かえる作文帖

小説(掌編・短編)や随筆などを書いています。読んでくれると嬉しいです。

盲腸で入院した話(随筆)

つくづく自分がなるとは思いもしなかったものにおれはずっとなり続けている。こんなにも惨めな25歳になっちまうとは思っていなかったし、公僕として働くことになるとも思っていなかった。いわんやこのあいだのように盲腸で入院することなんて想像だにしていなかったわけで、要するに、今日は盲腸で入院した話を書いてゆきたい。盲腸で入院した体験談がインターネットにひとつ増えたところで誰かを脅かしはしないだろうし、何ならひとつの症例として多少有意義ですらあるだろう。……しかしこれは何の言い訳だ? おれの書くものが誰かにとって有意義かどうか、そんなのはおれの知ったところではない!

それでは何のためにお前は盲腸で入院した話などというケッタイなものを書くのか?、と諸氏はおれを問い詰めるかもしれない。なぁに、簡単な話、少し前に退院後の検診を終え、ようやく飲酒が解禁されたものだから、こうやって良い気分で酒を飲みつつ、盲腸をめぐる思い出を辿り直すことを、またそれについて書くことを酒の肴にしているだけのことだ。

Q.盲腸のような不愉快な思い出を肴に酒を飲めるものなのか? A.もちろん盲腸の手術前や手術後すぐの期間は全き苦痛に他ならなかったが、そもそも大概の出来事は思い出として想起するならばたとい苦しんだ記憶であろうと懐かしさのうちに霞んじまってなんだか悪くないもののように感じられるし、それに、手術後しばらく経ってからの入院期間はどちらかと言えば労働の日々のうちに不意に現れた幸福な安息期間と言ってしまっても良いくらいで、幼年期の思い出を懐かしむように、甘美な、帰らぬ日々、その麗しき薫風の、……何だって良いや。前置きも御託もどうでも良い。以下に盲腸の発症?、から手術入院、そして退院までの思い出を書いてゆくつもりだから、おれが気楽に書くように、諸氏も気楽に読んでくれれば良い。

 

*盲腸の発症?について

唐突な激痛! というわけではない。少なくともおれの場合は違っていた。

或る木曜日、職場で昼飯を食ったあと、妙に腹の調子が悪かった。職場で食う昼飯なぞが消化に良いはずないのだから、腹の調子が悪いのはいつも通りのことなのだが、その日の腹痛はいつもとは違っていた。腹が痛くて雪隠に行けば普段なら何らかの解決を見るところ、その日は一向に解決に辿り着く気配が無かったのである。雪隠に行っても何も出ないし、かと言ってただ我慢していても調子の悪さが全く引かない。こいつは妙だ、もしかして盲腸にでもなっちまったか?、などと冗談めかして考えているだけの余裕が、しかしその頃にはまだあった。

定時退勤で帰路につく時分になってもまだ痛かった。腹がずっと鈍く痛んでいるのに雪隠に行っても何も出ない、そんな状況が優に何時間も続いていて、いよいよおかしいと思いつつ、帰りのバスに揺られながら、しかしまあ家に帰って酒でも飲めばどうにかなるだろう、たとえば風邪気味の日にだって酒を飲めば何とかなってきたように、この腹の痛みだって飲酒で紛れてくれるだろう。そう考えながら、痛みは相も変わらず恒常的に続いていた。

おれの腹が痛もうがバスはいつも通りに運行される。最寄りのバス停から徒歩で家に着き、風呂に入って晩飯を食い、それからおれは頼みの綱、百薬の長たる酒を飲んだ。さて結果は? ……第三のビールを一本と、レモンの酎ハイを一本飲んだが、微塵も効きやしない!

こうなってしまえばどうしようもない、万策尽きちまっているのだから、平日の僅かな自由時間を切り捨てるように、早々に眠っちまうほかなくて、午後七時過ぎに整腸剤を飲んで布団に入り、眠ろうとするおれに対し、盲腸がその本領を見せはじめた。

