前半はこちら
https://fog.hatenablog.jp/entry/2022/09/07/171459
*
あなたはもう気がついているだろうか。私の視野は彼女に向けて急速に狭まりつつあった。きっとあなたは気がついているだろう。いま、これを読みながら、あなたは私の語りかたの変化に違和感を抱いている筈だ。彼女が私から日常を剥ぎ取って捨てていったように、私は私の語りから広がりを捨ててゆきたい。或いはあなたはそれを退屈に思うかも知れない。我慢して読んでくれれば良いと思う。さあ、話を続けよう。
夜だった。それで私たちは一軒のビジネスホテルを見つけた。彼女はここに泊まるという。彼女がそう言ったから、つまり私だって今日ここに泊まるのだ。
「ここにしましょう。あんた泊まりますって言ってチェックインしといてね。出来る?出来るわよね?宜しくね。あたし明日着る服を買ってくるわ。あんたのシャツのサイズはLで良い?」
「ええ、それで構いませんよ、お願いします」
そうして私たちは一旦別れた。私は彼女が言ったとおりにこのホテルと宿泊契約を結ぶ必要があった。
ロビーに客は居なかった。狭いロビーだった。何となく全てがくすんでいた。うらぶれた場末のホテルだった。
受付にひとりの女が居た。私に気づかない様子で帳面をめくり何かを書き込んでいる。
「あの、すいません」
声をかけるとハッとして女は顔を上げた。その無防備な表情にすぐ笑顔を張りつけて女は言う、
「こんばんは、お一人ですか。予約のお名前を伺います」
「いいえ、二人です。それで予約もしてないです」
「でしたらこちらにお名前のご記入をお願いします。お部屋はどうなさいますか」
「ええ。……ごめんなさい、『どうなさいますか』っていうのはどういうことですか」
用紙に名前や住所を書きながら私は訊いた。(住所はあの街のものを書き入れた。) 女はそれを聞いて、
「ひと部屋取るかふた部屋取るかってことですよ」
と、にわかにざっくばらんな調子で言った。
「どちらのほうが安いですかね」
「もちろん、ひと部屋のほうが安く済みます」
「じゃそれで」
「ツインとダブルどちらになさいますか。ダブルのほうがお安いですが」
「ツインとダブルってどう違うんですか」
「ベッドの数ですよ」
「ベッドはふたつにしてください」
「ツインですね、かしこまりました。素泊まりにしますか、それとも有料で朝食もお付けできますけど」
「そうですね……、とりあえず無しにしておいて、あとから気が変わったら朝食を追加で申し込んだりってできますか」
「ええ、可能です」
「じゃあとりあえず無しってことで」
ここで私は用紙に名前やら住所やらを書き終わり、女に渡す。女はそれに目を通すと、
「承りました。宿泊料金は前払いになりますから、」
と言って彼女は支払いを要請する。そのまま私は財布を開き、千円札の一枚きり見当たらないことに気がつく。冷や汗が出る。
「いますぐ支払う必要がありますよね?」
「ええ、規則でして。お部屋の鍵をお渡しする前に料金の精算が必要です」
私は財布のなかを漁る。レシートの合間にお札の一枚や二枚紛れ込んでいやしないかとレシートの束を掻き分けて、すると、レシートとレシートの合間から、レシートが出てくる。
「ちょっと待ってくださいね」
「ええ、構いませんよ」
私は財布を漁りつづける。明らかに現金が足りないことはわかっているが、入っている筈の現金が急に消えてしまったように財布のなかを探るフリをする。オカシイなぁお札が財布の隅っこに隠れちまったみたいだなぁ、なんてフルマイを演じてレシートの束をかき回しながら、私は、女に、何と言って謝ろうかと考えていた。(レシート、レシート、レシートの束。レシートの束で分厚い財布、合皮が剥げてぼろぼろの財布。) 予約もなく、ツインとダブルの違いも知らず、あまつさえ現金すらも持たずにホテルに来た私を、女はどう思っているのだろう。財布から目を上げ女を見る。笑みが目の辺りから剥げかかっている。私は愛想笑いで会釈し、目を下げ、レシートを最後に少し漁ってから、言う。
「申し訳ないんですがいま持ち合わせがなくて、すみません、じき彼女が来るから、そうしたら払えるんですが」
「でしたらそちらでお待ちください」
鼻白んだように女は言った。私はほんとうにスミマセン、と頭を下げ、薄汚いロビーのソファに座った。女は胡散臭げに私を眺め、それから帳簿をめくる作業に戻った。
「どう?部屋ちゃんと取れた?」
ときおり胡乱げに私を見る女のまなざしにそろそろ耐えがたくなった頃、彼女はようやく現れた。服屋のビニール袋に加えてコンビニの袋も持っていた。だいぶ長いこと彼女を待っていた気がする。彼女が戻ってきて、私は救われる心地だった。
「いえ、駄目でした。貴女を待っていたんです」
「……ねえ、あんた、一人じゃホテルの部屋も取れないの?」
呆れたように彼女は言った。
「違うんですよ、部屋代が先払いで、おかねが無くてどうにもなりませんでした。貴女が旅費を持っているから」
「なるほどね。あんたを離したあたしが馬鹿だったわ」
そう言って彼女は私に袋を持たせると、私をカウンターに引っ張ってゆき、女に「幾らですか」と訊いて、あっという間に支払いを済ませ、鍵を受け取った。
部屋に向かうエレベーターに乗る直前、カウンターを振り返って見ると、女は呆けたような顔で私たちを眺めていた。
*
逃避行をつうじて彼女は私の日常を、私の身体から剥ぎとって捨てていった。彼女の求めるままに私は日常の匂いの染みついたものを手放して、だんだんと彼女の求める純粋な機械になっていった。それで私は思い出を語った。彼女は私の思い出にだけは手を出さず、それどころか私が話す思い出を、慈しむように聴いてくれた。
私が純化されていく過程としての逃避行を、あなたに教えてあげよう。
ひと部屋にしたのね、とエレベーターの中で彼女は呟くように言った。一本きりの鍵をふらふらと揺らしている。
「そっちのほうが安いって言っていたから」
「そう」
閉じたエレベーターでそれきり私たちは静かだった。階の表示灯が上がっていく。私はやじろべえのようにビニール袋を持っていた。ふたりきりだった。
チン、と音が鳴りドアが開く。私たちの泊まる部屋の階に着いた。彼女に続いて私も降りる。エレベーターから二歩踏み出して、そこで私はようやく、気がついたように、アッ、と声を出す。彼女は振り向いて私を見る。後ろでエレベーターが閉まる。
「どうしたの」
「僕、ひと部屋しか取ってないですね」
「さっきそう訊いたじゃない」
「いえ、違うんです。いや、そうなんですけど、つまり、その、……僕はひと部屋しか取っていないから、これは、良くないでしょう」
「なにが?」
「同じ部屋で寝るのは、その、……ねえ、貴女は嫌じゃないんですか」
「今さら別に構いやしないわよ。それよりも早く部屋に入らない?」
「いやしかし、」
「あのね、」と彼女は言い、続けて、「あたし疲れてるからこんな処であんたのウジウジした内省に付き合わされるのは御免なの。部屋を分けるにしても一旦あたしたちの部屋に入ってベッドのフチか椅子にでも座って決めれば良いでしょう。そう思わない?なにもこんな処で立ちんぼで議論することはないでしょう。その程度の気遣いを期待することすらあんたには酷かしら。」
「でも一旦にしろ部屋に入ったら、清掃やら何やらで、或いは部屋を変えるにしても余分な費用が、」
「ああ、くどい!」
彼女はピシャリと言って私を黙らせた。そのまま彼女は私の手首をギュッと握り、部屋までズンズン進んでいった。どうしてこんなに迷いなく進んでゆけるのかわからなかった。私は彼女の手を振りほどくことができないから、彼女に引かれるがままついてゆき、私たちは同じ部屋の前に着いた。嬉しくも恐ろしいような心持ちだった。
解錠しドアを開けた彼女は、まず私を部屋に押し込んだ。それから彼女も部屋に入って、彼女はドアを閉じ、後ろ手で鍵をガチャリと閉めた。(私たちでふたりきりの一部屋だ。) ぼんやりと突っ立っているわけにもいかないから、私は部屋の奥へと進んで、彼女も私の後に続く。すぐに私たちは二台の白いベッドを目にする。
「へえ、ベッドはツインなのね」
そう言ってすこし考えたのち、彼女は二つのベッドの狭間に置いてある小物置きの灯り台を、引っ張り出して退けはじめた。何をしているのだろう。私は彼女のフルマイをぼんやりと眺める。彼女のピアスが激しく揺れる。
「袋、その辺に適当に置いて良いわよ。でもコンビニの袋には瓶も入ってるから気をつけてね」
そう言いながら彼女は灯り台を部屋の隅へと押しやってしまった。これで二つのベッドの合間には何もない。続けて彼女は向かい合った布団の一辺ずつをそれぞれのベッドに跳ね上げる。(蜜蜂のように彼女は動く。) 綺麗なベッドメイキングが台無しになる。
私は訊く。
「その、貴女が何をしているか伺っても宜しいですか」
いま、彼女は部屋奥のベッドの壁との隙間に立っている。
「……まだわからない?」
「ええ」
「大したことじゃないわ。ツインをダブルにしちゃうのよ」
そう言うが早いか彼女はガガガと押してふたつのベッドをくっつけた。あっという間だった。彼女の華奢な身体のどこからそんな力が出ているのかわからなかった。ツインのベッドはダブルになった。私はとにかく怖かった。
「その、貴女がどうしてベッドを、くっつけちまったのか、僕は伺いたいんですが」
「……ねえあんた、それ本気で言ってるの?」
「ええ」
それを聞くと彼女はにわかに色めきたったようすで私の前まで歩いて来、そうして私を見上げて睨む。私は彼女が怖かった。彼女は滔々と話しはじめる。
「どうやらあたしはあんたに何もかも教えてあげなきゃいけないのね。良いわ、教えてあげる。あんたがそのつもりならあたしも付き合ってあげる。よく聴いてね。良い?
