かえる作文帖

小説(掌編・短編)や随筆などを書いています。読んでくれると嬉しいです。

悪趣味な遊び(掌篇)

エッちゃんとサチがいつものように通りすがりの中年おやじを馬鹿にして遊んでいると、とうとう一人の逆鱗に触れた。そいつだって最初はほかの気弱な中年連中と同様に、私たちみたいな生意気な女子高生になす術もなく、怯えたように歩き去ってゆくばかりだったのだけど、しょぼくれて足早に離れゆく背中にサチの煽り文句、「そんな惨めな中年なのにどうして自殺しないんですかぁ?」とかいうそれが、どういうわけだか深く突き刺さってしまったらしい。急に踵を返した中年の顔はすごい形相で、吠えながらこっちにやってくる。怨嗟の叫びは言葉になって、

「聞きたいか! おれみたいな醜い、おしまいのような中年、先の見えきった中年が、それでもなお首を括らずに生き続けている理由を、お前ら、小娘ども、教えてやろうか!」

怒髪天の中年とは対照に、エッちゃんとサチはあまりに軽やかだった。ヤバいヤバい!、おっさん来たよ!、ってはしゃぎながら、小狡いネズミか何かのように、あっという間に逃げていった。けれども私がその逃走の群れに加わらず、それどころか立ち尽くしたまま動かないでいるのに気がつくと、ふたりの嬌声は悲鳴に変わった。(ユキ!、何してんの! キレたおっさん来てるよ!) 中年は私のすぐ目の前までやって来た。人気のない道の、とおく離れた安全圏からエッちゃんとサチが叫んでいる。

中年は、お前か!、と一声あげて私の両肩を掴み、前後に私を揺さぶって言う。

「お前か! 小娘、おれを馬鹿にしたお前ら小娘に、おれが! おれみたいな惨めなのが、お前らのような女子高生からしたら虫けらほどの、糞虫にも劣るこのおれが、便所虫が、どうして惨めたらしく生き続けているのか、教えてやろうか! ああ!」

真っ赤な顔してそう叫ぶ中年に、私は、

「ええ、教えてください」

かれの目を見ながらしずかにそう言うと、瞬間、中年の思考は化石したようだった。中年は私の両肩を握ったまま、私を前後に揺さぶるのをやめ、

「ええ、ああ、……教え、……知りたいのか?」

「はい、聞かせてほしいんです」

中年は私の肩から手を離し、呆けたように私を見ている。

「ああ、……そうか。ええと、」

エッちゃんとサチの声はすでに聞こえなくなっていた。私を置いて行っちゃったんだろう。薄情者め。

 

どうして首を括らずに惨めな生涯を続けているのかと訊かれれば、首を括るだけの覚悟がないためと言うほかなかった。いま同様に惨めであった大学時代、だが今よりは若くはあったあの時分、首を括ろうと本気で試みたことがあったが、ロープに首を通すところまでは行ったものの、最後の一歩が踏み出せずにやめた。ならいよいよ首を括る覚悟が出来るまでは生きてやろうと、こんなしょうもない生涯を我慢して続けているうちに、踏ん切りがつかないまま今に至ってしまった。こんな惨めな、醜悪な中年になるまで生き延びるつもりは毛頭なかった。だのに首を括る覚悟は今なお持てずにいる。あまりに惨めなこの生涯の、おまえらの言う通り、おれはあまりに惨めな中年だ。

そうやっておれの生涯があまりに惨めで畢竟続けるに値しないものであると自分自身でも判っているにも関わらず、おまえの友だちの小娘ども、品性も知性も美しささえ持ち合わせていやしないのに単に若いというだけであれほどまでに傲慢な、不愉快極まる連中に、とうとう我慢が効かなくなった。おれ自身この唐突な情動をハッキリと理解しきれずにいるんだ。(……ああ、おまえはあの連中と一緒に居ただけでおれを大して罵倒せず、それなのにおまえの肩をあんなにも強く握ってしまって、あの小娘どもと同列のようにおまえを憎んで、まったく済まないことをした。)

この歳まで首を括れずに来てしまったおれにも、ひとつの別の死が訪れつつある。或いはおまえらに感謝するべきかも知れなくて、と言うのもじきにあの不愉快千万なオトモダチ連中が、警察を連れて戻ってくることだろう。それでおれの『まともな!』生涯は終わる。おれは無垢で無実な女子高生に掴みかかった卑劣感に成り下がり、……いや、しかしおまえの肩を握っただけではおれの死まではいささか遠い。なあ、おまえはそうは思わないか?(おれを見るおまえの目は黒く美しい。) 単におれはおまえの肩を握っただけで、これではあまりに執行猶予だ。留置所、いや拘置所で、或いはそこでのお勤めを終えてから、おれが全き卑劣漢として、いよいよ八方塞がりの首を括る覚悟を決めるためにも、もし嫌でなければおまえ、おまえはきっとおれのため、惨め極まる中年の社会的自殺のために、ほんの少しだけ協力して、今からおれがお前になす不愉快を我慢してくれないか?

おれがそう訊くと、目の前の少女はエエ、構いませんよと、いとも涼しげに言ってのけた。この黒髪の、長い髪でひややかな目の少女は、……しかし、彼女がどういう積りなのか、おれにはまるでわからなかった。

 

 

中年の言うとおり、じきエッちゃんとサチは戻ってきた。とおくから何度も私の名前を呼びながら、警官を連れて走ってくる。

「来ましたね」

「ああ。それじゃあ、ごめんな」

そう言って中年は私を抱きすくめた。(よれよれの上着とシャツの、濡れた犬のような匂い。)エッちゃんとサチは悲鳴だった。警官も怒号をあげている。

「これで良いんですか」と、中年の胸でモゴモゴと言うと、

「いや、もっと明白にやっても良いかい」

「構いませんけど」

それを聞くと中年は私の抱擁を解いて、私の頭を両手で掴み、貪るような口吻をした。(瞬間、エッちゃんもサチも警官も息を呑んで、時が止まったようだった。)ふたりの顔がひとつになってしまいそうな烈しい口吻は、警官がかれを引き剥がすまで続いた。

 

今や中年は警官に押さえつけられて地面の醜いひとかたまりだった。歪んだ顔を真っ赤にして、何やら大声でわめいている。サチは地面にへたり込んで、大泣きしながら、ユキごめんね、ユキごめんねと繰り返す。エッちゃんは幾度も私に何かを言いかけ、そのたび言葉が出てこない。

「死んでくれればいいんだよ」

私がそう言うのを聞くと、サチの泣き声はいっそう大きくなった。エッちゃんは、そうだね、あんなクソジジイ、死んじゃえば……、と語尾も不明瞭に呟いた。

「ほんとうに、死んでくれたら良い」