平坦な痛みが、ほとんど平坦なまま、徐々に痛みの強度を増してゆき、たとえば腹を下した時なぞは体勢を変えたり腹を温めることで痛みを多少はマシに出来るところ、この痛みはどんな体勢をとったところで微塵も苦痛がマシになりやしなかった。痛む場所こそときおり変わるが、痛む強さはほとんどずっと同じ調子で、そんな痛みが、少しずつ、少しずつ強くなってゆく。(痛みが弱くなることは決してない。)報われることのない無駄な寝返りを何度も打ちつつ、おれはようやく気がつきはじめて、曰く、どうやらコイツは『マジで』尋常な腹痛ではない。何ならほんとうに盲腸か、或いはそれ以上の何ものかだろう。いずれにせよ苦痛が我慢の閾値を越えはじめたものだから、夜の九時過ぎ、普段着に着替えて近所の救急外来へ赴いた。

 

*病院(一軒目)の話

救急外来の待合室で待たされている間にも変わらず痛みは増していった。あまりに痛むものだから、じっと座っていられずに、立ち上がったりうずくまったりしつつ、ほんのわずかでも痛みがマシになる体勢を探していた。それで結局、椅子の座面に膝を乗せ、背もたれに逆向きにもたれかかるような格好に落ち着いた。(この頃には既に、お行儀良く座っていられるだけの心身の余裕が無くなっていた。)

苦しみのさなか、待ち時間もずいぶんと長かったように記憶している。三十分だか一時間だか、どれほどの時間を待っていたのか、正確なところはわからないが、おれ以外誰ひとりとして居ない待合室で、苦痛に呻きつつお医者様から呼ばれるのを待ちながら、待ち時間の終わりの予兆が一向見えてきやしないことが辛くて堪らなかった。何たって受付番号もなければ他の客のひとりすらも居ない、一切の目安が無い夜の病院だ。暖色の照明がかえって寒々しい空間で、徐々に増してゆく腹痛と、終わりの見えない待ち時間に、おれはもう、どうにかなってしまいそうだった。しかし幸いにもおれが発狂してしまうよりも先に医者から声をかけられて、待ち時間は終わってくれた。待ちに待った診察の時間だ。それで、腹を透視する写真やら触診やらその他何やらを経た挙句、ようやく盲腸(正確には虫垂炎か?)の診断が下りた。診断がおりて、それで苦痛が微塵も和らぐわけではないが、盲腸だとハッキリしたなら話が早い、不愉快極まりない盲腸を、さあ今すぐにでもおれの腹から引きちぎってくれ!

ところがそう話は早く進まない。お医者様の言うところでは、この病院には盲腸手術の設備が無いもので、云々云々、要するに、紹介状を書いてやるから今日は一旦家に帰り、明日また別の病院に行ってほしいとのこと。冗談だろう? 勘弁してくれよと思いながら、怒る気力も絶望する気力も失せていて、単にもうハイ、ハイ、と先生の言葉に頷きながら、腹が痛くて堪らなかった。

盲腸が痛くて病院に来た人間をそのまま帰すわけにもいかないから、盲腸を『散らす』点滴を病院でやって、それから痛み止めを土産に持たしてやるという。この点滴でだいぶん楽になる筈ですから、とお医者様は言っていて、結局これはほとんど嘘だったのだが、事前にそれを知り得るはずもなく、蜘蛛の糸、藁にも縋る心持ち、その霊感あらたかな点滴を受けるためにおれは、看護師の押す車椅子に乗って、診察室の隣の部屋のベッドへ移動した。ベッドの上に横になり、点滴を受ける前に、吐いた。

まずいです吐きそうです、と言うおれのもとへ、看護師は急いで小さいバケツ?、を持ってきてくれて、ベッドの上で惨めな虫のようにうずくまりながらおれは、泣きながら吐いた。酒の飲み過ぎ以外で吐くのは初めてのことだった。

(余談だが、盲腸の苦痛のさなか、吐いているときはほかの時よりも楽だった。というのも、吐く直前や吐いたあとのわずかな時間だけは、どういうわけだか盲腸の痛みがスッと引いてくれるものだから、これ以降おれは何回か吐くことになるが、こみあげる嘔気は盲腸の苦痛を少しの間だけ遠ざけてくれて、もちろん嘔吐は気持ちの良いものではないが、嫌悪感よりも有り難さのほうが大きかった。(尤も、吐いてから少しすれば盲腸の痛みは執念深い蛇のように何度も戻ってきて、おれをキリキリと締め付けてきやがる。辛くてたまらなかった。))