まずね、あんたがひと部屋しか取ってないって気がついたとき、あたしすこし感心したのよ。たとえそれが『安かったから』だなんて野暮な言い訳でも、まあ、良かった。あんたも少しはやるものね、ってそう思ったのよ。そのときだけはあたしあんたに感心したわ。……でもね、エレベーターを降りた瞬間始まったあんたのいつものウジウジは、あれ、最低よ。あんたは黙って部屋に入りゃ良かったの。あたしが嫌がってないんだから、あんたのひと部屋の判断は正解だったのよ。あんたあたしのことを今じゃまったく知らないわけじゃないでしょう、だったら少しは判ってほしいわ。あたしがもしあんたと同じ部屋で過ごすのが嫌だったら最初からそう言って断ってた。あんたまだわからないの。あんたはあたしの性格を知っているでしょう。……いや、あんたはわかった上でああやってウジウジして見せたのかしらね。だとしたら、あんたはあたしが『同じ部屋でも別に良い』、って言葉にして言ってくれるのを期待していたんでしょう。違うかしら。きっとそうね。そんなら理解できるわ、臆病なあんたらしい行動だと思う。あんたが最低なことには変わりないけどね。
でもね、百歩譲ってそんなあんたの臆病さを認めるとしても、あたしがあんたに同じ部屋でも構いやしない、って告げたあとにもあんたはまだウダウダグチグチ言い続けようとしたでしょう。あれはなに?ほんとうにしつこくて腹が立ったわ。それこそぜんっぜん必要のない会話だった。あれは何だったの?……もしかして、ねえ、ウジウジした態度を演じているうちにあんたほんとうに同じ部屋で寝るのが怖くなってきちゃったの?あんたはまるで異性と縁が無さそうだものね。スケベ心を出したは良いけどよく考えると怖くなって、だからあたしが同じ部屋でも構いやしない、って言った後にも清掃料云々でマゴマゴ言い続けていたのかしら。だとしたら納得できるわ。そうなの?だからあんなふうにあんたはウジウジしていたの?もしそうなら、あんた、馬鹿じゃないの?
ねえ、あんたの脳みそが丸ごとこわばって新しいことを何ひとつ受け入れられやしない、って状態じゃないならどうか覚えていてほしいんだけど、今後、金輪際、余計な尻込みでウジウジしてあたしをどうしようもなく苛立たせることは、しないでほしいわ。あたしが良いって言ったら良いのよ。可能ならあたしが言わないことも汲み取ってほしいけど、そこまでは期待しないから。あたしが手を引っ張っていく方向に、あんたにもついてきてほしい。あたしが望むのはそれだけなの。どうかあたしの言ったことを忘れないでね。……さあ、それじゃ、シャワーでも浴びて頭を冷やしてきなさい。クローゼットの中には浴衣なりバスローブなりが入っているでしょう。タオルもそこに入ってるかも知れないわ。あとコンビニであんたの下着も買ってきたから、サイズがわからなくて何種類かあるけど、ちょうど良いのを履きなさいね。またあとで会いましょう」
何も言い返すことはなかった。私は彼女が言う通り、コンビニの袋から下着を取り、クローゼットから浴衣を出して、浴室に入った。
シャワーを出しっぱなしにして、長いこと呻いた。
浴室から出ると彼女はウィスキーを飲んでいた。テーブルを差し挟んで二脚の椅子がある、その片方に彼女は腰を掛けている。テーブルの上にはウィスキーの瓶とグラスがふたつ、それとどこから持ってきたのかわからないがアイスペールが置いてある。片方のグラスは彼女が使い、もう片方は空のグラスだ。おそらく私のためのグラスだろう。彼女は座るようにと身振りして、私が座ると氷を入れウィスキーを注ぎ、私に差し出す。私はそれに口をつける。
「もしお腹が空いていたら、コンビニの袋にパンとかあるから」
床のコンビニ袋を見るといくつかのパンが入っていた。私は一番小さいパンを食べた。ひとつで充分な心地だった。
しばらく黙って飲んでいた。重苦しい心地で、飲むほかないから飲んでいると、じきにグラスが空いてしまって、すると彼女は氷を足してふたたびウィスキーを注いでくれた。私は彼女に「ありがとうございます」と告げた。すると彼女も口を開いて、
「あのね、あんたが部屋を取っていたとき、あたし明日着る服を買っていたでしょう」
「ええ。」
「それでね、あんたにはこれを買ってきたの」
彼女は私に服を渡す。Tシャツではないようだから、開いて見ると、上下揃いの、これは、甚平?
「僕たちお祭りにでも行くんですか」
「お祭りがあればすこし寄ってみるのも良いかも知れないわ」
「余所行きの服に甚平、ってのも珍しいですね」
「あんたにはきっとよく似合うと思うの。あんなジーンズとTシャツよりも、こっちのほうが良いと思うわ」
「なんだか目立ちそうですね」
「あたしがずっと一緒だから大丈夫よ」
「貴女も何か、浴衣とかを着るんですか」
「まさか。あたしは普通の服を着ていくわ。あんた甚平を着てくれる?」
「僕は貴女の望むとおりにしますよ」
「そう、良かった」
ふたたび私たちは静かになった。にわかに食欲が回復した私がコンビニの袋からもう一つパンを取り出して食べていると彼女は、
「そういやあんた昼ごはんを食べてなかったわね」
と言ってすこし笑った。それで私は明日の朝食を思い出して、彼女に告げる。
「受付で言っていたんですけど、有料で朝食を頼めるらしいですよ。とりあえず無しにしといたけれど、変更できるらしいから、どうしましょうか」
「別に良いわ。どこか明日、適当なところで食べましょう。買ったパンの残りを食べても構わないし」
そんな話をしながらウイスキーを飲んでいると、あるとき彼女は何気なく手の甲に手の甲を重ねるようにして、そっと私の左手を掴んだ。
彼女は言う。
「こんなふうに、あたしたち学食で逃避行を始めたのよね。あたしがあんたの腕を掴んで。」
右手で私を掴んだまま、左手で彼女もウィスキーを飲む。
「あのときは僕、逃避行をするなんて微塵も思い至らなかったんですよ。ただ三限だけをサボるつもりだったんです」
「あら、そうなの」
彼女はフフッと笑って私の手首をやわらかく離し、手の甲に指を滑らせる。人差し指と中指が尾を引くように私の手の甲を撫ぜる。
「それから学生証を折って、電車に乗って、僕らずいぶん遠くまで来ましたね」
「いいえ、まだまだよ。逃避行は始まったばかりだから」
手の甲から指を辿り、そのまま私の指に彼女は指を絡ませる。(彼女の右手と私の左手。) 彼女の指は白く細くて、私の野暮なそれとはまるで別物に思われる。白くて冷たい手の指先は繊細な飴細工のように、爪が短い。
「もっと遠くへ、あたしたち、どこまでも逃げてゆきましょうね」
「僕は貴女についてゆきますよ」
絡ませた指を彼女は切なげに這い回らせる。関節が足りないタコのように、私の指に巻きつこうとして、やりきれず、歯がゆげに私の指を撫でている。
「電車に乗るまえ、あんたは日常に帰りたい、って言ってたわね。今もそう?あたしから逃げたい?」
「もう日常に帰りたいとは思いませんよ。それで貴女から逃げ出しもしないでしょう」
為されるがままされていた私も彼女の指を求める。すると彼女は一瞬だけピクリと震え、それから尚ももどかしそうに私の指に絡みつく。探りあうように絶えず絡みあう私たちの指は決してひとつにはならない。私と彼女はとおく届かないものを夢見るように互いの指を交わし続ける。
「あたしから離れない、って誓ってくれる?」
「誓いますよ。……しかし僕は神をもたないから、何に誓えば良いですか」
絡んだ指をするりと抜けて私は彼女の手の甲を愛撫する。少しの間彼女は撫でられるがままじっとしていたが、すぐに手をひっくり返して下から私に触れようとする。私たちはくすぐるように互いの指先を触れ合わせて、じきにまた指を深く絡める。
「あたしに誓ってくれれば良いわ。あたしから離れない、って。あたしたち一緒に、ずっと離れないで、どこまでも逃げ出す、って。」
交わらせた手を彼女は強く握る。私も彼女を握り返す。互いの存在を、心持ちを確かめるようにして私たちは、絡めた手を握っていた。
「ええ、わかりました。誓います。僕は貴女に誓います」
それを聴くと彼女は安堵したように笑って、
「あたし、あんたのことが好きよ」
と言って手を離した。私は曖昧に微笑んで返事をしなかった。
*
私たちの逃避行は会話で満ちていた。わずかな余韻と行動の隙間はすべて会話が埋める日々だった。言葉に満ちた逃避行のさなか、私だけでなく彼女も、言葉の水で洗い流すようにして、身についた夾雑物を丁寧に落としていくように、純化していったように思われる。あとはいくつかの素晴らしい沈黙があって、しかし、こんな御託をいくら書いても仕方ない。あなたが私の逃避行をそのまま経験できないことを可哀想に思う。だからあなたに話してあげよう。
