かえる作文帖

小説(掌編・短編)や随筆などを書いています。読んでくれると嬉しいです。

えんどれす⭐︎ティータイム(掌編)

一杯のお茶と全世界を交換してもいいと誰かが言ったが、むろん、いいだろう、但しそれは全世界であって自分の肉体とじゃないのだ。……

(安部公房『壁』-第二部 バベルの塔の狸)

 

 

 

気がつくと彼はふたたび、……いや、みたび、よたび、……さて、ほんとうのところそれが何度目かわからない。が、とにかく、彼はまた正気に戻り、またしてもその白い部屋で、つるつるの化け物と差し向かいに座っていた。

 

(ここで、僭越ながら、彼が居るその部屋の状況を詳かにしておくことは、或いは価値のあることやも知れない。だからそれをする。これが力のある語り手ならば、その骨太な進行に併せてそれとなく周りの状況を示唆するが、あいにく、私のごときやからには、こんな背景を話のなかで描写するのは難しい。つまりそれは、三、四平米の真っ白な部屋、壁床天井そのどれもが真っ白な部屋、その中央に真っ白な木の机がひとつ、机を挟んでこれまた真っ白な木製の椅子がふたつ差し向かいになっていて、その一つにはつるつるの化け物、もう一つには彼が座っている。)

(部屋の大きさ、部屋と家具の色、それらに特に意味はない。ただ何となく、真っ白な部屋で化け物と差し向かいに座っているのが奇妙だからそうしたのであり、そもそもこんなことを物語る行為自体が無意味である。しかしそれならば、或いは無意味こそが物語る行為にとっての価値か?……とにかく、こんな、蛙の解剖のようなことはやめにして、話を続ける。)

 

化け物は彼が意識を取り戻したことを知ると、手を叩きながら奇妙に鳴き、それからまた、机の上に置かれたビスケットの山を食べはじめた。いや、食べることを再開した。

彼はその醜悪な化け物を睨みつけつつ、この部屋から逃げ出せないこと、いやそもそも立ち上がってはいけないことは覚えていたから、つるつるしたクッキーモンスター、クッキーのかすをぼろぼろ散らかしながら食べているその醜悪な化け物、と差し向かいの彼は、胸中にどろどろとした不愉快を立ち込めさせつつ、彼は如何にしてこの逼迫したコンテクストから、無謬なる生還を果たし、いやよしんばここから逃れ出づることが叶わないなら、あるいはグロテスクな顔面のその鼻面(どこが鼻だ?)に痛恨の一撃を放つことを逡巡夢想している彼は、つまり、そんなことを夢想しつつも、べつにそれを実行することは欠片も望んでおらず、その矛盾は、いや、その、つまり、要するに、彼は、非常に腹が減っていた。

彼の胸中の不愉快や、危険で無意味な空想は、専ら空腹によるものだった。彼は化け物を憎んではおらず、ただもう腹が減っていた。そこで彼は化け物に尋ねた、すなわち、おれは腹が減っている、おれもそのビスケットを喰いたい、つまりおまえが喰っているそのビスケットを、おれも喰っていいだろうか、と。すると化け物は首を傾げ、錆びた自転車のような声を疑問符つきで捻り出すと、ふたたび手を叩きながら口を歪ませて鳴き(、つまりそれは笑い声だった)、またしてもビスケットを喰らいはじめた。

彼は化け物の返答も、化け物が何故笑ったのかもわからなかったが、とにかく彼は空腹だった。そこで彼はビスケットの大皿に恐る恐る手を伸ばし、これまた恐る恐るビスケットを口にした。が、化け物は何も言わず、まるで彼のことなど眼中に無いかのようにビスケットを貪り喰っているものだから、彼ももはや恐れも遠慮することもなく、ビスケットを喰らいはじめた。すると、二枚三枚と喰らってゆくうちに、気がついたことは、なんと、彼は、べつに、さして腹が減っているわけでは無かった。どちらかと言えば喉が渇いていたのであるが、……いや、どちらかと言えば、なんて生易しいものではなく、烈しく喉が渇いていた。彼は空腹を渇きと取り違えていたのだ!

(これは大変愚かなこととして諸君には感じられるかも知れない。だが、空腹と喉の渇きを取り違えることは間々ある話で、とりわけこのような、真っ白な部屋でつるつるの化け物と差し向かいに座っている場合には、誰だって空腹と喉の渇きを取り違えるのだ。知らなかったろうよ。)

二枚、三枚とビスケットを食ううちに、彼の舌は乾き、彼の口腔内の僅かな唾液は蒸発しすべて消え去った。感覚のないカサカサのゴム棒みたいな舌をのたうたせながら彼は化け物に訊いた、なにか飲み物を下さい。できればそれは紅茶が良い、おれに紅茶をください。

それを聴くと化け物は、首を傾げ、またしても、疑問符つきの錆びた自転車、手を叩きながら口を歪ませ笑いだし、それが済むとふたたびビスケットを喰らいはじめる。愕然として、彼はふたたび言う。飲み物を、紅茶をおれにどうかくれ。全世界を、地球をまるごとくれてやる、だからおれに紅茶をくれ!

それを聴いた化け物、ビスケットを喰らっていた手を、もとい全身をぴたりと止め、それから彼のすぐ後ろに目をやった。(化け物の顔の正面には目がついていた。)彼はそれを、もう一押しで交渉が上手く行く、その予兆の態度か何かと勘違いして、曰く、なんならイルカ座も付けてやる、地球に足してイルカ座も付けてやる、だからおれに、どうかおれに紅茶を、……とそこまで言った時にようやく、化け物の視線、彼の肩のうしろをじっと見つめる視線に気づき、つられて男も振り向くと、

そこには何もなく、やはり白い部屋の白い壁だった。何なんだ一体、と彼が机に向き直ると、テーブルのビスケットの大皿の横に、紅茶がなみなみと注がれたピッチャーが置いてあって、彼の驚愕、それから歓喜、その表情の変化を見ながら、やはり化け物は手を叩きながら奇妙に鳴いた。その笑い声は彼が紅茶をピッチャーごとがぶがぶ飲んでいるあいだにも続いた。

半分ほど飲んでからピッチャーを置くと、化け物はしばし彼を見つめてから、またビスケットを喰らいはじめた。思えばこの大皿のビスケット、いつまで経っても減りやしない。何ならさっき彼が置いたピッチャーの紅茶もいつの間にかまたなみなみと注がれている。そんでもってピッチャーの横にはグラスがひとつ添えられている。

 

彼はグラスに紅茶(たぶんそれはアイスティーだろう)を入れ、ビスケットをつまみながら、アイスティーをちびちびと飲む。向かい側にはビスケットだけをでたらめに貪っているつるつるの化け物、机のうえには決して無くならない紅茶とビスケット、それを挟んで差し向かいに座る彼と化け物、その無言のティータイムは、永遠に、真っ白な部屋には、化け物が貪り食うビスケットの音と、ときおり彼がグラスに紅茶を注ぐ液体の音、真っ白な部屋に散らばる、ビスケットの食べかす、紅茶のしみ、会話は交わされず、静寂はなく、ビスケットの音、ときおり紅茶の注がれる音……