吐き終わってから針を刺し、盲腸を『散らす』ための点滴を受けた。盲腸を散らす点滴を受ければ楽になる、というお医者様の話をおれは信じていて、期待しきっていたものだから、しばらく点滴を受けていても苦痛がほとんど引かなかったときには泣きたいほどだった。何十分かあと、効かなかった点滴の針を外して、それからおれはふたたび吐いた。点滴よりも嘔吐のほうがよっぽど腹痛を遠ざけてくれた。

鎮痛剤『カロナール』を3回分と、別の病院への紹介状を貰い、おれは家へと帰された。家に着いてからまた吐いた。

盲腸がこんなにも辛いものだとは思っていなかった。

 

*病院(二軒目)で手術するまでの話

七転八倒の苦痛のうちに夜は更けていった。長いことのたうちまわったあと、点滴が時間差で効いてきたのか、或いはカロナールが効いたのか知らん、そのうちに眠りに落ちていた。(尤も夜中に何回か目覚め、便所にえずきに行っていた。)

翌朝、目が覚めて驚いた。どういうわけだか、あんなにも痛かった腹が今ではほとんど何ともない! 心底ありがたい気持ちで部屋を出て、アアこれは熱のふらつきだ、と体温を測ると39度を超えていた。(嘔吐にしろ高熱にしろ、別の苦痛を感じていると盲腸の苦痛は引っ込むらしい。照れ屋さんなのだね。)

どれほど調子が悪かろうが家で寝ているわけにはいかない。盲腸をサッサとちぎり取ってもらう必要があるのだから、紹介状を書いてもらった病院へ、高熱のうちに赴いた。ここからがまた長かった。

まず、発熱のせいでコロナやインフルエンザの検査を受ける羽目になった。鼻に棒を突っ込まれ、結果が出るまで1時間ほど椅子に座って待っていてくれという。高熱が出ているときにジッと椅子に座っているのはほんとうに辛い。おれが頭を抱えていると、見かねた看護師がおれに点滴を刺してくれた。点滴をしていると熱の苦しさが幾分マシになってくれて、ボンヤリと待っていられるだけの気力が戻った。そのうちに検査の結果が出て、コロナやインフルエンザは陰性だという。第一段階クリアというわけだ。

それからおれは第二段階、つまり他の患者に混ざりつつ、X線やら肺活量やら心電図やら、盛りだくさんの検査を受けさせられることになった。ひとつ検査が終わればまた次の検査室へと移動する必要があり、また検査ごとにそれなりの待ち時間が伴った。熱で辛いのに横にもなれず、慣れない点滴スタンドとともに、何時間ものあいだ病院内スタンプラリーを強要されるのは、ちょっともう、勘弁してほしかった。熱のおかげで腹痛が引いているのは幸いだったが、言わずもがな熱そのものだって苦痛だった。

結局、全ての検査を終え、主治医の先生と話す段階に至るまで、4時間強の時間がかかった。

平日の13時過ぎだった。本来なら職場に居るはずのおれは病院の診察室に居て、いち患者としてお医者様と向き合っている。奇妙な夢のようだった。

先生はX線だか何だかの写真を見せながら、おれの盲腸について話してくれたが、写真を見ても話を聞いてもほとんどピンとこなかった。(そもそも熱で朦朧としていて、説明を聞くどころではなかった。)それから先生は、きょう手術したほうが良いと思います、とおれに告げた。ほかにも盲腸を『散らし』た後に手術する方法もあるらしいが、盲腸をうまく散らせずにかえって悪化した状態で手術なんてことにもなりうるという。先生が今日手術したほうが良いと言うならばそれを受け入れるほかない。だからおれも、今日手術でお願いしますと言った。それを聞くと先生は、わかりました、と言った。

そこからは事はわりあい早く進んでくれた。看護師に手伝われながら病衣(手術着?)に着替え、10枚ほどの書類にサインさせられて、それから手術開始の時間を待つため、おれ専用の病室へと連れてゆかれた。(感染症対策だか何だかで、入院後の何日かは大部屋ではなく個室での入院になるとのことだった。ひとりで居るのが好きだから、しばらくの間だけでも個室で入院できるのは嬉しかった。)病室には自分のためのベッドがある。ここでようやくおれは、長かった検査やら診察やらの何もかもを終え、横になってひと休みするに至ったのだ。

 