明け方に一度目が覚めた。いつものアパートの積りだったから、ホテルの天井は違和感だった。薄暗い部屋に鈍い頭を六分の一ほど転がせば、ほんのすぐ隣に知らない女が眠って居て、次の拍動は肋骨を突き破るようだった。その知らない女を私は実は知っていて、それが他ならぬ彼女であり、私は彼女と逃避行をしているのだと、そう思い出すまでに、外でカラスが二度鳴いた。(心拍が落ち着くまでには大分かかった。)
彼女は安らかに眠っていた。眠る表情に険は無かった。こんなに華奢な白磁の彼女に引きずられて逃避行をする私はいま、彼女の隣に目覚めていた。彼女は何の心配もないように眠り続けている。私を信じ切っているようだった。寝息を立てる彼女の愛おしさに私の心は赤く染まって、私は、ふたたび仰向いて目を閉じた。彼女の微かな寝息に耳を澄ませて聴いていると、すぐに私は眠っていた。
次に私が目覚めると彼女はとっくに起床していた。私は長いこと二度寝していたようだ。開かれたカーテンの外から気持ちのいい日が差している。身を起こし眼鏡をかけて見ると、彼女は昨日の椅子に座ってメロンパンにかぶりついているところだった。
「おはよう。あんたずいぶん寝てたわよ」
齧ったメロンパンを咀嚼し飲み込んでから彼女は言った。既に着替えを済ませていた。
「そんなメロンパン、昨日買ってありましたっけ」
「今朝起きてからちょっと買ってきたの。ほかに揃えたいものもあったから、ついでにね」
そう言って彼女は巾着と手提げ鞄の間の子のような革袋を持ち上げて見せる。中には小物が入っているようだ。革袋自体もそれほど大きくはない。
「出来ることならあたしだってあんたみたいに手ぶらで逃げ出したいんだけどね。そうもいかないのよ」
「僕にもそういうカバンとかあれば便利だと思うんですけれど」
「あんたは良いの。甚平を着て何も持たずにあたしに着いてくればそれで良いわ。……さあ、そろそろ目が覚めた?じゃあ甚平に着替えてきなさいね。あたしたちの逃避行の続きをしましょう」
そう言って彼女はふたたびメロンパンにかぶりついた。私はベッドから出て甚平を持ち浴室に向かう。浴室に入る前にふと振り向いて彼女に訊く。
「朝ごはん、僕のぶんのパンもありますか?」
「もちろん!」と彼女は応える。
すべて済ませて私たちは電車に乗っていた。私は眼鏡と甚平だけを身につけ、何ひとつ持っていなかった。ジーンズもシャツも腕時計もホテルに捨て置いてきた。
私はそれこそ手ぶらだった。ほんとうならレシートと身分証の詰まったあの財布だけは持っていく積りだったが、甚平のポケットが醜く膨らむのを彼女は潔しとしなかった。
「それなに、財布?」
「ええ、財布です」
私の財布を受け取って中身をチラと覗いたきり、
「あんたのこの汚い財布はここに置いて行きましょうね」と彼女は言って、保険証の一枚だけを抜き出して彼女自身の財布にしまった。そうして私の財布はベッドの上に投げ出された。(改めて見るとほんとうに汚い財布だった。) 私は彼女の言うとおり、私の財布を置きっぱなしにホテルを出た。
甚平と眼鏡と、……ああそうだ、私は下駄を履いている。服屋に売っていたのを彼女はついでに買ってきたという。
「甚平にスニーカー、ってのも野暮だから。これ履いてついてきなさいね」
彼女の言うことも尤もだと思い、私は下駄を履いてホテルを出た。甚平と眼鏡と下駄、これが私の全てだった。(もちろん下着は履いていたが。) そうして今私たちは電車に乗っている。ロングシートの鈍行列車に私たちは並んで座っていた。
甚平の私に向けられる奇異の視線は少なければ少ないほど良い。幸い朝よりも昼に近い時間の、それも田舎じみた電車だから、乗客なんてほとんど居らず、要するに、耐えがたいほど恥ずかしくはなかった。それに隣には彼女が居た。この頃には私はもう、彼女についてゆけば万事大丈夫であるかのような奇妙な安心感を抱いていた。彼女は物珍しげに車内の広告を眺めている。
電車は揺れて、彼女のピアスが鈍く光る。それを見てふと気がついて私は言う。
「ピアスすこし減らしましたか」
私がそう言うのを聞くと彼女は私の方を見る。戸惑ったような表情をしている。
「あたし、今、びっくりしたわ。あんたがあたしの見た目のちょっとの違いに気がつくなんて、……いいえ、気がつけるなんて、あたし、全然、思いもしなかった。あんなヨレヨレのシャツを平然と着てたあんたが、ひとの耳許に気を配れるなんて、変な感じねぇ。無精髭も伸ばしっぱなしのこんなあんたが。すごく意外よ」
一拍置いて彼女は続ける。
「あんたがさっき言ったように今日はちょっと減らしたの。ホテルの洗面台の隅にポイって置いてきた。もっとも、減らしたのはピアスじゃなくてイヤーカフなんだけどね。最初からピアスは耳たぶの一つだけ。イヤーカフとピアスの違い、あんたわかる?」
そう言うと彼女は顔を背けるように俯き、髪をかき上げ耳を見せた。私はイヤーカフとかいう言葉を聞くのも初めてだった。耳の側面につけられたそれは、その、いくつかのイヤーカフとやらは、しかしどうやって取り付けるのだろう。
私は彼女の耳を見つめていた。会話はなかった。耳許をよく見せようと思ったのか、彼女は髪をかき上げた姿勢のまま静止した。口を結んで目を伏せて、写真のように止まった彼女の、耳たぶのピアスだけが電車に合わせて小刻みに揺れている。
私は彼女の耳許を、目に焼き付けるように見ていた。微分された時間だった。私はずっと耳許を見ていたかった。ほとんど時間は止まっていた。電車の揺れと線路の音だけがとおく聞こえるようだった。彼女の耳許から目を離せなかった。華奢な彼女の白い耳だった。ふと私はイヤーカフが彼女の心のいびつな外壁であると直観した。それで私は彼女の耳のやわらかい白さを見つめていた。
静止していた時間はしかし次の停車駅を告げる野暮な電車に邪魔されて、彼女は微かに動き出し、私の方に視線を向け、「ねえ、もう良い?」と私に訊いた。もう良い、と訊かれたならばええ大丈夫ですありがとう、と応えるほかない。だから私はそう言った。彼女は手を下ろして私のほうに向き直り、
「ずいぶん長いこと耳を見てたのね」
「イヤーカフがどういう仕組みなのか長々と見てもさっぱりでした」
「簡単よ」、と彼女はささやくように言う。
「挟むだけで良いの」
次の駅でも乗客は誰ひとり乗ってこなかった。
「何かあんたの話をしてよ」
鈍行の車内広告を眺めるのに飽きたのだろう、彼女は私にそう言った。
「どんな話が良いですか」
「あんたに関係のある話だったら何だっていいけど、……そうね、あんたが信号機を大嫌いだった、って話があったでしょう。あんなふうな話を聴きたいわ。つまりね、あんたがひとりぼっちで、ものやひとに怯えたり、それを憎んだりした、そんな話を聴きたいの。」
すこし考えて私は言う。
「そうですね……、断片のような話だけれど、ビニール傘とかマスクとか、自動ドアの話とかをしようと思うんですが、どうでしょう」
「よくわかんないけど良いと思うわ。あたしね、あんたの話を聴くのだけは嫌いじゃないの。楽しみにしてるわ。面白く話してね。さあ、話して。」
「ええ。貴女が楽しんでくれるように頑張ります。それじゃあまずビニール傘の話からしましょうか。
大学に入学するまえ、あの街には梅雨が無い、ってそう聞いていたのだけど、実際に住んでみれば梅雨みたいに雨が続く時期はあって、僕はそれを興醒めに思っていました。いや、興醒めって言葉は適切ではないですね。つまりその、何となく期待していたことが、思っていたとおりにならなかったときの感情、これをいったいどうやって言えばいいのだろう、……やっぱり興醒めで良いのかもしれない。僕は、厳密には梅雨ではないその梅雨のような天気に、興醒めしていました。
さて、ここで勘違いしてほしくはないのですが、僕が興醒めしていたのは、事前の想像と違えて雨が降り続いたっていう、言うなれば想像と現実の乖離にであって、降っている雨やその雨のなか大学に向かって歩かなければならないという事実そのものについてではないんです。僕は雨の日に外を出歩くことは嫌いではないし、どちらかと言えば雨の日のほうが晴れの日よりも好きだった。もちろん豪雨のように降る日はとても嫌ですよ、しかしね、ただ単にシトシト降っているような日に傘を差して歩いていると、そのときだけは僕は自然に歩けるんです。
