誰しも、心穏やかに過ごした生涯の一時期をひっそりと胸中に抱いているものだ。それはたとえば、ひたすらに落書きをして過ごした夕方の留守番のひとときであったり、或いは風邪を引いて学校を休んだ昼下りの家の透き通るような静けさの思い出であるかもしれない。いずれにせよ、誰であろうと心穏やかに、気兼ねなく過ごした記憶を、時期や内容に差こそあれ、幾つかはたしかに持っている筈だ。
私は違う、とあなたは言うだろうか。私にはそんな時期はなかった、今現在もそうであるようにいつだって苦痛や激情に塗れながら気張り通しの生涯だった、と、あなたは断定のように言い放つかもしれない。或いはあなたはこうも付け足して言うだろう、つまり、よしんば穏やかな思い出とやらがいつかの私にもあったとして、とおくかすかに立つ陽炎のような、そんな無力な思い出どもが、生き馬の目を抜くがごとき今の社会でやっていくに当たっていったい何の役に立つのかね、と。そんな思い出なぞは有ろうが無かろうがどうだって良いだろう、肝心なのは今現在のみずからの地位や財産ではなかろうか? なあ君、年収はいくらだ? と、そう言ってあなたは自分でも気がつかぬうちに顔を歪めておぞましく笑う。
しかし、(と、私はここであなたに異を唱えたい。私は穏やかな思い出を擁護するところのものであるから。) しかし、生活の苦難や激しい感情の連続を前にして、ともすれば霞んでしまいがちな平穏な日々の思い出を、今この瞬間に思い起こせないばかりに丸ごと無かったことにしてしまうのは、果たして現前する苦痛や激情に呑まれた挙句の錯誤ではないと、あなたはそう言い切ることができるだろうか? それに、あなたがいま送っているであろう修羅のような日々のために、なにもあなたの思い出までをも雑紙か何かのように火にくべてしまうことはないだろう。そして、思い出を火にくべてしまうよりもなお悪いのは、思い出のかすかな呼び声にもっぱら耳を貸すこともなく、狭い木箱に割れた陶器と一緒くたに封じこめ、修羅のような日々にあわせてみずからも修羅と成り果ててしまうことではないだろうか?
……だが、こんな御託はどうだって良い。こうやってごたごたと書き連ねることも、まるで修羅や激情に属することのようで、よろしくない。
ブローティガンのような気持ちで書いていこう。
これから私が書くものを読んでもらえれば、あなたはきっと、忘却の淵に沈んでしまった平穏な日々の断片や、忘れたふりを決め込んでいる心穏やかな記憶の破片、或いはそういった記憶に伴うゆるやかな情動を、連想のように思い起こすことになるだろう。
私はあなたに、かつて私がこころよく過ごした場所のことを書いてあげようと思う。何しろずいぶん長いこと暮らしていたから、今でもたくさんのことを覚えている。きっとおだやかな、それでいてなんとなく愉快な話になるだろう。西瓜糖の匂いを思い出すように、あなたに読んでほしいと思う。もし可能ならば落ち着いた心地で、それも、ゆっくりと読んでほしい。
そのころ私は海で過ごしていた。海の名前は最後までわからなくて、単に『とてもあかるい海』とだけ呼んでいた。だから今からあなたにするのは、とてもあかるい海の話だ。
*海、その一
とてもあかるい海にはいつも私が居るきりだった。あんなすてきなところに誰も行こうとしないだなんて、いま思えば不思議なことだが、……しかし、『いま思えば』だなんて野暮な言いかたは止そう。というのも、かつて私が過ごした日々は、『いま思えば』何から何まで不思議な日々であったのだから。
とてもあかるい海がどんなところか、案内するように教えよう。簡単なことだ。草のトンネルをすこし歩いて抜けてしまえば、それでもう、とてもあかるい海に着く。いつだって私はそのように行った。それがいちばんの近道だったもの。
その海はなんと言ってもとてもあかるい海だから、砂浜に一歩足をふみこむと、あまりの日差しにとっさにつむったまぶたの裏が真っ白になって、何も見えなくなってしまう。(私だけでなくあなたもきっとそうなるだろう。) 目をかたくつむって立ち止まっていると、そのうちなんとなく慣れていくから、しばたたかせたりしながらも慎重に、まぶたを段々とひらいてゆくと、みずいろの海と白い砂浜がとおくまで広がっているのが、ぼんやりとわかるようになる。
それで、このあたりでようやく、「まぶしい」って言葉が頭に追いついてくるわけだ。
耐えがたいほどの白さがまぶしさへと代わり、そしてまぶしさにも慣れてきたあなたが、とおく海を眺めたり、いつだって誰もいない砂浜を目を細めながら見渡していると、じきにまわりの白砂が、コップに移したソーダ水のようにパチパチと跳ねているのに気がつくだろう。(とてもあかるい海の砂は、だいたい足首くらいの高さまで跳ねるんだ。)
そうやって砂が跳ねるのをあなたはなにか珍しいものを眺めるように見るかもしれない。もしあなたが裸足であれば、自分のまわりの砂だけでなく、足の裏にもパチパチと跳ねる砂の感触を覚えるだろう。それは心地の良い感じだから、すぐにあなたの気に入るはずだ。
それからあなたは砂のことはひとまず置いて、あかるい海へと泳ぎに行く。気のすむまで泳いだり浮かんだりしたあと、波打ち際まで戻って来れば、浜辺には気持ちよさそうに跳ねる砂があるから、あなたは我慢しきれず横になってみるだろう。砂の上へ仰向けに横たわったまま目を閉じて、(まぶたの裏はまぶしくて白い、)背中には跳ねる砂の刺激を感じながら、きっとあなたは思うはずだ、「ああ、これは良いね」、と。
さて、日差しがまぶしくてパチパチと砂の跳ねるきれいな海、これがとてもあかるい海のすべてだ。
*海、その二
とてもあかるい海で私は不愉快を抱えなかった。朝が来るたび私はとてもあかるい海に行って、砂浜に足を踏みこめば、真っ白なまぶたの裏の明るさに、嫌なものが蒸発してしまうようだった。
(嫌なものっていうのは、だいたいが前の晩に見た悪い夢のことなんだ。)
それに、とてもあかるい海に退屈することだってなかった。だいたい、晴れた海と白い砂浜(それもパチパチと跳ねるやつだ!)を前にして、思い悩んだり退屈したりするほうがよっぽど馬鹿らしい。
いや、違うかな。
馬鹿らしいとか、そんなことを考える暇もなく、私はとてもあかるい海を、単に心から楽しんでいた、とそう言うほうが正しいだろう。
とりわけ私はよく横になっていた。すこし沖のほうまで泳いでいって、あおむけに目をつぶり、海を枕にぷかぷか浮かんでいるのが好きだった。波の具合でときどき顔に水をかぶることがあって、そんなときにはクジラの潮吹きみたいに口から水を吹いてから、まぶたの裏越しにお日さまに笑いかけてやる。沖で浮かぶのに満足したら、浜まで泳いで戻ってきて、今度は砂の上にあおむけになる。私はこれも好きだった。背中や腿の裏にパチパチ跳ねる砂の感じはとても良くて、しかし跳ねて顔に乗る砂は厄介だから、シャツで顔を覆ったり、それか顔だけ日陰に入るようにする。(日陰の砂は跳ねないんだ。) しばらくすると身体の下の砂も跳ねなくなるから、そうしたら隣にずれたりするか、ふたたび沖まで泳いで出る。
そのあいだじゅうずっと、海も日差しもとてもあかるいままだ。
*海、その三
そうやってとてもあかるい海にしばらく居ると、そのうちにどこからか口笛のような音が聴こえてくる。長いしずかな口笛で、周りを見ても誰もいないから、ほんとうは口笛ではないのだろう。しかし、たとえそれが口笛ではなく、たとえば風の音だとしても、風は口笛を吹いてはいけないなんて決まりはないのだから、その口笛のような音、やっぱりそれは口笛だ。私はこの口笛だって気に入っている。
口笛が聴こえているあいだ、砂はパチパチと跳ねるのをやめて(口笛に遠慮しているのだろうか?)、とてもあかるい海は波音と口笛きりになる。そのあいだ私は、目を閉じてあおむけになったまま、それらに耳をすませていたり、あるいは調子をあわせていっしょに吹いてみたりする。節をまねて歌ってみようとしたこともあるけど、それはなんだかうまくいかなくて、一度やってみただけで止した。
だからだいたい、しずかに聴いていることが多かったかな。
しばらくして口笛がやむと、ふたたび砂がパチパチと跳ねるようになる。しかしすぐにもとどおりってわけではなくて、まるで遠慮がちな拍手みたいなんだ。つまり、口笛が終わってからすこしすると、勇気のある最初の一粒の砂粒が跳ね、それにつられてまわりの砂も跳ねるようになり、それがだんだんとひろがっていく。
そうやって砂浜はもとどおりのパチパチした砂浜になる。
しかしときどき、いつになっても最初の一粒が跳ねようとしないことがあって、そんなときには私が砂をひとつかみ掴んで放り投げてやることにしている。そうすると、投げた砂の落ちた場所から呼びあうように砂が跳ねはじめて、それが浜全体に広がっていく。あれを見るのはとても愉快だ。
だから私は、口笛が終わったあとにもしばらくはじっとしたまま、砂の跳ねはじめる音が聴こえるかどうか、耳をすませて待つことにしていた。砂の音が聴こえればそのようすを眺めるし、砂の音が聞こえなければ砂を投げてそのようすを眺める。
*ユータナジー
口笛が終わり、もとどおり砂が跳ねている浜を見るころには、だいたい私は満足している。
もう、今日は十分かな。
それで私は砂を払って服を着て、草のトンネルを通り、私が暮らす場所へと帰る。トンネルをくぐっているあいだは振り返ってはいけないんだ、何故って、とてもあかるい海に戻りたい気分になってしまうから。そんなことを繰り返していたら、いつまでも海から離れられずに困ってしまう。
それに、また明日だって来られるのだもの。
草のトンネルを抜けてリコリスの畑を越え、橋を渡ると、ユータナジーに着く。とてもあかるい海とは違って、私が住んでいたところには名前がある。
それがユータナジーだ。
