かえる作文帖

小説(掌編・短編)や随筆などを書いています。読んでくれると嬉しいです。

自分語り(随筆)

自分語りなんてものはまったく、語る側からしてみれば楽しいのかもしれないが、聴く方からしてみればこれほどつまらないものはなくて、とくにそれを語っているのが聞き手にとって大して興味のない人間だったならば尚更のこと、くわえてその語りぶりが冗長極まりなく、内容も凡庸なものでしかないときたら、それはもう、いたたまれないほどの苦痛である。たとえば君ら、酒の入った僕が君らに向かって滔々と、長々と自分語りを始めたら、君らきっとはじめは困惑し、すぐに飽きて、次第に相槌も適当に、しまいには僕のことなど適当にあしらいながらスマホツイッターしはじめるんだろう。或いはもっと直截に、興味ねぇから、って僕を突っぱねる。とうぜん僕は不満足だ。もし僕がどうしても誰かに自分のことを語りたい(かつそれを聴いて反応してほしい)ならば、然るべきお店に行って安くないオカネを払い、そうして出てきたオネエチャンに自分語りをするほかない。

僕みたいなゴミカスにとって承認欲求を満たすのは至難の技である。ならばゴミカスはゴミカスらしく承認欲求など捨てて、ツツマシヤカに生きるべきだ。ツツマシヤカに、そうして誰からも疎まれずに生きたいならば、誰かに自分語りなどふっかけてはならない。地蔵のようにあれ。地蔵のように謙虚に微笑み、苔むして、忘れられてゆけ。そうして誰の目にも入らない場所で朽ちていってくれ。

……いやそんなことはたぶん無理だ。承認欲求を捨て去れるものか。座禅は三分で飽きる。賢者モードは三時間も続かない。そもそもこの世にある言明は、ごくごく一部のものを除いて全て承認欲求に基づいている。「やっと承認欲求なくなったよ〜v( ^ω^ )v」って呟いていいねを稼げ。解脱したことを自慢して回れ。

さて、どうしても承認欲求が捨て去れないならば、つまり自分語りなどをしたいならば、なるべく周囲に迷惑をかけず、かつ語る側の人間も満足のいくような方法を取らねばならない。例えばそれは、タイトルを「自分語り」などとして誰も読まないブログに書き連ねておけば良い。自分語りをする側は、自分に興味を持った誰かがそれを読み「うる」、という点、可能性で満足しなければならない。そうしてツイッターに「自分語り」をブログに更新したよ、とリンクを貼る程度のことは許されよう。長々と聴かされるよりはマシだ。

ところでSNSをやっている人間はきっとみな、三船敏郎似の大金持ちが「君のブログもツイッターも全部読んだよ、何遍も読んだ。そうしておれは君そのもの、ありのままの君に惚れ込んだ。どうかおれと仲良くしてくれ」なんて言ってくる、そういう可能性が実現するのを待っているのだ。あるいはこれほど大げさでなくとも、「ありのままの」自分だとか「ほんとうの」自分だとかいうものをSNSをとおして知ってほしいのだ。そうでなければ他人からこう見られたいという自分をSNSで演出する。或いはその複合体。私は間違っているか?おれは違う、おれはそんなつもりでSNSをやっているわけじゃない、とおまえはそう言い切れるか?本当か?お前の言明のほんの片隅にも衒いや見栄や顕示欲がまったく無いと言い切れるか?私にはあった。お前は三船敏郎と知り合いたくはないのか?私は三船敏郎と知り合いたかった。

 

ここまでしょうもないばかり書いた。ここからもしょうもないことばかり書く。ただしょうもないことの性質が変わるだけだ。

幼い頃から今に至るまでずっと人見知りだった。或いは新たな環境に溶け込むのが非常に苦手だった。最古の記憶は幼稚園の、おそらく入園したての頃の記憶で、朝の幼稚園の玄関口で私は母に、半泣きになりながら何度も確認したものだ、絶対迎えに来てね、早く迎えに来てね、と。オジギソウが置いてある幼稚園だった。

小学校に入学するとき、最初の小学校では居住地区ごとに集まって登校する形式だったから、入学前に渡される班登校の名簿を見ながら、この子も一年生だから友達になれるかなあ、だとか、そんなことを始業式、つまり実際に登校することになるまでずっと思い悩んでいた。二年生の冬に転校した二つ目の小学校では班登校が無かったから、尚更友達が出来るか不安だった。また転校生として知らない人らの前で自己紹介することについてもひどく怯えていた。

幼稚園生、小学生低学年くらいまでの人見知りは可愛いものだが、歳を取ってからのそれは明らかな欠点でしかないし、ときに人を不快にもさせる。中学校に入学したてのころの私も相変わらずの人見知りで、誰に話しかけるわけでもなく、孤立していた。周囲の人間関係が出来上がってゆくなか、どこにも馴染めず、やることもないし、休み時間には自分の席でひとり黙って生徒手帳を読んでいた。馬鹿か?