雨の日には自然に歩ける、ということを理解してもらうには、まず晴れの日について話すのがいちばん良いでしょう。つまりね、傘を持たない晴れの日には、僕と世界のあいだを遮るものがなにもないから、ひとの視線も笑い声も直接届いて、それが怖くて恥ずかしいから、僕は怯えるように俯いて歩くほかないんです。人から見られているなかで、どう腕を、足を動かせばいいのかまるでわからなくなっちまって、緊張して、歩きかたも不自然になってしまう。半袖から出る腕が恥ずかしくて、指先すらどんな形で歩けばいいのかわからないんです。夏の昼間の幽霊みたいに、ひとりでひっそりと居たいのに、腕も足も妙に重くてぎこちなく、恥ずかしくて、そしてそんなとき向かいから道いっぱいに広がった学生の集団が歩いてくれば最低です。彼らは楽しそうにふざけあって、まるで自然な調子で歩いている。彼らはみずからの歩きかたが果たして自然に見えるかどうか、気にかけたことなんてないんでしょう、いや少なくとも今この瞬間には気にかけては居ないはずだ。僕にはそれが羨ましくて妬ましかった。彼らを見ていると僕は僕自身ただひとり醜悪な化け物であるかのような気分になってくるんです。
腕が、足が、あるべきしかたで動いている、そんな彼らとすれ違うため、僕はほとんど道の端ぎりぎりまで寄って歩きます。そうやって、身につまされるようにやっとの思いで彼らとすれ違えば、次の瞬間、後ろから彼らの笑い声が聞こえる!さっきまでただニギヤカだった彼らは、僕とすれ違うや否や、悪意のように笑い出したんです!『彼らはきっと僕を笑った!』そう信じ込んで僕は泣きだしそうな心地になって、さっきよりも更にぎこちないようすで歩くんです。そうやって僕をどこまでも責め苛む晴れた日の大学が、街が、大学生の集団が、僕は大嫌いでした。
翻って雨の日です。今言ったような晴れた日と較べれば僕は雨の日が好きでした。傘を差して歩けば周りの視線を覆い隠せて、まずそれが僕を安心させます。どこからか笑い声が聞こえても、それは晴れの日のようには僕の心を傷つけない。これもまた傘のお陰です。傘は雨だけじゃなく視線も笑い声も遮断し減衰させてくれるのだから、こんなに良いものは滅多にない。それに天気が悪ければ路上で浮かれ騒ぐ学生の数じたいも少なくて、だから僕は緊張せずに、僕の足も腕も、本来そうあるべきような動きを自然に取り戻していました。水溜まりを避ける憂鬱なんて些細なものです。雨の日に僕は傘を差して安らいだ心でした。それで」
「ビニール傘の話よね?忘れてない?」
と言って彼女は口を挟んだ。私はそれに応えて言う、
「ええ、これからビニール傘の話もしますよ」
「あら、そう。口を挟んでごめんね。続けて」
「僕ばっかり話していて退屈ですか?」
「大丈夫よ。ただあんたがあたしに物語っている、ってことを忘れないでくれればそれで良いわ。さあ、あんたの話のつづきを聴かせて。あんたが大学の街でどんなに哀れだったのか、あたしにたくさん、面白く教えて。」
「わかりました、続けますね。それじゃ端的にビニール傘の話をしましょうか。
さっきも言ったように僕は雨の日に傘を差して歩くのが好きでした。人からの視線を傘で遮ることが出来るからこそ僕にとって雨の日は素晴らしくて、だから僕はビニール傘なんて絶対に使いたくはなかった。透明なビニール傘なんて雨を遮る以外のなんの役にも立たなくて、人からのまなざしを遮れない傘なんてこれはもう、差す意味がない!僕は本気でそう考えていました。貴女は僕をおかしいと思いますか。考えすぎだとそう思いますか。僕には人の視線が怖くて仕方ない。たとえば、今だって僕は貴女の言うまま甚平を着ているが、人目を引くこんな格好で外に出ているのが、まるで裸のように恥ずかしいんです。貴女が隣に居なければ僕は今すぐにでも電車を降りて服屋に飛び込み一番無難なTシャツとジーンズを買って着替えたい。
……ねえ、ふと思ったんですが、今から服屋に行って着替えてきても良いですか」
「もちろん駄目よ。甚平であたしに着いてきなさい。それに今あんたは一文なしだから服屋にも行けないし、どのみちあたしから逃げられないわよ」
彼女はにわかに反応して言う。魚が掛かった釣り人のように私は続ける。
「承知しています。僕は僕自身を丸ごと貴女に投げ出したんですから。今更逃げ出す積りはないですよ。ですからどうか、貴女はきっと、僕を置いてどこか行ったりしないで下さいね。僕をそばから離さないでください。貴女が居なくなったらこんな知らない場所で甚平を着て、僕は羞ずかしさですぐ死んじまうでしょう」
それを聴きながら彼女は嬉しそうな顔になって、言った。
「さあどうでしょうね。……でも、しんから愛想を尽かさないかぎり、あたしね、あんたとずっと一緒に居てあげるわ。ときどきあんたにいじわるをするかもしれないけどね。あんたは何にも持たないで、人から浮いた甚平だけ着て、あたしにずっと着いてきなさいね。あんたの甚平は目立つけど、あんたに甚平はよく似合ってるわよ。影か背後霊みたいにあたしにずっと着いてきなさいね。それであんたはあたしに思い出を物語りなさい」
遠い目をして私の話をただ聴いていた彼女が、急に活き活きと嬉しそうな顔で言うから、私もほとんど嬉しくなって、
「ええ、僕は貴女が望むようにして貴女についていきますとも!ところで、ねえ、ひとつ訊いても良いですか!」
「何を訊きたいの!」(感動して声が大きく彼女は言った。)
「いえ、大したことではないんですがね。貴女はついさっき僕に、いじわるするかもしれない、ってそう言いましたね。僕としてはその、あんまりいじわるをされたくないわけですが、貴女はどんなことを僕にするつもりなんでしょう」
私は彼女がこういう話を続けたいことを判っていた。私がそれを判っていることを彼女もきっと気づいていただろう。私と彼女はこの瞬間、昼間の鈍行列車のなかで、心底幸福な劇を演じていたのだ。彼女は言う、
「あたしね、あんたが恥ずかしく思うことをしてあげるわ。要するにあんたは甚平を着て一人ぼっちで人目に晒されることが嫌なんでしょう?ならね、あたしはそれであんたを辱めるの。たとえば、」(と言って彼女はちょうど停車していた駅舎を指差して言う、)「たとえばこんな駅のホームにあんたをひとりで立たせておくの。」
寂れたプラットフォームだった。人の姿はちらほら見える。私は言う。
「そんなのは僕逃げ出してしまいますよ」
「いいえあんたは逃げ出せないの!あんたは何にも持ってないからね。お金も、身分証明書の一枚すらも持ってないから、逃げ出したいと思いながらあんたはあたしを待つほかないのよ。ちょっと待っててね、って言ってあんたを放っぽり出して、あたしはあんたを物陰に隠れて覗くんだわ。あんたはあたしに言われたとおりにプラットフォームで待ち続けるの。愚直にボーっと突っ立ってあたしを待ち続けるんだわ。」
「そんな、ねえ、」
「良いから黙って聴きなさい!そうやってあたしを待ち続けるあんたは、いいえ、甚平を着てホームに立ちんぼのあんたを、この駅のひとはジロジロ見るんでしょうね。こいつは何だ、無精髭で甚平を来たこの男はいったい何なのだろう、って、そんなふうにあんたを眺め回すんだわ!そういう視線が幾つもあるの。この駅には大学生の集団もいるかもしれないわね。そいつらはあんたを見て『何あいつ!』って嘲って笑うんだわ!そいつらの嘲笑が、あんたを悪く言うようすが、あんたにも聴こえるの。あんたは疑るような視線とか、もっと露骨な嘲笑に晒されて、きっと顔を真っ赤にして、ブルブル震えて泣き出しそうになるんでしょうね。なぁんにも持ち合わせていない甚平を着た無精髭の大男が、駅のホームで一人ぼっちで泣きそうになっているんだわ!ああ、可愛そう!あたしは物陰に隠れて遠くからあんたを眺めて狡そうに笑っているの。あんたはどんなに惨めでしょうね!」
「そんなの、あんまりですよ!」
私は彼女の興奮を煽るため、怯えたような調子で言った。それを聞いて彼女はますます感じ入った様子で続ける。
「それでね、羞恥に顔を真っ赤にしたあんたは、言われたとおりにあたしを待ち続けるの。あんたはそうするほかないからね。あたしなかなか帰ってこないわ。時間が経って、電車が発着して、それでもあたしは帰ってこなくて、あんたの羞恥に絶望が入り混じるのよ。あんたは思うの、『果たして僕はあの女に置き去りにされたのかもしれない』って、あんたはますます愕然とするの!あんたの脳髄は沸騰しそうにクラクラして、そうなったあんたの顔を見てみたいわ。きっとどんなに素敵でしょう!