むかしユータナジーといえば、とてもあかるい海までふくんだ辺り一帯を指していたという。しかしいつからか、とてもあかるい海はユータナジーからはずれてしまった。それに、これまでユータナジーだった場所に暮らしていた人びとも居なくなって、それとともにユータナジーと呼ばれる範囲も狭まってゆき、いまでは私が暮らしているこの建物だけがユータナジーと呼ばれている。
だから、この辺り一帯にも、とてもあかるい海にも、もはやほんとうの名前なんて無いのかもしれない。名前があるのは、石造りの、幽霊屋敷のような、このユータナジーだけ。
ドアを開けてユータナジーに入ると、うす暗いロビーには一見誰もいないようだった。しかし私にはわかっていたから、すこし周りを探してみると、思ったとおり、ひとりのボーイがランプのかさを掃除しながらそこに居た。
「ただいま」と、私は彼に言った。
「お帰りなさいませ、ムシュー。海からお帰りですか」と、手を止めてボーイは言った。彼は私をムシューと呼ぶ。ムシュー、ムッシュ、そう呼ばれるのはなんだか素敵だ。
「うん、そうだ。とてもあかるい海だよ」と、私は言った。
「なにか御用でしょうか」と、ボーイは言った。
「いやなに、ただ挨拶をしたくてね」
「左様ですか」
「うん、それじゃまた」
「ごゆっくり」
そう言ってボーイはふたたびかさを拭くのに戻り、私は部屋へと休みにもどる。
*ボーイ
ユータナジーのボーイとは長い付き合いだ。私がここで暮らすようになってから、彼はずっとボーイとして私の面倒をみてくれている。
私と彼はずいぶんうまくやってきたんだ。
たとえば、私が彼に用事があるとき、ロビーに降りて周りを見渡してみればいい。そうすれば私は彼を、たとえばデスクで書き物をしていたり、床を掃除していたり、あるいは壁際に何をするでもなく立っている彼を、すぐに見つけることができる。私は彼のそばに寄って、彼に用事を言いつける。
一方で(、これは珍しいことではあるが)、彼のほうで私になにか用があるときは、私がロビーを通ったときに、視界のすみで彼の姿がかすかによぎることがある。それはつまり、彼が私に用事があるということだ。彼はふだん、周りを見渡しでもしない限り、私の視野に入りこむようなことをしないから、もし彼のすがたが視界に入れば(あまりにそれとない調子で視界のすみに、かすかに姿がよぎるのだ!)、それはすなわち彼のほうで私に用があることを意味する。そんなときには、私は彼の意図に気がついていないような、偶然挨拶する気になったようなふりをして彼に近づいて、言う。
「やあ、おはよう」
「おはようございます、ムシュー」
「これから海に行ってくるんだ」
「左様でございますか」
「良ければ砂でも取ってこようか」
「砂は結構でございますが、ムシュー、もしご迷惑でなければ、……」
こんな調子だ。
そうやって私たちは長いことずいぶんうまくやっていた。
*宿泊料
ボーイに挨拶をして私はじぶんの部屋に戻った。
私の部屋は簡単な部屋だ。書き物机と椅子、ランタン、ベッド、衣服棚、それと壁には窓がある。
窓を見れば、外はあかるい盛りのようだった。もちろん、とてもあかるい海のあかるさには、ユータナジーはとうてい敵わないけれど。
書き物机の上にはいつも、ランタンのほかにはなにも置かないことにしている。ボーイが毎日、私が海から帰ってくるまでに領収書を置いていくから。ほら、今日だって置いてある。(今日は銀色の縁取りの領収書だ。) この領収書だってむかしはなかったのだから、私はこの話もしなければならない。
たしかユータナジーが今よりももうすこし広かったころのある日、どうしても支払いが気になって、ロビーで私はボーイに訊いた。(そのとき彼はちょうどデスクでなにかを仕上げているところだった。)
「ねえ、今いいかい」
「ええムシュー、何なりと」ボーイはデスクから顔を上げずに言った。
「私はずいぶん長いことここで暮らしているよね」
「お気に召していただけたようで何よりです」
「いつからここに居るかも覚えていないんだ」
「なにぶん長いご滞在ですから」と言いながら、ボーイは紙にハンコを押した。
「それで、支払いもずいぶん溜まっているんじゃないかなと思うんだ」
「支払いは、」と、ここでボーイはデスクから目を上げて私を見、「もうお済みですよ」と言った。
「ほんとう?」と、私はびっくりして言った。
「ええ、毎日しっかりとお支払いいただきありがたいです、ムシュー」
「毎日? 誰が払ってくれているんだろう」
「他ならぬあなたからいただいておりますよ、ムシュー」
「でも私はずっと、なにも払ったことがない気がするのだけれど」と私が言うと、ボーイはひと呼吸置いてから、しずかな口調で、尋ねるように、
「ねえ、ムシュー。本日は海に行かれないのですか」といった。
「海には行くけど、でもね、」
「何も心配なさることは無いんですよ、ムシュー。では、いってらっしゃいませ」
そう言ってボーイは頭を下げ、それで私たちの会話は打ち切りになる。(こうやって彼が話を打ち切ると決めれば、私はそれに従うほかない。)
さて、その日、とてもあかるい海から戻って部屋に入ると、書き物机のうえに赤い縁取りのついた紙が置いてあって、見ればボーイの字で『本日ぶんの宿泊料、たしかに頂戴いたしました』とだけ書いてあった。
つまり、これが領収書ってわけだ。
その日以来、海から帰ってくるたびに別の領収書が書き物机に置かれているようになった。(文面はいつだって同じだが、縁取りの色が日によって違うのだ。)
毎日律儀に領収書が置かれているってことは、私はたしかにボーイに何かを支払っているはずで、……しかし、何を支払っているのだろう?
でも、ボーイが心配しなくて良いって言っていたのだから、心配しなくて良いのだろう。いつだって彼の言うことに間違いはないのだから。
領収書をそのままにして、私はベッドに横になり、すこし休もうと思って目を閉じた。
*夜をとばして、朝
夕食の時間まで休むつもりでひと眠りしたら、朝になっていた。
これはたまらないや。
ユータナジーで私はまれにこうやって、夕食を忘れて次の朝まで眠りこんでしまうことがある。そういうことはたいてい、とてもあかるい海で過ごしすぎて疲れてしまった日に起こるから、とてもあかるい海がいくらすてきな場所だからといって、あまり長くは居ないように、気をつけなければならないわけはそこにある。
ユータナジーの夕ごはんを食べそこなってしまうなんて、もったいないからね。
けれど、ひさびさに悪い夢も見ないでよく眠れた。窓の外からはあたらしい日がさしている。昨日とおなじように今日も晴れだ。とてもあかるい海の砂は、はやくも跳ねているだろう。
私は食堂に降りていって朝食にしようと思った。それで、ベッドから起き上がり、廊下へのドアを開けようとノブをひねった、その瞬間、となりの部屋のドアがきしみながらひらく音がした。
こういうときは、すこし待ったほうが良い。
私はドアノブをにぎったまま、開けようとしたじぶんのドアをひらかずに、息をひそめる。そのまま耳をすませていると、となりのドアを開けた誰かは廊下へと出てドアを閉め、階段のほうへと遠ざかっていくようだった。その足音はだんだんと小さくなってゆき、階段へとさしかかるころには、まったく聞こえなくなった。
私はその足音が消えてからもしばらく待って、それからゆっくりとドアを開けた。薄暗い廊下に出て、右にも左にも誰もいない、しずかな廊下だ。私はホッとひと息ついて、それから食堂に行くために、階段のほうへと歩いていった。
*幽霊たち
ユータナジーでひとの姿を見かけることはほとんどない。もちろん、ロビーで辺りを見渡せば、ボーイを見つけることはできる。けれど、ロビーや廊下でボーイ以外のひとの姿を目にすることは、全くと言っていいほどに無いんだ。もちろん、ユータナジーに暮らしているひとの数が少ないっていうのもあるのかもしれないけれど、私たちはたがいに顔を合わせないように、日ごろからそれとなく気を配ってもいる。
だから、姿を見ることこそ滅多にないが、ささやかな気配を感じることはしきりにある。
たとえば、うすくひらいた窓の隙間から、ひそかなささやき声を聞くことがある。
たとえば、階段をのぼりきったその瞬間に、私の部屋とは反対側の廊下の扉が、まさに閉まったことがある。
たとえば、ロビーのソファで本をめくっていると、嗅ぎ慣れない香水の匂いが鼻先をよぎることがある。(顔を上げればボーイが閉まりゆく玄関ドアにお辞儀をしている。)
そうやってユータナジーで気配を漂わせるように暮らしながら、他人どうしの私たちは互いに会ったり、話したりすることはほとんどない。だから私は、いまユータナジーに暮らしている人間は、或いは私とボーイだけなのではないかと考えたりもする。私と彼だけが生きている人間で、ほかのささやかな気配や声、足音や匂いは、すべて幽霊の仕業ではないのか。
そんなことを考えて、ユータナジーの幽霊たちを、懐かしいように感じている。
私にとって彼らが幽霊であるように、彼らからしてみれば私こそが幽霊であるのだから。
*めずらしい、人
階段を降りて食堂に入った。私が朝食にするころには、朝もずいぶん遅いからか、食堂にもやっぱり大抵はひとがいない。だから、誰もいないだろうと思いながら食堂に入ったのだけれど、今朝はいつもとは違っていた。
食堂は、全体としてうす暗いユータナジーの建物のなかでは珍しく、大きい窓が光を取りこんでいてとても明るい。こんな朝も遅い時間に行けば、日の光がたくさん差し込んでまぶしいくらいだ。なので私はいつも決まって窓から離れた隅の席で朝食をとる。
それで、その日私が見た彼らは、光のまぶしい窓際の席に座っていた。
年老いた夫婦のようだった。むかいあわせに座っている彼らの、こちらに背中を向けているのは老人で、ナイフとフォークで取り分けながら何かをしきりに口に運んでいた。(きっとパンケーキだろう。) いっぽうで老人と向かい合って、つまりこちらに顔を向けて座っているのが老夫人で、彼女はティーカップを啜っていた。光がまぶしかったせいで、顔を見ることはできなかったけれど、たぶんうつむくようにしていたはずだ。
さっきの廊下の足音は、彼と彼女の、どちらかのものだったのだろうか?