大学に入っても人見知りだった。この頃にはもはや人見知りはコミュニケーション能力の明らかな欠如を伴って、入学してすぐのクラスオリエンテーション、私の隣の席にいたT舘くんが折角話しかけてくれたにも関わらず、私はよくわからない返事をして会話をすぐに終わらせた。のちに親しくなったT舘くんとそのことをめぐって話していたとき、当時の私について彼は、「この人は会話を膨らませる気が無いんだろうな」「仲良くなれないと思った」「これきり二度と話さない気がした」などと思っていたと告げた。(何の因果か知らないが、結局私は大学の同級生のなかではT舘くんといちばん親しくしていた気がする。彼の生涯に幸多からんことを。)

さて、人見知りの愚図だった私だが、小学校、中高、大学、いずれの学生生活もどういうわけだかそれほど悪いものではなかった。小学生の頃はどちらの小学校でも上手くやれた。運が良いことに私は頭がそれなりに良く、足もそれなりに速かったから、けっこう愉快な六年間だった。私の人生で最も楽しかった時期だろう。小学校四年生くらいの時分にトラックにでも撥ねられて死んじまえば良かったのに。(つまり私は幸せの絶頂で死にたかった。行く末までは難ければ、だ。)

中学校でも私の生活はそれほど悪いわけではなかった。なんだかわからないうちに知り合いが出来、よくわからないうちに交友関係が広がっていて、それなりの学生生活の出来だった。偏差値にすれば四十五くらいの学生生活だった。中高一貫だったから、高校生活もその程度の、つまり悪すぎはしない出来だった。

中学高校時代のことは多少記憶に残っている。たとえば高校一年生の文化祭で、私には出番も、観に行きたいものも、一緒に文化祭を回る相手も居なかったから、舞台と化した教室の裏側、そのすみっこで体育座りしてずっと『はだしのゲン』を読んでいたのだけど、そんな惨めな私に当時好きだったひとが話しかけてきて、「ずっと漫画読んでるね」って話しかけてきてくれて、要するに、好きだったひとが私に話しかけてくれたんです!突然!私は嬉しいってよかびっくりしちゃって、そんで私は既に人見知りを拗らせていたもんだから、会話を膨らませばいいものを、エエだかウンだかそんなよくわからない返事だけして、それきり、好きなひととの会話は終わった。……馬鹿か?

好きだったひとについては今なおたくさんのことを語りうる。当時好きだったそのひととは最後まで親しくならなかった。それにも関わらず彼女について語れるのは、そもそも私に異性と接する経験がふつうのひとの五十分の一程度しか無くて、これは誇張しているわけではない、ほんとうにそれくらいしかないんだ。だから、僅かな異性との接触、それもとりわけ好きだった異性のことは非常に記憶に残っている。私はその記憶を、海馬に刻み込まれた彼女の記憶を、何度も何度も指でなぞるように反芻する。

たとえば、席替えで彼女が私のふたつうしろの席になったことがある。ある日、私のすぐうしろの席の男が休んで、そういうとき、つまりあいだに空席がひとつ出来たとき、プリントを回す際に後ろを振り向き手を伸ばすようにして回さなければ届かないのだけど、あれは古典の時間だった、手を伸ばしてプリントを回すために後ろを振り向くと、瞬間、彼女と目が合って、好きなひとと目が合った、それだけで私はもうじゅうぶんに幸せだったのだけれど、そのときの彼女の目にはちょうど日光が射していて、黒いものだと思っていたその瞳は、陽の光が射すと明るい茶色をしていたんだ。その茶色い瞳を見ると私の心臓はひとつ高い音を打ち、私は射すくめられたかのように、……いや、まあ、つまり、私はそういったことばかり覚えている。そういったことならいくらでも話せる。だがやめておこう、彼女がこれを読まないとも限らない。