そんなふうにあんたをしばらく一人ぼっちにしておいて、それからあたしはあんたのところにフと帰ってきてあげる。ごめんね、待たせたわね、ってそれだけ言ってあんたのところに帰ってきてあげる。あたしたち駅のホームで再会するの。あたしを見たあんたの目はきらめいて、そうして感極まったあんたはあたしを縋るように抱きしめるのかしら。あたしね、まんざらでもない筈よ。惨めで仕方ないあんたがあたしを抱きしめて、……ねえ、そんなときにあんたはね、あたしを抱きしめてくれれば良いの!」
熱に浮かされたようにまくし立てる彼女の頬は紅潮していた。きっと今の彼女の身体は火のように熱い。私も興奮していたが、あえて怖気付いたように言った。
「いや、しかし、……ねえ、そんなことを聴けばますます、そもそも僕は貴女から離れないと思います。つまりね、甚平で駅のホームに一人ぼっち、丸ごと羞恥であるようなそんな状況には耐え難いから、貴女が僕を少し待たせていようとしても、僕はそれには従わないで、きっと貴女に着いてゆきます。どんな些細な用事であろうと僕は貴女についていって、何故って僕はひとりになりたくないから、」
「いいえあんたは待ち続けるの!(彼女は叫ぶような調子で言った。) あんたはあたしが言う通りに、駅のホームだろうがどこだろうが、犬みたいに、あたしに言われたとおりに、あたしについてきたり、或いはあたしを待ち続けたりするんだわ。あたしが命じるとおりにね。あんたはそうするほかないのよ。……どうしてか聴きたい?」
「ええ、それを僕は聴きたい!」
「要するに、」(ここで彼女は一番嬉しそうに笑い、一拍置いて、続けた。) 「結局あんたは、どこまでもあたしの言いなりになるほか無いのよ。」
そう言い切ると彼女は突然、稲妻のようなキスをした。火傷しそうな唇だった。
「あたしあんたを愛しているわ」
恍惚として彼女は言った。
「あんたあたしとずっといっしょにいてね」
*
あなたもすでに知っているとおり、私たちの逃避行は私の思い出話で満ちていた。私は彼女に昔の孤独を物語り、彼女もそれを望んで聴いてくれた。私たちはどこまでも逃げ出したが、たとえば電車での移動の最中、私たちは(基本的には)孤独な思い出話ばかりをしていた。だがそんなことは省略したい。私の孤独をめぐる話ではなくて、私が純化され完成されていくまでの過程を、そういうことを今からあなたに、象徴か寓話のように教えてあげよう。
電車を降りて昼にした。ずいぶんと喋って疲れていた。私も彼女も何を食べたいわけでもなくて、風鈴の鳴る店に入った。蕎麦屋だった。(店を出るまでについぞ私たち以外の客の一人も見なかった。)
私たちはテーブル席に向かい合って座り、水を持ってやって来た店員にすぐ注文を済ませた。それで二人ぼっちのしじまだった。薄暗い店内に窓の外ばかり白く明るい、晴れた昼下がりだった。テーブルの隅の調味料は薄い埃を被っていた。テーブルと言うよりかは卓とでも表記するのが適当かも知れない。私たちは卓に向かい合って腰掛けていた。時折り風鈴が鳴っている。窓がすこしだけ開いている。風鈴がまた鳴った。向かい側には彼女が居る。彼女を見ると、彼女は卓の一点をジッと見つめている。つられて私もそこを見た。鈍い銀色のものがあって、これは、柄のついた剃刀が置いてある。剃刀。気がつかなかった。剃刀?そうして私も剃刀に気がついた。こんな淋しい蕎麦屋の卓に剃刀がポツンと置いてあった。
「良い天気ね」、と彼女が剃刀を見つめたまま言った。
「明日までは晴れるってニュースでやってましたよ」
私たちは剃刀を見つめながら話していた。
「そうすると明後日からは雨が降るのかしら」
「いえ、明後日は雨で、そのあとどうなるのかは覚えてないです」
「そう」
彼女はずっと剃刀を見ていた。私はそんな彼女を見て、それから剃刀に視線を戻した。卓の上に乗っている剃刀は、柄に近い部分が錆びていた。
「たぶんそうです」
「だったら、雨のなか歩き回ったり電車に乗るのも厭だから、明後日はずっと泊まった宿に居ましょうね。二泊しましょう。或いは三泊、四泊、天気次第で延泊したいわね」
彼女は剃刀を見ながら言う。
「ゆっくり逃避行をしたいですね」
「ええ、慌てて行く先もあたしたちには無いものね。あんたの言うとおりだわ。ゆっくり逃げていきましょうね」
私たちは剃刀を見ながら話している。
「それが良いです。貴女と居れば僕は晴れの日だって怖くないから」
「傘を買うのも面倒だしね、晴れの日にだけあたしたち逃避行しましょう。雨の日は巣穴に篭るの。あんたと日がな宿に篭っているのは、どんな気分がするのか知ら。あんたあたしにたくさん思い出話をしなさいね」
「ええ、もちろん!」
私たちは剃刀を見ながらそれを手に取らず、剃刀なんて無いかのように話していた。
「楽しみにしてるわ。……アッそうだ、宿で篭っているときにきっと、イシヅキの話もしなさいよ。あんたとイシヅキの馴れ初めも、あんたとイシヅキがどんなことをしたのかも、まだあたしほとんど聴いてないから」
「石月の話を聴きたいんですか?」
一種の不文律が出来ていると、私はそう思っていた。私たちはこの剃刀に気づいていながらあえて無視して話すのだと、そう私は思いこんでいた。
「そう、あんたとイシヅキの話もあたしは聴きたいわ。あたしね、あんたの話なら何だって聴きたいの」
「嬉しいことを言ってくれますね」
「まあね。……ところで、ねえ、」
と言って、彼女は俄かに卓上の剃刀を手に取った。剃刀を持ってそれを矯めつ眇めつ眺めながら、そうして、彼女は言った。
「ねえ、あんたちょっと手を出してみて。」
私はギクリとして訊く。
「どうしてですか」
「良いから出して」
彼女は手に取った剃刀をくるくると回して眺めながら言う。私は更に訊く。
「剃刀を持った貴女にどうして僕は手を差し出さなきゃいけないんですか」
「良いから出して」
「僕に痛いことをするんですか」
「良いから手を出して」
「僕痛いことだけは耐えられないんですよ」
彼女は剃刀の刃を見ながら言う。
「大丈夫よ、良いから手を出して」
「僕の手を取ってなにをする積りなんですか」
「怖いの?ほら、大丈夫よ、見ててね、」と言いながら彼女は彼女自身の左手の人差し指の指先を剃刀ですこし切って見せた。血が小さな玉のように浮かんだ。彼女は切った指先を舐めて、言う。
「ほら、大丈夫でしょう。さあ、あんたの手も私に出して」
私は何が大丈夫なのかわからなかった。誰も居ない蕎麦屋の昼下がりの卓で、彼女は剃刀を持っていた。
「僕痛いのだけはほんとうに駄目なんです」
「最初だけすこしピッと痛むだけよ。大丈夫だから、ね?さあ、手を出して。」
剃刀を見つめながら彼女は言う。風鈴は鳴らない。彼女は剃刀を見つめている。
私は彼女に左手を差し出す。彼女は左手でそれを取る。そのまま彼女は私の手首に水平に剃刀の刃を添える。私は思わず顔を背ける。それを見て彼女は笑って言う、
「ねえ、そっぽ向かないで。すこし痛いだけだから、しっかり見ていてよ」
「でも僕痛いのだけはほんとうに駄目なんです。じぶんの血を見ると気が遠くなっちまう」
「大丈夫よ。すこし痛いだけだから」
彼女は私のほうを見て言う。手許が錆びた剃刀の刃は鈍い銀色に光っている。風鈴は鳴らない。彼女は笑っている。私は唾を飲み込む。手許が錆びた剃刀の刃は鈍い銀色に光っている。私は剃刀の刃を見る。彼女は私の手首に刃を添える。私は今度は顔を背けない。
「目をつむらないでね」
剃刀の刃は鈍い銀色に光っている。私は目をつむってはならない。彼女は私の手首に刃をぴったりと付ける。私はそれを見ている。次の瞬間彼女は剃刀を引くだろう。私は目をつむってはならない。剃刀の刃は鈍い銀色に光っている。私はここで彼女に殺されるのかも知れない。剃刀の刃は鈍い銀色に光っている。
と、ここで予定調和の蕎麦が来る。お待たせしました、と店員が蕎麦を持って現れる。それで彼女は私の手をパッと離して、なにごとも無かったかのように、ニコヤカに蕎麦を受け取って、アノこれテーブルの上に置いてあったんですが、と店員に剃刀を渡す。店員はそれを、アアごめんなさいね、と言って受け取る。ときどき剃刀を置き忘れることがあるんです、と店員は言う。そうなんですね、と彼女は言って笑う。店員と彼女は笑みを交わす。それから店員はごゆっくりどうぞ、と私たちに言ったきり厨房に引っ込む。風鈴がしきりに鳴っていた。私たちは蕎麦を食い、会計を済ませ、店を出た。
店を出て彼女は言う。
「ひどい蕎麦だったわね。あれきっと作り置きよ」
「僕には味なんて判らなかったです」
「あらあんた味音痴なの?」と彼女は笑う。晴れた昼下がりの初夏の路上に誰も居ない。
それで私はふたたび駅に戻る気分でいたが、彼女は私を反対のほうに引っ張ってゆき、私たちは少し歩いて、サインポール、そこは一軒の床屋だった。戸を開くと気安い中年の男が「いらっしゃい!」と私たちを迎えた。とうぜん私たちのほかに客は居なかった。店にはラジオが流れていた。
「本日はどうされますか」
揉み手をしながら私たちの方に歩いてきた中年の男は訊いた。ニコニコと笑みを浮かべていた。
「こいつの髪を切って、あとこのみっともない無精髭も剃ったげて。」
彼女は私を中年の男にすこし差し出すように背中を押して言った。