私は食堂の配膳台まで歩いてゆき、プレートにハムエッグスとキャベツ、それとソーセージを取り分けた。(ユータナジーの朝食はバイキングだ。) それからオレンジジュースとバターのかけら、あとはパンを二つ取り、最後にハムエッグスにソースをかけて、完成だ。きのうの晩を食べそこなってしまったから、いつもよりパンがひとつ多い。
そのまま私はいつもの席、老夫婦から離れた食堂の隅に座って朝食にした。私に加えて彼らもいて、しかしほとんど変わらない、いつもとおなじ、しずかな朝だ。カトラリーと皿とが触れる音、あとは老夫婦がほんの短くささやき交わす声が背中に聞こえて、それ以外の音はない。
パンの最後の一切れを食べ、オレンジジュースを飲み干して、プレートを片付けるために立ち上がって老夫婦のほうへ向き直ると、彼らはすでに居なかった。
彼らが椅子を引く音も、歩き去る足音だって聞こえなかった。
*迷路
ユータナジーのなかについて、もうすこしだけ詳しく書こう。
ユータナジーには長いあいだ暮らしていたが、私が足を踏み入れたことがあるのはユータナジーのなかでもほんの一部の場所に過ぎなかった。というのも、ユータナジーの建物のなかは際限なしに広いんだ。ユータナジーの外観と内部の広さはあきらかに照応していない、なんて格好つけて言ってもいい。気を抜いて生活範囲から外れると、建物のなかであろうと簡単に迷子になってしまうから、どこかあたらしいところへ行きたいときは、ボーイに案内の手間をとらせるのを厭ってはならない。
一度私は、ユータナジーのなかを探検のつもりで歩き回ったことがある。二階の広い廊下から、狭いほうへと、知らないほうへと足を進めていくうちに、ずっと二階を探索していたつもりが、一階ロビーの階段裏の通路から這い出す羽目になったんだ。
あれはびっくりした。階段やはしごをおりた覚えなんてないのに、一階に出てきていたのだもの。
そして私以上に驚いたのはボーイだろう。なんたって、机でふさいでロビーからは入れないようにしている狭い通路の、まさにその内側から私が、埃まみれで現れたのだから。
あのときのことはよく覚えている。こちらに背を向けて棚を掃除していたボーイが、物音で気がついたのか通路のほうへと振り向き、それで私の姿を見て、目をまん丸にして驚いていた、あの、表情! あの顔は良かった。彼が驚いているのを見るのは、あれが初めてのことだった。
そのまま私たちは棒立ちのまま、しばらく机越しに見つめあっていた。
「ムシュー……」と、ボーイが先に声を出した。
「やあ、こんにちは」と、私は言った。
「ムシュー、どうしてそちらに?」
「掃除の邪魔をして申し訳ないよ」
「ねえ、そこには入ってはいけないのですよ、ムシュー」と、さとすようにボーイが言った。
「うん、私もそんなつもりじゃなかった」と私は言い、続けて、「このお屋敷はとんでもない迷路だね」と言った。
それを聞いて合点がいったのか、ボーイは、「ああ、」と言い、「迷われたのですね」と納得して、仕切りの机をガガガと押してどかしてくれた。
「ありがとう」
「いえ。しかし、ムシュー。今後あたらしい場所においでになる際は、絶対にお声がけくださいまし。遭難してしまいますから」と、机を通路の前に戻しながら、ボーイは言った。
「遭難だなんて大げさだね」
「いいえ、ムシュー。次は遭難なさります」
「ほんとうにかい」と、私はきいた。
「ええ、間違いなく」と、いつもの調子でボーイは言った。
それ以来私は、ユータナジーの知らない場所にはふたたびひとりで行かなかった。
*海、その四
朝食を食べれば、さあ、とてもあかるい海の時間だ。
私は食堂を出てロビーを抜ける。ロビーを歩きながら周りを見渡して、壁ぞいに立っているボーイの姿をみとめると、
「とてもあかるい海へ行ってくるよ」と、私は彼に声をかける。そんな私にボーイはしずかにお辞儀をかえすんだ。それから私が玄関のドアを開けていよいよ外へと出るまえに、もう一度振り向いて手を振ると、彼もふたたび頭を下げる。
ボーイも私も、慣れたものだ。
うす暗いユータナジーから外へ出ると太陽がすこしまぶしくて、でもこの程度のまぶしさは、とてもあかるい海に足を一歩ふみいれたときの、くらむような白さとは比較にならない。(ユータナジーの玄関を照らす太陽は、きっと手を抜いているんだろうな。) そのまま私は橋を渡り、リコリスの畑を越えて、とてもあかるい海へと至る、草のトンネルをくぐる。このころにはもう足取りもだいぶ軽くなっていて、いや、足取りが軽いと言うよりかは、楽しみな気持ちで歩調が急かされるように早くなっている、とでも言ったほうがふさわしいだろう。
そんな早足のまま草のトンネルを抜けて、とてもあかるい海へとパッと足を踏み入れると、瞬間! 私の視界は真っ白になって、ああ、今日もとてもあかるい海に来たんだ! と、まぶたを固くつむりながら、しあわせな気持ちで心がいっぱいになる。
それから私は一目散に海へと入る。脱いだ服を畳むことすらそこそこに、波打ち際へと駆けていって、水を吸った白砂を踏む感触、足首をなでる心地よい波、もっと進めば水面は腿、わき腹へとのぼってゆき、そのまま私は海を全身に感じながら泳ぎはじめ、太陽の真下まで来れば波を枕にあおむけにぷかぷかと浮かぶ、そこに至るまでの何もかもが、いつだって、何度経験してもうれしくて、たまらないんだ。
この上ないうれしさのなか、私は長いこと、気がすむまで浮かんだり泳いだりした。そうやって満足するまで海にいて、今度は砂の上で横になろうと、満たされた心地で波打ちぎわに泳いで戻り、いつものように海からあがると、とてもあかるい海の浜辺に、その日は、ひとが居た。
とてもあかるい海に、人がいる!
