かえる作文帖

小説(掌編・短編)や随筆などを書いています。読んでくれると嬉しいです。

包丁(掌編)

「しかしその、おれはキミドリのファーストアルバムを聴いてそれほど感銘を受けなかったわけだが、いやはっきり言って、はっきり言っても構わないね?いやそのつまり、君の感性を疑ったね。もっと音楽として構築すべき世界観というか、わかるだろう、もっとあったと思ったのだよね、要するに。せっかく勧めてもらっておいてこんなことを言うのは何なのだけどね、そう……」

おれはこんなことを彼女に言いたいわけでなかったが、いや、ほんとうは言いたかったのだろう。何故って自分が音楽を聴いた感想を、もといみずからが受容した創作物についての感想を、同じものを知っているひとに伝えて、それをとおしておれはおれへの意見が欲しい。

……いや、嘘をつかずに言おうか、ハッキリと、スッパリと言っちまおう。つまりおれは、批評をつうじて彼女におれを、おれの感性のするどさを、尊敬してほしいのだ!おれの優位性を彼女へと示したかったのだと、あるいはそう表現したってかまわない。

だからおれは、畢竟、彼女がおれに教えてくれた『スバラシイ』CDのミニアルバムの感想をこうして彼女に伝えている。仕方がない。伝えたいのだから。(同様に彼女もそれを望んでおれに、みずからが好むアルバムを、聴いてくれ、と貸した筈なのだから。違うか?いや、知ったことか!)

彼女はおれの感想(、もとい断罪か?)を聴いて、言った。

「そう、……あんまり気に入ってくれなくて、残念。」(そう言って彼女はスニッと笑うのだ。そんな彼女の笑いかたは、いじわるな欲情にも似た感情を惹起して、小学生のイジメっ子におれをしてしまう。だからおれはひどく畳みかけるように言うのだ。つまり、)

「いや全くその通りだよ、あんまり気に入らないどころか、はばかりながら言わせてもらうが、正直なところ全く気に入らなかったよ!どういうつもりであれをおれに薦めたんだい?それはもう、だいたい、リズム隊がそもそも、……」

おれの止まらない繰り言が深夜の、彼女の部屋に染み入ってゆくわけだが、しずかな晩で、みなさん今夜は静かです、薬缶のおとが、もとい加湿器の音がしています。おれは彼女の右後ろにある加湿器をチラと見る。それは泪のかたちをしていて、モウモウと煙を吐いている、彼女の部屋の、夜更けの晩の部屋であって、……これはアロマの匂い!ラベンダーか?(部屋の隅に置かれたアロマの小瓶、細長い棒がいっぱい突き刺してある小瓶!)

彼女はおれの、深酒飲みのあらわな繰り言をウンウンと聴きながら(佳い女!)しずかに、赤べこみたいにうなづきながらも、おれが息継ぎで喋るのをやめるそのタイミングですかさず口を挟みいれた。

「ねぇでも、あのピアノの旋律はどう?あたしはあれがとっても好きで、それというのもキミドリの不穏な曲調にも、或いはイカレきった曲、もっと言えばジャズめいた、ジャズの要素は通底している、とでも言えばいいか知ら、そんな曲調、いや、曲調?つまり、そんな様子に、よく馴染んでいて、……そんな雰囲気を、作り出していて、」

「いや良いかい、言わせてもらうが、あれももうひどいもので、そりゃつまりバンドなんだからプロのピアニストと同等にって訳にはいかないだろうが、それにしたって、」

「アッちょっと待って!」

そう言って唐突にさえぎると彼女はツイと立ち上がり台所に行っちまったんだ。わかるかい、おまえ!おれはそう、彼女に訊かれたキミドリのピアノの感想を伝えようと思って言いかけたところだったのに、それにも関わらず彼女は立ち上がり、……いま彼女は戻ってきた。その手には包丁が握られている。銀色の型抜き包丁。そのまま彼女はその銀光りする包丁を、おれのほうに切っ先を向けて、テーブルの上の皿へと置く。包丁と皿の触れ合う音がし包丁は静止する。(だいたい失礼じゃないか、切っ先をひとのほうへ向けて置くなんて!)おれと彼女が夕飯につついたホイコーローの皿のうえに置かれた包丁、彼女の部屋のやすものの蛍光灯の下でいかにも安っぽく光る包丁が、……どうでも良い!おれは喋っている途中だった!

「キミドリのピアノはね、あれがジャズっぽさを演出していることはおれも確かに認めるがね、ただそれだけなんだよ!ジャズっぽい、だけ!……言いたいことはわかるかい?」

「ええ、……わからない、……いや、わかるかもしれないわ。」

彼女が持ってきた銀色の型抜き包丁は、ホイコーローの出汁の海へとかかる鋭い突堤のようだ。(この汁をあたたかい白米にかけて食らえばうまいだろう!)ホイコーローの汁へと沈んでいくその切っ先は鋭く、ホイコーローの汁の水面を、処処にできた油だまりの或る中央をちょうど指し示している。無機質に。よそよそしい型抜き包丁。つめたい。