「髪型はどうなさいますか」、と中年の男は私に訊く。
「丸坊主で良いわ」、と横から彼女は口を挟んだ。
「丸坊主ですか!」
「ええ」
中年の男は彼女を見、それから私を見て、戸惑ったように、「宜しいんですか?」と私に訊く。私は応える。
「彼女が言うんなら僕はそうするほかないんです」
私がそう言うのを聞くと横で彼女が微かに微笑むのが分かった。一方で中年の男はへええ、と感心したように言い、私と彼女を交互に見比べ、それからまた、へええ、と今度は溜息のように言った。それから、
「坊主はどれくらいの長さにします?いっそぜんぶ剃っちゃいますか」と彼女のほうを見ながら訊いた。すると彼女は、
「任せるわ」
と言ったきり、突然興味を失ったように、中年の男に背を向けて、待合の椅子に座り、それきり口を開こうとはせず、置いてある雑誌を読み始めた。中年の男は困惑したように彼女を見ていたが、ふと向き直って私に訊く。
「あの、坊主の長さはどれくらいにしますか」
「お任せでお願いします」
「そうですか……。お任せですね」
「ええ、お任せで」
「地肌がどれくらい見えたほうが良いとか、そういう希望もないですか」
「ぜんぶお任せしますよ」
「ええ、さいですか……。わかりました、こちらの席へどうぞ」
中年の男は座らせた私に眼鏡を取らせ、甚平の上に布を巻き、霧吹きで髪を濡らして、そうしてバリカンで髪を刈り始めた。毛を刈られる羊の気分で髪を刈られていると、中年の男は私に訊いた。(髪を切る側と切られる側のあいだにはこうやって会話が生じるものだ。)
「このあとお祭りにでも行かれるんですか」
「近くにお祭りがあるんですか?」と私は問い返す。
「いえ、そういうわけじゃなくて、つまり今ジンベイを着てらっしゃるから」
「ああ、これは彼女の趣味です」
「なるほど、彼女さんの」
「はい」
私は向かいの鏡を見るが、眼鏡が無いから何もかもぼやけている。私の髪を刈りながら中年の男は続ける。
「お兄さん、尻に敷かれるタイプでしょう」
「そう見えますか」
「見えるも何も、何もかも彼女さんの意のまま、って感じがしますから」
「そうですかね」
「少なくともワタシにはそう映りますよ」
そんなことないわよ、と待合で雑誌を読みながら彼女は唐突に口を挟む。彼女に続けて私も言う。
「彼女の言うとおり、そんなことないですよ」
「なるほど、彼女さんの言うとおりにそんなこと無い、と」
「ええそうです」
それを聞くと中年の男はヘヘヘと笑う。バリカンで私の髪を刈りながら、中年の男はそれきりしばらく黙り込む。私は丸坊主になってゆき、それから私は丸坊主になる。中年の男はヨシ、と言うと声を張って彼女に訊く。
「彼女さん、カレシの頭はこんな感じで良いですか」
彼女は雑誌を置き私のすぐそばまで来て、私の頭を眺めて言う。
「あら良いわね、スッキリして涼しそう」
「まあ単に丸刈りにしただけなんですがね!」
そう言って中年の男と彼女はケラケラ笑う。私はなにがおかしいのかわからない。中年の男は続ける。
「頭の形が良いから坊主もだいぶ見栄えしますね、カレシさん」
「でもこうして丸坊主で無精髭の甚平だとまるで破戒僧か妖怪だわ」
「たしかにそうだ!破戒僧なんてまさにぴったりだ!こいつぁ一本取られたわい!」
そう言って中年の男と彼女はふたたびケラケラと笑う。私には何がおかしいのかわからない。私は私の頭を見たいが、正面の鏡で確認しようにも眼鏡が無いからよく見えない。髪を切られる私だけひとり除け者だった。ひとしきり笑ったあと、中年の男は言う。
「じゃそんな破戒僧をふたたび仏門に送り返すように、髭を綺麗に剃ったげましょう。モ少し時間を頂戴しますから、彼女さんはあちらでお待ちくださいね」
それを聞くと彼女は言う。
「ねえ、髭を剃るのをここで見てても良い?」
「そりゃまあ、別に構いませんが、面白いもんでもないですよ」
「大丈夫よ。こいつの八重葎みたいな無精髭が綺麗になるのを見てたいだけだから」
「なるほど、八重葎か!八重葎、……そいつぁ良いや!そう言われれば確かに見ていて気持ちいいかも知れないですね!」
中年男と彼女はみたびケラケラと笑う。先ほどから私はずっと黙りこくっている。中年男は奥からチャチな椅子を引っ張り出して私の斜め後ろに置く。
「そいじゃここに座ってカレシさんが綺麗になるとこを見ていて下さい」
「あら気が利くのね、ありがとう!」
「どういたしまして!」
中年男と彼女はケラケラ笑って、どうでも良いが、やっと私の髭が剃られることになったようだ。中年男は椅子を倒すと、私の顔をあっという間に泡まみれにして剃刀を取り出した。剃刀の刃は鈍い銀色に光っている。中年男は私に言う。
「さあ目を閉じていて下さいね、傍から見られるぶんには構わんですが、髭を剃るその人から見られていると、こいつぁいかにもやり辛い!」
目を閉じるとすぐ右頬に剃刀が当たるのを感じる。中年男と彼女が親しげにケラケラと笑っているのがよく聴こえる。私は剃刀の感触に集中する。私の髭が剃られていく。私は目を閉じ中年男と彼女の会話を聞くまいとする。髭が剃られていくのは良いことだ。剃刀が耳元を剃る。中年男と彼女が蕎麦屋の話をしている。剃刀が喉元を撫でる。彼女の笑い声がする。私は剃刀の感触に集中する。剃刀は反対の頬に移る。ラジオが遠く聴こえない。剃刀が喉元を撫でる。この中年男にでも私は殺されたいと思う。剃刀が唇の下を剃る。彼女はケラケラ笑っている。
それで私たちは床屋の店前に立っていた。坊主にして髭を剃った私に彼女は、「もうすこし髪を短くしても良かったかもね」と言う。向かい合って立つと頭ひとつぶん彼女は背が低い。まだ昼下がりの晴れた路上だった。丸坊主に髭を剃った私は甚平と下駄と眼鏡だった。
「でもこれでやっと、あんたには何も無くなったわね」
彼女は感慨深げに言う。
「こうして髪も髭もないとさっぱりして良いものね」
彼女はひとりで納得したように言う。
「なぁんにも持たないであたしに着いてくれば良いからね」
私と彼女は床屋の前に立って向かい合っている。
「あんたはあたしのために思い出話を聴かせてくれれば良いから」
彼女の黒髪は綺麗だと思う。
「あとね、あんたは眼鏡も外しているほうが良いわよ」
彼女はすこし背伸びして私の眼鏡のつるを持ち、優しく眼鏡を外そうとする。私は彼女のためにすこし屈む。彼女は私の眼鏡を取り上げて畳み、そのまま彼女の服の胸元に掛ける。風景も足許も彼女の表情も曖昧にぼやける。
「ほらね。朝あんたの顔を見て思ったし、さっき髭を剃ってるときにも思ったの。あんたは眼鏡もないほうが良いわ。」
私は昼下がりの晴れた路上の幽霊だった。
「部屋に着くたび眼鏡は返してあげるから、日中は裸眼であたしについてきなさいね。甚平だけ着てなぁんにも持たずについてくれば良いからね。」
影法師のように私は立っていた。
「わかった?わかったわね?さあ破戒僧さん、もう行くわよ、ついてきて」
彼女は私に背を向け歩き出そうとした。私は彼女を呼び止めた。彼女は振り向く。眼鏡がないから彼女の表情もわからない。
「どうしたの」
私は言う。
「僕は歩けないですよ。その、何も見えないから」
「良いからついて来なさいよ」
「その、」と私は言い、俯いて、それからすこし言い淀んで、「ねえ、」と言い、彼女を見て、掠れた声で、彼女に言う。
「どうか僕の手を引いてくれませんか」
私は彼女の顔を見る。眼鏡がないから彼女の表情はぼやけて私にわからない。私は彼女におずおずと片手を差し出す。指先が垂れる。彼女は、すこし待ったあと、指先を優しく包むようにして握り、握った指先の、彼女は私の手を握った。彼女の手は冷たかった。彼女は私の手をまじまじと見るようにして握る。私は彼女にされるがまま手を握られている。
そして私たちは歩き出した。彼女は私のすこし先に立ち、ゆっくりと私の手を引いて行く。
「足許が危ないときには言うからね」
「ええ、ありがとうございます」
「階段とか電車の乗り降りは危ないからとくに気をつけるのよ」
「もちろん、承知しています」
「そんなに目が悪かったのね」
「眼鏡が無きゃ貴女の顔もよく見えないです」
「あんたが見える距離まで近づいてあげるわ」
「そしたら今度は照れて口が利けなくなっちまう」
「あんたの目をくり抜いてあげたいわ」
「痛くないならそれも良いですね」
「あたしあんたのことが好きよ」
「僕も貴女のことが好きです」
「どこまでもあたしについてきてね」
「僕はもうぜんぶ貴女のものですよ」
「誇張でも何でもなしにその通りね」
「ええ、ほんとうに!」
私たちは静かに笑って話しながら、駅に着いた。プラットフォームの端でふたり、確かめるように会話して、電車を待った。電車が来て、乗った。段差に気をつけて乗った。扉が閉まり電車は出た。
既にプラットフォームに私たちは居ない。
*
