ともすればフィクションにのめり込み過ぎるきらいがあった私は、幼い頃、物語の主人公の感情をあまりにそのまま受け取っていたものだ。たとえば、母が大切にしていたスワロフスキーの小さな置物をうっかり壊してしまった主人公が居たとする。おまえが壊したの、と問いかける母に、「違うよ、ぼくじゃないよ。弟がやったんだ」と彼はとっさに嘘をつく。叱責されるかと思いきや、母は心底悲しそうな顔をして、そう、とため息をつき、「せめて正直に言ってほしかったな」とだけ呟いて、主人公を解放する。そういったシーンを読むだけで私は、私までもが何か取り返しのつかない嘘をついてしまったかのような、曰く言い難い気持ちになったものだ。
要するに感情移入があまりに強かった為か知らん、みずからの感情までもが登場人物の境遇に強く引きずられてしまっていた、そんな感じやすい私はしかし、いつからか、小説を読みながら主人公の感情にみずからを重ね合わせそうになるたびに、『これは私の体験ではない、これは私の感情ではない』、と思いおこし、自分の心や情動を守るようになっていた。あまりに健気な子供時代だった。
懐かしい純情すぎた幼少期から十数年、誰もがそうなっていくように、単なる一介の労働者に成り下がり、心象の豊かさや機微の複雑さを失った私は今や、みずからの日々、他ならぬ自分自身の生涯すらも薄い膜を隔てたように、他人事のようにしか感じられなくなっていた。退屈な長い小説を、途中まで読み進めてしまった勿体なさのために読み続けているような、そんな生涯を続けているうち、私はみずからの生活に対して、こう思うようにすらなっていた。『夜、眠っている最中の私が死んだとして、それが一体私にとって何だというのか?』
幼い頃の純情のむき出しから一転してこんな調子の救いがたい人間になってしまった報いなのか、そんなことは分からないが、ある晩、悪い冗談のような私の生涯よりも、更に悪い冗談のようなふざけた天使が、これまたふざけた友人によって、唐突に私のもとへと置き去られ、そのままそいつと暮らす羽目になったのだ。
*
日曜日の晩だった。電子レンジで温めた冷凍坦々麺の封を切り、ラップを敷いた皿へと移しはじめたまさにそのとき、部屋のインターホンが鳴った。続いてドアを叩く音と、「おい、居るか。さっさと開けろ」と問いかける声。こんな乱暴な友人を私は一人きりしか知らない。
坦々麺を皿に移しきってから玄関を開けると案の定、トチが居た。左隣にはトチの彼女が泣き腫らした目をして鼻をグズグズいわせている。そして後ろにはぶかぶかのパーカーを着てフードを深く被った見慣れない人影があった。トチの日焼けした肌、彼女の赤らんだ目元と見比べて、華奢なそいつの口元の肌は夜闇に妙に白かった。
「旨そうな匂いじゃん。おれのぶんもある?」トチはクンクンと匂いを嗅いでから、卑しい大型犬のように言った。
「自分のぶんしかないよ。それに、夜なのに急に押しかけて面倒を持ち込んできて、痴話喧嘩か何か知らないけど、しかも三人も……」
「人間ふたりとヒトデナシ一個だよ。すぐ説明してやるから、まあ上げろや」
そう言うが早いかトチは、私が許可を出すよりも先に、パーカーの手首を掴んで玄関へと上がり、かかとを潰した靴を脱ぐと、私を押しのけるようにして部屋へと入った。(そこで初めて私はパーカーの奴が靴を履いていないことに気がついた。絶句!) それに続いてトチの彼女が、迷子になりそうな子供のように、ねえ待って、待ってよぉ、と鼻声で言いつつ私の部屋へと上がりこんだものだから、ドアを開け放った玄関に、私ひとりが取り残される始末だった。
静かな夜がぶち壊しだった。呆れながら部屋へ戻ると、トチの彼女とパーカーは既にちゃぶ台の片一方に並んで座って待っていた。チラチラとしきりにパーカーのそいつに目をやって意思疎通をはかろうとするトチの彼女の意図はしかし、深く被ったフード越しには届いていないようだった。そんな二人の交渉なぞお構いなしに台所を覗き込んでいるトチは、私の坦々麺を見て、
「なんでこれ皿にラップ敷いてんの?」と問いかけた。
「こうすれば洗い物をしなくて済むからね」
「相変わらず女にモテそうもねえなぁ。でもまあ洗い物なんて、これからはこいつにやらせれば良いから」
そう言ってトチはパーカーのそいつを親指で指し示した。
「言ってる意味がわからないけど」
「そう急ぐなって。すぐに教えてやるから」
それで私は、今日トチが持ち込んだ厄介ごとがどうやら単なる痴話喧嘩で済まないことを悟ったわけだ。
付属の花椒をかけた坦々麺を持って居間に戻り、三人が並ぶ向かい側に座ると、すぐにトチが口を開いた。
「客に茶も出さないのか、この家は」
「塩をまかれないだけありがたいと思いなよ」
そう言って坦々麺をズルズル啜りはじめる私にトチは、ヘッ、まあ良いさと言い、続けて、
「おれにとって悪い話と、おれにとって良い話があるんだよ。まずは悪い話から始めようと思う。そのしょうもない飯を食いながら聴いてくれ」
「きっと私にとってはどちらも悪い話なんだろうね、聞きたくないな」
「今日おれが仕事から帰ってきたとき、」
私の意見なんか無視して話を始める。トチはいつもこれだ。
*
トチが仕事先から早上がりして帰ってくると、家のなかが妙にガタガタと騒がしかった。家に帰った途端こうやって慌ただしい物音がすることはこれまでにも何度かあった。(『こいつは頭の悪いウサギみたいにすぐ盛りやがる!』、とトチは彼女の頭を小突いて言った。) カッとなったトチが居間に飛び込むと、息もきれぎれな彼女が押入れを背に座っていた。間男が襖一枚隔てて隠れているのは火を見るよりも明らかだった。お帰り、今日は早いんだね、と言いながら押し入れの前を退こうとしない彼女を無理やり押し除けて襖を開けると、案の定、パーカーのこいつ、『このヒトデナシ!』が全裸で納まっていたという。ああ、また間男か!、と怒髪天のトチがそいつを引っ張り出し、首をへし折っちまうつもりで思いきり横っ面を張り倒してやった。すると、
「なんと、そのままこいつの頭が吹っ飛んでいったんだよ! 頭だけ、ポーンと! あの瞬間ほど肝が冷えたことは他に無いね。今までも力加減を間違えたことは何度かあったが、とうとう人を殺しちまったと思ったものだから」
「はあ」
私は、どこか得意げな表情をしているトチの顔をまじまじと見た。酔っ払っているのか? するとトチは私の疑惑に気がついたように、
「信じられないって顔をしてるな。おれだって最初は訳がわからなかったんだ。ほら、よぉく見てろ!」
そう叫んだトチは突然、パーカーを着たそいつのパーカーを無理やり脱がせた。トチの彼女はうめき声のような悲鳴をあげ、肝心のそいつ自身は諦めたように、されるがままになっていた。トチに脱がされたそいつはパーカーの下には何も着ておらず、要するにパーカーを剥がされて裸になった。(目が覚めるような白い裸体だった。) 思わず視線を逸らす私にすかさずトチは、「ほら見てろ、このヒトデナシの腕を折るぞ!」と、そう言うや否や、裸体の左腕を持ち、肘の部分を右手でおさえ、関節を逆方向に折ろうと力を入れたその瞬間、パキッと音がして、……肘から先が折り取られた。
血が出ることも、骨がむき出しになることもなかった。折り取られた断面は全き平らで、アメジストのような色をしていた。
「さあここからが更に凄いんだ」とトチは、折り取った腕を見せびらかすように振り回しながら、やくざな路上販売員か何かのように言った。それから折り取った腕をもとのように肘へと押し付け、数秒待ってから手を離すと、身体から完全に離れていたはずの腕が、そいつの腕としてたしかに元どおりくっついていたのだ。折り取った跡も残っていない。
「さあ、これでわかったろう。頭だろうが腕だろうがどこを折っても石みたいに取れて、しかもくっつけりゃすぐに治る。ビックリ人間どころじゃない、こいつはまったくヒトデナシだよ、血の通わない気色の悪いバケモノだよ」
トチの彼女は泣きだした。パーカーだった裸体はそのまま死骸のように横たわっている。私は言葉が出なかった。
号泣も絶句もお構いなしにトチは続ける。
「それで、おれは最初に『おれにとって悪い話と、おれにとって良い話がある』って言ったよな? ここまでが悪い話で、ここからは良い話だ。良い話というよりかは多少はマシな話ってだけなんだがな」
トチがろくでもないことを口にしようとしているのは分かっていた。だから私は、
「ああ、言わなくていいよ」と告げた。とうぜん私の抗議はトチには届かない。トチは言う、
「このバケモノをお前の家に置いていくことにしたから、よろしくな」
トチの彼女の泣き声がいっそう高くなった。
「悪い冗談だね」
「ああ、悪い冗談! (そう言ってトチは何やら大げさな身振りをしてみせた。) 悪い冗談なのはこっちだよ! 盛りのついたこのアホ(、と言いながらトチはふたたび彼女を小突いた)、このアホのお相手が人間だったら百歩譲ってまだ許せる! 間男を殴ってカネを出させてそれで終いになるんだから。場合によっちゃその間男とどういうわけだか仲良くなることすらあるものな。このアホを家に残して二人で酒を飲みに行って、もちろんそいつの奢りでだ。しかしこのヒトデナシ、こいつはどうにも我慢がならないね。おれはおれの女をこんな気色の悪いバケモノとまぐわうような人間に教育した覚えはないし、それがまずひどくショッキングだね。それにこのバケモノは殴ったところで痛くも痒くもないときた! とうぜんカネも持っていないし、どこでこんなバケモノを拾ったのかとコイツに訊いたら、道端でぼろ切れにくるまって座り込んでいたんだと。ほんとうに『拾って』きやがったわけだ! となればこの馬鹿女がまた拾ってこないとも限らないから、捨て犬のように捨てるわけにもいきやしない。どうせヒトデナシなのだから、粉々にしてやっても良いんだが、それはそれで捨てるのが面倒だ。ああでもない、こうでもないと悩んでいる時にフと思いついたのがおまえだよ。いやあ、持つべきものは友人だね。
というわけで、おまえの家でこのバケモノを飼ってくれ。それでもしこの女が一人で会いに来ても、絶対にこのバケモノには会わせるなよ。よろしくな。これがいちばん丸い解決だ」
*
来たとき同様、トチは強引に、乱暴な熊のように帰っていった。何とかしてトチが連れてきた、この、……なんだ、この、得体の知れない存在を連れて帰ってもらおうとする私の懇願もお構いなしに、『これはおれのパーカーだから』と、トチはそいつが着ていた服だけを持っていって、泣きじゃくる彼女の手を無理やり引っ張り、行ってしまった。
それで後には全裸のそいつが、トチに腕をくっつけられたときのまま、うつ伏せで床に横たわっていた。死体を投げ込まれたような気分だった。そちらを見るまいと何度思っても、吸い寄せられるように目が行く裸体、痩せぎすの、深夜の博物館の大理石のように蒼白い素肌のそれは、しかし先ほど目にしたとおり、人ではない。
正直なところ、私にはそいつが恐ろしかった。トチにああやって乱暴狼藉を働かれ、全裸で横たわっているのだから、せめて服の一枚や二枚持ってきて着せてやるべきであるところを、先ほどの折り取られた腕の記憶が邪魔をした。人でないのに人の形をして人のように動いていたこいつは、要するに一体何なのか? そもそも今こいつはピクリとも動きやしないが、トチに腕を折られたショックでくたばっちまったのではなかろうか? 人の家で? 勝手に死んだのか? 死体は、人でないこの死体は、折った断面は鉱石のようだったから燃えないゴミになるのだろうか?
そうやって私がまごまごしていると、唐突に、すべてを諦めたようなため息が聞こえた。
他ならぬ、全裸のそいつのため息だった。(まずそいつが生きていたことに私は安堵した。)そのままそいつは起き上がり、片膝を立てて座ってこちらを見、悲しいほどに澄んだ声でこう言った。
「さあ、見世物小屋ごっこはもう終わった?」
その時になって私はようやくそいつの、もとい、かれの顔を直視したわけだ。かれの顔! ……そう、思わず目を逸らしてしまうほどにまばゆい顔立ちがあるとするならば、かれの容貌はそれと対照に、思わず見入ってしまうような、まなざしを離そうとはしない顔だった。端的に、安直に言ってしまえば、それ以上を考えがたい美しさだった。人ではないかれへの恐れも一瞬で吹き飛んだように、現に私はその顔、ひどく飽き飽きしたような表情で、そのまま舌打ちでもしかねないかれの不機嫌な容貌に釘付けられたまま、永遠のような数十秒が経ってから、あまりにかれを見つめすぎていたことに頭が回り、それでようやく目を逸らすような始末であった。
「ジッと見つめたかと思えば生娘のように目を逸らしたりして、いったいどうしたの」
鼻で笑うようにしてかれは言った。ブグローの『クピド』にも似た容貌のかれは、しかしブグローが決して描かないような表情で私を嘲弄している。
「身体は大丈夫なの」と、かすれた声でそう訊くと、
「さっききみも見たとおり、ぼくは血の通わないバケモノだから、これくらいはなんともないんだよ」
血の通わないバケモノ、を強調するようにかれは言った。
「それで? 何だってきみは未だぼくをジロジロ見ているのかな」
「いや、私の服でサイズは大丈夫かなと思ったんだ。いま持ってくるから」
「ふく? そんなもの要らないよ。あんなものわずらわしいだけだもの」
そう言ってかれはみずからの腕をそっと撫でた。肌の擦れる音が夜に染み透るようだった。(いったいなんという身体だろう!)
生唾を飲み込んで私は言う、
「しかしそれだと私が困る」
「ぼくは一向に困らないよ。きみが気にさえしなければぜんぶ済む」
「でも、……しかし、」
「うるさいなあ。じゃあこうしようか」(と言ってかれは狡そうな目で私を見すえ、)「もしどうしてもぼくに服を着せたいんなら、きみが手ずからぼくに着せてくれれば良い。それなら着てやらないこともないね」と言った。
(この時点でかれは、かれの意志を押し通すために最も効果的な方法を見透していたことになる。)
ギョッとしながら私は言った。
「また腕が折れたりしそうで、さわれないよ」
「きみのオトモダチみたく、首をへし折るような調子で殴ったり、腕を逆に曲げたりしなけりゃ壊れないよ」
「でも、」
「なあ、その歳で童貞ってわけもなかろうね? こっちに来なよ、ぼくが怖いならまず触れてみれば良い。『ヒトデナシ』のぼくの身体も、女のように柔らかいんだ」
そう言ってかれはみずからの片頬を下から押し上げるように触りながら、探るような目で私を見た。誓って言うが、私は同性愛者ではない。しかし、たとえ私の性的傾向がどうであろうが、この世で間違いなく最も美しいかれの容貌が、人間のように柔らかそうな、そんな様子を見せたならば、ほかにどうしようもありはしない!