「そう、わかってもらわなきゃ困るんだよ、まったく、ねえ!もちろんかれのピアノの演奏はそれなりの技術のうえで成り立っていることは否めないし、だが、ピアノの技術だけなら、技術だけならばピアニストの演奏を聴けばよろしかろうし、かと言ってバンドとしてのタマシイがこもった演奏でもないのだよ、アレは!」

「タマシイ?」

「そう、タマシイ!」

彼女は首を傾げ気味にしておれの、タマシイ、という単語を繰り返して、それは愛らしい。ところどころに滲む所作がいちいち可愛らしく愛らしいのだ。彼女の持ってきた包丁の背はくすんだ灰色じみていて、その刃の部分が白く輝いているのとは対照的に鈍く光を反射している。醜い光だと思う。ところどころ茶色く錆びている。

「けど、タマシイ、っていうのは、ずいぶん抽象的だと思うけど。」

「馬鹿だなぁ、きみはあんまり馬鹿だよ!つまりそうとしか言いようがないものをおれはタマシイと言いあらわしているだけで、たとえば音楽を聴いた情動を、あるいはその音楽自体を完全に数的に変換できるとするならば、そのときには誰ひとり音楽なんて聴きやしないだろうよ」

彼女が台所から持ってきた包丁はその持ち手から峰の部分にかけて奇妙に錆びている。どうしてこんなふしぎなかたちで錆びついているのかわからない。

「そういうものかしら」

「そういうものなんだよ!」

型抜き包丁は錆びた茶色をまといつつ、錆びを免れている部分の刃は、そのうすら寒いような鋭さで、鋭く、奥歯でアルミホイルを噛んだような金属的な痛みを視覚から脳へと惹起する。

「それは、そうだろうけど……」

「そうなんだよ。」

金属的な痛みといえば、いちど、こんなことがあった。小学生の時分の図画工作の宿題で、段ボールを切る必要があった。だがいつも使っていたハサミを学校に置いてきてしまっていたものだから、私は困って、そう、むかしはこんなことで困りきって泣きそうになっちまったものだけど、そんなふうになりながら部屋じゅうの引き出しをあさっていると、ふと、錆びついたカッターナイフを見つけたんだ。

「それではタマシイとしか言いようのないものをタマシイと、仮に言い表わすことにするよ、良いね?」

「ええ、良いわ」

それで、錆びついたカッターナイフの刃をチキチキいわせながら取り出して、お母さんがカッターナイフで段ボールを切るのと同じように、段ボールをカッターナイフで切ることが、あたしにも、出来るような気分になっていたんです。だからそのまま、つまり、お母さんがやっていたように、いやお母さんが使っていたのはこんな錆びついたカッターナイフじゃなかったけど、段ボールの折れ曲がった端から3センチの部分に刃をあてて、そのときちょうどおかあさんは買いものにでかけていたのだけど、だからこうしてあたしがカッターナイフで切るのを、錆びついた、茶色のしみにところどころ覆われた刃のカッターナイフで段ボールを切ることを、段ボールも茶色だ、あたしの血は赤黒かったよ。

「それは良かった。キミドリのピアノには秀でた技術もそれほどないが、かと言ってタマシイがあるわけでもない。決してない。……ボーカルは、ボーカルの求心力だけは認めるよ。歌詞は稚拙極まりないが、原始音楽みたいな妙な魅力は抗い難く、たしかに、かすかには、あった。」

包丁の切っ先の鋭い輝きが、包丁の背のどちらかといえば野暮ったい鈍さとともにあるなんてにわかには信じがたいのだ。鋭いものはいつだって、総体として統一的に鋭くうつくしくあってほしいとあたしは思う。

「ボーカル『は』?」

「そう、ボーカル『は』、ボーカル『だけは』、だよ!強調しなくてもわかるよね!ピアノは要するに宙ぶらりんだ、はっきり言うが、わかるかい!」

包丁の背ではなく刃の部分に強く惹かれる。誰だってそうだろう。しかしあたしはとりわけ刃の部分が好きで、何ならすべてが刃であれば良いとすら思う。包丁の横顔の平らな部分を撫でた瞬間、どういうわけだか指がスパリと切断されればいいと思う。構造としてそれが決してあり得ないことだと知ってはいても。

「ええ、そう言われれば、わかるわ」

「だったらもう、きみは、おれがこのバンドを、申し訳ないがきみが薦めてくれたバンドを好きではないことを理解してくれるね?」

刃物は危ないのだ。段ボールに染みるあたしの血が、こんなにもたくさん、ちいさなあたしの体の、これまた小さな指から溢れ出たのだ。泣きながら指を舐めて、ばんそうこうを自分で貼って、おかあさんはまだずっと帰ってこなくって、あたしは錆びたカッターナイフを泣きながら引き出しにしまうのだ。

「ええ、理解するわ」

あたしはなにも理解していない。

「それは良かった。」

彼は、それは良かったと言って笑う。

「……なあ、ところで、この包丁は何のために持ってきたんだい?食うものはもう何もないのに」

あたしは返事をしないで曖昧に微笑んだきり立ちあがり、回鍋肉の皿に置いた包丁を、手に取って流し台に持っていく。彼は後ろから何やらわめいている。あたしはそれを無視して包丁を洗う。スポンジでこすっても錆びは落ちない。あたしは包丁を丁寧に洗う。指を切らないように、背の部分から被せるようにスポンジを当てて包丁を洗う。