あんなに驚いたことはない。なんたって、とてもあかるい海に私ではない誰かを見たのは、私のすべての経験のなかでも、そのとききりのことだったのだから。ユータナジーの中ですらひとの姿を見かけることはほとんどないのに、唐突にとてもあかるい海にあらわれた見知らぬかれは、まぶしい太陽に照らされて、ユータナジーの幽霊たちとはまったく異質な、たしかな存在感を持っていた。
その男は手を頭の後ろで組み、足を交差した格好で、砂の上に横になっていた。白い中折れ帽を顔に乗せて、跳ねる砂や日差しをさえぎっている。そして彼のとなりには、海に入るまえに脱ぎ散らかした私の服が、きれいに畳んで重ねてあった。
私は彼の横まで歩いてゆき、何かを言おうとしたのだけれど、すぐには言葉が出てこなかった。何しろこういうときには一言目になんと言うかがとても大事だから、考えあぐねて、彼の横まで歩いて来たは良いものの、口に出す言葉は思いつかずに、そこに立ったまま悩んでいると、彼のほうが先に喋った。彼は顔から帽子をすこし持ち上げて、私のほうに目をやると、
「やあ」と、言った。
「こんにちは」と、私が返事をすると、
「からだを拭いて、横になれば……」と言って、ふたたび帽子を顔にのせた。
それで、私たちの関係は決まった。
*蔵書室
とてもあかるい海にいる彼と私の話をすすめるまえに、ユータナジーについてもうすこしだけ書いておこう。
ユータナジーの私は多くの時間を部屋で過ごした。食事のときには食堂へ、とてもあかるい海へ行き来するときはロビーを通った。つまり私のユータナジーの生活のほとんどは、部屋と食堂とロビーだけからなっていたわけだ。
だからここでは、部屋と食堂とロビー以外のユータナジーについて書こうと思う。
部屋と食堂とロビーのほかに、わたしが行ったことのあるところとしては、バーと蔵書室が残っている。バーについてはすてきな話だからあとまわしにして、ここでは蔵書室について書いてゆこう。蔵書室には一度行ったきりで、それに、あまり良い思い出ではないのだけれど。
蔵書室は、廊下を長く回り道するように歩いていった突き当たりにある最後の部屋だ。蔵書室に行くときにはボーイに案内してもらう必要がある。
そうでないと、入り組んだ廊下で遭難してしまうからね。
私がロビーのボーイに、何かしら本を読みたいのだけど、と声をかければ、ボーイはかしこまりましたムシュー、と言って、食堂の奥の廊下を通って蔵書室まで案内してくれる。しかし彼の案内は片道切符で、蔵書室の前までつくと、彼はもと来た道を引き返してしまうんだ。
「では失礼します、ムシュー。帰り道は明るいほうへと進んでゆけば、問題なく食堂の前まで辿り着けますから、くれぐれも冒険などなさらずに、道に迷われませんよう」
そう言ったきり暗い廊下に私を残して、ほんとうに彼は引き返してしまう。
これはちょっと不親切じゃないかな、とそのとき私は思ったものだ。
蔵書室のなかのことはなにも書けない。というのも私は、蔵書室に入ってすぐに、まるで胡椒壺に飛びこみでもしたかのようにくしゃみが止まらなくなって、目もかゆくてたまらなくなってしまったから、手近な本を一冊手に取ったきり、さっさと蔵書室から出てしまったんだ。(蔵書室はとんでもない部屋だ。)
それで私はふたたび、よくわからない本を手にして、蔵書室前の暗い廊下にひとりで立っているわけだ。もちろんボーイはもう居ない。しかたがないから、さみしい気持ちでひとりぼっちの帰り道をたどった。ボーイが明るいほうへと進んでゆけば、食堂前の廊下まで戻ってこられると言っていたから、彼のいうとおりに明るいほう、明るいほうへと進んでゆくと、往路の何倍もの時間はかかったものの、無事に出口にたどり着く。でもそれは彼が言っていたような食堂前の廊下ではなくて、またしても、ロビーの階段裏の通路なんだ。重い机で大部分が塞がれている、狭くてほこりっぽい通路。またここだ。
以前の探検につづいて、またしても通路からあらわれた私を、ボーイはポカンと見つめて言った、
「ムシュー……、その、ムシュー……、また迷子ですか?」
「どうやらそうみたいだ」と、机越しに私は言った。するとボーイは、
「冒険は控えるようあれほどお伝えしましたのに」と、まるで子供を叱るような調子で言うから、
「きみの親切な道案内のおかげで、すてきな冒険になったよ。ほんとうにありがとう」と、すこしつめたく返事をした。その声のようすに気がついたのか、ボーイはハッとして、
「ああ、ムシュー。この度は私の不手際でとんだご迷惑をおかけしてしまい、誠に申し訳ございません」と、ずいぶん慇懃な調子で言って、深々と頭を下げた。それを見て、少し言いすぎたかもしれないと思った私が、
「いや、良いんだ。たまにはそういうことだってあるだろうから」と言えば、
「いいえ、ムシュー。ほんとうになんとお詫びをすれば良いか」と、彼にしては珍しく、感じ入ったような調子で言う。
「お詫びなんて構わないよ。いつも君には世話になっているからね」
「しかし、そういうわけには」
「そうかい。じゃあ、ひとつだけ良いかな」
「ええ、何なりと」
「はやくこの机をどけて、ここから私を引っ張り出してくれないかな」と、私は言った。
「ああ、ムシュー、そうだ、申し訳ない……」と、ボーイは言って、机をガガガと押して退かし、出てきた私の服から埃を払ってくれた。
「なあ、今日はいったいどうしたんだい。いつもの君らしくもない」と、私が言うと、
「いえ、そんなことはないですよ、ムシュー」と、ボーイはうつむきがちに返事をした。
それで、私たちはふたりとも、なんとなくかなしい気持ちになってしまったわけだ。
さて、ところで、この話には余談がふたつある。
余談その一。この出来事があった次の日から三日間、ロビーには彼でない別のボーイが居た。そのボーイに、いつもの彼はどうしたの、と訊くと、「あのひとは風邪で寝込んでいますよ、ムッシュー。ぼくは風邪がなおるまでの代理です」と言っていた。
やっぱりあの日のボーイは本調子じゃなかったみたいだ。だったらあの日、そうだと言ってくれれば良かったのに。水くさいじゃないか、とも思ったけれど、でもまあ、そういう気分のときだってあるものだ。
余談その二。私が二度目の迷子になって以来、ロビーの隅にはちいさな本棚が設置された。そこにはボーイが見つくろってくれた本が何冊も並べてあるから、私はあんな蔵書室へとふたたび行かずにすむようになった。
「この本棚は便利だね」と、何度かボーイに言ったことがある。それを聞くたびに彼は、何も言わずにお辞儀をかえす。もちろん、いつもの落ち着いたしずかな調子で。
そうやってボーイが冷静で頼れるようすだから、私は安心してユータナジーで生活できていたってわけだ。
*海、その五
さあ、とてもあかるい海に戻ろう。
その男と私は、砂浜にふたり並んであおむけになっていた。(もちろん、ふたりとも海のほうへと足をむける格好で、だ。) かれが白い中折れ帽を顔にのせていたように、私はシャツを顔にのせて、砂や日差しをさえぎっていた。
でも、同じように顔へのせるなら、シャツよりも帽子のほうが、ずいぶんと気が利いている。私も帽子を持っていれば良かったのだけど。
そうやって砂の上に寝ころがり、体の下で跳ねる砂の感触や波の音を感じていた。いつもと同じように砂浜に横になっているだけなのに、隣に彼が居るってだけで、なんだか不思議な気分だった。
そんないつもとは違う心地で寝ていると、じきに彼が、
「この跳ねる砂は気持ちがいいね」と、私に声をかけた。私はそれを聞いて、服を脱いで横になればもっと気持ちが良いよ、と返事をしたのだけれど、うまく聞こえなかったようで、彼は、ん? とだけ言った。だから私は顔からシャツをどけて彼のほうへと頭を転がし、
「服を脱いで寝ころがれば、もっと気持ちがいいよ」と、もう一度言った。
「でも僕は日に焼けるのに弱いんだ」と、彼も寝転がったままこちらを向いて言った。
「そう」
「うん」
それで私たちは帽子やシャツを顔のうえに乗せなおして、波の音と跳ねる砂の感触に戻る。
そうやってしばらく横になっていると、日陰の砂が跳ねないように、身体の下の砂も跳ねなくなってくる。私の身体の下の砂も例外ではないから、弱まってきた砂を見捨てて元気に跳ねる砂のうえへと移るために、私は体を起こして、
「もうすこしそっちに寄っても良いかい」と、彼にたずねた。
「うん、かまわないよ」と、彼は帽子を顔からすこし持ち上げて言った。
「ありがとう」
「なんの、なんの」と、彼は言った。
*海、その六
私は彼のほうにすこしだけ寄って、横になった。そうやって場所を変えれば、またあたらしい砂がパチパチと背中に跳ねて、気持ちがいい。
背中の砂は気持ちがよくて、波の音は単調で、……それで私は、うとうとしてきた。
体の下の砂がだんだんと跳ねなくなっていくことや、そんなときにはすこし横にずれると良いってことを、彼は知っているのだろうか。知っていなければ、教えてあげたほうが良いのかな。でももしかすると、もう、とっくに気がついているのかもしれなくて……、と、そんなことを考えながら、とりとめのない思考と眠気がまざるように、だんだんと私は、とてもあかるい海の浜辺で浅く眠りはじめていた。波の音、砂の跳ねる音は聞こえていて、意識だけがぼんやりと、いつもよりとおいところにぼやけている。