吸い寄せられるように私は、ちゃぶ台を回りこみ、かれの向かいへ寄って座った。するとかれの表情に一瞬、まるで仕事を苦にして首を括ったはずなのに気がつけばまた仕事の朝がやってきた永劫回帰の労働者のような、あまりに悲痛な調子がよぎった。或いはこれは私の見間違いであったかもしれない。すぐに皮肉な表情を浮かべたかれは私の手を取り、右の頬へと引き寄せて、
「ほら、これがぼくの頬っぺただよ! 血の通わない身体なのにあたたかくて柔らかいだろう!」
と言って触らせた。そのままかれは私の手を首もとへ滑らせて、
「さあ次はぼくの首だ! きみの友だちに折られた首だよ。首を折っても、あるいは締めても、しかしぼくは決して死なない、そんなぼくの、なんにもならないただの首だ!」
かれは私の手を腹部へ移す。
「ねえ、いったいぼくの臍はなんだというのだろうね。ヒトデナシのぼくは母を持たない、そんなぼくの紐帯のきずなでもなんでもない、この、臍を模しただけの、ただの穴というのは! ……ああ、きみの手はなんだかくすぐったいね」
私の手は鼠蹊部に達する。
「ぼくは結局、きみの友だちが言ったとおり、どこまでもヒトデナシでしかないから、こんなものも飾りでしかないんだよ。……ねえ、きみが見るのを恥ずかしがったところのこれは、どうだい、ちゃんとできているかな。見てみても、触ってみても、ひととおんなじような出来かな」
私はかれから手を払いのけた。……いや、正直に言えば払いのけるというほどに力強くはありはしなかった。私はかれの陰部から、やっとの思いで手を抜いて言った。
「申しわけないけれど、私は同性愛者ではないんだ」
百万遍も問われた質問に答えるように、つまらなさそうにかれは言った、
「まるでぼくに性別があるかのように言うんだね。首が取れようがくっつく相手、血のかよわないバケモノに、性別なんてナンセンスだとは思わないの」
「きみは、いや、私は、その、」
と言い淀んだきり言葉を無くした私をかれはじっと見た。(まばたきをすれば音がしそうな長い睫毛だ。) 何か言わなければと思いつつ私は、しかしまた吸い寄せられるようにかれの顔に見とれてしまい、何を言うべきか、何を言おうとしていたのか、そんな考えはすぐさま蒸発してしまった。
そうやってどうしようもなく見つめていると突然、かれはニッと口角を上げ、そのままケタケタと笑いだした。かれの笑い声を聞きながら、私の頭は熱病に浮かされたようなままだった。ひととおり笑ってからかれは、
「ああ、つまらないなあ。きみはほんとうにつまらないねえ。……そうだ、ぼくはせいぜい、きみの部屋の端っこに暮らしていることにするから、どうかお互いに、しずかにやっていこうねえ」
と言ったきり、裸のまま居間の隅までゆき、私のことを気にも留めずに、猫のように眠ってしまった。長い髪は顔をつたって、いやらしさのかけらもない、うつくしいばかりの裸体だった。
トチは居なくなり、かれは眠って、ふたたび静かな晩が戻ってきた。だが、静かな晩が今さら何になるというのか!
私は感情のすべてを使い果たしてしまった。何もかも忘れたように眠りたかったし、またそうするほか出来そうになかった。すべてトチとかれのせいだ。私は食べさしの坦々麺を放ったまま、電気を消して、歯も磨かずにベッドに入った。
何にせよ今晩は仕方がない、かれを家に泊めてやるほかないだろうが、明日以降どうしてゆくのか、そこのところを一度かれとシッカリ話さなければならない。そう思いつつも、かれの容貌や白い裸体が、かつて見たことのない美しさの残像が、しきりに目蓋の裏にちらついて、膨大な心的疲労と混ざり合い、すぐに私は寝入っていた。
*
翌朝、アラームよりも二時間早く目が覚めた。月曜日にはいつも私は、アラームの不快極まる音に叩き起こされ、胸が悪くなるような不愉快を吐き出すように、呻きながら、頭を掻きむしりつつ身体を起こすわけなのだが、今日はただ単に寝床から出て、プールへ入るときのようにそっとフローリングへ足をおろすと、そのまま一日が始まった。認めがたいことだが、ひどく気持ちの良い寝覚めだった。
肝心のかれはとうに目を覚ましていた。開けたカーテンの前で横になり、日向ぼっこをしているかれの、言うまでもなく服を着ていないその身体は、陽光のなかで一層白くうつくしかった。
そうやって、月曜日の朝には信じがたいほどの長閑な様子で、目を細めるようにして陽を浴びているかれを目にした瞬間、何の脈絡も根拠もなく、唐突に私は直観していた。つまり、かれが出ていこうとしない限り、こうやって私はかれと暮らしてゆくほかないのだろう、と。いや、そう言うよりかは、かれのうつくしさに屈服してしまったと言ったほうが近いのかも知れない。かれはあまりに自然な調子でくつろいでいたし、私はそんなかれを追い出す心積りが自分のなかに微塵もないのを発見した。同じ屋根の下で暮らしていくうえで、言うまでもなくかれは私の意見など聞きやしないだろうが、それで構わないとすら思っていた。
かれは、あまりにうつくしかった。
そのまま私はかれに見とれていた。動かないでいればかれはまるで彫像のようにただうつくしく、それこそ美術館にいるような心地で嘆息しつつ眺めていられるのだが、ひとたびかれが身体を動かし自らが彫像でないことを示しはじめた途端、その身体はむきだしの、あまりに現実的な裸体として迫ってくるものだから、うつくしさよりも露骨さが勝り、(昨晩のかれの身体の感触!、)目を逸らすほかできなくなる。
「おはよう、よく眠れたみたいだね」と、こちらへ振り向いてかれは言った。表情に昨晩の悪辣さはない。
「おはよう。ところで、やっぱり服を着てもらうわけにはいかないかな。私のをあげるからさ」
だが試みにそう提案した瞬間、かれの表情は皮肉めいた調子を帯びて、
「ねえ、きのうぼくが言ったとおり、きみが直接服を着せてくれるのでもない限り、ぼくはこのままやっていくつもりなんだけれどねぇ! それとも、きのうの再演をしたいというなら、ぼくはしかたなしに付き合ってあげるけど」
意地の悪い調子であっても、或いはそういった感情を帯びているからこそ、かれの容貌はうつくしかった。あわてて私はかれに言う、
「いや、無理にとは言わないよ。それで、ちょっと朝ごはんのことをききたくて。私は買い置きのパンを食べるけど、きみはいったいなにが良いかなと思ったんだ」
「お気遣いどうもありがとう。ぼくはべつに何を食べる必要もないんだ。君らのように肉やら何やらは食べなくて、ただ、しいて言うなら、つめたい宝石のかけらだとか、ビロードのきれはし、ほかにも無機物をほんのときおり口にするくらいかな」
そう言うんなら、と私は台所から、いつか割ったきり新聞紙にくるんで放っておいたままのガラスコップの一片を持ってきて、かれに手渡した。
「たとえばこういうのを食べたりするの」
するとかれは、ためつすがめつ破片を眺めてから、おもむろにそれをひと口かじってポリポリと食べ、
「うん。こういうのだったら悪くないね」
と私に告げた。唖然とする私をよそに、朝日にますます透きとおるような白い肌だった。昨晩のことは悪い夢でも何でもないし、かれはほんとうに人ではない。
そのままかれは陽を浴びながら、傍らの私を忘れさり、みずからの内奥へ沈んだような表情をして座りながら、ときおり思い出したかのようにガラス片をかじっていた。私もいつまでもかれの横に突っ立っているわけにもいかないから、昨晩の坦々麺を片付けたり、買い置きの惣菜パンを食べたり、着替えをしたりしながらも、台所から、居間のそこここから、日向ぼっこのかれに見とれてばかりいたものだから、随分な早起きをしたはずなのに、労働へ赴く準備が整ったのは結局ほとんどいつも通りの時間だった。
*
スーツを着た私を、かれはどうでも良さそうな顔で眺めた。
「それじゃあ私はもう行くけど、きみはどこかへ行く用事でもあるかな。もしあるなら鍵を預けておくから、出かけるときにポストに入れておいてくれれば良いから」
「そんな顔とそんな格好で、葬式にでも行くの」
「葬式のような顔で労働に赴いて、葬式のような生涯を続けていくんだよ」
「よくわからないね」
職場へ赴く準備が整ってゆくごとに、私の脳裏には今日の仕事や上達すべき悪い報告、叱責や嫌味、下卑たヒキガエルのような上司の顔が渦巻きはじめていた。かれのうつくしさですら私の不愉快を食い止めはしなかった。これがあと丸々五日も続くなんて!
「ともかく月曜日の朝だから、仕事へ行くほかないんだ。そういうものだから」
私がそう言うと、かれはふぅん、と言い、続けて、
「仕事へ行くまえにすこしだけぼくの話を聞いてくれないかな。ちょっとしたお話なんだけど」
と言った。
「べつに構わないけれど」
「ありがとう。
うん、そうだね、たとえばきみが高校生だったころの話をしようか。今よりもまだずっと若く、がんじがらめの自意識に苦しめられながらも、しかしまだ多くを諦める必要のなかった時分だね。誰にだってそういう時期があるように、いつかきみにもそういう時期があった。
そんな高校生のきみは平日の昼過ぎ、海沿いを走る電車に乗っているんだ。きみの隣にはきみの友達が座っていて、空気までもがうっすらと青い昼下がり、高校の息苦しさにいよいよ耐えかねて、どうやらきみらは二人っきりで学校を抜け出してきたらしい。
『なあ』と、きみの友だちはおもむろに言うんだ。『なあ、俺ら自由だよな、どこまでも逃げてゆけるよな!』
二人のほか誰もいない電車に乗って、きみたちは何もかもから、学校だけに留まらない、家のことや、いつかは勤めに出なければならないこと、そうした何もかもから逃げだそうとしているみたいだ。きみは友だちのほうを見ながら、逆光の陽射しで友だちの顔はよく見えないけれど、かれを見ながらこう言うんだ。
『うん、私たちきっとどこまでも行こう! どこまでもとおく、だれも私たちを知らないところ、学校も就職もなにもない、……そうだ、そんなとおくで私たちふたり、アイスクリームを売って暮らそうよ……』
どこまでも逃げていくことなんて出来やしないのに、どうせいつかは現実を耐えてゆくだけの日々がやってくるのがわかっているのに、そうやって友だちと夢のようなことを話していると、ほんとうにかれとふたり、どこまでも行けそうな気がしてくる。かれとふたりでキッチンカーを借りてアイスクリームを売って暮らす、そんな日々までが鮮やかに脳裏へ浮かぶ。あるいは君たちはほんとうにどこまでも逃げだしてゆけるのかもしれないね。どこまでも逃げだしてゆきながら、車窓には晴れた海がキラキラと、眩しいくらいに輝いているんだ。
それだけだよ。ぼくの話はこれでおしまい。それじゃあ行ってらっしゃい」
そう言うとかれは私に背を向けて、日向ぼっこへ戻っていった。と思うと振り向いて、
「ああ、鍵は大丈夫。いらないよ」
とだけ最後に告げた。
これから労働の一週間である私の頭に、海の眩しさが据えつけられた。
*
ひとりの友人ではなく多数の労働者に囲まれ、まぶしい海ではなく灰色のビルを車窓に映す電車に乗って、私は職場へ向かっていた。次の停車駅を告げる車内放送が客の身体に吸われてぼやける、こんな窮屈で油じみた満員電車よりも、かれの語った空想のほうが、余程ほんとうらしく思われた。
ああ、私の高校時代! 今やほとんど覚えておらず、またさして思い出したくもない、何にもならなかった私のむなしい高校時代とは対照に、彼が語ったところのものは、あり得たかもしれない一つのうつくしい可能性だった。しかし、実際の高校の時分の私には、学校を抜け出すだけの度胸や覚悟も、一緒に学校を抜け出してくれるほどに親しい友人も居らず、通学の電車待ちのプラットフォームで、気まぐれで美しい見知らぬ歳上の異性に連れ去られることを願ってばかりいた。
悪い冗談のような通勤電車は私たちを満載して走り続け、……ふと、部屋の日なたで猫のように丸くなって眠るかれの姿が脳裏に浮かんだ。(光を乱反射するガラス片、陽の香りのする白いシャツ、)たとえば海沿いを走る列車に私とかれは乗っていて、かれは海を、けさ私とはじめて顔をあわせたときのような凪いだ表情で眺めている。スッと抜けるような鼻梁の横顔で海を見るかれは、空想のようにうつくしいだろう。すこし開いた車窓から潮風が、かれの髪や頬をときおり撫でているかもしれない。そんなかれに、つまらない気を起こした私が話しかけ、それも何か下手なことでも口にしてしまえば、途端にその顔は嘲るような、皮肉な調子を帯び、私の愚かさを詳かにするようなことをかれは言って、私は痛烈に打ちのめされることになる。あるいはかれは、借りた本の端に退屈な落書きを見つけたような調子で眉をひそめ、私のほうをチラと見て、『つまらないことを言わないでよ』とだけ口にして、すぐにまた海へと目を向ける。それで私は嘲罵されるよりも更に手ひどい恥をかくだろう。いずれにせよ、海を眺めるかれの容貌のうつくしさをふたたび目にすれば、すぐに私は何もかも忘れたようにかれへ見惚れることになる。そうしてまた、我慢しきれなくなった私はかれに話しかけ、今度は呆れたような表情をする彼を見て、どうにもいたたまれない気持ちになるだろう。(私が介入した途端乱されてしまう美しい情景の一幕の、そのあまりの淋しさたるや!) 私はかれから、そのうつくしさから、決して逃れることができない。
じき私たちは電車を降りて、潮の匂いのかすかに香る駅に居るはずだ。初夏の日を浴びながら汗ひとつかかないかれの肌は、白昼夢じみてまぶしく光り、かれに着せた白いシャツよりもかれ自身の肌の白さはあまりに艶やかなものだから、白いシャツ、白いシャツでなくたって、或いは白いワンピースだって似合うだろう。かれはワンピースを着せようとする私をなにか悪い冗談のような顔で見るかもしれないが、もともと自分に性別を当てはめるのはナンセンスだと、そう昨晩の私に言ってのけたのは他ならぬかれ自身なのだから、たとえばかれが夏の田舎のあぜ道を私より数歩先に歩いていたとして、何の気なしにこちらを振り向くかれのフとした面持ちが、少しくせのある長い髪の揺れのはざまに少しだけ隠れる、その一瞬間の、微分されたような時間を私は、ついぞ果たされなかった青春の理想かなにかのように、夏の太陽の力を借りて、そのまま胸に焼きつけることだろう。
いつか私たちは流行らない旅館に着くはずだ。ビジネスホテルなぞとんでもない、私たちが行き着く先はきっと、晩飯といえば無味乾燥、布団はといえば黴臭く、そこひの仲居が大儀そうに私たちの世話を焼く寂れた旅館だ。
部屋につくなりかれはああ、とひと声あげて、
「服なんてものはほんとうに窮屈だね。脱がしてもらっても良いかい」
なんて言うものだから、私はかれに、まだご飯やら布団を敷いてもらったりするのだから、家のようにくつろぐのはどうかそれから、とつまらないことを言う。(私の言うことはいつだってつまらない。) しかしかれは人間と同じものを食べやしないから、食後、パサパサの夕食を下げにきた仲居は、一方の膳が全き手付かずなのを見て取って、「お客様、なにかお気に召さないことが、次は三ツ木場、次は三ツ木場、