*手術前後の話

休んでいるあいだ、病室に来た麻酔医や看護師から色々と説明を受けたはずだが、熱で朦朧としていたから、聞いた話の内容を今ではほとんど覚えていない。横になったまま手術の時間を待っていると、別の看護師が来ておれを呼んだ。また何かの説明かと思っていたが、手術の準備が整ったという。(やっとおれの身体の中から不愉快な盲腸を引きちぎってくれるらしい!)手術室まで車椅子で押してゆこうかと訊かれたから、お願いしますと応えた。熱に加えて腹痛も幾分戻ってきていたものだから、もはや立って歩ける心地ではなかった。

廊下、エレベーター、廊下、手術室。初めての手術だが緊張も何もありはしなかった。おれがやることなんてなにひとつなく、眠っているうちにすべて終わっているのだから。(或いはふたたび目覚めないなんてこともあるのかも知らないが、眠っているうちにおれが死んでいるなら、そんなことはおれの知ったことではない。)とにかく、腹痛と高熱の原因たる盲腸を、一刻も早くおれのなかから取り去って欲しかった。

手術台に乗せられ服を脱がされて、全身麻酔の呼吸マスク?、を口にあてがわれた。おれは不眠がちだから、もし全身麻酔がうまく効かなかったらどうしよう、或いは不完全に効いて手術中に目覚めるなんてことになっちまったら……、などと不安に思っていたが杞憂だった。医者は「眠くなってきますよぉ」などと言っていたが、おれは一切眠くならず、つねと変わらぬ意識のまま、唐突に、三呼吸目で気絶した。

 

終わりましたよ、と声をかけられ目が覚めた。先ほどと同じ手術室だった。終わったのか。生きている。無事に手術が終わったようだ。無事かどうかはまだわからないのか? ……どうだって良いや。とにかく盲腸はおれの中から取り去られたらしい。

おれが横たわっている台、手術台?、がガラガラと動きはじめた。看護師らが運ぶ手術台に仰向けになったままおれは手術室を出て、廊下、エレベーター、廊下、そして個室の病室に着いた。ここでヨッコラセ、とおれを持ち上げ手術前に寝ていたベッドへ移すのか、などとボンヤリ考えていたところ、なんと手術台がそのままベッドの位置に収まった。『手術台だとおれが思って寝ているコレは、どうやら病室のベッドらしい!』ずいぶんと気が利いていてありがたかった。

腕に点滴があるのは言わずもがな、尿道には管が入っていて、口には酸素マスクをあてがわれていた。心電図用のシールも貼り付けられていたかも知れない。時刻は18時前だった。スマホを触っても良いですか、と傍らの看護師に訊くと、構いませんよ、とのことだから、しばらくはスマホをいじって過ごしていた。こんなものなのか、と思った。(ただ尿道の管だけは異質だった。身体をすこし動かすたびに、意志とは関係なしに管を通して尿が出てゆく感覚がある。まるで漏らしているようで、気分が良いものではなかった。)

酸素マスクも尿道の管もその日のうちに取り去られた。確か夜の22時過ぎごろに、さっきの看護師がもう一度やって来て、これら二つを取ってくれた。酸素マスクを外すのは至極簡単なことだったが、尿道の管を抜くのは苦しかった。息を吸って、息を止めて、息を吐いて、の息を吐くタイミングで管を抜いてくれるのだが、管を抜いている最中、おれの吐息は苦痛混じりの呻き声でしかなかった。(血だって混ざっていたろうと思う。)

管が抜ければ点滴のスタンドと共に自由に外を出歩ける。看護師が、すこし歩いてみましょうか、とおれを消灯後の廊下へと連れ出した。身を起こして立ち上がると、よっぽど酷い体勢で手術をされていたのか知らん、肩の周りがひどく凝っていて痛かった。

暗い病院の廊下を看護師と一緒にエッチラホッチラ歩いて自販機の前に辿り着き、お茶を買った。(手術後は歩くのも一苦労だった。)そうしてそのまま来た道を戻り、ベッドに横になるのを見届けてから、本日はお疲れさまでした、就寝です、おやすみなさい! 看護師は出てゆき、おれは病室にひとりだった。生涯初の入院一日目の晩で、部屋は冷房でずいぶんと寒かった。

 