こんなふうに、とてもあかるい海でうすく昼寝をすることも、私は好きで、気に入っていた。
とりとめのない考えが、つながりのないイメージの泡へと変化して、意識はあいかわらずぼやけたまま、波の音や砂の跳ねる音が背景のように、単調に流れつづけている。そのまま、もうひとつ深いところへ眠りが進もうとする、そのあたりでちょうど、砂の跳ねる音がパッと止まり、そうして口笛が聞こえはじめる。
とてもあかるい海の口笛だ。これもまた、いつだってうつくしい。
誰もいないこの海で、どこからともなく聴こえてくる口笛を、彼はいったいどう思うだろう。ふたたび意識が焦点をむすびはじめた私は、彼のことを考えながら、口笛に耳を澄ませていた。
すると、すぐ隣から、とてもあかるい海とは別の口笛が、ハーモニーになるように聞こえだしたんだ。
彼の口笛だ。
顔からシャツをどけて見ると、まぶしい日差しのなか彼は、半身を起こして、海の口笛の調子にあわせて口笛を吹いている。
「へえ、上手いもんだね」と、私は言った。
「まあ、聴いていなよ」と、彼は言って目をつむり、とてもあかるい海のメロディに耳をすませながら、切れ切れに、しかし音律が調和するように吹いている。
私も彼とおなじように体を起こして、海の口笛と彼の口笛に耳をすませていた。
これは良い。
私は海の口笛とおなじ音階を追いかけるだけで精一杯だけど、彼のように、こうやってハーモニーになるように吹くことができれば、ずいぶん気持ちが良いだろうな。
そうやってしばらくのあいだ素敵な気持ちで聞いていると、じきにとてもあかるい海の口笛がやんで、あわせて彼の口笛もおしまいになった。また砂がパチパチと跳ねはじめる。
「いやあ、素敵だったよ」と、私は言った。
「そうかな」
「うん、とても良かった」
私がそう言うと彼は、
「僕は詩人だったんだ」と言った。「詩を書いたり、歌ったりして、そうしてやってきたんだ」
「だから口笛もうまかったんだね」
「きみはなにをしてるの」と、彼は言った。「つまり、ここで何をしてるのかってことだけど」
「ここで暮らしているよ」と、私はこたえた。
「ここで?」
「そう。毎日泳ぎにくるんだ。泳ぎつかれたら砂のうえに横になる。海の口笛を聴いてから帰って、次の日の朝になればまた泳ぎにくる。そうやってずっと暮らしているんだ」
「それは、」と彼は笑って言い、つづけた。「それはとても素敵だね」
「ありがとう」と、私は言った。(彼がそう言うのを聞いてうれしかった。私も私の生活を気に入っていたから。)
それから、ふたりでしずかに海を眺めるちょっとした時間が過ぎたあと、私は立ち上がって、
「今日は帰るよ」と彼に言った。
「僕はもうすこしだけここにいるよ」と、彼は返事をした。
「それじゃあ、さよなら」
「またね」
「うん、また」
そう言って私たちは別れた。
*悪夢
ここで、せっかくだから書いておきたいことがある。悪夢の話だ。
とてもあかるい海やユータナジーに不愉快はほとんど存在しなかったが、数少ない不愉快のひとつとして、夜に見る悪夢があった。これはとりわけ私の夢見が悪かったためかもしれないけれど、しかし、それにしても、怖い思いをしながら目覚める朝が多かった。
たとえば、こんな夢だ。
朝食のユータナジーの食堂でパンケーキを頬張っていたら、なにかがガキン、と歯に当たる。とうぜんパンケーキの食感ではないから、何だろうと思って手に出して見ると、自分の歯が一本抜けていた。それを契機にバランスを失った私の歯は次々と口の中から抜け落ちはじめる。私はポロポロと抜け落ちる歯をどうにもできず、泣きそうな気分になりながら、せめてその歯を落とさないように、両手をうつわにして受け止める。ポロポロと抜け落ちる歯は止まることなく、私の両手は歯でいっぱいになって、私がいる場所も食堂からリコリス畑に変わっている。私はリコリスの畑の真ん中に座りこみ、両手のうつわに抜け落ちる歯を受け止めつづける。
こういう夢を見た朝は、たとえば朝食の食堂に行きたくはなかったし、言わずもがなパンケーキを視界に入れることすら嫌だった。とてもあかるい海へと至るリコリスの畑も、その日は駆け足で通り過ぎた。
しかし、こんな夢のもつ不愉快な情感も、とてもあかるい海のあかるさの前では、まるで無力に失われた。とてもあかるい海に足を踏み入れたときの、真っ白なまぶたの裏の明るさに、悪夢は決まって蒸発するから、私は悪夢の余韻に煩わされることなしに、海に浮かんだり、砂浜に横たわったりして、幸せに過ごしていたものだ。
*ユータナジーのバー、その一
話を戻そう。
とてもあかるい海で彼と別れたあと、私は鼻歌混じりにユータナジーへ戻った。草のトンネルを抜け、リコリスの畑を越え、橋を渡って。
ユータナジーの玄関を開けるとうす暗いロビーはいつものようすだった。いつものようす、つまり一見誰もいないようで、しかしロビーを見回すと、ちゃんとボーイがそこに居る、それがいつものユータナジーだ。その日ボーイは、壁の絵の額縁のうえを掃除していた。
「ただいま!」と、私は言った。
「お帰りなさいませ、ムシュー。海はいかがでしたか」と、彼は言った。
「うん、良かったよ。ところで今日はね、海でひとに会ったんだ。めずらしいことだよ」
「そうですか」と、ボーイはしずかに言った。
「もしかしたらユータナジーにも来るかもしれないね」
「さあ、どうでしょう」
「もし来れば、きっと君も彼のことを気に入るよ」
「そうなれば幸いですね」
「それを伝えたかったんだ。じゃあ、また」
「ええ、ごゆっくり」
それで私は部屋に戻って休み、彼は額縁のうえの掃除に戻る。
部屋に戻って休んでいると、じきに日が暮れて夕食の時間がやってくる。二日連続でユータナジーの夕食を食べ逃してしまうなんてもったいないから、私は眠らず横になって、本を読みながら過ごしていた。(本を読みながら、とは言っても、行間や単語のふとした狭間から空想が飛んで、気がつけば海で会ったあの詩人のことを考えている、といった調子の、散漫な読書だ。) 窓の光で本を読んで、いよいよ文字が読めないほどに外が暗くなったころ、私は部屋を出て食堂に行き、夕食にした。(その日の夕食はグラタンだった。ユータナジーのグラタンはとてもすてきな味で、シチューの次に私は好きだ。)
そうやって無事に、二日ぶりにユータナジーの夕食を食べることができて、満足だった。
それに、昼間のとてもあかるい海も良かった。今日はいつもよりも、もっと楽しかった。
あとはゆっくり眠るだけだ。
そんな私が部屋へ戻るためにロビーを通ると、ボーイが物陰から歩み出て、ふと私を呼び止めたんだ。
「ムシュー、今よろしいでしょうか」
ボーイが私を呼びとめるなんて、滅多にないことだ。だから、なんだろうと思って足を止めて、
「大丈夫だよ。何かあったのかい」と、私は言った。するとボーイは、
「バーにお連れしたいのですが、ムシュー。おいでいただけませんか」と言った。
(さあ、これでやっとバーのことが書ける!)
「ユータナジーにバーなんてあったんだね」と、私は言った。
「ええ、長らくお伝えしませんで」と、ボーイは言った。
「そう。じゃ、行こうか」
それを聞くと彼は頭を下げ、「ありがとうございます。では」と言って歩きはじめた。私は彼について歩く。
彼の後ろに連れられて、バーへの道すがら、つまり、食堂奥の廊下から階段を降りて、その先の廊下をいくつも曲がりながら、私はその日のことを考えていた。ほんとうに今日は、めったにないことばかりの日だった。朝の食堂では老夫妻を見かけて、とてもあかるい海では詩人とすごし、晩にはボーイが私を呼び止めてバーへと連れていく。なんだか今日は、色々なことがたくさん起こる、いちばんふしぎな日のようだった。
それで、いちばんすてきな日でもあったわけだ。
ひとつのドアの前でボーイが立ち止まった。ユータナジーのうす暗い廊下にならぶドアのなかでも、ひとつだけ調子のちがうドアだ。そのドアのノブに手をかけて、ボーイは言う。
「こちらが、ユータナジーのバーになります」
そう言って彼はドアを開け、私を中にうながした。私は「うん」とだけ言って、ドアをくぐって中へと入る。
一瞬、とてもあかるい海に足を踏み入れたときの感覚がした。まぶたの裏が真っ白になって、うれしさに満たされていくあの感覚に近い心の動きで、しかし、バーの中はそれほどあかるいわけではないから、要するに、ひとつの別天地に踏み入れるときの感覚がそこにはあった。
ひとが五人も入ってしまえばそれで満員になるような、ちいさなバーだ。そうして、止まり木にはすでに一人の先客がいる。見たことのある服の男だ。彼は私のほうへと振り向いて、
「やあ」と言った。
「こんばんは」と、私は言った。彼にまた会えてうれしかった。
「隣に来て、座りなよ」と、海辺で会った詩人は言った。
*ユータナジーの夕食
ここで、ユータナジーの夕食についても書いておこう。ここを逃すと、うまい具合に話せないような気がするから。
以前、ユータナジーの食堂でひとに会うことはほとんどない、と書いたと思う。朝食のときはそのとおりだ。しかし、夕食のときは別で、というのも、夕食の時間にはひとりのウェイトレスが給仕に入る。すてきな少女だ。