職場の最寄駅を告げる車内アナウンスが入る。忌々しい駅の名前のせいで愉しい空想から突如引き剥がされた私は、どうして自分がこんな醜悪な満員電車に乗っているのかすぐにはわからず、豆鉄砲の鳩になる。早くも減速を始めた電車はじき止まり、吐き気にも似た感情を抱きながら、私は駅へと吐き出される……。
*
『服務規定第三十条第四項の改正に関する審議会の開催に伴う食糧費の計上をはじめとした食糧費全般の支出をめぐる関連規定の整備の方針を定める策定案について』の起案書を私に差しかえして課長は言った。
「おれは君に何度言ったか覚えていないくらいなんだけどね、君の頭には何ひとつ残っちゃいないんだな。いい加減にしてくれないか。右から左へ聞き流すのは給料貰ってるプロの仕事じゃないだろうよ、え? 仕方がないからもう一度だけ、これっきりだ! 他ならぬ君のために、最後に一度指摘してやるが、付箋を貼ってあるところすべて、全部だよ! これまでに何度も言っているとおり、たとえばここ、『茶菓子および清涼飲料水』のこの『および』、どうしていちいち平仮名にするんだい、え? たとえばキチンとした公文書を見たときに、『および』だなんて平仮名で書いているのを見たことがあるか? なあ、無いだろう! ……これっきりだよ、付箋の箇所ぜんぶの『および』を漢字に直して持ってきなさい」
『茶菓子および清涼飲料水』を『茶菓子及び清涼飲料水』に訂正するのをはじめとして、すべての『および』を『及び』に変更したのを課長に持って行くと、課長はそれをペラペラと捲ってから、「まあ良いでしょう」とハンコを押して、
「こんな初歩的なことを何度も言わせないでほしいね。ほんとうに、上席の目に耐えうるように朱を入れるだけでひと苦労だよ」
と言い、シッシッと私を追い払った。
フロアの奥、次長席まで歩いてゆき、課長の直しが入った起案書を、お願いしますと言って渡すと、次長は、ん、と言ってそれを受け取り、一枚目を捲って数秒で眉を顰め、
「前にも言ったと思うんだけど、たしかきみに言ったよね? 堅っ苦しくて読みづらい文書の再生産ばかりをしていないでさ、たとえばここの『茶菓子及び清涼飲料水』なんて漢字ばかりで読みづらいでしょう。『及び』をひらいてさ、『茶菓子および清涼飲料水』にしたほうが良いよね。もしかしてこれ、ぜんぶの『及び』を漢字にしてる?」
課長の指示で漢字にしました、ほかの『及び』もぜんぶそうです、と私が告げると、次長はしらじらと笑って、
「あんなへちゃむくれが言うことなんて聞くことないのに。しかし、これも以前にきみに言った気がするなぁ。まあ、とりあえず今回は『及び』をひらいて持ってきて。課長とはテキトーにやんなよね」
私が『及び』を『および』に直して次長のところへ持っていくと、次長はそれをペラペラとめくってハンコを押し、
「まあ良いでしょう。ただ、強いて言うならこの起案文のタイトルもくだくだしくて気に入らないんだけど、しかしこんなやりとりを君と、前にも何度かやったような気がするんだよなぁ。いや、良いです。下がって構わないよ」
と言って起案書を私へ返し、そのまま携帯を眺めだした。
起案書のハンコの左端、スタンプラリーの終着点たる部長席まで歩いていった。数分の順番待ちののち、お願いします、と起案書を渡して、私が説明をし始めようとするよりも早く、起案の表紙を見た部長は私を手で制して、
「これさ、食糧費うんぬんの規定を定めるやつでしょ? けさの会議で重役が嫌がってさ。審議会のときくらい好きなもの食わせろ!、って。だからこれ、やる必要がなくなりました、悪いね」
と言って私に起案書を差し返した。
「でもこのことは次長にも課長にも伝えたはずなんだけどなぁ。どうしてここまで上がってきたんだろう」
*
荷物を抱えながら家に帰ると、リビングのかれはしずかに本を読んでいた。私の本棚にあったヘンリー・ミラー『北回帰線』だ。(ああ、あまりに美しい肢体を私に見せつけるだけのこの存在の、なんと無害であることか!) かれは帰ってきた私をチラと見ると、ン、とだけ言い、それからもう一度私を見て、
「それはどうしたの」
と訊ねた。
「服はともかく、眠るときに何も敷かず何も掛けないのはどうかと思ったんだ」
かれのために途中で買った布団セットを開きながら、私は言う。
「服も布団もいらないのに」
「私がベッドに寝ていて、きみが床に何も敷かずに寝ているのはどうも寝覚めが悪いんだ。それと、珍しいものを見かけたからそれも一緒に買ってきたんだよ。或いは気に入るんじゃないか思って」
布団を準備する手を止めてポケットを探り、顕微鏡の実験で使う薄いガラス、カバーガラス百枚入りの小箱をかれに、ガラス細工のような指をしたかれの手に渡した。かれは包装のビニールをはがして箱を開け、一枚をつまんで取り出し、灯りに透かすようにして見てから、「へえ!」と言った。そのままそれを舐めるように舌に貼りつけ口を閉じ、パリパリと噛んでから、ふたたび「へえ!」と嘆息し、二枚目、三枚目と食べ続ける。かれのお眼鏡に適ったことに安心しながら、私は布団を敷いてしまって、
「さあ出来たよ。使いたければ使って良いし、気に入らなければそれでも構わない。仕舞って来客用の布団にでもするから」
「そんなことより一枚どう? なかなかいけるよ、これ」
かれは私にカバーガラスの小箱を差し出して言う。
「良いんだよ、ぜんぶきみのだ。きみのために買って来たんだから」
「そう? 悪いね」
「私がガラスなんて食べないことを当然わかっているだろうに」
「まあね」、と言ったかれはいたずらっ子のようなやさしい目をして、カバーガラスをまた一枚口にした。(どうやらかれにもそんなやわらかい表情をするだけの余地が残っていたらしい。)
それで、よっぽど気に入ったのだろう、かれは私が冷凍食品のチャーハンを温めているあいだにも、温め終わったチャーハンを食べているあいだもずっと、カバーガラスをパリパリパリパリ食べ続けるわけだ。ひとが晩飯を食べているちゃぶ台の向かい側でガラスをパリパリやられるのは、経験してみればわかることだが、あまり良い気がしない。ガラスを食べているのがこのうえなく美しい見た目のかれであろうが、だ。子供のころ、私は食事中の机に消しゴムが乗っているのが許せなかった。食事中に消しゴムを視界に入れたくなかったのだ。それと同じことかもしれない。
「気に入ってくれているところ悪いんだけどさ、」
カバーガラスを食べ続けるかれに耐えかねて私がそう言ったとき、かれはちょうど舌のうえにカバーガラスを載せたところだった。色欲魔のような赤い舌を出したまま、かれは視線を私のほうへあげたものだから、私の言葉は封じられ、
「いや、良いや。気に入ってくれたようで何よりだよ」
と私は言葉を諦めた。そんな私をじっと見たまま、かれはカバーガラスの載った舌をしまい、私をじっと見つめながらパリパリと噛んで、最後まで私を見たままゴクリとそれを飲み下した。物言いたげな三白眼だった。
「そう言えばきみの名前を聞いていなかったね」
かれの視線から逃れるようにとっさにそう言った私は、実際かれの名前を知らないことに気がついた。かれはハタと一瞬考えたのち、
「ぼくはガラス食べ太郎っていうんだよ」
と口にした。
……ガラス食べ太郎!
しょうもない、あまりにしょうもないことを、そうやってあまりに突然言い放つものだから、私は絶句してしまった。かれは続ける、
「あるいはガラスから音を取ってガラテアでも、いつだってだるそうにしているからハダリーでも良い。なんだって構やしないよ」
そう言ってかれはカバーガラスを口へ放り込み、苦虫を噛み潰したような顔でパリパリと噛んで飲み込んだ。
「冗談はさておき、きみの、ほんとうの名前はなんて言うの」
私がそう問えば、かれはため息をついて言う。
「だから、ガラス食べ太郎だってば」
*
あれほどうつくしい見た目をしながら、かれは冗談を言うのを好んだ。なかにはあまりにしょうもないものもあれば、(『ガラス食べ太郎』!、)なにやら肯綮に中る風刺として成立している冗談を言うことだって何度かはあり、いずれにせよ、かれは冗談を言うたびに、その質の高低に関わらず、たいがいいつも苦い表情をするのだった。
「ご存知のとおり、ぼくはきみよりもよっぽど長く生きているわけだけど」
私が夕食の冷凍チャーハンを食べ終えてから、フとかれはそう言った。カバーガラスの小箱は空になっていた。
「初耳だね」
「モネにも会ったことがあるし、作っている途中の万里の長城を見たことだってあるよ」
「ほんとうに?」
疑わしげにそう訊く私を無視してかれは続ける。
「長く生きていると昔のことなんて忘れてゆくから、はっきりとしたことは言えないけれど、最初の頃はこの身体のせいでいくつも失敗をしてきたものだよ。たとえば秦の始皇帝の時代、ちょうどきみの友だちにやられたように殴られて首を飛ばされたことがある」
「そりゃまたずいぶん昔だね」
「茶々を入れないで聴いていなよ。
それで、きみの友だちにやられたのとは違って、頭を飛ばされたのが往来のど真ん中だったのが良くなかった。要するに、身体のほうで頭を取りにゆかせて、もとのようにくっつけたら、周りの人間が腰を抜かすやら逃げ出すやらわめきちらすやらの大惨事になったんだ。ぼくもその場からさっさと逃げだせばよかったのだけど、周りのワーキャーにぼんやりしちまったせいで、すぐ飛んできた兵隊に捕まった。別の場所に連れてゆかれて、今度は刃物で首を飛ばされたのだけれど、後ろ手に縛られていたから自分で頭を取りにいくわけにもいかない。しかたがないから頭のほうで「戻してくれないかなぁ」と喋ったら、今度は兵隊らが腰を抜かした。
魑魅魍魎か或いは仙人の類か、とそうなったわけだね。現場の兵隊連中にはその判断はつきやしない。下級官吏から、すこしはマシな下級官吏、それから更に上の官吏へと、ドミノ倒しか何かのように、だんだん偉くなってゆく連中の前で何度も首を飛ばされながら、最終的にぼくは始皇帝の前で首を飛ばされていた。(結局、途中の官吏の誰ひとりとして自分で判断する頭を持ち合わせていなかったんだよ。) ここまで来ると首を飛ばされるのにも飽きちまって、ぼくはため息をつきたいような気持ちで頭を身体にくっつけてみせる。そしたら始皇帝、えらく感動したとみえて、その不死の秘密を是非とも教えてくれとしきりにせがむものだから、盃いっぱいの水銀を持ってこさせて、ひと息に飲み干してみせると、彼ったら無邪気にはしゃいで、ほんとうに信じこんだみたいだった。
とうぜん不老不死の秘密を教えたぼくは用済みだから、儒家連中ともども生き埋めにされて捨てられたわけだ。ずっと埋まっていたって良かったんだけど、不愉快な虫やらミミズやらが口やら鼻やらに入ろうとするものだから、我慢できなくなって、土のなかから何日かかけて這い出し、今度こそ退散つかまつったわけだね」
と言ってかれは苦々しい顔をしてみせる。
この冗談はそもそも、首が取れようが元に戻せるというかれ自身の冗談性に依っているものだから、かれにしか言えないものではあるものの、いささかパンチに欠けている。(もちろん、フィクションとしての面白さはまた別の話である。この冗談の真偽についても。)
あるいは、かれは酒を飲みはじめた私を見て、からかうような調子で言う。
「おや、明日の仕事の厭さをぼやかしにかかっているの?」
「ずいぶんなことを言うね、きみは」
「まあ、シラフで目が覚めている時間なんて短ければ短いほど良いからね、わかるよ」
それを聞いて私は、或いはかれと酒を酌み交わせるのではないかと期待して、
「きみも酒が飲めるのかい?」と訊ねる。するとかれは、
「まさか! あんなものを飲む奴はみんな馬鹿だよ」
そう言って割れたコップの破片を不味そうにかじる。
かれのこういうまぜっ返すような冗談は、私も好きなところのものだ。その冗談を言っているのが、このうえなく美しい全裸でガラスを食べる存在とかいう、まるで酒の飲みすぎで正気を失った奴の幻覚じみた存在たるかれというのもまた良い。かれの性質が冗談自体の外に漂うぶんには構わないのだ。
(しかし、シラフで目が覚めている時間が短いほど良いだなんて、まさにそのとおりだと思う。)
こんなのもある。ある日私が家に帰ると、かれが羽を生やしていることがあった。天使のような白い立派な羽だ。夏の夕方だったから陽はまだ出ていて、窓を背にするようにして座っているかれの、背中の羽もうつくしい身体も、夕陽のせいで何やら夢のようだった。
「どうしたの、その羽は」と私が訊くと、
「ああ、これ?」とかれは羽に触れ、「こういうのがあったほうが都合の良い時代があったんだよ、だいぶ昔になるけどね。こうやって定期的に干してやらないと、変なクセがついちゃうんだよ」
「なかなか綺麗なものだね」
私がそう言うとかれは、「たとえば、」と言いながらやにわに立ち上がってこちらに向きなおり、みずからを抱きしめるような調子で両腕を肩へ回した。ちょうどブグローの『クピド』と同じような格好で、そのために私は心臓を貫かれるような思いがした。
「たとえばこんなポーズを取ってみれば、ぼくはなかなか絵になるだろう?」と言うかれに、感極まった私は、
「ねえ!、(と素っ頓狂な声を上げて続けた、)私がはじめてきみを見たとき、ブグローの絵みたいな奴だなと思ったんだ。今まさにきみがしているポーズの、まさにその絵だよ!」
「ブグロー、ああ、ブグロー。ほんとうに懐かしい名前だね。クピドンでしょ、あの絵のモデルはぼくなんだ」
そんな冗談を、かれはなんでもなさそうな調子で告げる。
「あの絵ではもうすこし深みのある表情をしていたのにね」
「深みのある表情!」と、かれの容貌は皮肉に歪んだ。「あんな恥じらうような顔はぼくにはどうしても出来やしなかったから、表情だけはかれがつくって書いたんだ。いったいぼくの身体のどこに恥じらう余地があるというのだろう! ところで、きみはああいう表情が好きなんだねぇ」
「そういえば、その羽は飛べるのかい」と、雲行きが怪しくなってきた私は話を変える。するとかれは呆れたように、
「なあ、ほんとうにきみは高等教育を受けてきた人間だろうね? 常識的に考えて、人間なみの重さのぼくが、こんなチャチな羽の一対で飛ぶことができると思うの?」
「『常識的に考えて』、頭が取れても死にやしないきみのような存在がそもそもあり得ないと思うんだけど」
「そんなこと言っても、現にぼくはこうして存在しているんだから仕方なかろうよ。理論と現実が食いちがうとき、現実が間違っているとでも言うのかい、きみは」
そう言ってかれはヤレヤレと肩をすくめる。
私たちのコミュニケーションは大概がそんな調子だった。
*
性悪なクピド、この蒼白い天使は結局、私の買った布団で眠ろうとはしなかった。その代わり、敷き布団からシーツだけを引き剥がして、それにくるまるようにして眠っていたのだ。夜中、トイレに目が覚めた私は、やわらかい敷布団やあたたかい掛け布団がすぐ横にあるにも関わらず、固い床のうえで薄いシーツにくるまって眠るかれを見て、なんとも言えない気持ちになったものだ。
翌朝、かれの抜け殻のようなシーツを畳みながら私は訊く。