*入院生活

さて、ようやくおれは入院生活について書けるわけだ。ここまで書いてきたものはすべて入院生活について書くための助走に過ぎない。おれはおれの入院生活をふたたび味わうためにこの文章を書いていて、……書いていたはずなのだが、いざ入院生活を思い返してみたところで、ハッキリとした思い出は残っておらず、あるものといえば入院の日々のうちに抱いていた情動の残滓くらいのものだ。そういうわけで、おれが入院生活について語るとき、それはどうしても漠然とした断片的なものにならざるをえない。

結局おれの入院生活は何だったのか? 簡単にまとめてしまうなら、入院の日々は退屈な日々で、また幸福な日々でもあった。可能ならおれはもう一度入院したいくらいだ。いや、もう一度などと言わず何度でも入院したい。入院をみずから望むなんて、冗談を言っているのだろうとおまえは思うかもしれないが、冗談でも何でもなく、ほんとうにおれは、ふたたび、みたび、入院したい。

ある意味で入院は旅よりも良いとすら思う。たとえばおまえが旅に出れば、旅先の環境はおまえに観光やら飲食やらを要求する。要求を拒んで日がな旅館でだらけていることだって出来なくもないが、そうやって旅先で何もしないでいると、別に悪いことをしているわけでもないのに、どういうわけだかおまえは後ろめたくなってくる。要するにおまえは旅先であろうが行動を要求されているわけで、その『行動をしなければ損したように感ぜられる性質』は、労働のはざまの常なる休日と全く同じい。単なる休日であろうと旅先であろうと、社会に組み込まれきったおまえの行動原理には、つねに労働が現前している。労働が無い日にはせめて人間らしくあろうとあがくおまえは労働の奴隷であり、かつまた余暇(これは労働の裏返しだ)の奴隷ですらある。『余暇』はおまえが『暇』であることを許さないのだ。

一方で入院は余暇ではないが、余暇よりもなお余暇らしい。リハビリの必要がないおれに対して入院が要求することはたったひとつの根本原理、曰く『病人は病人らしく、何もしないで休んでいろ!』

よろしいか諸君! 何もしないで休んでいることに罪悪感が伴わず、それどころか入院患者の名のもとに何もしないことが正当化され望ましいこととされている、これほどまでに徹底された素晴らしい『暇』が、果たして入院のほかにあるだろうか? おそらく無いだろう。もしあるならば是非ともおれに教えて欲しい。頼むから。(唯一挙げるとするならばそれは献血後の休息時間だろう。ボンヤリと座って甘いジュースやしょっぱい菓子を飲んだり食ったりしていることが要求される、あれもなかなか余暇じみていて、だがそれも十五分や三十分そこいらの短い余暇だ。)

畢竟おれの入院生活はそういった意味での全き余暇、大手を振って何もしないでいられるところの余暇だった。リハビリだってありはせず、ただ起きて飯を食い、ときおり縦になって売店を冷やかしにいったりして、そうして夜になれば眠る。脳みそがふやけちまうほど退屈で、それが言いようもなくうれしかった。こんなにも満たされた気持ちで退屈を持て余すことができる日々を、労働者の身分で堪能できるとは思ってもいなかった。几帳面にもおれは毎食の病院食(ぜんぶで15食だ)をスマートフォンで撮っていたのだが、退院後、まるで旅先の写真を眺めるような心地でそれらを何度も見返した。彩りのない食器に盛られたしょぼくれた病院食を見なおすたびに、病院に帰りたい思いが懐かしさと混ざり合って泣きそうな心持ちになる。労働にまみれたこんな人生なんて丸ごとくれてやるから、あと一か月ほど入院させてくれやしないか。対価としておれの残りの人生を丸ごと全部くれてやる。幸せな退屈のうちに一か月の入院生活を送って、それきりぜんぶおしまいで良い。おれは今のおれの生涯が大嫌いだ。もう何もかも厭で厭で堪らない。助けてくれ、今すぐおれを入院させてくれ!