彼女のことをわかってもらうには、彼女のふるまいについて書いていくのが良いだろう。それも、海で詩人に会った日の夕食を書くのがちょうど良い。
夕食のとき、彼女は食堂の入り口近くで客がくるのを待っていて、私が食堂に入るといつも、会釈してから席まで案内してくれる。それはあの日も同様で、私が夕食の食堂に入ると、壁ぎわに立っていた彼女はフと気がついたように視線を上げて、いつものように会釈をする。しかしその会釈の直前、私のほうへと上げた視線が、尾を引くようにさみしげだった。
これはどうしたわけだろう、と思いながら、私は彼女が案内してくれた席に座って夕食を待つ。(さみしげな彼女はめずらしいんだ。) それからしばらくすると、彼女が焼きたてのグラタンを持ってきてくれるから、ありがとう、と私が言うと、彼女はグラタンをテーブルに置きながら、すこしだけ、合図のように口角を上げてみせる。しかし、彼女の目はやはりかなしく沈んだままだ。
私が夕食を食べているあいだ、彼女は私の斜め前に、すこしだけ離れて立っている。ほかに誰ひとりとしていないから、私につきっきりだ。(朝食と同じように夕食でも他の客の姿は滅多にない。) 彼女は減りかけたグラスに水を注いだり、落としたカトラリーをすぐ替えてくれたりして、よく気がつくウェイトレスなのだけれど、今日は彼女のあまりにかなしい雰囲気が、ふたりきりの食堂の空間にも広がっているようで、すこしやるせないような気分になる。
それはそれとして、料理はいつだって文句なしにすばらしいんだ。
グラタンを食べ終わって食堂をあとにするとき、出入り口まで彼女は私を見送ってくれる。これはいつも通りのことだ。しかし、食堂を出る手前で振り向いて私が、今日もおいしかったよ、ご馳走様、と告げると、いつもは頭を下げるところを、彼女は私の顔を見たまま、何かを言いたげにしている。
「一体どうしたの、今日は。ずいぶん悲しそうな様子だけれど」と、私が先に口火を切った。それを聞いて彼女はすこし言い淀んだあと、
「あしたはシチューが夕食ですよ」と、言った。
「ほんとうかい! それはすてきだね、寝過ごさないように気をつけるよ」と私は言い、それからすぐに気がついて、「でもそれは、さっき訊いた答えではなさそうだ」と続けた。すると彼女は、
「その……、きのういらっしゃらなかったから、もしかしてユータナジーの夕食に飽きてしまったんじゃないかって、今日もずっと不安だったんです」
そう言って彼女は、悲しそうな目を一層かなしそうにして私を見すえる。
つまり、彼女はこういう少女なんだ。
「いや、違うんだ。昨日は朝まで寝ていただけだよ」
「ほんとうに?」
「もちろん」
「それじゃあ明日も、そのあともずっと来てくれますね」
質問とも断定ともつかない調子でそう言うと、彼女は悲しい表情を引っこめて微笑むのだけど、ニッコリとうれしそうなようすではなく、どこかさみしげな幽霊のように微笑んでいる。
「私がずっとここで暮らしているのを知っているのに」と、私がいうと、
「でも、みんな居なくなってしまうから」と、微笑みながらも、心配げに彼女は言う。
「私は大丈夫だよ」
「そうかしら」
「もちろん。明日のシチュー、楽しみにしているね。それじゃあ、また」
「ええ、おやすみなさい」
「おやすみ」
それで彼女はお辞儀をして、私は食堂をあとにする。
こういうわけで、ユータナジーで夕食を食べないのはもったいない。とてもおいしい夕食をたべそこなってしまうし、彼女に余計な心配をかけてしまう。
*ユータナジーのバー、その二
バーの話に戻ろう。
私は彼の隣に並んで座り、カウンターにはボーイが入った。
「ロビーに戻らなくても良いの」と、私がきくと、
「他にお客様は居ませんから」と、手を拭きながらボーイは言う。
「なるほどね」
「かれにも僕と同じのを」と、すでに何かを飲んでいる詩人がボーイに言った。それを聞いたボーイは「かしこまりました」と言うと、空色の瓶を手にとって注ぎ、私の前に脚の短いグラスを置いた。
見ると、黄金色にうすく透きとおるような酒だった。グラスを揺らすと、蜜のようなとろみがある。どんな味がするのだろう?
「まあ、飲んでみなよ」と、彼は言った。ボーイのほうを見ると、かれもしずかにうなずいた。
うながされるままグラスに口をつけ、舐めるようにして一口飲んだ。すると、舌先にふれる黄金色の酒、それは味ではなく風景だった。とてもあかるい海の情感が瞬時に舌を、頭をよぎる。沖まで泳いで仰向けになり、太陽の下で目を閉じて、愉快にぷかぷかと浮かんでいた、あの心地!
どういうことだろう。これはほんとうに酒なのか? たまらず私はもう一口飲んだ。今度は味わうように口に含んだ。すると、やはり脳裏にうかぶのは、とてもあかるい海だった。水面が身体を撫でる感覚、仰向けの私に照る白い太陽まで感じられるようだった。まぶたの裏にまぶしさが明滅する。
「太陽と海の酒だね」と、グラスを置いてすこし茫然としながら私は言った。「景色が見えた」
「さすが、ご名答」と、詩人は言う。「これは、すごいよ」
「かつて、ユータナジーが海まで広かった頃の酒です」と、ボーイは言った。「まさにあの海で作られていたものでした。今ではもう、ここにほんの少し残っているきりです」
私はその酒に夢中になった。飲んでいると、はじめは太陽と海だったそれは、いつからか跳ねる白砂へと変化していく。
「並んでまた、砂のうえに横になっているみたいだ」と、私は言った。
「うん、そうだ」と、詩人は言った。「砂が背中に当たるみたいに気持ち良いね」
そうやって私たちは、太陽に照らされるように酒を飲んでいた。
「きみは飲まないのかい」と、あるとき私はボーイに訊いた。「きみとも一緒に飲みたいな」
「私は下戸ですよ、ムシュー」ボーイは続けて、「しかし、ありがとうございます」
そう言ってかれは新しいグラスに酒を注いで私の前に置く。見ると、私の手元のグラスはもう空っぽだった。
「気が利くね」
「お褒めにあずかり光栄です、ムシュー」と、ボーイは言って頭を下げた。
*ユータナジーのバー、その三
そうやって心地よく飲みながらグラスを三杯くらい空けたころ、私は彼に、
「ところで夕食は食べたの」と、きいた。「つまり、ユータナジーのグラタンをさ」
「いや、食べてないよ」と、彼は言った。
「じゃあ、明日からのお楽しみだね。ユータナジーの夕食は素晴らしいんだ」
「そう」
あした、という単語を口にしたとき、彼の肩がピクリと跳ねたような気がした。
「それに明日はシチューなんだよ。私はシチューがいちばん好きだ」
「うん」
「君もシチューを食べたら好きになると思うよ」
「なるほど」
「ひとが増えたら給仕の子もきっと喜ぶよ」
「へえ」
どういうわけだか、彼はうつむいてこんな返事しかしなくなってしまった。こんな調子の会話ったら無い。
「ねえ、もう眠いのかい」と、私はきいた。
「いや、そんなことないんだ」と、ふと気がついたように頭を上げて、彼は言った。「もっときみの話を聞かせてよ」
でも、どう見たって彼は頭を落として眠そうにしていたんだ。そうでなければ、なにか考えごとをしているか、そのどちらかのようだった。
「そう急ぐことはないだろう」と、私は言った。
「ユータナジーには時間がたくさんあるんだから。明日もあさっても、ずっとさ」
そう私が言うのを聞くと、彼はウーム、と考えてから、
「じゃあ今日は、あと一杯だけ付き合ってくれないかな」と言った。「それで今日は、おしまいにしよう」
「うん、それがいい。なんだかきみは眠そうだ」
「ごめんよ」
「いや、良いんだ」
私と彼は手もとの酒を飲み干して、ボーイから最後の酒を受け取った。すると詩人は、
「実はね、すこしだけ眠かったんだ」と言った。それから酒を一口飲んで、「でも、もう大丈夫」と笑って言った。「眠たいままじゃ、もったいないよね」
「無理することはないさ。あしたの朝ごはんを寝過ごしてしまうよ」
「朝ごはんはどんなふうなの」
「バイキングだよ。朝の食堂はまぶしいくらいだ」
「それは、すてきだね」
「きっときみも気に入るだろうと思う」
そう言って私は酒を一口飲んだ。(とてもあかるい海のまぶしさ。) そのまますこし黙って酒を飲んでいると、
「よければ明日、一緒に食べないかい。ほら、朝ごはん、はじめてだからさ」と、彼が言った。
「うん、君さえ良ければ」と私が言うと、
「ほんとうかい、良かった」と、彼は言った。「君がいてくれて良かったと思う」
「そんな、大げさだね」
「ふふ」と彼は笑って、それから残りの酒をいちどきに飲み干し、立ち上がった。「さあ、お会計だ」
「もう終わりかい」
「ああ、また明日の朝に会おう」
その日の最後の一杯がこんなにはやく終わってしまって、私は名残惜しかった。
立ち上がった彼はポケットから小さな皮袋を取り出して、それをそのままボーイに手渡した。ボーイはそのずっしりと詰まった皮袋の中身を見ようともせず、
「これではあまりに多すぎますよ」と、詩人に言った。
「良いんだ」と、詩人はボーイに言う。「僕にはもう、必要ないから」
そう言って、彼は私に「それじゃあ」と挨拶したあと、すぐにバーの扉を開けて出ていった。「アッ、ねえ!」と私が呼びとめる声も聞こえなかったように、ドアは閉まって、彼は行ってしまった。
ユータナジーの迷宮に、ひとりっきりで!