「どうして布団で寝なかったの」
「あんまり好みじゃないからかな」
日光浴の背中のかれは私に言う。もちろん何も着ちゃいない。
「布団で眠ったほうがきっと楽だと思うのだけれど」
「お気遣いはありがたいけれど、ぼくはこれで構いやしないよ」
それきりかれは日向ぼっこに戻ってゆく。
平日の朝がいつもそうであるように、その日も出勤の時間になる。昨日もそうではあったものの、猫のように放埒なかれが、私の出勤のときだけは日向ぼっこを中断して、玄関まで見送りにくるのは、しかしどういうわけなのだろう。
「それじゃあ仕事に行ってくるよ」
「それじゃあきみは今日もまた高校生だったとしようか、」とかれは話を始めようとする。「まあ、短く済ますから聴いてよね」
「ねえ、昨日もそうだったけれど、出勤前の私にそうやってうつくしい話をするのは、要するに嫌がらせか何かなのかな」、と私が訊けば、
「滅相もない!」と、わざとらしく目を丸くしてかれは言う。こんなに嘘くさい表情はない。「きみの家に泊めてもらうお礼としてぼくはきみに話をするんだ。時間に余裕もあるんだろう?」
「電車を一本や二本遅らせたところで何ともないよ。掃除をしたり、始業前のメールチェックだとかが出来なくなるだけだから」
「だったらしずかにぼくの話を聴くことだね!」とかれは言い、水のように澄んだ声で話しはじめる。
「きのう、きみが買ってきたカバーガラスを食べながら、フと金平糖自殺という死にかたを思いついたんだ。もちろん実際にはそんな死にかたはありえないし、あくまでぼくの空想として思いついたんだけどね。
金平糖自殺に道具は必要ない。単にじぶんの心のうちに金平糖自殺が成立する条件を取り決めておくだけで十分なんだ。たとえば、つぎにぼくが手を叩けば金平糖自殺になる、といった、そんな些細な規則を心中に定めておくだけで良い。そのうえでぼくが次に手を叩いたとき、生涯は金平糖自殺として終わりを迎え、全身は無数の金平糖になって四散する。ぼくの姿は跡形もなく消え、あとには色とりどりの金平糖だけが散らばって落ちている。
それが金平糖自殺だ。この死にかたを思いついたとき、我ながらじぶんのアイデアが気に入ったものだよ。全身が金平糖になるというのも素敵だし、何より金平糖自殺という響きが良い。
それで、きみがもし金平糖自殺をするならば、どんな状況で金平糖自殺をしたのだろうね。
たとえばきみは高校生だった。高校生のきみは高校生にして、こんな生涯なんて続けるに値しないことを早くもわかっていたものだから、退屈な授業のさなか、突然に金平糖自殺をするんだ。手の鳴る音、金平糖の散らばる音に一瞬授業は止まるものの、金平糖になってしまった生徒にかかずらっても仕方がないから、じきに授業は再開する。四散した金平糖のうちの一粒、ピンク色の金平糖が、ある女生徒の机に転がって、彼女はそれを、こっそり食べる。
あるいは金平糖を食べた女生徒こそがきみなのかもしれないね。
同級生がひとり金平糖になったというのに、だれも彼もみなあまりに無関心だった。休み時間に日直がブーブー言いながら金平糖を掃除してゴミ箱に収め、それきりかれの名前は口にものぼらない。
放課後、夜、家に帰ったきみが宿題のノートを取り出すと、金平糖の一粒が机のうえに転がり出るんだ。きっと金平糖自殺の残骸がきみのカバンに紛れ込んだのだろうね。きみはその金平糖を手に取ったり、あるいは机に置いたりしながら、ためつすがめつその金平糖を眺めているはずだ。単なる金平糖の一粒から、きみはかれが生きていたころの姿を思い出しながら、草食動物のようにやさしいかれの目、さらさらと陽を浴びるなめらかな肌、透きとおる声で話す喉、……いつともなく、きみもかれがしたのと同じように、金平糖自殺を決意している。かつてかれだった金平糖をティッシュにくるんで制服のポケットにしまったまま、きみは宿題もせずにノートを片付けてしまう。そのまま布団に入って眠り、かれの夢を見るのだろう。今までのなかで一番よく眠れるはずだ。
次の朝、きみはきっと、かれが金平糖自殺を選んだ授業のさなかに金平糖自殺をするはずだ。きみはポケットのなかのティッシュから、かつてかれだった金平糖を取り出して念じる、『かれの金平糖を口にすることを、私の金平糖自殺の規則とする!』、と! そのままきみは金平糖をパクリと食べて、その甘みが舌に触れるか触れないかの一瞬間、かれがそうなったのと同じように金平糖になって四散するんだ。
そうやって若いうちに身罷っておけば、今のように苦しんで職場へ行くこともなかったのにねえ! それじゃあ、行ってらっしゃい」
話し終わったかれは私に背を向けて部屋へと戻り、私は玄関で唖然としている。泊めてもらっているお礼だなんて、よく言えたものだ!
*
詰め放題のような満員電車に押し込まれつつ考えていた。ついぞ若い時分に身罷ることのできなかった私は、惨めな中年になってから金平糖自殺を選ぶだろう。配偶者も同居人も居らず、趣味も気力も絶えて久しい。むかしは親しく交歓していた友人連中もみな、それぞれの家庭に入ったきり、私の生涯からは永久に失われてしまった。早い話、目を背けたくなる結果としての自らの将来をただ淡々とこなしていくほかない、そんな中年に私は成り果てることだろう。ただでさえ惨めな中年なのに、老いまでもがその重さを日々増してゆき、惨めさが極まった挙げ句に苦しい病気やら孤独死やらの結末を迎える、そんな幕引きが私の濁った目でもあきらかに見通せるようになった、ほとんど末期の段階になってようやく、私は覚悟が決まるのかも知れない。
そうなった私はきっと、かれが話したのと同様に、手を叩いて金平糖自殺をするはずだ。ぞっとするほど静かな一人暮らしの深夜の晩に、手を叩く音がしたかと思えば、ばらばらと散らばる金平糖の音、そして、静寂。とうに訪ねてくる知己も居らず、職場は無情な解雇通知を送りつけたきり私との縁を終わらせるから、棚と棚のわずかな隙間の埃のように、数週間、数か月、或いはもっと、私の金平糖は忘れ去られたままになるだろう。いやにあざやかな色をした金平糖の残骸が、朝が来るたびカーテンの隙間から差す光を浴びて、死んでしまったあとのほうが私はうつくしいことになる。
あるいは私が、いや、私以外の誰だって構わない、もし誰かひとりがこんな満員電車のなかで金平糖自殺をすれば、ポップコーンが弾けるようにわれわれはみな連鎖的に金平糖自殺を選ぶだろう。至近距離で金平糖を浴びてしまえば、満員電車の労働者は、誰ひとりとして金平糖への誘惑に抗うことが出来やしないからだ。そうしてこの車両の誰もがみな金平糖自殺をしちまって、次の駅で扉が開けば、ひとの代わりに金平糖が溢れ出す。くすんで淀んだ駅のホームの一角に色彩豊かな金平糖が溢れ出すのは、どうにも爽快な思いだろう。
どんなに金平糖自殺で気を紛らわせようとしようが、結局のところ私は人間ばかりの満員電車に乗っていて、後ろの男のリュックの突起が私の背中に押し付けられてひどく痛いし、前の男は青い顔をして今にも嘔吐をしかねない。左の若者のイヤホンの音漏れ、
……ああ、勘弁してくれよ!
*
「標記のことについて、別添のとおり照会します」とだけ本文に書かれているメールが来た。別段珍しいメールではない。こういったメールばかりがやって来る。『別添』のファイルはふたつあって、一番上のファイルでは照会文が、期日やら回答先やらを示している。二番目のファイルは回答文やら別紙やらの雛型をひたすらまとめたzipファイルで、要するにこの回答様式のひとまとまりを作成し、照会元に提出しろというわけだ。試しに回答文の文面を引いてみよう。
「下記のとおり回答します。
1.実施計画
別紙一のとおり
2.対象範囲
別紙二のとおり
3.昨年度執行状況
別紙三のとおり
4.関連施策……」
別紙、別紙、別紙! いつだってこれだ!
ため息と一緒に別紙一を開いてみれば、数値やら文字を入れる場所が何箇所もあって、果たしてこれが全体の入力量の何分の一に当たるのかはわからないが、これらの数値や文言を、昨年度に作成した回答やら、zipファイルに混じっていた『記入上の留意点』と題されたファイルやらを参考にしながら埋めてゆくわけだ。
早々に意気喪失した私が別紙一を閉じ、別紙二を開いてみれば、すぐに別紙二が三人の子の親であることに気がつく。すなわち『別紙二の一』、『別紙二の二』、そして『別葉一』だ。回答文に飽き足らず、別紙だって累々と子を産みうるのだ。『別紙二の二』と『別葉一』の間で子供の性別が変わったか、或いは一郎二郎式のナンバリング的名付けに飽きるかしたのだろう。勝手にしやがれ、だ! (おまけに別葉一は今年度に新設された様式だから、私がイチからこしらえなければならないらしい。『記入上の注意点』曰く。)
別紙二を見なかったことにして別紙三に進むと、これまでに見てきた別紙のなかで、別紙三は最も入力箇所が少ないようだ。それでは別紙三からやっつけてやろう、と作業の手を進めようとしたとき、フと思い当たることがあり、別紙一にふたたび立ち返ってみたところ、別紙三で入力すべき内容のほとんどが別紙一と重複している。とうぜん別紙一と別紙三のあいだにデータのリンクなどはなく、同一の内容を私は二度入力しなければならないわけだ。
こんなものへの回答を作っているだけで、優に今日一日が終わっている。
*
今朝かれがうつくしく話したように私は高校生ではないし、また金平糖自殺のように詩的に死ねるわけでもない。どうせいつかくたばることになるのなら、若者のうちに身罷っておくほうがよろしかった。中年の自殺が単に醜悪である一方、若者の早逝はそれが若者の死であるというだけである種悲劇の色調を帯びるものだから、惨めさから幾分距離をとっていられる。そうして私は私が惨めな生涯を送るであろうことを、高校生の時分、少なくとも大学生の頃にはとうに悟っていたのだから、自殺にもっとも接近していた大学生の時分に私は早々に首を括っておくべきだった。
大学の三年目、大講義室ですし詰めにされる講義の環境に耐えかねて、私は大学に行かなくなった。いま私が乗っているような、誰もが不愉快を耐え忍んでいる電車よりも、楽しそうにしている連中(それも大学生だ!)ばかりで満たされた、人いきれの大講義室のほうがよほど我慢ができなかった。仕送りを食い潰しながら、ほかに何をするわけでもなく、ほとんど家から出ない日ばかりを過ごすようになるまではすぐだった。昼飯用に買った惣菜パンの味がしなくなったときには、ああ、ついにこうなってしまったかと思った。
眠れなくなった。大学の敷地内にあるメンタルヘルスセンターを経由して、心療内科に通いはじめた。先生は陽の高いうちの散歩やらボランティア活動を私に勧めたが、生返事ばかりの私は何をする気にもなれなかった。処方される薬のおかげで眠れるようにはなったものの、相変わらず大学へ行く気にはなれなかった。意識のない夜の眠りばかりを救いとして、日中は陽が沈むのをただ待っていた。
そんなある朝、私はトチに拉致された。執拗なインターホンに耐えかねて玄関のドアを開けると、トチが私を凄い力で引っ張り出して、有無を言わせず私を車へ押し込めた。そのまま車は発車して、制限速度のセの字も知らないトチの運転は大学の街をあっという間に置き去りにした。市境を二つほど越えたころ、「大学に行かなきゃ」と呟けば、「何ヶ月も大学で見かけない奴が何を言う!」とトチは私を鼻で笑った。
部屋着のまま、財布や携帯すらも持たず拉致された私に、トチは服屋で服を当てがって、それから温泉宿へと向かった。風呂やらご飯やらをご馳走になった翌朝の私が「もう大丈夫だよ、ありがとう」と言えば、「うるせえ、まだ足りねえよ!」と、追加でその宿に四泊も泊まることになった。「もうそろそろ帰ろうよ、これ以上は申し訳ないから」とトチに言うたびに、トチは「うるせえ!」と私をはねつけるものだから、五回目の朝、「いい加減この宿にも飽きてきたな」とアプローチを変えてみたところ、トチはニヤリと笑い、「ちょうど良かった、行きたいところが死ぬほどあるんだ。着いてこいよ」とその朝のうちにチェックアウトをした。
それからが大変だった。私は目が回るほど色々な場所に連れ回された。今朝岐阜あたりに居るかと思えば、次の日には瀬戸大橋を渡ろうとしているような、そんな大移動もたびたびだった。夜中に助手席で目を覚ませば、もの淋しい高速道路をトチは静かに運転している。
「休まなくていいの」
私の言葉を聞くとトチはこちらをチラと見てカラカラと笑い、
「お前とは鍛え方が違うんだよ!」
と言った。
「私のためにありがとう」
「ああ、……いや、自惚れんなよ! おれのモラトリアムの大放浪に、いちばん暇そうだったお前を無理やり連れ回してるだけなんだから!」
「でも、私もずいぶん楽しいよ」
「そりゃ良かった。期待してろよ、まだまだ行きたいところは死ぬほどあるから」
そう言ってトチはニヤリと笑い、私はじきに眠っている。
四万十川の旅は何よりも素敵だった。晴れた夏の碧色をした四万十川のそばの道路を、窓を開け放って下ってゆく。奇声をあげながら運転するトチの車はしかし、ときおり脇道に逸れて止まったかと思えば、山奥の、誰ひとりいない沈下橋がそこにあって、私たちは寝転がったり足をぶらぶらさせたりしながら、あれほど美しくて心地よい夏の時間が、ああいった素敵な沈下橋が、私たちふたりの、二人じめだなんて信じがたかった。「気持ちがいいなあ」とトチが呟けば、「ほんとうにねえ」と私は返して、それでまた遠くで鳥が鳴いていたり、水面はおだやかに流れている。体験して初めてそれとわかるような、夏のひとつの理想であった。
そうやって野放図な旅を続けていたある日、唐突にトチが「カネが無くなったから帰るぞ!」と言い放って、私たちは大学の街へと、丸々二日かけて帰った。別れぎわ、連れ去られたアパートのまえでトチは私を降ろし、「それじゃあまた明日、大学でな」と言った。
「うん、きっと行くよ」と私が覚悟を決めたように言うと、
「なぁに、大学なんてそんな大げさなもんじゃねえよ。気楽にな」とトチは笑い、制限速度を知らない車はすぐにとおく見えなくなった。
次の日の朝、大学でトチと会ったとき、トチは大きな声で「よう!」と言い、私は片手をあげて応えた。すべて大学へ行けなくなる以前と全く同じ調子だった。偶然にも、二学期の講義の始まる日だった。そしてこんな偶然があるはずはない。私はトチに返しきれない恩がある。
……しかし、もし私が大学時代に身罷っておくべきだったとするならば、あの輝くような思い出の日々や、私を連れ回してくれたトチの代えがたい友情さえも、しょうもない今へと私を繋げてしまった原因として非難すべきものであるということになる。私がいまのような苦痛の労働の日々を過ごしている元凶がトチの思い出や優しさであり、絶望のさなか首を括っておいたほうが畢竟、総体としての快苦の収支はマシだったことになる。だとすれば、と、そう考えながら電車を降り、駅を出て歩いて、アパートの、私の部屋のドアの前、玄関を開けて家に入ると、フローリングで天使が半分溶けていた。
ひとの家で勝手に溶けるやつがあるだろうか?