文化祭関連ではもうひとつ話せることがある。高校三年生の文化祭で、そのクラスでは私はほんとうに居場所が無かったから、舞台裏に篭っているわけにもいかず、仕方なしに新しい校舎の5階の隅の、人気のないトイレに数時間篭ってスマホいじって時間を潰していた。文化祭の日にそんな場所でそんなふうに時間を潰しているのが非常に惨めだった。しかし後日そのことをネタにして話す程度の知り合いは居た。だから私の高校生活はまるきり最低ではなかったと信じたい。

しかし高校の卒業式の日はひとりでそそくさと帰った。中学高校六年間をとおして親友はひとりも出来なかった。彼女も出来やしなかった。とんでもない。出来る筈がなかった。別れを惜しむ相手すらも居なかった。

ちょうど良いことに今手許に、卒業式の日の帰りの電車のなかでひとり、スマホに記した文章がある。以下に丸ごと引いてみよう。

 

"高校の卒業式が、今日だった。
中学高校と一貫校に通っていて、私にはたくさんの知り合いが出来た。
今日、ホームルームが終わったあと、ほかの生徒は教室の中外で、仲のいいもの同士、歓談していた。
そこに、私の居場所は、無かった。
私にはたくさんの知り合いが出来たが、ただの一人も、友人は出来なかった。
親しい同士で語り合う、教室を、廊下を、靴箱を、逃げるかのように急いで抜けた。靴を履き替えている時に、通りかかった知り合いに、「じゃあな」と云われた。それが却って悲しくて、昇降口を転がり出た。
校門前でも、親しい同士はそこに居た。目を伏せて、背中を丸めて通り過ぎた。
私の前に、私のように一人きり、淋しく帰る人が居た。話しかけたくなった。抱きしめたくなった。ふと彼の手許に目をやると、うぐいす色の手提げの中、綺麗な花束が入っていた。彼は、一人きりでは、なかった。哀しみは深く深く沈んだ。
今、電車に乗っている。同級生の姿は無い。皆が親しく学校で、別れを惜しんでいる、その間、私は一人、ひとりきり、電車のなかでこんなことを思っている。淋しいのは私ひとりだけで良い。恨むのも、羨むのも、すべて、疲れた。"

 

さて、私の中高生活が悪すぎるというほどのものではなかったことは以上に示したとおりだが、同様に私の大学生活も、最悪というまでには至らないものであった。この頃、つまり大学へ入学する頃には、私の狷介もだいぶ現在のそれへと近いものとなっていたが、それでもまだ一縷の希望と小指の先ほどの積極性は残っていた。だから私にしては珍しく、オリエンテーションの日、一人の男に声をかけた。その後、彼と私にあと二人を加えた四人の面子でその日のうちに飯を喰い、そこを起点に交友関係が広がっていった。(ところで私が話しかけたその男とは今では全く疎遠になってしまった。彼はどうしているのだろう。しかしまあ、ふたたび会うこともあるまい。元気にしていれば良い。)

サークルには入らなかった。サークルに入るほどの積極性は私には無かった。既成のコミュニティに割って入るほどの図太さが無かった。愛想良く振る舞う手段、ひととの話を膨らませる方法を知らなかった。雑談の種も無かった。鈍重そうな図体をした繊細なノミの心臓、それが私だった。(もっとも今ではその繊細さすらも残っておらず、今の私は思い出に縋る醜い野暮天でしかない。時折追憶にふけっては、もはや頭陀袋に成り下がった心が雑に痛む箇所を探り、そうしてその痛みの位置をよすがとして、かつての感性を不細工に再演するほかない、そんな、三流詩人のなり損ない、惨めな唐変木が今の私だ。)

サークルには入らなかったものの、ときおり集団で旅行に行ったり、鍋を囲んだり、釣りに行ったりはした。オリエンテーションから広がった交友関係の、数少ない知己がなにかと私を誘ったりしてくれたためだ。今や無気力で愚図なウドの大木たる私が、それでもいくつかの「大学生らしい」思い出を持つに至ったのは、彼らが私の世話を焼いてくれたためである。人間的に成熟している連中ばかりだった。

