かえる作文帖

小説(掌編・短編)や随筆などを書いています。読んでくれると嬉しいです。

置き文(掌編)

夢中になって橋の欄干にぐるぐるとロープを固く結びつけていると、いつの間にか後ろにランドセル背負った女の子が立っていて、おれのことをじっと見つめていた。おれはそれにしばらく気がつかなくて、自分の作業をひととおり仕上げてふぅと息をつき、何となく後ろを見たらそこにはおれをじっと見ている女子小学生がいるのだから、おれの心臓は一瞬肋骨を突き破ったようだった。

「何をしているんですか?」

「そうだね、……欄干の補修をしているんだよ。ヒハカイ検査で判明したんだけど、金属がずいぶん腐食しているんだな。それで、工事をするまでの、要するにこれは応急処置をしているんだ」

「へえ、そうなんですか」

少女はおれのデタラメを納得したように見えた。おれは彼女にさっさと立ち去って欲しかったが、彼女はもじもじとしながらおれを見つめているばかりで、一向にどこかへ行こうとはしなかった。

夕方だった。夕方も暮れも暮れ、もうほとんど夜だった。こんな時間にこんな場所を小学生が独りで出歩いていて、そいつはおれのそばから立ち去ろうとはしない。つまり今度はおれが彼女に何か訊ねる番だった。

「こんな遅くにこんなところで何してるの?ご両親が心配しているんじゃないの」

「ゴリョウシン」

「お父さんとお母さん」

「オトウサンは居ないです。ママはお仕事まで寝てるの」

「そう…」

おれも彼女も黙り込んだ。ご両親を持ち出せばさっさと帰ってくれるかと思ったがそんなことはなかった。何ならおれの会話の振り方はとんでもない悪手だった。彼女の境遇はタイヘンなようだった。

おれは彼女にさっさとどっかに行って欲しいのに、彼女はおれの前にいつまでも留まっている。彼女はその薄汚れたヨレヨレのシャツの首回りをいじりながらモジモジしている。おれも少女もモジモジと黙り込んでいたわけだが、情けないことに次に口火を切ったのはまた少女だった。(彼女のほうがおれよりも成熟しているかのようだ。)

「ひとつ訊いてもいいですか」

「なに?」

「大人になったら、そうしたら、ジンセイは楽しいですか」

「楽しい?人生が?楽しいも何も、」

そう言いかけてやめた。少女はおれの目を、切羽詰まった表情で覗き込んでいたものだから、おれはその先を、おれの憎悪や諦観を、独りよがりなそれを続ける気にはならなかった。

その代わりおれは、できうる限りの笑顔をつくって彼女に応えた。

「楽しいよ。大人になると楽しいことが沢山あるよ。もちろん楽しいことばかり、って訳にはいかないよ。僕だって、たとえばこんな仕事をしたくてしているわけではないんだ、仕事なんて楽しくない。その代わり、大人になると自由になるよ。まだ分からないと思うけれど、お酒をのんだり、お馬さんが走るのを見たり、いや、……うん、そうだ、バイクに乗って気ままに、日本中を旅して回ったり、たとえば澄んだ碧色した四万十川なんてとても静かで綺麗だったよ。ほかには、そう、好きなひとと一緒に暮らしたり、まあ僕にはそんな経験はないんだけど、君ならできるよ、心底から赦しあえるような、男の子と、いや、恋人と。……まあつまり、そういうことがたくさん出来るようになるよ。大人になったら、ジンセイは、楽しいことがたくさん、増える。ほんとうだよ」

すこし嘘臭すぎるかとも思ったが、どうやら上手くいったようだ。少女はおれの言うことを聴いて、ほんの少し笑顔になった。そうしておれにアリガトウ、ばいばい、とそう言って、おれの方を振り返り振り返りしつつ歩いていった。

おれは彼女が遠くに行くまで、作り笑いをしたままずっと手を振り続けていた。彼女が見えなくなるや否や何もかも止め、欄干に結びつけていたロープの反対の端の、輪っかにしていた部分に首を通した。

橋は高い。ロープは欄干にしっかりと結んだ。

おれは欄干を乗り越えて向こう側に降り立ち、最期の覚悟を決めようと深呼吸する。あと一歩踏み出せば、絞首刑の要領で、きっと苦しみもなく逝けるのだ。

もう何の未練も無かった。