「いったい何をしているの」
「ダリごっこだよ、記憶の固執ごっこ。夕陽が気持ち良いと、ときどきこうやって溶けてみるんだ」
冗談じみた振る舞いのかれが、悪い冗談のような生涯の私の部屋に暮らしている。
「猫みたいだね」
「そう」
「うん」
私はかれの隣に座りこむ。
「なにかぼくに言いたいことでもあるの」
半分溶けたままかれは言う。
「私の話を聴いてくれるの」
「勝手に話しなよ」
半分溶けているやつに、何だって私は相談事を持ちかけようとしているのだろう。
「いや、その、あるいは私も、子どものころの夢だとか、そういったものを持っていれば、今よりか多少はマシな人間になっていたのかなと思ってね。夢の実現を目指して努力をして、それが叶えば何よりだし、たとい叶わずとも努力した経験は何らかの糧になるだろうし。私はなにひとつ頑張る経験もなしに、何となく生きてきたせいで、今こうやってやりたくもないことをして働いているものだから。子どものころの夢を持って、それに向かってなにか本気で努力をしていれば、……うまく話せないけど、そういうことを思ったんだ」
「子どものころの夢だって!」とかれは軽蔑するように叫んだ。溶けたまま。「ほんの幼いころに本で読んだんだか身近な人間がそうだったかで憧れるようになった何か、子供とかいう到底まともな分別を持ち合わせていなかった時分に下したみずからの判断を、いい歳をした青年が、もっと悪ければ中年が、金科玉条のように固持し続ける、所詮そんなところのものである『子どものころの夢』に、ほんとうにきみは憧れるとでもいうのかい!」
「ずいぶん意地悪な言いかたをするんだね」
「ねえ、きみ、良いかい、」とかれは、まるでプールから出るような調子で溶けた身体をもとに戻し、私の前にひとつのうつくしい裸体として向かいなおって座った。「こんな話があるんだ。ある子ども、純真無垢ってことになっているが実際は単に馬鹿なだけの一人の子どもが、両親に連れられて美術館に行ったんだ。そこでベルニーニだかミロのヴィーナスだか、覚えていないが何かそういった彫刻を見て、幼心にひどく感動したらしい。『よし、いつかぼくもあんなふうにうつくしい彫刻になってやるぞ』と、愚かにもそう決意したという。その日からかれのうつくしくなるための努力が始まったわけだね。子ども特有の見当はずれな努力、たとえば数分間や数十分間、彫刻のように毛ほども身体を動かさないようにしてみたり、彫刻に劣らぬうつくしいポーズを考えてやってみたりね。
しばらくそんな何にもならない鍛錬の時間を送ったあと、四日目にかれはもうすこし現実的なフェーズに移行するんだ。たとえば美容に運動は欠かせないから、同い年くらいの子どもらと街中や路地裏を駆け回って遊んでいたし、また充分な睡眠時間はうつくしさに不可欠だから、幼い身体にやって来る早い時間の眠気にしたがって、毎晩九時間の睡眠時間を欠かすことはなかった。言うまでもなく知性はうつくしさを磨くから、ラテン語を学ぶかたわら、おもしろい物語や、また時には好奇心から背伸びして魔術やら錬金術やらの本をひもといたりしたようだ。
……ねえ、わかるだろう、『うつくしい彫刻になりたい!』だなんてかれの決意は三日坊主で四散したんだ。遊んで寝て本を読んで、その合間に見聞きしたもの、たとえばかれはティラノサウルスになりたいと言い出したことだってあるだろうね。あるいはアルセーヌ・ルパンでも良い。要するにそれは何だって良くて、子どもの頃の夢なぞは、すぐに忘れ去られる限りは単に可愛らしい空想で済むんだ。
話を戻そうか。彫刻に一瞬憧れてすぐにその憧れを忘れ去ったかれが、最終的にどうなったと思う?」
「どうなったの」
「世界中を駆けめぐる立派なセールスマンになったよ。うつくしい奥さんをつかまえて、可愛らしい子どもを三人もこしらえ、ずいぶんと幸せそうに生き、満足して死んでいった。ただ、大人になってから美術館に行ったとき、彫刻に見惚れるみずからの子どもと彫刻を交互に眺めながら、唐突に、恥ずかしいような嬉しいような心地でかれは思い出すんだ。『やれやれ、ちょうどこれくらいの子どものとき、わしも本気でうつくしい彫刻になりたいだなんて思ったものだわい!』ってね」
かれと暮らして三日目にしかならないが、こんなにもムキになったようなかれを見るのは初めてだった。
「しかし、ずいぶんと子どもの頃の夢を否定するんだね。何かあったの」
私がそう訊くとかれは苦々しげな顔をして、
「これはたとえばの話だけどね。たとえば、さっき話したかれ、幼いころに彫刻を見て『いつか自分もああやってうつくしい彫刻になってやる!』と決意したかれの、その決意がぼくの話したような三日坊主程度のものでなしに、非常に強い信念だったらどうだろうね。幼年期、青年期と、生活を送ってゆきながら、しかしうつくしい彫刻になる夢は捨てきれず、世界中の奇術や魔術を見て回ることができるようなセールスマンになったかれは、あるとき、アフリカかアマゾンの奥地へと靴磨きクリームの商機を探しに行ったときに、忘れ去られた寺院を見つけるんだ。引き寄せられるように草木を分け入ってそこに入ったかれは、祭壇の上に奇妙な具合で浮いている、おぞましい呪術用の人形を見つける。それを見てかれは咄嗟に直感するんだ、『この得体の知れない人形に触れば、間違いなくおれの願いは叶うだろう、おれにはそれが確かにわかる!』、と。それでかれは大理石の彫刻の夢を叶えるために人形に触れ、激しい光、次の瞬間跡形もなく人形は消え去っていた。かれの身体はたしかに人間からは変質していたものの、きっとかれは想像だにしていなかったのだろうね。まさか自分がこんなふうに手足が折れてもくっつくような、人間を模した鉱物質の死ねないバケモノに成り下がっちまうなんて!」
「とすると……、きみが、他ならぬきみが、かつて大理石を夢見た子どもだったのかい!」
驚きの極まった私がそう訊くと、かれは狡そうに笑ってみせ、
「うん、そうだよ!」といかにも嘘くさく言った。
「ほんとうに?」
「もちろん。ガラス食べ太郎は嘘なんてつかないんだ」
ああ、嘘とゴマカシの代名詞、ガラス食べ太郎!
「いつだってきみはそうやって、何もかも冗談のようにしてしまうんだね」
「悪い冗談のような身体のぼくが、悪い冗談を言わずにどうしろと言うんだろう」
そう言ってかれは、ちゃぶ台に置いてあったガラス片を手に取り、クッキーを食べるような具合で一口かじった。
「ねえ、もし子どもの頃の夢なんてものが、きみの言うとおりの、ろくでもないものだとするならば、私がこんなやりたくもない労働に従事する運命を避けるためには、果たしてどうすれば良かったのだろうね」
「それこそぼくの知ったことではないよ! 何せぼくは少なくともここ百年は働かずに過ごしているんだから」
私はかれの顔をまじまじと見る。眉を顰めてガラスをモグモグやっているかれの顔は、腹が立つほどうつくしかった。それをゴクリと飲み込んでからかれは言う。
「まあ、とりあえずはそのスーツを脱いだら良いんじゃないの。明日のことは明日みずからに思い煩わせておけば良いんだから。きみが着替えて今日の労働をおしまいにしたら、そうしたらぼくも、きっとおかえりくらいは言ってあげるだろうね」
「ああ、ただいまが未だだったね。ただいま」
「うん、おかえり」
そう言ったきりかれは、無頓着な表情でまた一口ガラスをかじる。このペースでかれがガラスを食べ続けるならば、私はまたひとつガラスコップを割らねばなるまい。或いはカバーガラスを買ってくるのも良いだろうし、何か別のもの、たとえば……、
「さあ、さっさとスーツを脱いでこいってば!」
* * *
定時上がりのある金曜日、夕方の最寄駅を降りると、売店で雑誌を物色しているサヌキを見つけた。
サヌキとは大学を卒業したきり遠く別れているのだから、最初は他人の空似だと思った。とはいえ他人の空似にしてはあまりにも似すぎている。だから最初は遠くから、ついで近くでかれを見れば、どうやらほんとうにサヌキらしい。だから私も雑誌を手に取るような調子でかれのすぐ隣へ立つと、サヌキはチラとこちらを見、直後驚いたような顔で私のほうへと向き直って、「おお……、おお!」と叫んだ。(たとい九割がた友人であるとわかっていても、自分からひとに声をかけるのは気恥ずかしい。)
「ずいぶんと久しいねえ。どうしてこんなところに?」
「それは私の台詞だよ。ここで暮らしているんだから。サヌキは?」
「僕はほら、用事で乗り換え待ちさ。しかしあんな野暮用、今となっちゃあどうだって良い! ふたたび会えるとは思わなかったよ、すこし話そう」
それで私とかれは改札を出て、ゆっくり歩きながら話していた。
私はサヌキに訊く。
「ところで小説のほうはどうなの」
「いやあ、パッとしないねえ。僕の書くものはいつだって気が利いているはずなんだけど、審査員の見る目がなけりゃあ陽の目を見る機会もない!」
私はサヌキの書く文章が好きだった。大学時代、かれはときどき連絡もなしに私の部屋へとやって来ては、「ちょっとこれを読んでくれないか」とかれが書いた小説や、あるいは小説になりかけの文章、ときには随筆なんかを私に読ませた。読んでいる私をサヌキはジッと見つめていて、ひとに見つめられながら文章を読むのには最後まで慣れなかったが、とにかく私はかれの内省的な、迷路のような文章が好きだった。読み終わればサヌキは私に読んだものの感想を訊くから、かれの持ってきた酒を飲みながら、三十分、一時間、私たちはかれの小説について話し、そのうちに話は明後日の方向へ向かっていって、酒が進めば話も盛り上がり、要するに、ずいぶん良い気持ちでやっていたものだ。
「最近はどんなのを書いているの」
私がそう訊くとかれは、待ってましたと言わんばかりに話しはじめる。
「ほんのアイデアに過ぎないのだけどね、僕ぁね、僕らの生涯のようにむなしい小説を書こうと思っているよ。それも単にむなしい生涯を書くだけじゃない、小説の構造そのもののうちに、ある種のむなしい生涯の構造を再現したいと思っているんだ。起こる出来事はたいがい断片的か散発的で、かつそんな出来事を綜合したところで何か本質が立ち現れてくるというわけでもない。実存が本質に先立つという人間一般のありかたを知っていながら、それでいて投企を、みずからの生涯をみずからが規定してやってゆくそのありかただけはどうにも信じられずにいる、そういったわれわれのむなしさを構造へと落とし込んだ小説だ」
「なんだか悪い冗談みたいだね」
「そう、悪い冗談、まさにそれだよ! 一貫性も、目的意識もありはしない、むなしい生涯、もとい、われわれの生涯がそういった意味でのむなしさ以外の何だというのか? みずからの生涯を成長のレールの上に無理に並べて語りなおす、就活じみたナラティブなんぞ糞食らえだ! 僕らの生涯にはキャッチャー・イン・ザ・ライのようなあの雨のメリーゴーラウンドのカタルシスも、或いは細雪のような語りのうつくしさもあり得なくて、悪い冗談のような構造、悪い冗談のような語りばかりがふさわしいだろう。もちろん読んだあとには何ひとつ残りはしない。僕はそういったものを書きたいんだ」
「それって面白いのかな」
「面白い小説なんてものはエンタメ小説にやらせておけ! 僕が書きたいのは文学なんだよ」
「でも、たとえばモームは文学だって面白さが大事だって言っていなかったっけ」
「そこで言う面白さと、さっき君が言った面白さが同一のものかは疑わしいがね。今きみが挙げたモームの例だって、彼が面白い小説としてどんなものを挙げているかを確認したことがあるか?……」
まるで大学時代に戻ったように益体のない話をしながら、ゆっくりと私たちは歩いていて、その針路は私のアパートを指していた。私もかれももっとこういった話を続けていたかったから、ずいぶんちんたらと歩いた挙げ句、私のアパートの前に着けば、「まあ、上がっていきなよ!」、と私は告げて、かれも私の家に上がるのがやぶさかではないようだった。だから、サヌキを家にあげる瞬間になってようやく天使の存在に思い至ったのも、あながち私ばかりのせいとは言い切れない。ひさびさのサヌキとの会話があまりに楽しかったせいでもある。
ああ、全裸の天使! ……いや、正確に言えば、私の部屋にかれが居ることはずっと頭のなかにはあった。ただ、かれがずっと全裸でいることに対して私はすっかり慣れきっていたものだから、ふつう初対面の者同士を引き合わせるときに片一方が一糸纏わぬ姿というのはまずいだろうという、その一般規則だけが頭から抜け落ちていたのだ。気がついたときには手遅れで、サヌキは私のアパートの玄関で、靴を片方脱ぎかけた姿勢で化石していた。
「おや、来客なんて珍しいね」
ゴンチャロフ『オブローモフ』の下巻を手に持ったまま、天使は顔を上げて私たちに言った。都合の悪いことにかれは片膝を立て玄関のほうを正面にして座っていた。せめてうつ伏せであってくれたらどんなにか良かったことだろう!
サヌキはサッと私のほうへ振り向いた。溢れ出る困惑でかれの頭が一杯であるこの瞬間に、私はなにか、いちばん効果的なことを言わねばならない。
「まだ伝えていなかったね。私はいま天使と暮らしているんだよ」
「……天使?」
サヌキは困惑を深めたような表情のまま、いま一度全裸のかれへと目を向けた。私も天使のほうを見やって、要するに私は説明を丸投げしたわけだ。どうにかしてくれ、と切実に見つめる私の視線の意図を、最初は分かりかねるようにかれは眉根をひそめていたが、すぐ理解したような顔をして、
「そう、ぼくは天使なんだ。ひとつ奇蹟を見せようね」
と、かれはみずからの右腕を、何でもないような調子でパキッと折り取ってみせた。(アメジスト色の腕の断面!) そのままかれは折り取った右腕を左手で持ち、都合二倍の長さになった右腕=左腕をちゃぶ台のほうへと伸ばして、危ないからむき出しのまま置いておかないでくれと何度も伝えてあるはずのガラス片をちゃぶ台の上から取ってから、右腕を肩へと据え付けた。右手のガラス片を左手に持ち替え、元ある場所へと戻った右手で十字を切ってから、
「良いものを見られて良かったね」
とサヌキに告げ、ガラス片をパリパリと食べはじめた。こうした一連の『奇蹟』を目の当たりにしたサヌキの顔を横から覗くと、困惑と恐怖が涙となって今にも溢れ出しそうな様子だ。
サヌキの説得をかれに任せたのは大失敗だった。天使らしくあのうつくしい羽でも生やしてくれたら良かったものを!
