませんよ」

彼女はすこし考えて、

「たしかにそうね。じゃああんたの下駄は毎日買い替えましょうか。それも良いわね。ただね、下駄は甚平と違ってどこにでも売ってる、って訳でもないから、毎日買うのはすこし面倒なのよ」

ここで私はフと思って言う。

「甚平が売っていない季節になったら貴女は僕に何を着せる積りですか」

「そしたら作務衣とか、浴衣とかを探してくるわ。どうしても見つからない日はしょうがないから洋服を着なさいね。心配しないで、あたしがあんたに似合うのをちゃんと見繕ってあげるから」

「下駄に似合う洋服ですね」

「ふふ、そうね」

そうやって歩いていると私たちは靴の量販店を見つける。自動ドアをくぐって入ると清潔ぶった蛍光灯の白さが私たちを迎えて、私は靴屋の雰囲気が好きではなかった。私のような人間には靴屋なんてただでさえ居心地が悪いのに、ましてこんな泥まみれの裸足じゃ尚更居心地が悪いだろう。しかし彼女が私の眼鏡を取り上げているから、景色も雰囲気もすべてぼやけて、あの嫌な雰囲気だってだいぶ耐えやすい筈だ。靴屋の店員が「いらっしゃいませ」と笑顔で言って私たちを見て、私の甚平姿にまず目を留め、それから私の裸足の足に目が移り、そうして笑顔を忘れ眉を顰めるだろう。「お客様、申し訳ありませんが、」と私を追い出そうとする店員に、彼女はすかさず、裸足の私を庇うように、すこし前に出て言い放つのだ。

「どんなのでも良いから下駄を一足持ってきて。それを買うから。早くして。」

 そうやって私は新しい下駄を履いて靴屋を出る。私には彼女が有り難かった。彼女は私を気遣って言う。

「ちょっと早いけど今日はもう宿を取りましょうか。あんたも疲れているでしょう。どうせ昼ごはんも食べてないだろうから、中途半端な時間だけどまずはご飯にしましょうか」

「昼ごはんどころか朝ごはんだって食べてないですよ、僕は!しかしとりあえずホテルなり旅館なりに入りたいです。そうして足を洗いたい」

それを聴いて彼女は、「じゃあそうしましょうか」と言い、手を握って私を引いてゆく。それで私たちは最初に目についたホテルに入る。

 夜になれば私たちは向かい合って酒を飲んでいるだろう。(ちょうど最初の晩のように。) 彼女は指を絡ませながら私に何か話をせがむだろう。

「ねえ、あんたは今日はどんな話を聴かせてくれるの」

「そうですね、貴女はどんな話を聴きたいですか」

「あたしはね、」と言って、急に彼女は黙りこみ、絡ませた手をそのまま耳へと持っていく。私は彼女の耳を撫でる。ここで私は彼女がピアスを外していることに気がつく。

「珍しいですね、ピアスを外した耳を触らせてくれるなんて」

「たまにはそういうのも良いでしょう」と彼女は言う。

「なんだか嬉しいですね」

「はい、おしまいね」と言って彼女は私の手を耳から離す。私はもうすこし触れていたいが、彼女の言うとおりにする。彼女は酒を飲んで、私も酒を飲み、それから彼女は言うだろう。

「今日はあんたが死のうとして失敗した話を聴きたいわ」

私は驚く。どうして私が自殺しそこなったことを彼女は知っているのだろう。私は訊く。

「どうしてそのことを知っているんですか」

「知っているもなにも、」と彼女は笑って、続ける。「大学生くらいになれば誰だって自殺未遂の経験の一度や二度くらいあるでしょう。」

「そういうもんなんですか」

「そうよ。さあ聴かせてね。あんまり面白い調子でなくて結構よ」

「ええ、あなたがそれを望むなら、僕はそれを話しますけど、それこそそんなに面白い調子でないし、そもそもあれは、自殺未遂の更に未遂といった様相だったんですがね。まあ、話しはじめましょう。

 僕が大学でひとりぼっちだったのを貴女はもう十分知っていますよね。石月に出会う前の話です。十月の二日の論理学の講義で石月と顔を合わせるまで、僕は大学で、まったくのひとりぼっちでした。」

「ひとりぼっちって単語をあたしあんたから千回くらいは聴いたわね。」

「そうですね、貴女は僕のひとりぼっちを千回くらいも聴いてくれました。僕は貴女が居てくれて心底良かったと思います。」

「あたしもあんたの話が好きよ。さあ、自殺の話を続けて。」

「ええ、自殺未遂の未遂の話に戻りましょうか。

 なんとか一年生の一学期を終えて夏休みだったんですが、僕は実家に戻れなかった。いいえ、戻りたくなかったんです。実家に戻って両親に会えば大学はどうだ、楽しいか、なんて間違いなく訊かれて、そしたら僕は嘘をつくか、その場で耐えられず泣き出すか、気が狂うか、……わからないけど、絶対に両親の顔を見たくはなかったんです。今思えばこういう時には誰かに会って話すのが、それこそ実家に戻ってすべて打ち明けるのがいちばん良い選択肢なのですが、ただ、それが僕には絶対に嫌だった。実家に帰って泣きつくなら死んだほうがマシだと思って、夏休みは日がな薄暗い部屋に籠っていました。講義がないから誰にも会わない。週に一度はアパートを出てパンや冷凍食品を買い出しに行って、それが僕の外出の全てでした。パンを食べても冷凍食品を食べても味気ないどころではない。噛むたび噛むたび辛いだけで、人生の夏休み(一般論ですがね)たる大学生活の夏休みにこのザマなら、僕の生涯はこれから先、ますます辛くなるだけだから、こんな生活よりも辛いだけの生涯があと数十年も続くならば、こんなものは、もう、無くしちまったほうが良い。それで僕は死ぬことに決めました。