私とボーイは顔を見合わせた。
「大丈夫かな」
「すぐに気がつかれるでしょう」
果たして彼は戻ってきた。彼は苦笑いしながらドアを開けてバーに戻り、
「どうやら、帰り道がわからないんだ」と言った。
「そう、ユータナジーのなかは迷路なんだよ」と、私は言った。
「君が飲み終わるまでここで待っているよ」と、私の隣に座りながら詩人が言うと、
「でしたら、もう一杯いかがですか」と、ボーイが酒を注いで差し出した。
「良いのかい?」
「ええ、もちろん」
「うん、それが良いよ。私ももうすこし話したいから。なにもそんなに急ぐことはないよ」
「そうかい? それじゃあ、お言葉に甘えようか」
そうして彼と私は、最後の一杯(今度こそ最後の一杯だ!)を、今度は口笛を聞くような気持ちで飲んだ。
最後の一杯を飲み終えた私たちは、ボーイにロビーまで連れられて戻った。もう夜も遅かった。
「今日はありがとう、楽しかったよ」と、私は言った。
「僕も楽しかった」と、詩人は言った。
「それじゃ、明日の朝だね」
「うん、ロビーで君を待ってるよ」
「わかった。じゃあ、また」
「おやすみ」
「おやすみ」
それで今度こそ私たちは別れて、私は部屋に戻って眠った。
眠りに落ちてゆきながら、明日も彼に会えるのがうれしかった。
*詩人との朝食
窓から日が差して、目が覚めた。今日も天気は晴れだ。
昨晩は、ほんとうに楽しかった。
これから彼と朝ごはんを食べて、そのあとには一緒にとてもあかるい海に行くのかな。今日はかれと一緒に泳ぎたい。それで砂浜に横になるんだ。それから、あの口笛だって習いたい。
夕食のときには、ウェイトレスにも彼を紹介できたら良い。きっと三人で楽しいだろう。夕食のあとはバーに行って、あの酒を飲むのもすてきだな。
私は部屋を出て、彼が待っているロビーに向かった。約束どおりに彼はそこに居た。
「やあ」と、彼は言った。
「おはよう」と、私は言った。
「うん、おはよう。頭は痛くない?」
「そういえばぜんぜん大丈夫だ」
「僕もだよ。良い酒だった」
「ほんとうにね」
「それじゃ、行こうか」
そうして私たちは朝食のために食堂に入った。まぶしいくらいに明るい食堂に、今朝は誰ひとり居ない。
私たちは配膳台の前に行って、朝ごはんを取っていった。私はスクランブルエッグと焼きベーコン、オレンジジュースにパンひとつ、バターひとかけら、それからスクランブルエッグにケチャップをかけた。彼はクロワッサンひとつとジャム、それとコーヒーだ。
それから私がいつもの自分の席、日のささない奥の席へ行こうとすると、彼が私を呼びとめて、
「ねえ、こっちにしないかい」と、窓ぎわのまぶしい席を指差した。
きのう老夫妻が座っていた席だ。
「すこしまぶしくないかな」
「いや、あかるくて気持ちがいいよ」
それで私たちは窓際の席に、向かい合わせに座った。やっぱり私にはまぶしかった。
しかし、たまにはこんなのも良いものだ。
それから朝ごはんが始まったわけだけど、私と向かいあって彼は、クロワッサンひとつを、たいそう時間をかけて食べていた。皿のうえでほんのちいさな一片をちぎりとり、ジャムを少し付けてから、口にはこぶ。よく噛んでから飲みくだし、そうしたらまた、皿のうえでほんの小さな一片をちぎりとり、ジャムを少し付けてから、口にはこぶ。ときどきコーヒーをひと口飲んで、そうしたらまた、クロワッサンをちぎり取る。手を止めて窓の外をぼんやりと眺める時間もたびたびだった。
そんな調子で、まるで朝食の時間を引きのばすように、かれはクロワッサンを食べていたんだ。
「あまりおなかが空いていないの」と、私がきくと、
「朝はほとんど食べないんだ」と、彼は言った。「いつもそう」
なるほど、詩人ってやつは少食なんだな、と私はそのとき、妙に納得したものだ。(大食いの詩人だって居るだろうにね。)
そんな調子で食べているから、私がベーコンの最後のひと切れまで食べ終わったとき、彼のクロワッサンは三分の一ほども残っていた。私ばかり手持ち無沙汰じゃ悪いから、
「コーヒーをもう一杯取ってこようか」と、私がきくと、
「うん、それじゃあお願い」と、かれは言った。
私がコーヒーと紅茶、それとバターロールひとつをあたらしいプレートにのせて戻ってくると、
「きみはたくさん食べるんだね」と、彼は言った。
「とてもあかるい海に行くんだもの」と、私は言った。「おなかが空いていたら、泳げないから」
「ああ、海。海か」と、彼はとおい思い出をたどるような調子で言い、続ける。
「あの海は、ほんとうにすてきだった」
「すてき『だった』、なんて。今日だってすてきだよ。明日も、その先も」
「うん、そうだ」と、彼は言った。「あの海は、すてきだ」
それから彼は私の持って来たコーヒーを取ってひと口飲み、続けた。
「それに、このコーヒーだってすてきだ。ねえ、僕がゆっくり食べるのを許してくれるね」
「構わないよ」と、私は言った。
「ありがとう、もうすこしだけだから」と、彼は言った。それから彼は、
「ああ、それにしてもあの海はほんとうにすてきだったなぁ」と、独り言のようにつぶやいた。
*さよなら
朝食を終えて、私たちはロビーに居た。
「さあ、とてもあかるい海へ行こう」と、私は言った。彼とふたたび海に行くのが、楽しみでたまらなかった。
けれども彼は、
「ああ、……そのことなんだけどね、」と、決まり悪そうに言って、続ける。「今日は僕、用事があるんだ」
「ユータナジーで用事だなんて!」と、私は言った。
「そうなんだよ。そもそも、そのために僕はユータナジーに来たんだ」
「何をしに?」
「マンチニールの木陰で休みにさ」と、彼はいう。
「マンチニールの木陰」
「ある詩の引用だよ」
「ああ、きみは詩人だったね」と、私は言った。
「そう」と、かれは言う。「僕は、詩人だった」
「その用事は今日の昼だけ? 夕方には会えるかな」と、私はきく。
「どうだろう。でも、用事は昼で済むよ。それ以降はずっと、何もないんだ」
「それじゃ、夕ごはんはロビーで待ってるよ」
「そんな、先に食べていてよ」
「いや、待っているから。きっと来てくれるね」
「うん、もし行けたらそのときは行くさ」
「約束だよ」
「きっとね」
「それじゃ、また夕方に会おうね。私はとてもあかるい海にいるから」
「うん、わかった。それじゃあ、さよなら」
「ああ、またね」と、私は言った。
「さよなら」と、彼は言った。
それで私たちは別れた。私はいつものようにとてもあかるい海へ行くために、彼はかれの用事とやらを済ませるために。
私がユータナジーの玄関を出る直前、ロビーのほうを振り返ると、彼はボーイのほうに行って、なにやら話しかけているようだった。ボーイは出がけの私をチラと見て、しかし会釈も何もなく、詩人のほうへと向きなおった。
*別れ
昼下がりに海から戻った。
リコリスの畑を越え、橋を渡り、ユータナジーのドアを開けると、ロビーはしずかにうす暗くて、出来たての廃墟のようだった。詩人のかれの姿は見えない。
と、私の視界のすみにボーイの姿がかすかによぎった。これはボーイが私に用がある合図に他ならないから、私はボーイに近づいて、
「ただいま」と言った。
「お帰りなさいませ、ムシュー。海はいかがでしたか」と、ボーイは言う。
「もちろん良かったよ。昨日のお酒にそっくりだった」
「それはよろしいことでした」
「うん。ところでね、何か私に用があるかい」
「いえ、今は、特にはございません」と、彼は言った。
「なにも?」
「ええ、なにも」
「フーム」と、私。それじゃあ、さっきのは見間違いだったのかな。
「そうか、なら良いんだ。ねえところで、かれの用事は済んだのかな」と、私は言う。
「ええ、すでに済まされたようです」
「マンチニールの木陰とか言っていたんだけど、何のことだろう」
「かれがそう申したのですか、ムシュー」と、ピクリと反応するようにしてボーイは言った。
「そうだ。いったい何なのだろうね」と、私も聞きかえす。
「さあ、わかりかねますが」と、ボーイは言った。
「ほんとうに?」
「ええ」
私がボーイの目を見ると、ボーイも私を見つめかえす。たぶんボーイは詩人の言葉を分かっていたのだろうけど、いちどボーイが知らないと言えば、いくら問い詰めたところで無駄だ。
「そうなんだ」と、私は言った。
「お役に立てず申し訳ないです」と、ボーイは返事をする。
「いや、良いんだ。それじゃあ、また」
「ええ、ごゆっくり」
それで私は部屋に戻って、夕食の時間まで休んだ。
彼はどこに行っているのだろう?
日が暮れたころ、目が覚めた。夕食にするためにロビーへ降りると、彼はまだ来ていなかった。
もしかして、かれはもう、来ないんじゃないか?