*
帰ろうとするサヌキを押し留めて家に上げ、と言うのもひさびさの友人と私はもっと話をしたかったし、それが叶わないとしてもせめてかれが抱いている誤解だけでも解いておきたかったのだ。誤解……、身体を好きに折り取れる全裸の『天使』と私が暮らしているのは、しかしひとつの事実であって、とすれば私がサヌキから取り去りたいと思っているひとつの不和に、誤解という名前を与えるのが適当か、……だがそんなことはどうだって良い。要するに私はサヌキを家に上げ、ちゃぶ台の前に座らせた。それで天使はといえば、ちゃぶ台を挟んで向かい合っている私たちなどお構いなしに、もと居た場所から動こうともせず、『オブローモフ』を読みながら、相変わらずガラス片を断続的にパリパリやっていた。
「思い違いをしないでほしいんだけど、」と、私が最初に口火を切った。「こうやって私がうつくしい、全裸の、その、全裸の存在と暮らしているからといって、どうか私にそういった尋常ではない性癖があるとか、そういうふうには思わないでほしいんだ」
「君が一体どんな性癖を持ち合わせていようが、それ自体はまったく自由だと思うがね」、と、よそよそしくサヌキは言う。
「違うんだよ。そもそも私にはきみが想像しているようなやましさは一つもありはしないんだ」
「まあぼくはきみの乱暴なオトモダチに服を脱がされたあと、きみに股間を弄られたわけだけど」と、天使が本に目を落としたまま、余計極まるくちばしを挟む。
「いいや違う! あれだって私が望んでそうしたと言うよりか、きみが、きみのうつくしさが私を誘惑して、そもそも私の手をきみの身体に導いたのは、他ならぬきみ自身じゃないか! なあ座れったら」
今すぐにでも帰ろうと立ち上がるサヌキの腰を何とか下ろさせ、それから天使を見ながら続ける。
「だいたい、私がきみに何か無理強いをしたことなんて一度たりともないだろうよ。たとえばもし私のところで暮らすのが嫌だったら、どこへなりとも行けるじゃないか」
「服の一枚すらありはしないのに、いったいどこへ行けと言うんだろうね」
「なあ頼むよ、今日だけはそうやって混ぜっかえすのをやめてくれ。サヌキは私の数少ない友だちなんだ」
「へえ、友だち!」と、性悪な天使はここで初めて本から視線を上げ、実際驚いたような顔をして言う。「珍しいこともあるもんだ。狭い家だけど、ゆっくりしていけば良い」
それで三人ともが地獄のように黙り込んだ。もとい、地獄に居たのは私とサヌキの二人きりで、天使はといえばどこ吹く風のまるで無関心な静かさだった。
沈黙のなか、天使が二回目に『オブローモフ』のページをめくった直後、今度はサヌキが話し始めた。
「ええと、ひさびさに君と会えてとても嬉しかったよ。覚え違いでなければ大学のとき以来だよね、元気そうで良かった。歩きながら少し世間話をするだけのつもりが、だいぶ話し込んじまった挙げ句、家にまでお邪魔して、ずいぶんとご迷惑をおかけしたね。もう少し長居をしたいところだけど、同居しているかたのご迷惑になるのも悪いから、」
「なあ、お願いだからその鹿爪らしい暇乞いをやめてくれ! いよいよ誤解が深まったままきみを帰らせるわけにはいかないんだから!」
「学生時代の君はもう少し聡かったと思うんだがね? はっきり言おうか。君が、そしてまた仮に僕が良かったとしても、君の同居人が僕を歓迎していないんだから、僕はさっさと帰るべきなんだよ」と、そう言いながらサヌキがふたたび腰を上げる。するとここで、
「きみの友だちは、」と、またもや天使が横槍を入れる。「いや、きみの友だち『も』、やっぱりきみと同じように面倒なやつなんだねぇ。ついさっきぼくが『ゆっくりしていけば良い』と言ったばかりなのを、もう無かったことにしているんだから。初めて会う他人の前で平然と裸で居るやつが、つまらない社交辞令なんて言うものか!」
今度はサヌキに矛先が向いた。思わぬ横槍に驚いたかれは天使を見やり、その裸が視野に入ると慌てて視線を逸らした。それで私はハッキリ目にしたのだ、そうやってサヌキが羞じらうように目を逸らした瞬間、本から視線を上げてかれの調子を伺っていた天使の顔が、かすかに、だが確かに皮肉に歪むのを!
「それに、きみがそうやってぼくをまともに見ようとしないのも気に障るね。ほら、」
と、天使は『オブローモフ』を置いてサヌキのそばへとにじり寄ると、あとじさるかれの顔へと手を伸ばした。サヌキの頬にガラス細工の指が這い、その指はサヌキの頭を天使の顔へと向き直らせる。天使とサヌキはしばらく見つめ合ったまま、サヌキの立ち上がりかけていた腰は少しずつ落ちてゆき、最後にはフローリングに着地した。
もはやサヌキは天使から目を離すことができないようだった。天使のうつくしさに魅了されてしまったかれは、腰を落として(腰が抜けて?)しまったいま、蛇に睨まれた蛙のように、近づいてくる天使の目や唇から逃れるすべを知らない。天使はサヌキの頬に指を伝わせたまま、蛞蝓が這うように、少しずつサヌキへと顔を近づけていった。そのまま、お互いの唇がほとんど指の幅ひとつぶんほど接近して今にも触れ合いそうになったとき、天使はフと私のほうを見ると、ふたたび口角を歪ませて、
「寝取られ亭主みたいに角を生やすこともなかろうに!」
と言ったきり、急にサヌキから顔を離し、接吻の代わりとして指先でかれの唇をそっと撫ぜてやった。天使が離れてからもなおしばらくのあいだ、サヌキは腰が抜けたように呆然としたままだった。
*
結局、天使はかれ自身のやりかたですべてを説明したことになる。サヌキと私は天使のうつくしさをとおして成立した秘密の共犯者だった。サヌキはこれ以降、無理に帰ろうとすることも、全裸の天使と暮らしている理由を私に問い詰めることもなく、ずいぶんとくつろいだ調子で打ち解けていた。かれはすぐに天使を『きみ・ぼく』で呼び交わすようになり、ただ話すたび若干声がうわずっているようだった。
今や私たち三人はちゃぶ台を囲んで酒を飲んでいた。(もとい、私とサヌキは酒を飲み、天使はガラスを食べながらときおり真水を飲んでいた。そうやって天使は私の晩酌に付き合ってくれて、それが今晩は三人だった。) 冷蔵庫から缶チューハイを出してきて、冷凍食品を温めた。酔いが回ったころにでも、酒や食べ物を買い足しに行く必要があるだろう。
「それにしても、」とフローリングをなぞるように触れたあと、その指先を見たサヌキは言う。「汚部屋の住人もずいぶん成長したものと見えるね。酒の空き缶がそこら中に散らばっていた大学時代のきみの部屋を、僕は今でも忘れられないよ」
「綺麗にしておかないと、かれがだんだんうす汚れていくものだから」
と天使を指しながら私は言う。(主に会話をしていたのはサヌキと私であったが、天使のうつくしさに惹かれるように、話題はたいがいかれのほうへと向かってゆく。)
トチの粗暴さが天使を置いていってから二週間ほど経った日のある朝、陽を浴びる天使の肌が妙にくすんでいるように見えた。或いはくすみつつある天使の肌にそのとき初めて気がついたと言っても良い。相変わらず彫刻のような見惚れてしまう裸体だが、その肌の、陽を透かすような純粋が失われつつあるようだった。
「体調でも悪いの」
「もしぼくが肉やら草やらを食べることになったら、たちまち体調が悪くなるだろうけどね」
しなやかな脚を伸ばしながら何でもなさそうに天使は言う。
「しかし急にどうしたの」
「いや、顔色が、いや肌の色が悪いように見えるから」
「ああ、」と天使は納得して、「こんな汚い部屋でこんなに長く暮らすのは初めてだから。こうなるだなんて、ぼくもすこし驚いているよ」
その華奢な手を陽に透かすようにしながら天使は続ける。
「うん、このまま灰色になってゆくのも悪くないかな」
それで、天使をうすぎたなく汚れさせるわけにいかない私は部屋の掃除を始めたわけだ、と、サヌキに思い出話を話してやった。するとかれはしらじらと笑い、それから、
「部屋の汚さで肌の色が変わるなんて、やっぱり天使は違うなぁ」
と言った。それを聞くと天使は、
「そうかな? 作用のしかたこそ違うけど、食べたものから身体ができるのは、生き物と一緒じゃないの。埃ばかり吸っていれば灰色の肌になってゆくし、ガラスを食べていれば身体はだんだん透きとおってくる」と言う。茶々を入れてやろうと思った私が、
「かれは今、牛肉が野菜に他ならないことをこのうえなく華麗に示してみせてくれたね。埃を吸えば肌は灰色になり、ガラスを食べれば身体は透きとおる。もちろん草ばかり食べている牛の身体は草だってわけだ」と言えば、
「ほらね、やっぱり安酒飲みの脳みそはビールの泡みたいにスカスカだ」
と、なんてことない調子で天使は返す。からかうつもりで逆にやりこめられてしまった私を見てサヌキはケラケラと笑った。
「皮肉屋の君もまったく形無しだね」
「いや、実際かれはほんとうに口が達者で、いつだって私はやっつけられる側なんだよ。たとえばある日、私がキッチンで冷凍食品を皿に出していると、部屋のほうから大きな花瓶が割れるような音がしたんだ。とうぜんうちには花瓶どころか、そんな大げさな音で割れるようなものなんて何ひとつ置いてありやしない。あるいは泥棒がガラスでも割って入ってきたんじゃないかと思って、冷凍食品をそのままに、恐る恐る部屋へと戻れば、何のことはない、かれが大胆に転んで身体をバラバラにしていただけだった。(きみもご存知のとおり、天使は身体を自由に折り取ってもとのようにくっつけられる代わりに、結合がすこし弱いんだな。) 一体どうしたの、と私が訊けば、やらかしたよ、とかれは言う。もちろん胴体から離れた頭部だけで喋るんだ。
『きみの言うとおり、くるまったあとのシーツは畳んで隅に置いておくべきだった。自分ひとりじゃもとに戻れないくらいバラバラになるなんて、いったいいつぶりのことだろう』
そのまま放っておくわけにもいかないから、私はかれの手足をくっつけてやるわけだ。手を元に戻すのはまだ良いんだが、足をくっつけてやるのはずいぶん恥ずかしかったものだよ。何故ってかれの太腿を持って、つまりこんなにうつくしい肢体だからね。じかに触れる感触だけでもいっぱいいっぱいなのに、それを鼠蹊部にくっつけなけりゃならないんだから、なるべく陰部を見ないように、かつ触れないようにやってみれば、『なあ、空中にぼくの脚がくっつくとでも思っているのかな』と、ちゃぶ台の上に避難させておいた生首が、その綺麗な顔でケチをつけてくる。
恥じらいと文句の狭間で四苦八苦しながら、それでもなんとか身体はくっつけ終わり、最後には頭だけが残った。頭以外はぜんぶ元に戻したのだから、あとはかれのほうで身体を勝手に動かして頭をくっつけてくれれば良いんだけど、どうやら一回バラバラになるとそれもできなくなるらしい。触れることすら憚られるそのうつくしい顔をちゃぶ台から持ち上げて、身体のほうへともってゆこうとしたそのとき、フと気になることがあってかれに訊いた。
『ねえ、こうやってバラバラになっているときには、いったいきみの意識はどこにあるんだろう』
『いまこうやって話をしていることからもわかるように、基本的には頭にあるよ。それがどうしたの』と、抱えられたままかれが喋る。かれの意識と向かいあうように私は生首を抱えなおして、ゾッとするくらいうつくしいそれに私は訊いた。
『じゃあもし私がいま、きみの頭をうっかり落としてまっぷたつにしたら、いったいどうなるんだろう』
するとかれはいつもの軽蔑したような表情を浮かべて、
『そんな不愉快なことをされたら、ぼくはこの家を出てゆくだろうね』
と言い放つ。生首としてなす術もなく抱えられている状態ですら、かれはこんなにも皮肉屋なのだから、もはや私の敵うところではない! あいまいな笑い声を返事代わりにして、私はかれのうつくしい顔を身体に据えつけてやったよ。五体満足に戻ったかれは繋がった箇所をひととおり調べながら、『うん、助かったよ。ありがとう』と私のほうを見もせずに言った。かれに礼を言われるのはあれが初めてのことだったね」
私が話を終えると、サヌキは感心したような調子でへぇ、と言い、それから天使のほうを見て尋ねはじめた。
「そうやってバラバラになっても生きているってことは、君は本当に不死なのかい」
「きみら人間が『自分だけは死なないんじゃないか』と心の底でうっすら信じているくらいには、ぼくも自分の不死性を信じているよ。何たってこれまでもずいぶん生きてきたものだから」
「失礼だけど、年齢は?」
「いくつに見える? 当ててごらん。彫刻のように長生きなんだ」
「いずれ人が滅びてひとりぼっちになったとき、ずいぶん淋しい思いをするんだろうね」
「人類は滅びないよ、何たって宇宙でいちばん賢いからね。どうして人類が宇宙でいちばん賢いか知ってる? 人類より多少なりともマシな知性の連中はみんな、出生の連鎖も社会も続けるに値しないことに気がついて滅んでいったからだよ」
「……長く生きていると、寂しい思いをすることや辛い経験がきっといくつもあったんだろうよ」
「そう、まさにその通りなんだよ! 聴いてくれ、寂しさや辛さでぼくははち切れそうなんだ。たとえばこんなことがあった。出会って間もない人なんだけど、ぼくが人間じゃないってことをいちばん最初に見せちゃったからか、面と向かって話していても、一向にぼくと目を合わせてくれないんだ。そのくせぼくが視線を外すと、すぐさまかれはぼくを見て、それならとぼくがもう一度目をやれば、またもやそっぽ向いちまう。ぼくは相手の目を見ながら話したいにも関わらず、こういうことをされちまうんだから、まったくたまらないね」
天使が口をつぐむと、サヌキもそれ以上何かを尋ねようとはしなかった。天使の皮肉屋っぷりに尻尾を巻いてしまったのかもしれない。適当な嘘を喋っているのか、或いは本気で言っているのか判然としない、天使特有の悪い冗談のようなやり方に、さしものかれもお手上げのようだった。かれは缶チューハイを一気に飲み干して缶を置くと、
「うん、酒を買いに行こう!」
と私に言った。
*
相変わらず自分では服を着ようとしない天使を家に置いたまま、私とサヌキのふたりきりで酒を買いに出た。しらふで行けばすこし遠いが、酔って歩けば気にならない距離のコンビニに向かう。石でも蹴りつつ歩いてゆきたいような良い晩だった。
「堪らんね! まったく、堪らんよ!」
そんな良い晩の道程を、サヌキが叫ぶようにして歩いている。
「あんなにもうつくしく聡明なひとが、ああやって適当なことを言いながら、君の部屋で生涯を浪費しているんだから!」
「夕方に話していたきみの小説のモチーフにぴったりじゃないか。むなしい生涯、悪い冗談。かれほどにふさわしい存在はほかにないと思うけど」
数歩先を歩いていたサヌキはそれを聞いて振り向くと、歩調を緩めて私と並んで歩きながら話しはじめる。
「いいや、君はわかってないね! そういったむなしさや悪い冗談を、僕はあくまで凡人の生涯をめぐって書きたいのであって、ああいった知性やらとんでもないうつくしさやらを持ち合わせているひとが、無為な生活を送っているうちに生涯を丸ごとフイにしちまう、そんなのはもう、余計者文学以外の何物でもないじゃないか! 知性も教養も死に体で、軽佻浮薄が大手を振って闊歩する現代で、今さら余計者文学をやって何になる!」
