かえる作文帖

小説(掌編・短編)や随筆などを書いています。読んでくれると嬉しいです。

市役所経由のバス(掌篇)

『市役所前』でバスは停まらなかった。

冬の朝だった。足元のヒーターと晴れた日差しで温まった、いつもどおりのバスの車内の、しかし誰ひとりとして『市役所前』で降車ボタンを押しはしなかった。車掌は「市役所前、通過します」と低く告げ、そうして私が降り立つべきバス停は横目にとおく過ぎ去った。

数ヶ月前から、或いはそれよりももっと前から、労働の日々がひどく億劫だった。職場の前でバスを降りることすらひとつの気苦労に他ならず、『誰かが降車ボタンを押してくれるんなら仕方がないから仕事へ行くし、誰もボタンを押さないならばそれはそれで構やしない、いっそそのままどこまでも』、と、付き合いの長い一種の破滅願望を抱きつつ座っていたら、今朝ついに誰も降車ボタンを押さなかった。

とうとう職場のバス停を無視して、それで何の感慨もなかった。ボンヤリと車内へ目を向けると、(空席の目立つ下りのバス、)『市役所前』が目的地である筈の見慣れた後ろ姿がそこここにあって、スーツやらオフィスカジュアルの彼らがしかし、一体何を考えているのか、私にはまるでわかりはせず、或いは私のように労働がうっすらと厭になっちまって久しいのかもしれない。茫漠とした気だるさの連帯したようなバスの車内で、ただ唯一、今年の春からこのバスで通勤しはじめたらしい新入職員の茶髪だけはキョロキョロと、かき回すように辺りを見まわしていた。(彼だけは未だ生活に押しつぶされていないようだった。)

振り返った茶髪は私の視線を捕まえると、食いつくように、

「あの、今日なんかあるんですか。どうして誰も市役所前で降りないんですか?」

と訊ねた。(バスの車内だというのに、ずいぶんよく通る声だった。)

とくに何があるわけでもない、ふつうの平日だよ、と彼に告げると、

「じゃあどうして先輩は、……同期じゃないから先輩ですよね?、先輩はどうして降りないんですか。いや、先輩どころか、皆さんどうして降りないんですか」

私もそうだけれど、きみはどうして市役所前で降車ボタンを押さなかったの。

「……恥ずかしながらおれは、自分でバスの降車ボタンを押したことがないんです。帰りもいつも駅まで乗るから」

それなら今から降車ボタンを押せば良い。つぎのバス停で降りれば、定時には間に合うんじゃないかな。スマホも持っているんでしょう?

私がそう言うと茶髪は一瞬逡巡したのちに、エイヤ、と降車ボタンを押した。「次、止まります」と車掌は告げ、じき『本町外れ』に停車した。

茶髪はバスを降りる直前、料金箱でicカード決済を済ませたあと、私のほうをクルリと見返し、「先輩は降りないんですか!」と大声で言った。私は彼にヒラヒラと手を振って、加えて車掌も「発車しますから早く降りてください」とやってくれたものだから、すごすごと茶髪は降り立って、バスはふたたび発車した。(茶髪は降車するや否や、スマホを片手に進路とは逆方向へと走っていった。)

……今やバスは市街地からとおく離れつつあった。次は坂下、次は浅間神社前、と、誰も降りないバス停を次々と通過しながら、対向車すらあまり無いような道だった。深山とかいうバス停で、背中の曲がった老婆がひとり降りていった。それでまたバスは発車した。

倦怠以外の何物でもなかった。誰も新しく乗り込まず、ほとんど誰ひとりとして途中で降りやしないその車内で揺られているのはきっと、私のようにどうにも日々が億劫になったせいで、ついぞ降車ランプを押せなくなってしまった勤め人どもの群れだった。終点まで揺られる早朝の亡霊。今さら降車ボタンが何だというのか。

早朝の実感が薄れてきたころ、バスは海沿いの道へと抜けた。始発のバス停からの運賃は優に二千円を超えていた。更にいくつかの停留所を無視してから、バスは海岸前で停車した。

亡霊の旅路は終わった。終点に着いてドアが開き、しかしすぐには誰も降車しようとはしなかった。しびれを切らした車掌が『終点です、降りてください』とアナウンスするに至ってようやく、思い出したように皆ポツポツと下車していった。

海岸のバス停に吐き出された私たちは、ゆっくりと、ひとりずつバラバラに散っていった。誰にも行くあては無いようで、また誰ひとりとして口を開こうとはしなかった。私は道路沿いをすこし歩いて堤防を上り、海へ向かって腰掛けた。

スマホを見ると、着信が5件とsmsが3通入っている。いずれも職場からだった。私は、……もし私が痛快なフィクションか何かの主人公ならば、このまま携帯を折ってしまって、そのまま海へと放擲するだろうと思った。それで私は携帯を海へ捨てることも出来ず、かと言って職場へ電話をかける気にもならなかった。

目の前には海があって、時間は未だ朝だった。……何をする気にもなれない私は、しばらくはただ海を眺めているほかなかった。