さて、この時点で私には日常の匂いのするものがなにひとつ残っていなかった。私は彼女にすべてを剥奪され、あるいは譲り渡してしまった。それで私は幸福だった。残っているのは思い出と身体だけだった。私は思い出を話し彼女の期待を満たすだけの単純な機械として完成した。単純な機械として私は、毎日新しい甚平を着て彼女と一緒に逃げ回った。(私たちは脱皮のように毎日新しい服を着た。) 私だけでなく彼女も変わっていった。彼女のイヤーカフは日々すこしずつ減ってゆき、最後にはピアスの一つきりだった。彼女の刺々しいところはほとんど影を潜めて代わりに無邪気な少女だった。私たちは互いの求めるところを満たすなめらかなひとつの円だった。私は彼女に引かれるがまま何も持たずについていった。彼女は私に思い出を語らせた。大抵は話したことのない思い出を語らせ、だが気に入ったものは何度でも聴きたがった。思い出を彼女に話すのが好きだった。気に入った思い出を聴くと彼女の目は輝いた。彼女は私の話を子供のように聴いてくれた。電車の中や旅館の部屋で私の話を聴く彼女はまるで子供だった。彼女に手を引かれて歩く私は大きな子供だった。
私は彼女のことだけを考えていれば良かった。彼女の期待を満たせば良かった。それが私の幸せだった。私には彼女のほかには何もなかった。ずっとこうやって幸せのうちに逃避行をしていたかった。私は彼女に連れ去られて幸せだった。それを彼女に伝えると彼女は得意げな顔だった。私はたまらず彼女の頬を片手でつまんだ。彼女の頬は柔らかい。彼女はこういうことを外でやると嫌がったがホテルや旅館の部屋では満更でもない様子だった。部屋で彼女は私に眼鏡を返してくれたから表情がはっきりと見えて嬉しかった。私は彼女に触れることが多くて彼女は最初は耳許に触れられるのをとくに嫌がったがじきに触れられるのを好むようになった。もちろん気の強い彼女のことだから自分から触れてくれ、なんてはっきりとは言い出さないし丁寧でない触りかたをすれば本気で怒った。しかし機嫌が良いときにそっと耳許を撫でると彼女は目を細めた猫のように満足げだった。しかしあまり長いこと触れているとこれもまた厭わしげに機嫌が悪くなって加減が難しかった。それとは別に彼女は指を絡ませるのを頻りに好んで私は彼女の頬の柔らかさ耳の繊細さ肌のきめ細やかさと共に肢体や指先の細い艶かしさをも愛していた。と、こうやって文学のように彼女を讃める文章を部屋のメモ帳に書いて見せたことがある。(降り続く雨の日の宿でさすがに手持ち無沙汰な昼だった。) それをサラリと読むと彼女は「あんたの口からあたし聞きたいの」と言い、メモを机に放り投げた。だが少ししてふたたびメモを手に取りもう一度読み返すと、「でもこうやってほめられるのも悪い気はしないわね」と言い、続けて「それでもあたし、あんたが話すのを聞きたいの」と言った。そうして彼女は話をせがんだ。
彼女がとくに好んだ話に石月とのキャッチボールの話がある。秋の日の午後三時ごろに私と石月は彼の部屋で話していたが、ふと二人ともその気になってキャッチボールをすることになった。そのままスポーツ用品店に向かい軟式球に似せたゴムボールを買って公園に向かったは良いものの、いざキャッチボールを始めてみれば素手の捕球には硬い球で、(ふたりともグローブなんて持っていなかったのだ、)手のひらが痛え痛えと騒ぎながら、それでも石月とキャッチボールを続けて、なんだかとても楽しかった、という、まあ言ってしまえばそれだけの話なのだが、彼女はこれを妙に気に入り、何度も私に話させた。手のひらを痛がるシーンでいつも彼女はケラケラと笑い、そして話が終わると決まってしんみりした調子で言うのだ。
「あんたとイシヅキは良い友だちだったのね」
そう言って彼女は私に指を絡ませるか私を優しく見つめるかした。
それである朝彼女は居なくなった。こうやって突然だった。
目が覚めて隣に彼女が居なかった。そういうことはこれまでも時折あったが大抵すぐにパンを買って帰ってきた。しかしその日はずっと待っていても彼女は帰ってこなかった。チェックアウトの時間が来て、私は部屋から追い出された。そのままロビーで待ち続けたが、ロビーからも追い出された。仕方なくホテルの玄関で彼女を待ち続けたが、玄関からも追い払われた。これ以上ここでウロチョロするようなら警察を呼ぶぞとホテルマンに脅されて、私は途方に暮れてしまった。
私はなにも持っていなかった。甚平と下駄しか私にはなかった。眼鏡も部屋から無くなっていた。いくばくの現金も持っていなかった。(逃避行資金はずっと彼女の管理だった。) 知らない街に何も持たず誰でもない私はひとりぼっちだった。実体を欠いた影法師は幽霊だった。私はほんものの幽霊になってしまった。
彼女は私に愛想を尽かしてしまったのだろうか。いやそんなことはない筈だ。きっと彼女のことだから私を心底嫌になれば単にそう言って私を突き放しただろう。だいたい昨日だって私たちはいつものように話していたじゃないか。彼女は私の話を聴いて口を挟んだり笑ったりして、それはいつもの通りだった。何にも変わりはなかったと思う。いつものように私たちは逃避行をしていた。であればこれは何なのだろう。彼女は事故にでも遭ったのか。だがちょっとパンを買いに出て事故に遭ったとするならば部屋に私の眼鏡がないのはおかしい。私の眼鏡を持っていく理由が無いからだ。とするとこれはいつか彼女が言っていた『いたずら』だろうか。きっとそうだ。遠くから、いやすぐ後ろから私を見て、私が幽霊のように街を徘徊するのを『いたずら』として観察しているのだろう。
私は足を止めて後ろを振りむく。すると後ろに彼女が居ない。(彼女どころか誰も居ない。) 私はそこらじゅうをグルグルと見回す。目が悪いからよく見えない。どうやってこんなところまで歩いてきたのだろう。ここがどこだかわからない。どちらに足を踏み出せば良いかわからない。誰でも良いから次に私とすれ違う人に手を引いて交番にでも連れていってほしいと思うが、誰も来ない。太陽が高いから昼だろう。とにかく人通りのある道に出ようと足を踏み出し、つまづいた。下駄の鼻緒が切れていた。それきり私は動けない。もう十分苦しんだからその辺の物陰からヒョッコリ彼女が出てくれば良いと思う、その、物陰から、彼女は出てこない。彼女はとおくから私を眺めて笑っているのだろう。私をもっと辱めようとしているのか。まだ足りないのか。思い切って彼女を呼ぼうか。こんな往来で大声で呼べば彼女はきっと現れるだろう。「恥ずかしいから静かにして!ほら、行くわよ」って言いながらまた私の手を引いてくれるだろう。そうして私は彼女に、どんなに途方に暮れて怖かったのかを話すのだ。彼女は嬉しそうな顔でそれを聴いて途中から私の指に指を絡める筈だ。或いは今回ばかりは反省して彼女は申し訳なさげに黙るから、そうしたら私は彼女の耳を撫でるだろう。
私は彼女を呼ぼうとするが大きな声を出そうとすれば喉につかえて声は出ない。張り上げるように呼ぶ声のつもりが単なる呻き声になる。私は私以外の誰にも聴こえないような声で彼女を呼ぶ。もう少しだけ声量を上げる。私は彼女に話していたような声で彼女を呼ぶ。いずれにせよ誰も来ない。もう少し大きな声を出そうとすれば喉につかえて呻き声になる。私は叫べない。どうしようもないから私はその場に茫然とへたり込んで空想をする。ふたたび立ち上がれない。切れた鼻緒を意味もなくねじりながら彼女のことを考える。彼女はいつか物陰から現れるのだ。何気ない調子で物陰から出てきた彼女は私に気づくと、「こんなところで何してるの?」って呆れながら私を引っ張り起こしてくれて、それで、切れた鼻緒に気がつくのだ。彼女は一瞬私をおぶろうかと考えるが、しかし私は図体ばかり大きいからどうにもならない。彼女はきっと言うだろう。
「ああ、面倒ね!あんたどうしてこう図体ばかり大きいのかしら!」
私は彼女に言い返すのだ。
「僕だってこんな大きくなりたくて大きくなったわけじゃないですよ!」
「それもそうね」、と彼女は急に落ち着くだろう。それで彼女は私に裸足で歩かせるのだ。私は裸足で歩くのを嫌がるがどうしようもない。彼女は私をあやすように、
「次の服屋なり靴屋なりまで辛抱しなさいね」なんて言いながら、裸足の私の手を引くだろう。私たちは歩きながら話す筈だ。
「あたしたち服は毎日捨てていくけど靴だけはそういうわけにもいかないから、ねぇ、ほら、履き馴染みとかあるでしょうし」
「下駄の履き心地なんてそうも変わりはしませんよ」
彼女はすこし考えて、
「たしかにそうね。じゃああんたの下駄は毎日買い替えましょうか。それも良いわね。ただね、下駄は甚平と違ってどこにでも売ってる、って訳でもないから、毎日買うのはすこし面倒なのよ」
ここで私はフと思って言う。
「甚平が売っていない季節になったら貴女は僕に何を着せる積りですか」
「そしたら作務衣とか、浴衣とかを探してくるわ。どうしても見つからない日はしょうがないから洋服を着なさいね。心配しないで、あたしがあんたに似合うのをちゃんと見繕ってあげるから」
「下駄に似合う洋服ですね」
「ふふ、そうね」
そうやって歩いていると私たちは靴の量販店を見つける。自動ドアをくぐって入ると清潔ぶった蛍光灯の白さが私たちを迎えて、私は靴屋の雰囲気が好きではなかった。私のような人間には靴屋なんてただでさえ居心地が悪いのに、ましてこんな泥まみれの裸足じゃ尚更居心地が悪いだろう。しかし彼女が私の眼鏡を取り上げているから、景色も雰囲気もすべてぼやけて、あの嫌な雰囲気だってだいぶ耐えやすい筈だ。靴屋の店員が「いらっしゃいませ」と笑顔で言って私たちを見て、私の甚平姿にまず目を留め、それから私の裸足の足に目が移り、そうして笑顔を忘れ眉を顰めるだろう。「お客様、申し訳ありませんが、」と私を追い出そうとする店員に、彼女はすかさず、裸足の私を庇うように、すこし前に出て言い放つのだ。