 それで八月三十一日に死のうと決めたんです。どうしてすぐ死なないのかあなたはきっと不思議でしょう。これは僕なりの冗談で、夏休みの終わりの象徴といえば八月三十一日だから、そんな日に死ぬのが皮肉が効いて良いと思ったんです。死にかたも既に首吊りに決めていました。ドアノブに紐を低く吊るして体幹レーニングのような姿勢で動脈だけを押さえていれば、そのまま意識がなくなって、意識がなくなったあとに気道も塞がって、苦痛なく死ねる、って話を聞いたから、僕はそれで死ぬことにしました。痛いのは怖いですからね。僕は八月三十一日を、味気ないパンと冷凍食品で待ちました。

 それで八月三十一日が来ます。不思議と静かな心地でした。もう死ぬのに、いや、もう死ぬからこそ、僕は心底安らいでいました。目が覚めて僕はまず最後の朝食の菓子パンを食べました。これが最後だと思えば美味しそうなものですが、やっぱり味はしなかった。それから僕はルーズリーフに遺書を書きます。一枚目で推敲して、二枚目三枚目は書き損じて、四枚目でやっと清書しました。下のほうに名前を書いて銀行印で捺印します。これでもう、私はすることを全て済ませました。」

彼女はしずかに聴いていた。このときに私と彼女は触れあっていなくて、だから私から彼女に指を絡ませた。彼女は私に応えてくれた。

「さてあとは首を括るだけです。僕は別に特別なロープを買ったりしてはいなくて、ビニール紐で首を括る積りでした。うまい輪っかを作るのにも三回くらい失敗して、つまり長さの調整が案外難しくて、四回目にちょうど良さそうな長さの輪を作れました。僕はやっと終わった、ってホッとしながら首を差し入れ、安らいだ心地で死のうとしました。

 でもね、いざ死のうとしても全然死ねないんです。うまいこと血流だけを圧迫すれば意識が遠のくはずなのだけど、いいえ、そう聞いていたのだけど、ぜんぜん意識は遠のかない。せいぜい耳鳴りが大きくなる程度です。もっと精確に情報を集めとけば良かった、って思いながら、でも遺書まで書いて引っ込みがつかないし、前から決めていた方法だし、頑張って死のうとするのですが、それでも意識は遠のかない。無理に動脈を止めようとすれば気道も塞がって苦しくて駄目です。僕は苦しいのや痛いのはてんで駄目で、たといそれが死ぬために必要だとしても許容できなかった。だから僕は頑張って意識だけを遠のかせようとするけれど、やっぱり駄目です。

 そのまましばらく経ちました。僕は相変わらずはっきりとした意識のままでした。それで、夏でしょう。夏でした。夏だったんです。あの街は夏でも涼しいが、それでも夏は暑くてしかたない。要するに僕は汗をかいていて、考えることは、『一旦シャワーを浴びてこよう、最後の湯浴みだ。それも悪くないだろう。汗みどろでうまく首を吊れずにスランプみたいに苦しむよりも、一旦シャワーを浴びて頭も身体もすっきりさせて、それから続きをやればうまくいくことだってある筈だ。よし、シャワーを浴びよう』と、そう思って、僕はビニール紐から首を離してシャワーを浴びに行きました。汗が流れて気持ちよくて、……それでもう、なんだか、死ぬ気分じゃなくなったんです。汗と一緒に死ぬ覚悟も気分も流れていっちまいました。

 すっきりしちまった。僕は笑っちゃうくらい単純だった。シャワーを浴びて新しい部屋着に着替えれば、死ぬことなんてどうでも良くなっちまった。いや、相変わらず死にたいことには死にたいのですが、覚悟が完全に削がれてしまったんです。馬鹿馬鹿しいでしょう。僕も話していて馬鹿馬鹿しいと思います。でもこれが正直なところで、僕は遺書をマーカーでぐちゃぐちゃに判読できないように塗りつぶして、びりびりに破って捨てました。腹も減ってきていたから冷凍食品を温めて昼ごはんにしました。相変わらず味のしない昼です。食器をシンクに投げ込んで、散歩でもしようと服を着替えて外に出ました。ひさびさに散歩をして、気分がだいぶほぐれました。家に帰ってシャワーを浴びて、夕飯を食べて眠りました。しばらくのあいだビニール紐はドアノブに吊るしたままでおきましたが、(メメントモリの積りでした、)ドアを開け閉めするたび挟まって邪魔でみっともないから捨てました。」

おしまいまで言って私は酒を飲む。きっと彼女は言うだろう。

「それで終わり?」

「ええ、終わりです」

「なんだか締まらない話ね」

「僕の首とおんなじですね」

それで私たちはケラケラと笑うはずだ。

 

 

 私は彼女にもう一度会いたい。あなたは彼女の行方を知らないだろうか。

 あるいはあなたが貴女ではないだろうか。だとしたら僕は貴女にもう一度会いたい。

 畢竟これは貴女の目に留まる一縷の望みをかけて書いた、小説に偽装した思い出話だ。貴女にはそれがわかるだろう。もし偶然にも貴女がこれを読んでいるならどうか僕に連絡をください。僕は貴女にもう一度会いたい。貴女だけに話したいことがたくさんあるんだ。僕は貴女に話してあげたい。僕の話をさせてほしい。

 だからもう一度会ってはくれないだろうか。

 

(おわり)