私がどれだけ惨めでかつ彼らがどれほど成熟していたかを示す良い話がある。ある冬の期間、私は私の友人らに有料で夕飯を依頼していた。と言うのも、私があまりに家事が出来ず、つまり何の料理もまともに作れないために、夕飯はお年玉貯金を切り崩して外食やコンビニでの豪遊で済ませてきたのだが、そんな貯金も底をつき、寮で頼める飯も割高だから、つまり、現実的な値段で健康的な食事を提供してくれる人々が私には必要だった。私は私の大学の知己らにそれを話し、彼らは平然と引き受けてくれた。それからしばらくの間、夕方になると私は彼らの家に向かい、持ち回りで提供される彼らの夕飯を食した。美味しかった。そうしてそれは私が帰省するまでのあいだ続いた。(もっとも今では夕飯くらいは自分で作れるようにはなった。鍋である。白菜とネギとトーフとモヤシ、シメにはウドン。寮ではこれを毎晩食うようになった。変わることなく毎晩そうしていた。手間をかけるのが面倒だった。レパートリーを増やすなんてもってのほかだった。健康は損なわれるが気にしなかった。大学付近の寮に戻るたび体調を崩し、帰省するたび体調が良くなるのを繰り返した。……馬鹿か?)

大学の知己らと共に普通免許を取りにも行った。温泉地へ合宿免許を取りに行った。私たちはそれをすこし楽しみにもしていたんです、合宿免許であることを抜きにしても、温泉地の旅館に二週間も泊まることなんてきっとこの先無いだろうから、だってそれは、まるで、明治時代の文豪かなにかのようではないか?

甘かった。合宿免許がそんな優雅なものである筈が無い。あれはほんの浅めの地獄だろう。給食を残した小学生がのちに入ることになる地獄。

まずそれは旅館とは言い難かった。いや確かに旅館ではあったのだろう、そう、それは旅館で、もし私が普通の旅行客として泊まりにきたならばそこは旅館であったのだ。もとい、旅館という側面だけを見るだけで終わったのだろう。だが我々は旅行客ではなかった。単なる合宿免許生だった。合宿免許生を旅行客の如く歓迎する理由など無い。合宿免許生は懲役刑受刑者である。

我々の部屋は正面玄関から入り、長い廊下を抜け、急な階段を上り、傾いた廊下を抜け、その果てにある狭くホコリじみた黴臭い和室だった。その和室に七人で詰め込まれた。風情もくそもありはしない、男子大学生のごった煮だった。部屋の鍵は壊れていた。

我々は三人組で行ったのだが、我々と同室に詰め込まれた四人組が曲者だった。奴らは毎晩毎晩深夜まで酒盛りをした。ほんとうに。一日か二日を除いて、毎晩。翌日の起床が早朝であろうが我々がもう眠ろうとしていようがお構いなしに酒盛りをし、騒ぎ散らした。私は睡眠薬を持っていたから明るさにも騒音にも煩わされず眠りにつくことが出来たが、あとの二人はなんとも可哀想だった。一度などは奴ら、つまりあの四人組のなかの二人、深夜に殴り合いの喧嘩をおっぱじめた。我々が寝ているまさにその部屋の中で。大馬鹿者だと思った。知己は喧嘩に巻き込まれそうになり(頭を踏まれそうになったのだ)ビクッと飛び起きた。それを見て私はすこし笑いそうになった。

飯もひどいものだった。だが、泊まっていた処の嫌なことばかり羅列しても仕方がない。旅館、もとい、合宿免許中に宿泊していた施設の話はもうやめよう。

私にとっては日中も、つまり教習所に居るあいだも苦痛だった。どうやら致命的に運転センスが無いようで、何度も何度も叱られた。どうあがいても左回りで脱輪した。分離帯を越えているかどうかなんてわからなかった。植え込みに車を擦った回数も両手におさまりはしない。サイドミラーは言われたとおりに見るが、サイドミラーが示唆する状況なんて瞬時に理解できやしなかった。ほかの人の教官はあらかた固定されているのに、私だけ何度も何度も教官が変わった。そうして運転するたびに叱られるかため息をつかれた。

もうずっと帰りたかった。合宿をやめてしまおうと退校手続きまで調べた。もともと運転するつもりはなくて、ただ最強の身分証明書をとるだけのつもりで来たのだから、こんなにも辛いなら早々に諦めてしまおうと思った。一緒に合宿免許に行ったTとIに何度か泣き言も言った。Tは慰めてくれた。Iはポケモンgoに夢中だった。

それでも奇跡的に、ふたつの実技試験もひとつの筆記試験もダブらずに乗り越えて、最短期日で必要課程をすべてこなした。二週間の懲役は終わった。もうこの土地には二度と来るまいと思った。今では結局運転免許証は単なる身分証明書でしかなくなった。何のための二週間だったのか?(ただ、運転中にとおく見える雪の山並みはなんとも綺麗なものだった。)