夕暮れの、彼の居ないロビーを目にして、私はなんとなく直観した。昨日の晩や今朝の朝食の彼の様子や、昼下がりのボーイの不自然な態度が頭のなかで繋がって、私の脳裏に悪い想像がたちあらわれた。その想像がさらなる細部をともない組み合わさってゆくまえに、私はそれ以上考えないことにした。
きっと来るさ。だって、約束したんだもの。
そのまま私はロビーのソファに腰かけて、彼を待つことにしたのだけど、ソファに座ったまさにその瞬間、視界のすみにボーイがよぎった。そのままボーイは視界のすみを出たり入ったりしながら、ゆらゆらと、徐々に私のほうへと近づいてきて、ソファに腰かけた私のすぐ横に立ち止まると、
「ムシュー、こんばんは」と、言った。
「ああ、こんばんは」と、彼を視界の隅に置いたまま、私は言った。嫌な感じだった。
「何かお手伝いいたしましょうか」と、ボーイは言った。
「詩人のかれを待っているんだ」と、私は言った。「今は君に用はないよ」
「そのことですが、ムシュー。昼に申しかねたことがあるんです」と、ボーイは言った。「お耳に入れるのが憚られまして」
「きっと良くない知らせだろうね」と、私はたずねる。
「生憎ですが、その通りです」
「じゃあ聞きたくないよ」と、私は彼のほうを見ずに、指を組んで前かがみに座りながら言った。
「ムシュー、聞いてください」
「嫌だよ」
「ムシュー、」
「やめてくれってば」
「かれは昼にユータナジーを発たれました」と、ボーイは言った。
私は返事をしなかった。
私たちはそのまま黙り込んでいた。蝋燭の燃える音すら聞こえるようだった。
「約束したんだ」と、それからしばらくして私が言った。「いっしょに夕食にしようって。かれも来るって言っていたんだ」
「心中お察し致します、ムシュー」
「約束したんだよ」と、私はボーイのほうを向いて言った。「ほんとうに、約束したのに」
今度はボーイが返事をしなかった。
*ひとりの夕食
それから、夕食の時間が終わってしまうからと言うボーイに急かされて、私は食堂へ向かった。夕食なんて気分ではなかった。
食堂に入ると、ぼんやりとうつむいていたウェイトレスが視線を上げて私を見た。彼女は私を見るなりパッと表情を輝かせたものの、悲しげな私に気がつくと、そのうれしそうな表情も、困惑したように固まってしまった。
席について待っていると、じきに彼女がシチューの鍋を持ってやってきた。(鍋になみなみと満たされた、金色のシチューだ。) そのまま彼女は私の皿にシチューをよそってくれる。いつも私はシチューのときには皿いっぱいに取り分けてもらって、そのうえおかわりもするのだけれど、今日は彼女がお玉で二回よそってくれたところで、「うん、ありがとう」と言ってやめさせた。いつもと違う私に彼女はほんとうにびっくりした顔をしてみせて、それから戸惑ってもいるようだった。
そうやって私は彼のいない、さみしいだけの夕食を、作業のように終わりにした。
食べ終えた私は部屋に戻るために、食堂から出ようとした。しかし、「ごちそうさま」と言って食堂をあとにしようとする私を、「あの!」と彼女が呼びとめた。
「なんだい」と、私は振りむいて、あまり親切でない調子で言った。
彼女は私のつめたさに一瞬面食らったようになって、それから、
「その、今日のシチュー、美味しくなかったですか」と、弱々しい声で言った。
彼女につらくあたって悲しませるのは筋ちがいだ。
だから私は、
「ああ、ごめんよ」と、語調をやわらげて言った。
「ともだちが居なくなってしまったんだ。それで今日は食欲がなかった」
彼女はなにも言わず、かなしそうな目で私を見ている。私は続けて言った。
「昨日会ったばかりのひとだったんだ。それでも、私たちはすぐに友だちになって、ずいぶん楽しくやっていた。海で横になったり、いっしょに酒を飲んだりね。それで、今日だってかれと約束していたんだ、夕ごはんをいっしょに食べようって。でもね、かれは夕ごはんを待たずにユータナジーから出ていってしまった」
それを聞いて彼女はうつむいてしまった。
「かれと過ごして、とても楽しかったんだ。少なくとも、私はかれと仲良くなれたと思っていたのに、彼は私になにも言わないで行ってしまった」
うつむいた彼女の顔は悲しみに満ちている。
「そういうわけで今日は、ほとんど食べる気になれなかったんだ」と、私は言った。「これで、おしまい」
ふたりともすこし黙り込んで、それから彼女が口を開いた。
「私はその、なんて言ったら良いのか、わからないけど、……でも、ねえ、今日のシチューは、とっても良く出来たんです。いつもよりももっとおいしいシチューだから、つまり、その、……ごめんなさい、差し出がましいことかもしれないけれど、もし良ければ、もう少しだけ、シチューを食べてもらえませんか」
「またシチューを?」と、私はいう。「食欲がないのに」
「悲しいことがあったときには、おいしいシチューをたくさん食べると良いんです」と、彼女は言う。
「先ほど食べてらしたときは、上の空のような調子だったから、今度は味わうようにして、もう一度だけ食べてくれませんか。今日のシチューはバターをたっぷり使った、舌触りのやわらかい、きん色のシチューです。ひとくち食べれば、口のなかに幸せが沁みわたるようなシチューなんです」
彼女がそう言うのを聞いて、悲しみばかりだった心の一隅が、かすかに光るような気がした。
バターをたっぷり使った、舌触りのやわらかい、きん色のシチュー。
「そんなに美味しいの」と、私がきくと、
「はい、とんでもなく!」と、彼女は真剣な顔をして言った。
そんなまじめな表情で、『とんでもなく』おいしいなんて言われたら、これはもう、かなわない。
「きみの言うとおりにしよう」と、苦笑するように私は言った。「もう一度夕食にしようか。でも、ほんのすこしだけだよ。私はいま、悲しいんだから」
「ああ、良かった!」と、彼女はパッと嬉しそうに笑って、言った。「今日のはほんとうに、今まででいちばんの出来だったんです」
*海、その七
次の日、軽い朝食を終えてから、私はボーイに話しかけた。(ちなみにその朝はパンケーキ一枚と紅茶だけにした。何たって昨日、結局たくさんシチューをおかわりしてしまったんだもの。)
「とてもあかるい海に行ってくるよ」と、モップでロビーを拭いているボーイに私は言った。
「もう、よろしいのですか」と、手を止めてボーイは言った。
「もちろん彼がいないのは淋しいけどね」と、私は言い、続ける。「でも、またいつか海に来た彼と、会えないとも限らないから」
「おっしゃる通りです」と、ボーイは目を伏せて言う。
「それじゃ、行ってくるよ」
「ええ、いってらっしゃいませ」
それで私と彼は別れる。私はとてもあかるい海に行って、彼はロビーの掃除を続ける。
橋を渡り、リコリスの畑を越え、草のトンネルを抜けると、とてもあかるい海に着く。光る砂浜に踏み入れば、まぶたの裏が真っ白になって、彼がいない悲しみがやわらぐ。そのうちにまぶしさにも慣れてゆき、しばたたかせながら目を開けば、どこまでも青い海と跳ねる白砂の浜が見える。
こんな景色を前にすれば悲しみはさらにすり減って、私は服を脱ぎ捨てながらしずかな海へと泳ぎに入る。沖に出て太陽の下で仰向けに浮かべば、まぶたの裏に太陽がまぶしい。浜に戻って横になれば、背中の砂が心地よい。
浜に寝ころがり、跳ねる砂を背中に感じながら、私はうとうとと、夕食のことを考えていた。今日の夕ごはんは何だろう。でも何が出たっておいしいのはわかっているから、楽しみで、しかし、せめて彼も、夕ごはんを食べてからユータナジーを出発すればよかったのに。
そのうちに口笛が聞こえはじめるから、私はそれに耳をすませる。どうすれば彼のようにハーモニーをつくれるのかわからない。だから私は、ただ静かに耳を傾ける。とてもあかるい海の口笛はいつだってうつくしい。
そうやって二、三日と過ごしていれば、彼のことだってほとんど気にならなくなってしまう。
とてもあかるい海とユータナジーは、そういうところだ。
***
これで私の思い出話はおしまいだ。
海とユータナジーを往復する日々を送りながら、長いあいだ私は幸せに過ごしてきた。とてもあかるい海のこと、ユータナジーのこと、詩人との思い出、ボーイやウェイトレスのこと、だいたいのことは書いたつもりだ。
今、私はユータナジーに暮らしていない。あの穏やかでなんとなく愉快だったユータナジーをあとにして、あなたがたと同様の世界で、激情や苦痛ばかりが際立った、修羅のような日々を送って暮らしている。
ユータナジーでの日々はもはや、とおい思い出となってしまった。そうして過去の思い出は、そのやわらかな肌触りを時々刻々と失ってゆく。いま私がユータナジーを回想しても、その場面、その情動があくまでも事実として思い出されるだけで、現在の私の感情は凪いだまま動こうとすることがなく、まるでぶ厚いガラスに隔てられているかのようだ。
そのうちに私はユータナジーで過ごした日々を、風景や情動の記憶としてすら思い出せなくなるのだろう。いや、現にもう、そうなりつつある。とてもあかるい海のうつくしさも、ユータナジーのシチューの美味しさも、単に言葉としてしか残っていない。私の思い出は日々枯れていく。(注意深い読者なら、これまで私が書いてきた話のなかに、妙に精彩を欠いた箇所がいくつかあったことに気がついたかもしれない。それこそがつまり枯れてしまった思い出の箇所だ。)
いつか私も、あなたがたと同じように、現前する生活の困難に押しつぶされて、あんなにも愛おしかったはずの思い出をそもそも存在しなかったと言い張るようになるのだろうか。或いは、思い出を記憶の隅に封じ込めて、みずから修羅と化しながら修羅の日々に全身を投じることになるのだろうか。
あんなにも幸せだった、ユータナジーの日々。(この『幸せだった』も、今や実感を伴わない抽象的な言葉でしかない。)
私はどうすれば良いのだろう。もう、ユータナジーには戻れない。とてもあかるい海をふたたび訪れることも叶わない。
現在の私がどのようにして暮らしているのか、どうして私がユータナジーをあとにしたのか、そんなことは書きたくない。