……概して幸福だった入院生活も、入院直後の二、三夜は辛かった。といってもそれは手術後の苦しみというわけではなく、もっぱら酒が飲めない苦痛のためで、入院以前は毎晩欠かさず酒を飲んでいた身としては、突如命じられた禁酒が非常に苦しかった。酒が飲めない病院の晩、量の少ない入院食は、窮乏のうちに過ごした大学時代をおれに思い起こさせ、(食うものもなく酒も飲めず、白湯をガブガブ飲むことで空腹を誤魔化しつつ黴臭い本を読んで過ごした大学時代の冬の晩、)ジリジリとひもじかった。とはいえ三日も酒を飲まずにいれば、禁酒の晩につきもののあの焦燥感もなくなって、要するに酒が身体から、脳髄から抜けきったことになるのだろうが、そうなると酒のない晩も苦痛ではない。夕食の病院食をモグモグ食べて、温かい茶を飲み、消灯の時間になれば眠る。

病院食は不味くて食えたものではない、という言明をよく耳にするから、病院食の味については当初覚悟していたが、分量こそおれには足りなかったものの、味については別に食えないほどではなかった。少なくともおれは毎食の配給を楽しみにしていたくらいで、尤もこれはおれの味音痴のためかも知れない。目を瞑って飲んだなら赤ワインと白ワインの区別もつかないだろうおれにとって、味の可否などさして気になりはしなかった。別に薄味だとも思わなくて、ただ何度も言うが、量はすこしばかり少なかった。量の少なさを誤魔化すために、『よくかんでたべよう』の授業を受けた直後の小学一年生のように、それはもうよく噛んで毎食食べていた。

入院中に何よりも後悔したこと、それは本を持ってゆかなかったことだ。オシマイのような労働者生活のうちに読めずにいた幾つかの長い小説を集中して読む絶好の好機であったのに、荷造りのおれは高熱にうなされてそれどころではなく、結局一冊も持ってゆきやしなかった。或いはトマス・マンの『魔の山』やそれに準じた小説が置かれていないかしらと思いつつ、一縷の望み、点滴スタンドと共に売店に寄ってみたものの、病院付属の売店では古臭い文学なぞお呼びでないようで、結局オール讀物やら旅の手帖やらを買って戻り、無感動に読み捨てて仕舞いにすることしか出来なかった。(あんなにも退屈で幸福な入院生活のうちに、長くて質の良い小説があれば、どんなにか素晴らしかったことだったろう!)

……いま急に思い至ったのだが、おれにとって入院が良い思い出であるのは、個室で過ごした時間が長かったためかもしれない。本来ならば個室の入院は二日間きりで、その後大部屋に移されるはずのところ、大部屋に空きが無いだか何だかの理由で、運良く個室に四泊出来た。その後は大部屋に移されたものの、大部屋では二日だけ過ごして退院した。こうやって入院生活を思い返してみても、帰りたいような懐かしさとともに想起されるのは個室で過ごした日々ばかりで、大部屋のことはさして印象に(良くも悪くも)残っていない。

ああ、やはりそうだ。おれが入院の日々に帰りたいと思うとき、それは単に入院することだけを意味しない。おれは個室にふたたび入院したいのだ!

 

おれが過ごしていた個室は、どことなくビジネスホテルじみた部屋だった。ひとひとりを収容する手法がある程度システマタイズされると、旅館であろうが病院であろうが、行きつく先は結局ビジネスホテルなのかもしれない。大きく異なる点といえば、ベッドに酸素ボンベやらナースコースやらリモコンやらが付いていて、かつそのベッドが可動式であるというくらいのものか。

朝、まどろみを終えて目を覚ませば、ベッド脇のリモコンをいじって身体を、もといベッドを起こす。『あたまが あがります』という機械的な音声が流れ、上半身が徐々に起き上がる。眠ることも雑誌を読むことも出来そうな半端な傾斜で操作を止め、たとえばカーテンでも開けにゆけば、冴えない千葉県の市街地だ。とはいえ入院の身としてはそんな冴えない市街地ともだいぶん隔てられちまった気がする。ふたたびベッドに戻ってボンヤリしたり、雑誌を読んだりしていると、点滴を替える看護師や、巡回のお医者様がポツポツとやって来る。そういった来客はあるものの、ほとんどの時間のおれは病室にひとりきりで、しあわせな退屈を抱きながら、しずかな心持ちでベッドに腰をかけていると、じきにトレイを持った看護師がやって来て、おれに言うのだ。「○○さん、朝ごはんですよ……」 おれは朝ごはんをモソモソと食べ、食べ終わってしまえば次の飯までやることもなく、……

 

……ああ、あんな退屈の日々にふたたび帰ることが出来たなら!

 

*退院について

腹痛が始まった木曜日から一週間後の木曜日、大部屋で朝飯を食ってから退院した。一軒目の病院の救急外来、二軒目の病院での手術・入院、それと退院後の検診、全て合わせて八万円弱の出費だった。