 

別の話をしよう。私の退廃の話だ。

最初に私にそれを教え込んだのはSだ。彼には大いに反省していただきたい。彼は私の中高の時分の同級生で、別々の大学に入ってからも帰省するたび都合が合えば会っていた。彼とひさびさに顔を合わせたある日、居酒屋で飯を食い酒を飲みそれなりに愉快に歓談したのち、店を出て二人肩を並べて歩いていると、ふとSは立ち止まり、悪戯っぽい笑顔を浮かべて、ある下卑た建物を指差した。私はそれまでそんな処に足を踏み入れたことがなくって、でもそういう、いかがわしいことにも少しだけ興味があったものだから、出歯亀根性、頬を赤らめて頷いた。そうしてSと私はそこへと足を踏み入れた。すべての萎靡のみなもと、頽廃の巣窟。私の処女は失われた。はじめての相手はジャグラーだった。

一杯目は杭のように、二杯目は鷹のように、三杯目は小鳥のように!なんて慣用句がロシアにはあるらしい。これは酒についての慣用句だが、しかし何事もはじめこそが杭を飲むように最もなし難く、そうしてそこを乗り越えてしまえば、かつまたその初体験で悪くない思いなどしてしまえば、あとはもう、なし崩しに、私は鷹を飲み込んで、小鳥を飲み込み、そうしてもう、スロットは我が命のともしび、我が肉のほむらと化した。初体験からそうなるまでにそれほど時間はかからなかった。常日頃からスロットを打つようになっていた。

長期休みに帰省すれば、毎朝スロットを打ちにいった。開店早々店舗に入場、そうしてなんの根拠もない台を打つのが好きだった。平日の朝のガラガラの店内、澄んだ空気のパチ屋のなか、パンクロックを聴きながら打った。そんな立ち回りでは勝てるはずがないのに、不思議とうまくいっていた。

スロットで勝ったぶんを旅費として、金沢へひとり旅に出たこともあった。私は吉田健一が好きだったから、彼の愛した金沢の土地を見て回るのが悲願だった。金沢に早めに着き、ホテルへのチェックインまでの合間のほんの二時間、暇つぶしのつもりで打ったスロットに、現地での旅費のほとんどを飲まれた。三泊四日の旅だったが、何もかもが嫌んなって、ずっとホテルに篭っていた。気が狂っているとしか思えなかった。

旅先で打つスロットは、しかし素晴らしい結果をもたらしもした。大学三年の夏休み、高校の時分の同級生らと四国をめぐる旅に出たとき、栗林公園を見に行く彼らと別行動で私だけスロットを打っていたことがある。と言うのも栗林公園には以前行ったことがあったためで、しかし、ほんの二時間足らずのあいだに四国の旅費のほとんどがスロットマシーンから還ってくるとは思わなかった。あれほど気持ちの良い経験は無かった。ああいう展開のスロットをふたたび打ちたい。

勿論スロットで苦しみもした。とくに大学の学期中に有り金をほとんどスッてしまった時などは深刻で、次の仕送りまでギリギリの生活を余儀なくされた。酒を飲むことすらままならなかった。どうにも我慢できなくなって、酒代にしようと古本まとめて売り払い、二千円ちょっとの現金を手に、だが、札が財布の中にあると、抗い難い引力が生じ、催眠にかかったかのようにふらふらと、引き寄せられ、次の瞬間にはもうスロットマシーンを前にして、かつてあんなに愛した本たちを売り払って手にした二枚の千円札を、打ち尽くして、何も残らず、茫然としている私が居た。この時ばかりはいたく沈んだ。

このように切羽詰まっているときに打つスロットは辛かったが、ある程度の余剰がある際に打つスロットはまぁ楽しかった。大学に講義を受けに行くはずが、いつの間にかパチ屋の方に足が向かっていた。そんなことが二度三度、もとい数え切れないほどあって、大学三年生の時分の取得単位はあまりに少なかった。だが楽しかった。先のことなど何もかも見ないふりをした。すかすかの時間割を踏みつけて打つスロットは心地よかった。その結果私は大学を四年で卒業するには至らなかった。言いようもなく愚かだが、馬鹿であるとは思わない。ゆっくりと破滅していくことへの焦燥混じりのうれしさは、その渦中にある心地良さは、他の何にも替えがたかった。