「どんなのでも良いから下駄を一足持ってきて。それを買うから。早くして。」
そうやって私は新しい下駄を履いて靴屋を出る。私には彼女が有り難かった。彼女は私を気遣って言う。
「ちょっと早いけど今日はもう宿を取りましょうか。あんたも疲れているでしょう。どうせ昼ごはんも食べてないだろうから、中途半端な時間だけどまずはご飯にしましょうか」
「昼ごはんどころか朝ごはんだって食べてないですよ、僕は!しかしとりあえずホテルなり旅館なりに入りたいです。そうして足を洗いたい」
それを聴いて彼女は、「じゃあそうしましょうか」と言い、手を握って私を引いてゆく。それで私たちは最初に目についたホテルに入る。
夜になれば私たちは向かい合って酒を飲んでいるだろう。(ちょうど最初の晩のように。) 彼女は指を絡ませながら私に何か話をせがむだろう。
「ねえ、あんたは今日はどんな話を聴かせてくれるの」
「そうですね、貴女はどんな話を聴きたいですか」
「あたしはね、」と言って、急に彼女は黙りこみ、絡ませた手をそのまま耳へと持っていく。私は彼女の耳を撫でる。ここで私は彼女がピアスを外していることに気がつく。
「珍しいですね、ピアスを外した耳を触らせてくれるなんて」
「たまにはそういうのも良いでしょう」と彼女は言う。
「なんだか嬉しいですね」
「はい、おしまいね」と言って彼女は私の手を耳から離す。私はもうすこし触れていたいが、彼女の言うとおりにする。彼女は酒を飲んで、私も酒を飲み、それから彼女は言うだろう。
「今日はあんたが死のうとして失敗した話を聴きたいわ」
私は驚く。どうして私が自殺しそこなったことを彼女は知っているのだろう。私は訊く。
「どうしてそのことを知っているんですか」
「知っているもなにも、」と彼女は笑って、続ける。「大学生くらいになれば誰だって自殺未遂の経験の一度や二度くらいあるでしょう。」
「そういうもんなんですか」
「そうよ。さあ聴かせてね。あんまり面白い調子でなくて結構よ」
「ええ、あなたがそれを望むなら、僕はそれを話しますけど、それこそそんなに面白い調子でないし、そもそもあれは、自殺未遂の更に未遂といった様相だったんですがね。まあ、話しはじめましょう。
僕が大学でひとりぼっちだったのを貴女はもう十分知っていますよね。石月に出会う前の話です。十月の二日の論理学の講義で石月と顔を合わせるまで、僕は大学で、まったくのひとりぼっちでした。」
「ひとりぼっちって単語をあたしあんたから千回くらいは聴いたわね。」
「そうですね、貴女は僕のひとりぼっちを千回くらいも聴いてくれました。僕は貴女が居てくれて心底良かったと思います。」
「あたしもあんたの話が好きよ。さあ、自殺の話を続けて。」
「ええ、自殺未遂の未遂の話に戻りましょうか。
なんとか一年生の一学期を終えて夏休みだったんですが、僕は実家に戻れなかった。いいえ、戻りたくなかったんです。実家に戻って両親に会えば大学はどうだ、楽しいか、なんて間違いなく訊かれて、そしたら僕は嘘をつくか、その場で耐えられず泣き出すか、気が狂うか、……わからないけど、絶対に両親の顔を見たくはなかったんです。今思えばこういう時には誰かに会って話すのが、それこそ実家に戻ってすべて打ち明けるのがいちばん良い選択肢なのですが、ただ、それが僕には絶対に嫌だった。実家に帰って泣きつくなら死んだほうがマシだと思って、夏休みは日がな薄暗い部屋に籠っていました。講義がないから誰にも会わない。週に一度はアパートを出てパンや冷凍食品を買い出しに行って、それが僕の外出の全てでした。パンを食べても冷凍食品を食べても味気ないどころではない。噛むたび噛むたび辛いだけで、人生の夏休み(一般論ですがね)たる大学生活の夏休みにこのザマなら、僕の生涯はこれから先、ますます辛くなるだけだから、こんな生活よりも辛いだけの生涯があと数十年も続くならば、こんなものは、もう、無くしちまったほうが良い。それで僕は死ぬことに決めました。
それで八月三十一日に死のうと決めたんです。どうしてすぐ死なないのかあなたはきっと不思議でしょう。これは僕なりの冗談で、夏休みの終わりの象徴といえば八月三十一日だから、そんな日に死ぬのが皮肉が効いて良いと思ったんです。死にかたも既に首吊りに決めていました。ドアノブに紐を低く吊るして体幹トレーニングのような姿勢で動脈だけを押さえていれば、そのまま意識がなくなって、意識がなくなったあとに気道も塞がって、苦痛なく死ねる、って話を聞いたから、僕はそれで死ぬことにしました。痛いのは怖いですからね。僕は八月三十一日を、味気ないパンと冷凍食品で待ちました。
それで八月三十一日が来ます。不思議と静かな心地でした。もう死ぬのに、いや、もう死ぬからこそ、僕は心底安らいでいました。目が覚めて僕はまず最後の朝食の菓子パンを食べました。これが最後だと思えば美味しそうなものですが、やっぱり味はしなかった。それから僕はルーズリーフに遺書を書きます。一枚目で推敲して、二枚目三枚目は書き損じて、四枚目でやっと清書しました。下のほうに名前を書いて銀行印で捺印します。これでもう、私はすることを全て済ませました。」
彼女はしずかに聴いていた。このときに私と彼女は触れあっていなくて、だから私から彼女に指を絡ませた。彼女は私に応えてくれた。
「さてあとは首を括るだけです。僕は別に特別なロープを買ったりしてはいなくて、ビニール紐で首を括る積りでした。うまい輪っかを作るのにも三回くらい失敗して、つまり長さの調整が案外難しくて、四回目にちょうど良さそうな長さの輪を作れました。僕はやっと終わった、ってホッとしながら首を差し入れ、安らいだ心地で死のうとしました。
でもね、いざ死のうとしても全然死ねないんです。うまいこと血流だけを圧迫すれば意識が遠のくはずなのだけど、いいえ、そう聞いていたのだけど、ぜんぜん意識は遠のかない。せいぜい耳鳴りが大きくなる程度です。もっと精確に情報を集めとけば良かった、って思いながら、でも遺書まで書いて引っ込みがつかないし、前から決めていた方法だし、頑張って死のうとするのですが、それでも意識は遠のかない。無理に動脈を止めようとすれば気道も塞がって苦しくて駄目です。僕は苦しいのや痛いのはてんで駄目で、たといそれが死ぬために必要だとしても許容できなかった。だから僕は頑張って意識だけを遠のかせようとするけれど、やっぱり駄目です。
そのまましばらく経ちました。僕は相変わらずはっきりとした意識のままでした。それで、夏でしょう。夏でした。夏だったんです。あの街は夏でも涼しいが、それでも夏は暑くてしかたない。要するに僕は汗をかいていて、考えることは、『一旦シャワーを浴びてこよう、最後の湯浴みだ。それも悪くないだろう。汗みどろでうまく首を吊れずにスランプみたいに苦しむよりも、一旦シャワーを浴びて頭も身体もすっきりさせて、それから続きをやればうまくいくことだってある筈だ。よし、シャワーを浴びよう』と、そう思って、僕はビニール紐から首を離してシャワーを浴びに行きました。汗が流れて気持ちよくて、……それでもう、なんだか、死ぬ気分じゃなくなったんです。汗と一緒に死ぬ覚悟も気分も流れていっちまいました。
すっきりしちまった。僕は笑っちゃうくらい単純だった。シャワーを浴びて新しい部屋着に着替えれば、死ぬことなんてどうでも良くなっちまった。いや、相変わらず死にたいことには死にたいのですが、覚悟が完全に削がれてしまったんです。馬鹿馬鹿しいでしょう。僕も話していて馬鹿馬鹿しいと思います。でもこれが正直なところで、僕は遺書をマーカーでぐちゃぐちゃに判読できないように塗りつぶして、びりびりに破って捨てました。腹も減ってきていたから冷凍食品を温めて昼ごはんにしました。相変わらず味のしない昼です。食器をシンクに投げ込んで、散歩でもしようと服を着替えて外に出ました。ひさびさに散歩をして、気分がだいぶほぐれました。家に帰ってシャワーを浴びて、夕飯を食べて眠りました。しばらくのあいだビニール紐はドアノブに吊るしたままでおきましたが、(メメントモリの積りでした、)ドアを開け閉めするたび挟まって邪魔でみっともないから捨てました。」
おしまいまで言って私は酒を飲む。きっと彼女は言うだろう。
「それで終わり?」
「ええ、終わりです」
「なんだか締まらない話ね」
「僕の首とおんなじですね」
それで私たちはケラケラと笑うはずだ。
私は彼女にもう一度会いたい。あなたは彼女の行方を知らないだろうか。
あるいはあなたが貴女ではないだろうか。だとしたら僕は貴女にもう一度会いたい。
畢竟これは貴女の目に留まる一縷の望みをかけて書いた、小説に偽装した思い出話だ。貴女にはそれがわかるだろう。もし偶然にも貴女がこれを読んでいるならどうか僕に連絡をください。僕は貴女にもう一度会いたい。貴女だけに話したいことがたくさんあるんだ。僕は貴女に話してあげたい。僕の話をさせてほしい。
だからもう一度会ってはくれないだろうか。
(おわり)