「なら、」と私はサヌキに訊く。「そもそもそんな軽佻浮薄な現代に、きみの言うところの『凡人のむなしい生涯を書く』文学が、いったいどれくらいの価値を持ちうるんだろうね。仮にきみが表現したいところのものが作品として成立したとして、軽佻浮薄な人間が、まあかれ自身みずからを軽佻浮薄な人間だとは微塵も思っていないんだけれど、そういったたぐいの人間がきみの小説を読んで、書かれている軽佻浮薄さゆえにその作品を評価するとしようか。数日か数週間か、長ければ数か月のあいだ、きみの書いたものはもてはやされて、そのうちに次の軽佻浮薄が誰かによって作られる。きみの書いた軽佻浮薄は最初から無かったかのように忘れ去られて、それきりおしまい。そんなのがきみの望みなのかな」
私がそう訊くと、サヌキは味噌汁のアサリの砂粒を思いきり噛んだときのような顔をして、
「それが僕にもよくわからないんだよ! もちろん、ほんとうなら僕は『人間の本質を描いた、普遍的な、朽ちることのない作品を書くのだから、君のいうところの批判はまるで当たらない!』、などと言うべきなのだろうけど、僕にはきっと後世まで残るモノを作る才能なんてありはしないし、そもそも僕は『人間の本質』や『普遍性』なんてものをまるきり信じちゃいないんだから! それに、普遍性はおろか、僕の力じゃたった数日間もてはやされるだけの文章を書けるかどうかも怪しいね。そんな僕がいったい小説を書いて何になるというのか、なぜ僕が今もなお下手くそな小説に拘泥し続けているのか、僕自身まるでわからないんだよ!」
酒が入ったサヌキは大概こうやってネガティブになる。すこし私が言いすぎたのもあるかもしれない。だから私は、
「でも私はきみの書く小説が好きだよ。小説として上手いかどうかは知らないけど、文章はとても読みやすいし、きみの人間性の歪みか出ていて面白いと思うんだ。もっとも、私がきみの小説を好きなのと、きみの小説が世間でうけるかは丸きり別の話だろうけどね」
私がそう返すのを聴くと、サヌキはどこか困ったような調子で曖昧に笑い、
「学生時代から君はそう言ってくれていたね。ああ、うすうす気が付いてはいたけれど、今やっと、ハッキリとわかったよ。僕のたった一人の読者たる君が、ずっと僕を呪縛していたんだな。書く対象についてもそうだし、僕がこうして書き続けるのも或いは君のせいだろうね」
「呪縛だなんて、とんでもない! 私がきみの文章を好きなのは本当だし、」
「いや、わかっているよ。君はそういった類いの世辞なんて言わないし、僕を縛りつけるつもりも毛頭無かったんだろう。しかしね、……いや、止そう。今日はとにかく酒だ、酒だよ! 況んや是れ青春、懐かしい知己と、また人間離れしたうつくしいひとと一緒に酒が飲める晩だというのに、御託ばかり並べたって仕方がない。終日酩酊して酔え、だ!」
そう言うと突然、サヌキは止める間もなく私を置いて駆けてゆき、ふと振り向くと「先に行っているよ!」と叫んでそのまま行こうとするから、私もかれに叫び返さなければならない。
「サヌキ、違うよ! そこは左だよ……」
缶チューハイ二本であんなに酔うこともなかろうに。
*
酒もつまみも随分とたくさん買ってきた。私だって今では働いているというのに、サヌキは私に財布を出させようとはせず、学生時代の習慣をそのまま、全額をサヌキが支払った。
酒もつまみも充分にあって、素晴らしくとんでもない晩になるのは請け合いだった。昔からサヌキとふたりで過ごす晩は、いつだって飲みすぎるか、或いはひどく飲みすぎるかのいずれかで、今日は天使が居るとはいっても、この性悪な天使が私たちの飲みかたを抑制してくれるはずもなく、それどころか私たちの乱痴気騒ぎの火に油を注ぐことさえしかねない。要するに、飲みきれないほどの酒が目の前や冷蔵庫のなかにあって、飲みきれないなんて言い訳は使えやしないから、結局飲みきる羽目になるか、どちらかが限界を迎えて終わりになるだろう。
改めて乾杯をする訳でもなく、私もサヌキも缶チューハイのプルタブを引き開けた。私たちだけではなく、天使の前にも缶があって、(缶入りの炭酸水、)これはサヌキの発案で買ったものだった。
「なにが飲めるかわからないけど、君だけ水ってのも寂しいから。他にもいくつか買ってきたから、まあ、気に入るか試してみてよ」
サヌキにそう言われた天使は、そのガラス細工のような指先で缶を開けると、ほんのひと口飲んで「へぇ」、と言い、それからすぐに何か気がついたような調子でもうひと口飲むと、今度は感嘆したように「へぇ!」、と声を出した。それで私たち三者ともに缶の飲み物があることになった。長々と飲むときはこうでなくちゃいけない。
それで私たちは飲み始めたわけであるが、最初は別にどうというわけでもなくて、酒を飲みながらアテをつまみ、数秒後には忘れ去るような言葉をサヌキや天使と交わしつつ、ただ私の脳裏には鈍い橙色が明滅していた。目蓋越しに眼球を強く押したときに見えるような漠然とした暗い色彩が、後頭部でゆっくりとちらつくような感覚で、だからといって体調が優れないというのではなく、それどころかこれが現れた日にはいくらでも(いくらでも、と言ってももちろん限度はあるのだが)酒を飲むことが出来る。言わばひとつの体調のサインであり、しかも好調を示すサインであるのだから、こんな病気の徴候のようなそれではなく、もうすこし気の利いた表象であれば良いのにと思う。
そうやって、一方ではサヌキや天使の話を聴きながら、他方ではこの花火のなり損ないじみた光の明滅を見ていると、いつか過ごした幼い時分の川遊びの光景が(どういう訳だか)思い出されて、とおい日の、或いは夢で見たような景色だった。単に区分としてのそれのみに留まらず、肌感覚としての『初夏』やら『晩夏』という時季があった頃の記憶であって、幼い日の、夏休みの盆の頃、水面が日の光を絶え間なくキラキラと反射させている川の浅瀬で、私は石をひっくり返しては醜悪な虫を捕まえたり、出来もしない水切りの真似事をしていたものだ。岸辺では麦藁帽の祖父が私を見守っていて、川の中から手を振れば私に手を振りかえしてくれたし、また深いところへ行こうとすればそっちは危ないよ、と呼び戻してくれていた。虫籠(プラスチックで出来た市販品のそれだ)に水と生き物を詰めて川辺へと戻れば祖父は、これはタニシ、これはザザムシ、と節くれだった指で差しながら私に教えてくれたもので、気味の悪い水生生物の、しかしどうしてあの頃は気味悪がらずにいられたのだろう。カブトムシすら触れなくなってしまった今の私よりも二十歳近く幼かったためか、それとも川遊びのもの珍しさがそうさせたのか、もう判然としないが、川の中洲から、或いは川に浸かりながら河原の方へと顔を上げれば、いつもそこには祖父の姿があって、サヌキが天使に向かって助けてくれと叫んでいる。
「なあ君、僕を助けてくれよ! 君のようなひとならばきっと、惨めな自尊心と希死念慮でがんじがらめの、自意識の檻から僕を救い出せるはずだ!」
「だからぼくはヒトじゃないんだってば」
「ヒトじゃないなら尚更だよ! 続けるに値しないと分かりきっている生涯を、かと言って終わらせることも出来ずに続けている惨め極まるこの僕を、堪らなくうつくしくて聡明なきみが、どうか救ってくれやしないか! なあ、君ならできるだろう!」
「ぼくはきみの神さまでも何でもないんだよ。ましてや君の恋人でもお母さんでもないんだから、どうかそう甘えないでくれないかな」
不気味なタニシもグロテスクなザザムシも、当時の私にはカブトムシと同様自分で獲った宝物で、何なら川遊びの機会なんてほとんどありはしなかったから、カブトムシよりも物珍しいぶん貴重ですらあった。帰り道、虫籠を持ったまま祖父の原付に乗せられて、(祖父とハンドルの隙間に抱えられるような格好だ、)祖父母の家に戻ってくれば、夏のちょっとした川遊びの経験を私から聴こうとするやさしげな父母の姿があって、そんな彼らに川遊びの思い出のむき出しを、虫籠ごと突き出して見せてやると、母はヒッ、と悲鳴をあげ、父はゲラゲラ笑っている。和やかな空気のうれしさにつられて、私も一緒に笑っていた。
「なあ、思うに僕は赤ん坊の頃が一番聡明であったようだ。人生なんて始めるに値しないことを判っていて、臍の緒で首を括りながら生まれて来たらしいんだからね。野暮な産婆が僕を生き返して、それきり二度目に首を括る覚悟を持てずにここまで来ちまったんだよ。へ、へ、へ!」
「そんなきみにちょうど良い話をぼくは知ってるよ。ある賢い子ども、いや、どんな子どもにもそういう時期はある訳だから、要するにそういった賢い時期にあった子どもが、両親に問うんだ。『ねえ、ぼくは何のために生まれてきたの?』ってね。
生活や慣習を盲目的に受け入れることに慣れすぎちまった両親は、こんなことを急に問われれば非常に困る。とは言えみずからの子供の純朴な問いを無遠慮に撥ねつけるわけにもいかないから、足りない知恵を振り絞ってこう答えるわけだ。『おお、愛しい我が子よ。お前はね、私たちに愛されるために生まれてきたんだよ』
その子どもは賢い子どものなかでもとくに賢くて、かつどういうわけだか純真さにまったく欠けていた。両親の答えを聴いてかれは苦々しくこう思うわけだ、『やれやれ、どうやらおれは子育てをしたいとかいう欲求、心底しょうもないそれを充足させるために、よりにもよってこんな不愉快極まる世の中へ、ひとつの主体として作り出されたと見えるわい!』、ってね。それで、かれは賢いうえに行動力もあったから、その日のうちに首を括ったよ。一番良いのは生まれてこないこと、次に良いのは来た場所にさっさと帰ることだ、って具合にね!」
ひととおり和やかに笑ってから、さてほんとうにどうしようかという話になる。いったいこんなの(『こんなの』とはタニシやザザムシのことだ)捕まえてきてどうするの、と問う母に、家に持って帰って飼うんだと私が返せば、気味が悪いし飼い方もわからないから逃がしてきなさい、と母はそう言うばかりだった。せっかく捕まえた生き物を、珍妙な、しかしじぶんにとっては大切だったそれらを『こんなの』呼ばわりされたばかりか、どうやら家に持って帰ることも叶わないことに対して、気弱なくせに片意地だった(今だって気は弱いのだが)私の表情は段々と崩れてゆき、しまいには目に涙すら浮かびはじめて、次の瞬間には大声で泣き出しそうなところで、助け舟を出したのはやはり祖父だった。曰く、じいちゃんがしっかり飼っといてやるから、また来年の夏休みに来たときに見られるよ。大きく育っているのを楽しみにしてりゃ良い。なあ、そうだろ?、と祖父は言い、母も話を合わせるように私をなだめにかかるから、逃がすよりかはましだろうし、来年また会えるのなら、と、根負けしてコクリと頷いた。勿論翌年の夏休みの帰省ではタニシもザザムシも跡形も無かったし、私もそんな生き物のことなんて綺麗さっぱり忘れていた。ひとつのやさしい嘘だった。
「凡庸なことを訊くようで恐縮だが、仮に君が君の言うとおりほんとうにヒトではないとして、何千年も生きている君はいったい、何をよすがにそう長い間生きていられるんだろうね? どんな人間も大概は一世紀以内に死んじまうし、風景やら景色だって時代を経てどんどん変わってゆくというのに、君ひとりずっと生きながらえて、辛くはないのかい」
「それがね、案外そんなこともないんだよ。もちろん退屈することも多いけれど、そうだね、なんて言うか、要するにきみらのようにただ産まれては生きて死んでゆくだけの人間たちは、ひとすじの川に流れる水のようなもので、一機の水車を回し続けているんだ。晴れた昼間、水はさらさらと流れ続けて、水車はただくるくると回っている。いつまでもそういった調子で続いていて、この退屈が永遠に終わらないのかと半ば絶望しきった次の瞬間、フと水車が何ものかを、たとえばひと粒の砂金を拾い上げる。砂金でも奇妙な形の石でも何だって良いんだけど、要するに水のように素直に流れてゆくだけではない、ひとりの頭抜けた落伍者、代え難い芸術家が突然現れて、水車の水板の窪みに上手いこと引っかかるわけだ。これほど嬉しいことはないね。こういう天才がごくまれに現れて絵やら文章やらを残したりしてくれるからこそ、ぼくは退屈しきらずにいられるわけだし、こういう天才を運んでくれる君らのような量的人間にもまったく感謝が尽きないよ」
一度、祖父母の家で喉に骨を刺さらせたことがある。鰻の骨だ。別の年の帰省中のある日のこと、両親が買い物に行くだかで私は祖父母の家に置いてゆかれた。かつての私は心配性だったし、また幼いころは両親ともうまくいっていたから、大好きな両親たるかれらが私だけを残して事故で死んでしまったらどうしようなどという、馬鹿らしくもいじらしいことを考えては祖父母に自分の不安を打ち明けたり、或いは部屋の隅でメソメソしていた。そんな私を気遣ったのか、或いは単に私への応対に疲れ切ってしまったのか、そのどちらともというのが実際のところであろうが、要するに、祖父母は私の大好物だった鰻重の出前を取ってくれた。
昼だった。重箱を開ける瞬間はいつだって楽しいから、あのときもきっとそうだったのだろうと思う。私は単純な子供だったから、鰻重のうれしさのうちに不安は一瞬で消し飛んで、箸を取り、味の濃い肉厚な鰻を、誰も取り上げはしないのにひどく急いで食べていた、その何口目かで骨を喉へと刺さらせた。
次に覚えているのは仰向けの私を心配そうに覗き込む祖父の姿だった。水を飲んだり、ご飯を一切噛まずに飲み込んだりと何らかの努力をしたはずだが、結局骨は刺さったまま、八方塞がりで仰向けになった窓の外の夏の白さ、祖母はどこかへ電話をかけに行ったから祖父と二人ぼっちだった部屋の、今はないあの部屋はあまりにがらんとしていて、仰向けになった私に大丈夫か、痛むかと問う祖父に何も答えず、泣き疲れた赤ん坊のように鼻をグズグズとやりながら、痛むまなじり、窓の外の真昼間の夏の、日差しで満ちた真っ白な閑かさ、ずっと蝉が鳴いていた。
「ところでこいつはさっきから何をひとりで喋っているんだろう」
「かれは酔っ払うとこうなっちゃうんだ、それほど飲んでいるわけでもなかろうにね。昔は違ったのかな。まあ、面白いから聴いていると良い」
そう、白昼夢のような白さだった。ねえ、わかるかい。電気はつけていなかったから部屋の隅なんかはうす暗いのだけれど、そのぶん窓の外からの日差しが白く、私たちのいるあたりを明るくして、困り切った祖父も未練のように鼻をすすっている私も、そのどちらもほとんど喋りはしない静かな部屋の、蝉の声ばかりが聞こえる静寂だった。唾を飲み込むだけで骨の刺さっているあたりが鋭く痛む、ああいった痛みがしかしあの部屋におけるたったひとつの鋭さで、(天使が炭酸水の缶を傾ける、)そう、ちょうど今きみが炭酸を飲んでいるようにスムーズに水を飲むことなんて到底出来ないし、(喉仏を上下させる天使の首許、)白い夏の、白さの、ねえサヌキ、私はいつか天使と旅に出たかった。夏の白さとかれの肌の白さはまるで異なっているけれどね、しかし、たとえば近ごろの夏の炎天下の酷暑の、死がたちのぼるような白さのなかで、天使たるかれだけは汗ひとつかかずにきっとモンシロチョウみたいに軽やかだろう。陶器のようにうつくしいかれの肌の白さのうえに、これまた白いワンピースか何かを着せてやって、きみは何か悪い冗談のように思うかもしれないが、私は天使にはそんな服が似合うと思っているんだ。でもかれは結局、私が服を着せてやらないことにはどこにも行きやしないって言うから、今に至るまで私はかれと、もといかれを、白い夏の、白いワンピースのもとで見ることが出来ていないわけだ。ねえサヌキ! いったい、どうしてかれに服を着せることが出来ようね?