 

 

頽廃といえば、私は異性とふたりして頽廃するようなことを望んでもいた。あるいは心中、あるいは逃避行、あるいは講義をひたすらに無視して黄色い太陽を見るようなことをしたかった。とうぜんそんなことは叶うはずがなかったが、それだけに非常に恋い焦がれもした。

いくつか引いてみようか、どんなふうに私が異性を恋焦がれていたか、そうしてどんなふうに絶望していたか。

 

"煙とシューゲイザーで充しきった部屋でウイスキーを舐めながら、言葉もなくふたり、疑ぐるような視線を交わしつつ、現世と地獄のふれてとけあう接点のこの部屋で、おれと少女がふたりきりで沈黙しきっているような、そんな、ことをしたかった、おれの大学生活に、少女のたったひとりきりが足りずにいる"

 

"ほんとうにおれは誰からも愛される経験なしに、大学生活までも終えてしまうのか。いちおうあと2年残ってはいるが、もう、なにも起こらないのは確実で、終わるのか、おれのモラトリアムは。愛のひとつも知ることすら出来ず、今よりももっと辛く長い懲役のような人生が、おれの前に、あと何十年も "

 

"旅に出て、行きずりの女と心中したい。私のように救われない愚図で、とかく悲観的な女と。

心中の直前、「つまらない人生だったね」なんてお互いに言いあっている、そんな瞬間だけは幸せだろう。

いざ死ぬ段になって、二人とも怖くなって逃げ出してしまっても好いし、或いはそのまま死んでしまっても構わないんだけれども、誰も追いかけやしないのに死にたいくせして二人どこまでも生きる為に逃げ続ける、そんな逃避行も好いと思う。

連れだって夏、ひたすらに逃げて、もう終末がすぐそこのような寂れた港で、二人してバーやなんかをつくって、ひっそりと、息を殺して、けれども自適に暮らしていけたら、もうこれは私のある種の理想の生き方であるみたいだ。"

 

 

 

頽廃というほどのものではないが、講義を一週間丸ごとすっぽかして、四国へ一人、旅に出たことがある。大学二年の六月のことだ。

もともとそういうことがしてみたかった。つまり、逃避行のような、今の何もかもを投げ出して、永遠に、あるいはしばらくの間、どこか遠くに行くようなことがしたかった。そうして当時の私にはまだ金が有った。スロットを覚える前だったから。

まず札幌から神戸に飛んだ。旅のはじまりはいつだって楽しい。とりわけそれが背徳的な趣きを含んでいるなら尚のこと良い。今にして思えば講義を一週間サボるくらいまったく大したことではないのだけれど、当時の私にはそんなことですら一大事のように思われたのだ。そうしてそれを心から楽しんでいた。

神戸からは高松までの夜行フェリーだった。夜行フェリーに一人で乗るのも初めてだった。夜行フェリーの待合所の雰囲気が好きだった。誰も彼もみな黙りこくって、平日の夜中にこんなフェリーに乗って行く、きっと彼らも逃避行だ。私は彼ら全員に微笑みかけたく思った。どうか素晴らしい逃避行を送って下さい。すんでのところで話しかけるのを思いとどまった。

……別に時系列順に出来事を羅列していく必要も無いだろう。要するに、当時の私が四国においてやることなすこと何もかも、四国という土地の良さに加えて、逃避行としての性質をも帯びていたために、ふつうの旅行として以上の楽しみをもたらしてくれた。たとえば四万十川沿いをレンタサイクルで下っていったあの素晴らしい朝だった、道中でいくつかの沈下橋を渡ったり、そう、沈下橋は前々から一度は目にしたい、渡ってみたいと思っていた処だったんです。昼前の青空のもとでしずかな碧いろをした四万十川、その上にかかる沈下橋を自転車で渡る。その事実、そんなことを、前々からずっとしたいと思っていたそんなことを、現にいまこうして、私がやっているという、そのことが言いようもなく幸せだった。まるで永遠の現在だ、これまでの生涯はすべてここに収束するために存在していたのだとすら思われた。そんな全身の幸福を更に上乗せるのが逃避行であるという事実、つまり、私が今こうして青空のもとうつくしい川沿いを下っているその一方、大学に居る彼らは、生温かい教室にすし詰めにされ、退屈極まりない概論の講義を受けている、私が青空のもとでこんなにも解放されているにも関わらず!私はたいそう幸せだった、私の生涯であれほど幸せだった一週間はそう無いだろう。四万十川のうつくしさ、瀬戸内海の街の雰囲気、きっとふたたび来ないだろう街で美味しい肉うどんをすすり、清潔なホテルに戻り、眠る。誰も私を知らない。この開放感!私は充たされていた。あのように充たされることは今後どれほど生きていようが決して無いだろう。今の私には若さも感受性も無い。あれほど全身でなにかを謳歌することはもはや有り得ない。

