マンションの一戸のあるじの部屋に、来客を告げるチャイムが鳴った。こんな夜中にいったい誰がと思いつつ玄関のドアを開けると、すぐそこに男が土下座していた。彼は言った。
「大変申し訳ないです」
あるじは目を閉じ、ふたたび目をひらいた。やはりそこに男が土下座していた。あるじは言葉を失った。何しろ出会った人間が最初から土下座していることなんて、彼にとっては初めての経験であった。
「どうか許していただきたい」
土下座の男は身じろぎもせずにそう続けた。マンションの通路に相も変わらず頭をこすりつけながら。
あるじはどうか土下座をやめるように言い、男を助け起こしてやった。(男は最初どうしても土下座をやめようとしなかったので、かれを助け起こすのだけでゆうに数分はかかった。)男を立たせ、そこであるじはようやく男の顔を見たわけだが、しかし、あれほどまでにひれ伏していたその男の顔に、あるじは全く見覚えがなかった。
あるじは言った。
「失礼ですが、いったいどういう要件でいらしたのでしょう?なぜ土下座なさっていたのですか」
「私は貴方に謝罪をしに、そうして許していただくために来たのです」
「ええ、それは存じ上げておりますが、つまり、なにを謝りにきたのですか?」
それを聞いた男は目を丸くして言った。
「私が、私がこうも謝っている理由がわからないのですか?私は土下座までしていたのに、あなたは私を知らないとおっしゃる。私のことが、私の謝っている理由が、私の顔を見てもわからないのですか?」
わからないのだ。あるじはその男のことを全く覚えていないか、あるいはそもそも知りもしなかった。
「申し訳ないがわかりかねますね」
「そんな、それじゃあ、あんまりだ、ねぇ……」
男は目を伏せ、しきりに鼻をすすりだした。このままでは彼は、今度は泣きだしでもするだろう。
あるじは最初に土下座の男を目にしたときの自分の感情、つまり困惑の感情が、徐々に怒りへと変わってゆくのを感じていた。こいつは一体何者なのだ。そう思いつつあるじは言った。
「あなたに謝られる理由が思い浮かばないし、しかもそのご尊顔も初めて見るよ。いったいなにを謝っているのか、あんなにも激しく謝っていた理由を、どうかはっきり言ってくれないか」
「そんな、私に、私の罪をつまびらかに説明しろと言うんですか。そんなことをさせるほど、ああ、あなたはたいへん怒っていらっしゃる。……ああ、私はとんでもないことを……、ほんとうに私は、あなたになんとお詫びすれば良いのか……」
ここに来てあるじの怒りは頂点に達した。何しろはっきりしない男だ。しかしその怒りをぎりぎりのところで押しとどめながら、忍耐強くあるじは言った。
「私は怒っていないし、むしろ非常に戸惑っているんだ。なんたって顔も知らない相手からひたすらに謝られているんだからね。きみは私にいったい何をしたんだ?私はきみに対してどうすればいいんだ?」
「どうか、私を許していただきたいんです」
「ゆるす?許すったって、いったいなにを」
「どうかひとこと、私に、ぜんぶ許す、と言っていただきたいんです」
怒りは呆れに変化した。あるじはやはり男の言うことに合点がいかなかったが、しかしもう疲れていた。こんなわけのわからない男にかかずらっていたくないし、さっさと帰って欲しかった。何より夜も遅いのだから、もう眠りたかった。ほんとうなら今ごろはベッドの中で安らいでいたはずなのに、いざ眠ろうとしたところでチャイムが鳴り、ドアを開けると、土下座した、男……。
あるじは抵抗をやめた。そうして男に告げた。
「わかった、わかったよ……。すべて許す。きみのことをぜんぶ許す。これで良いかい。いまも合点がいかないが、これできみの希望は叶ったわけだ。満足かい。ではそろそろ帰ってくれ、とても眠いんだ……」
それを聞くと男は急に活き活きとしだした。そのしょげかえっていた双眸には悪意に満ちた生気が灯った。男は言った。
「良かった、いまおまえはおれに、すべて許す、とそう言ったな、確かに言った。おれは聞いたぞ。じゃあ遠慮なく、そらッ」
そう言ってなんと男はあるじの頬を突然、したたかに殴ったのだ。
あるじは叫んだ、何をするんだ!