「ああ、これはなかなか酷いね。面白いよ」
「だろう? これからもっとひどく、神がかりのようになってゆくんだ。楽しみにしていなよ」
ねえサヌキ、それに天使、きみもだ。私はね、君らふたりのことが堪らなく大好きなんだよ! わかってくれるかなぁ、わかってくれないだろうなぁ、たとえばねえ、ほら、聴いてくれよ!
「聴いているったら」
「黙って話しなよ」
たとえばね、いつかきみにも話したろうけど、私はトチと四万十川へ旅したことがあって、もしあれがきみら、特に天使だ、他ならぬきみとの旅だったとしても私は、もとい、きみとの旅だったからこそ、いや、実際にきみと私は旅に出てはいないのだが、夏の白さの、きみの肌はあまりに白くて、四万十川の初夏はしかし、生きているんだよ! きみのペイルな、病的に青ざめた白い肌のうつくしさだって私は大層うつくしく思っているが、青ざめた、この青ざめたという表現は果たしてきみの表象に適しているだろうね? きみの蒼白い肌の、きみはあまりにうつくしくて、……なあ、もし私の話が空回りしているならどうかそう言ってくれないか!
「そりゃもう、これ以上ないくらい空回ってるよ!」
「いいからそのまま話しなよ。聴いていてやるからさ」
天使が私の隣に腰掛けているんだ。沈下橋の、私のすぐ隣にね。ほんとうはときおり車やら何やらが通るから座ってりゃ邪魔になるんだけれど、なに、構いやしない! とにかく私の隣にはかれが、天使が座っていて、私たちは、少なくとも私は川を眺めたり天使のほうを見たりしているのだけれど、一方のきみはどうせ退屈したような調子で足を中空に蹴り上げる、きみの靴は今にも脱げそうになって、……しかし、そんなきみに合う靴がどんなのかを、私は考えたこともなかった。ひとのように脆弱じゃないからぼくに靴なんかいらないよ、なんてきみは言うかもしれないが、コンクリートで出来た夏の構造物に裸足っていうのも見ていられないし、だから私は持ってきた靴を、あらかじめ見繕っておいたきみに似合いそうなそれを履いてもらおうとするんだけれど、きみはよっぽど靴を履くのが嫌らしくって、軽蔑したような目で私を一瞥すると、次の瞬間にはツと川へ飛び込んでしまう。危ない!、と私は叫ぶんだ、何故ってもしそれが浅瀬や岩場であったならきみの身体はバラバラになって、川の流れで二度と元には戻らないだろうからね。そんな私の心配もよそにきみは水面へ泳いで上がると、(随分と泳ぎが上手いんだね、)橋の上の私を見ながら、やあ冷たくて気持ちがいいね、とでも言うか、或いは片足がどっかに行っちゃったよ、と、いっとき私を狼狽させるような嘘でもつくのだろう。
「ぼくは川に飛び込んだりしないよ」
「靴を履かせようとしているってことは、君が寝ている間にこっそり足のサイズを測っていたんだろうね。こいつならやりかねないよ」
川から上がったきみはびしょ濡れのまま橋の上まで戻ってきて、橋の隅に腰掛けている私を、立ったまま、陽を浴びながら見おろしている。張りついたワンピースがきみの細い身体の線を浮き彫りにする、(ミレーの『オフィーリア』、いや違う!、)その瞬間、はじめてきみの肌は赤みを帯びているはずだ。まるで生命を得たかのように、いや、きみだって生きていることに変わりはないのだが、その生きかたは生き物のそれとは異なっているのだし、血液の循環やら細胞やら、きみのような天使にはない、そのありかたが、まあ、別に生き物のように生きることがきみのような天使として生きることよりも良いかなんて私にはわからないし、要するに、私は何を言いたいのかわからなくなっちまった。つまりだね、沈下橋に腰掛けた私をきみは、きみが、水に濡れているきみが太陽を背に見下ろして立っている、そのときのきみが大層うつくしいだろうってことだ!
「かれがこうなる度にぼくは毎回こうやって言い寄られているんだけど、一体どうすれば良いんだろうね」
「一発頬を張ってやりゃ良いんだよ。この酔っ払いめ、僕が飲むために出してくるチューハイを片っ端からぜんぶ飲みやがって!」
びしょ濡れになった天使は最初、服がくっついて気持ち悪いからと言って服を脱ごうとするんだが、普段の裸以上にかれを正視できない私に気がついた途端に狡そうに笑い、びしょ濡れのワンピースのまま私の隣に腰掛けてきて、やたらとじゃれついてくるのだろう。ふだんのきみならば決してしないそんな挙措に、私は戸惑いやら羞ずかしさやら喜びやらでいっぱいで、私の服までもが濡れてゆくその過程がしかしまったく嫌ではなく、むしろかれと同じくらいびしょびしょに濡れてしまいたいんだ。じゃれつかれるままかれと同じに濡れてしまうか、或いは一緒にふたたび川へと飛び込んで、もうすべて滅茶苦茶なうちにひどく楽しくなっちまいたい。だが天使は猫のように気まぐれだから、じき私をからかうのに飽きて、服を、身体を乾かすために橋の上に寝っ転がる。さながら天使の天日干しってわけだね、へ、へ、へ!
……きみの足は土の上を歩いても汚れないし、きみの服は橋のうえで横になって乾かしても変なくせがついたりはしない、よろしいね? くせがつかないどころか、ものの数分もしないうちにきみの服も、きみの身体も乾いていて、足にも服にも身体にも汚れの痕跡ひとつ無い。すごいねぇ、と私が言えば、さんざ見せてきた只の奇蹟のひとつだよ、ときみは言う。ああやっぱりきみは人間ではないんだなぁ、と私は幾百度目かの納得をして、それどころかきみがほんとうに天使かもしれないとすら思っている。陽射しで身体を乾かしたはずのきみの肌にフと触れてみれば、しかしひんやりと、葛餅のようにやわらかく冷たくて、(踏みしめる雪、)たとえばきみと札幌へ行ったとして、刺すような冷気の札幌の冬の、人通りの少ない道を歩いてゆけば、降り続ける雪が足跡を消すその道はいつだって処女地のように、きみは冬らしい厚着をして、それこそ靴は冬用のブーツなんかを履いているのだろうが、目に浮かぶよ、路肩の雪の上澄みの降ったばかりのをヒョイと掬えば、その雪はきみの手のうえでいつまでも溶けないままなんだ。鉄格子のように道が張り巡らされたあの街の雪なんかとは比べものにならないくらい白くうつくしい天使の肌の、(と、ここで天使が私の隣に腰掛けて、私にしなだれかかってくる。) ねえサヌキ!、ほら、さっき話した四万十川みたいだね。珍しいからよく見なよ、かれがこうやって私に寄りかかってくるなんてきっと初めてのことだから、珍しいこともあるものだね、こんな幸いが私の生涯にもあるだなんて心底ありがたいことだと思うよ。かれは猫みたいに気まぐれだから、さっきも言ったね、そう、このあいだのことだった、かれがベランダで星を吐き出していたときのことなんだけれどね、あのときも私と天使は、もとい私は酒を飲んで、(と、ここで天使が私に接吻をする。ほんの僅かに触れる程度の、甘い、瞬きのような接吻で、白昼夢、炭酸水のかすかな香料、そういえば私はかれと幾度か接吻を交わしたことがある。夏の始まりに根負けして冷房を初めて点けた晩、大雨の音が部屋を圧し包む夜中、いずれも私は天使を前に酔っ払い、唇の柔らかさ、朝が来る度それを忘れて、次に接吻を交わす度に思い出す、上がらない目蓋の、眠ってしまうには余りに勿体ない今晩は三人の夜だから、もっと話していたいのに、部屋の灯りは急に風見鶏のように揺らぎはじめて、今度は私が天使のほうへと寄りかかる、その私を、受け止めたかれはゆっくりと床へと横たえて、とおい終電車の地響き、目蓋の重さ、今や灯りは遮られて、これ以上起きてはいられない私の、半睡の意識の靄の向こうから、かすかに天使の声が聞こえる。『こうしてやれば静かになるんだよ。唇に睡りを混ぜてやってさ……』)
*
頭のなかで不愉快なラッパが鳴っていた。起きあがろうと叶わぬ努力を続けるたび、うるさいラッパは鋭い頭痛へと変化してゆき、重い頭痛の、頭痛、頭痛なんてさっさとくたばっちまえば良い。
強烈な二日酔いで起き上がれやしなかった。頭痛はもとより嘔気が私を脅かして、さながら表面張力のグラスだった。ただ横になっているだけでも溢れそうな吐き気と不愉快であるのに、少しでも身を動かせば警鐘じみた頭痛がその存在を主張しながらグラスを揺らす。いっそ吐いてしまったほうがどんなにか楽になるだろうと思ったが、便所まで無事にたどり着く自信もない。おまけに床で寝ていたから、身体のあちこちがガタピシ痛み、首なぞはきっと寝違えていた。
天使はとうに起きていた。二日酔いとは無縁の裸体は朝陽を浴びて白磁のようにうつくしく、だがかれを照らす太陽がほんとうに朝陽なのかはわからない。さすがに夕方ではないだろう。嘔気や頭痛をやりすごすため横になったまま、目だけを動かし天使を見ている私の視線にあるときかれはフと気がつくと、こちらへ振り向き薄情な笑みをうっすら浮かべながら、
「おはよう。最高の週末の朝だね」と私に言った。
「サヌキは?」
「とっくに帰ったよ。また会おうってさ。あと『これ飲ませてやれ』って飲み物を買って置いてったよ」
「じゃあ申し訳ないけどそれを渡してくれないかな。動けそうにないんだ」
サヌキの買ってきたスポーツドリンクを飲み、日向ぼっこの天使を眺めながら安静にしていると、頭痛も吐き気も多少は治まり、節々が痛む身体を何とか起こせるくらいにはなった。結局寝違えていた首をいたわりながら、宴のあとの部屋を見回してみれば、ちゃぶ台周りが空き缶やら空き容器やらで散々なことになっていて、サヌキが多少は片付けて帰った様子こそ見て取れるものの、気が滅入るような惨状だった。
片付けをする気分ではなかった。窓のほうへにじり寄り、ガラス片をかじっている天使の隣に腰掛けた。かれは私をチラと見て、すぐに窓のほうへと向き直ると、
「具合が悪いの」と空を眺めながら私に訊く。
「おかげさまでね。ひさびさに楽しい晩だったから、あんなにも飲み過ぎた」
「相変わらず学ばないねえ。夜飲み過ぎて、次の朝苦しむのを何回もやってさ」
「結局私は馬鹿だから」
「だろうね」
窓を見るとあんまりのどかな青空だった。千切れたような小さい雲が浮いていて、窓から見切れて見えなくなるまで追いかけてやろうと眺めていたら、見切れる前に薄れて消えた。
「ねえ天使、ひとつ良いかな」
「なに?」
「私のさ、こんな生涯がずっと続くのかな」
「こんな生涯?」と、かれはガラス片をかじりながら訊き返す。
「つまりさ、こうやって些細な楽しみやら苦痛やらを繰り返していくだけの、むなしい生涯がさ。昨日は楽しい酒を飲んで、今朝は飲み過ぎた後悔に苛まれている。生涯全体がそんな調子なんだ。とくに何もしないうちに土曜日も、日曜日すらも終わっていて、じき不愉快極まる平日が来る。平日を乗り越えたら息継ぎのような土日が来て、それが終わればまた平日。平日、休日、そんなのを何十回、何百回と繰り返しているうちに、だんだん老いて、友達も減ってゆく。今ですらこんな繰り返しに辟易としているのに、今後生涯の不愉快は増すばかりで、悪い冗談のようなこの生活を、それでも生きてゆかねばならないとするならば、」
「そんなことより、ねえ! これを見なよ」
突拍子もない声を出した天使の手元に目をやると、そこにはガラス片がある。
「これがどうしたの」
「よく見なって。ついさっきかじったのがここなんだけど、断面が綺麗だろう」
「ほんとうだ、そこだけ新品のガラスみたいだね」
「こうやってうまくかじるのはコツがいるんだ。もっとも、コツが分かっててもこんなに綺麗な断面が出るかはほとんど運次第なんだけどね」
「なるほど、難しいんだ」
「朝から良いものが見られて良かったね」
「うん、ありがとう」
「それと、きみの人生についてはぼくの知ったことじゃないよ」
「だろうね」
それきり私とかれはしばらく黙って外を眺めた。窓から見える空は今では一面の青空だった。
「そういえば朝だから、いつもみたいにきみに話をしてあげようか。どんな話が聴きたい?」
「教訓もなにもありはしなくて、ゆるやかな、いつもよりすこし長めの話が良いかな。どのみち二日酔いで動けそうにないから」
「じゃあひとりの男の話、きみの言うところのむなしい生涯を送った男の話が良いね。まあ、聴いていなよ」
そう言って天使は鈴の鳴るような声で話を始めて、私はそれを二日酔いの頭で聴いている。何度目かは覚えていない、天使と過ごす土曜日の朝だった。