 

心の底から楽しかったと言えるような旅はしかし、私にはもう一つだけ存在する。大学二年の夏休みの沖縄旅行だ。これは一人で行ったのではなく高校の時分の同級生ら数人と共に行ったものである。何とも奇妙なことに、その時一緒に旅行した彼らとは在学中それほど仲良くはなかった。卒業してから親しくなったのだ、もとい、彼らが私に親しくしてくれていた。とくに、Y田とMとAとはその後も何度か旅行や飲み会を共にした。

沖縄旅行は彼らに誘われての旅行だった。一人では決して沖縄には行きはしなかったことだろう。また一人で行ったところでそれほど楽しむことは出来なかっただろう。一週間もの間、ひたすらに酒を飲み、飯を喰らい、下らない話をして笑い、街を歩き、海に入り、とにかく放埒で心地の良い一週間だった。在学中はそれほど親しいわけではなかった彼らとの旅行なのに、どういうわけだかしっくりと馴染み、打ち解けていて楽しかった。はじめて煙草を吸ったのも沖縄でのことだった。

沖縄でのあの一週間に戻れればどんなにか良いだろうと思う。たとえば沖合に泳ぎ出てそこで一人、波を枕に仰向けに、目を閉じてプカプカ浮くことの心地良さったら無かった。浮くのに飽きて砂浜に戻れば、彼らはそこで喋っていた。あるいはMを砂へ埋めていて、そうして私も気兼ねなしに、冗談のひとつでも言いながらそこへ溶け込んだ。夕方に、海から街へと戻るバスに乗れば、心地良い倦怠感を溶かすような雰囲気に、目蓋が重く下がってゆき、半睡の状態で揺れるバスの振動がどうにも心地よかった。夜になれば泡盛で酒盛りをした、きっとあれほど愉快な心地で酒を飲むことはもう無いだろう。旨い酒と旨い料理と気のおけない知己が居ればなにも言うことなしだった。すぐに眠ってしまうのがもったいなくてみんなして深夜に出かける散歩も良かった。「ふかす」やりかたではなくて肺に入れる煙草の吸いかたを直ぐに教わった。葉巻をひと口吸わせてもらったりもした。煙草を吸うと快楽の日々のきわでまた一歩堕落したような気がして、それもまたなんだか嬉しかった。

楽しい日々はすぐ終わる、悲しいことに。旅が終わると我々は空港の駅で一本締めをして別れた。あれきりもう、私の生涯の最良の日々は永遠に過去のものになってしまった。

沖縄での一週間、我々はみな大学二年生だった。若かった。ただ若いというだけではなくて、我々の将来の明暗がはっきりと分かれてはいなかった。たとえばMは公認会計士になって、かたや私は留年の愚図だ、今では。しかし当時はまだ我々は単なる大学生でしかなかった。時間が経ち、明暗が分かれ、社会的地位も分化して、そういうふうに我々の歯車は少しずつ噛み合わなくなってしまうのだ。僅かな乖離はこれから先もどんどんと大きくなってゆき、たとえば今、かつてと同じ面子でふたたび沖縄に行ったとしても、あの日々ほどに楽しくはないだろう。或いはいくぶん後悔する羽目にすらなるかもしれない。かたや輝かしい将来が待っている連中、かたや過去の追憶にしか縋るべきものがない私、不可抗力的で散漫な、そんな乖離は我々を否応なしに引き離して、我々はもう、お互いによそよそしくなってゆく。もはや在りし日の面影すらもはっきりしない。かつてあれほどまでに気心の知れたように思われた彼らとの、その思い出が錯覚であったようにすら感じられて、しかしあの沖縄での日々は、たしかに、この上なく愉快なものであった筈なのだ。私の生涯の、たいして良くもない私の生涯の、最良の日々がそこにはあった筈なのだ。

 

誰も読みやしない自分語りを長々と続けていったい何になるのか。もう何も言うことはない。