「殴ったんだよ、文句があるか!おまえはおれに、ぜんぶ許すとそう言ったのだぞ。おれのことを、『ぜんぶ許す』と、そう言ったのだぞ。だからおれはおまえを殴るんだ、今更それは変えられないぞ、そぉら、もう一発!」
「いや違う、私はそういうつもりで君を許したわけではないぞ、ア痛い、やめてくれ」
「じゃあ訊くが、いったいおまえはなにを許したんだ?何もわからず許したのか、『ぜんぶ許す』とそう言って。おまえは『ぜんぶ』許したんだぞ、何もかも許したんだぞ。今さらおまえが何を述べようがそんなものは通りやしないよ、それ!」
そう言って男はあるじを続けざまに何発か殴った。あるじは頭を守るようにしてうずくまった。うぁぁ、と情けないうめき声まであげた。
あるじが男に殴られつづけていると、突然隣のドアがバァンと開き、そこに住んでいる主婦が顔を出した。怒髪が天を衝いていた。
「あんたたちうるさいよ、夜中に何をバタバタやっているんだい!ここはマンションだよ、何考えてんだ!」
あるじはうずくまりながら主婦を眺めやった。鬼のような顔をした彼女が、しかし彼には天使のように思われた。
(じっさい彼女は客観的な審判者だ。彼女に事情を説明して、そうすれば私はこのよくわからない状況から解放されることだろう。助かった。)
そう考えたあるじが彼女に事情を説明しようと口をひらくよりも先に、しかし男が喋り出した。
「いやァうるさくしちまって申し訳ない、こんな夜中ですもんね、すっかり目が覚めちまったことでしょう。しかしね、聞いてくださいね奥さん、私もただ理由もなく騒ぎ立てているわけではないんですよ。聞いてくださいね、ほら、こいつがね、(と男はうずくまっているあるじを示しながら言う、)ここにへたっているこいつが、こんちくしょう、いっぺん許したことを、『ぜんぶ許す!』とか言って解決したのを、あろうことか認めようとしないんです、いっぺんじぶんが認めたことだろうに、それについて駄々こねやがるんですよ!おれはこいつに、何度も何度も謝った、土下座してまで謝ったんですよ、そうしてやっとこいつに許してもらえたんだ。しかし、たしかに許してくれたはずのすぐあとから、急に、こいつぁ態度を一変させて、おれに文句を言いやがるんだ。どう思いますか奥さん、ねぇ!」
あるじは何度も口を挟もうとしたが、立板に水のごとくペラペラと喋る男はついにその横槍を許さなかった。
審判者たる主婦は男の話を、男の話だけをすっかり聴くと、うずくまっているあるじのほうをキッと睨み、腕組みしながら、おまえが悪いよ!と断言した。それから男のほうも見やり、あんたも静かにするんだよ!と言ってドアを閉め、ふたたび姿をあらわさなかった。
廊下はあるじと男のふたりきりになった。男はさっきからずっとうずくまっているあるじをニヤニヤ眺めながら言った。
「さあ、どうするよ?誰もお前を助けちゃくれないよ、お前はここからどうするんだ?」
あるじは小さい声で何やらボソボソと呟いた。男は脅すような口調で訊き返した。聞こえないよ!
「もう勘弁してください」
「なんだその謝り方は。申し訳ありませんでした、じゃあないのか?」
「申し訳ありませんでした」
「誠意が足りないなぁ」
あるじは姿勢を改め坐り、マンションの廊下に頭を擦り付けながら言う、申し訳ありませんでした。
あるじのそんな様子、謝罪を見て、男はしばし黙っていたが、それから急に、一転して邪気のない笑顔を浮かべ、言う。
「わかってくれりゃあそれで良いんだ」
そう言って男はあるじを助け起こし、丁寧にも彼の服についたホコリを叩き落とし、そうして去っていった。
廊下にはあるじだけが残った。男が去るとひどく静かな夜だった。
しばらく茫然としていたあるじは、ふと左肘に鈍い痛みを感じた。見ると皮が擦りむけ、血が滲んでいた。あるじはそれを見ると正気に戻り、あわてて自分の部屋に戻った。
廊下にはもう誰も残っていなかった。