かえる作文帖

小説(掌編・短編)や随筆などを書いています。読んでくれると嬉しいです。

煙草を喫う(掌編)

『幼女と煙草』という小説を読んでひさびさに煙草を吸いたくなった。実家ではさておき、一人暮らしのこのアパートで私の喫煙を止める者は居ない。なので吸うことにした。

戸棚に隠すようにしてしまってある灰皿とライターと、煙草を一本取り出して、キッチンの換気扇の下で火を点けた。煙草を吸うのは数か月ぶりのことだったから、それに吸っていた時分に量をこなしたわけでもなくて、要するに、吸い方も忘れちまって覚束なく、つまり口で吸うと同時に肺に取り込めば良いのか、或いは一旦口だけで吸い、そこから更に肺に送り込めば良いのか、それすらも判然としない。どちらでも良いのだろう。どちらかが望ましいのかもしれないが、しかし私の知ったことではない。調べるほどのことでもない。とにかく吸う。私は煙草を吸う。

……そうやって、人間一匹、一人暮らしのアパートの、キッチンの換気扇の下に立って、二口、三口と煙草を吸っていると、あらかじめ酒を飲んでいた為か知らん、妙な具合に作用して、例えば換気扇の音が常より巨きく聞こえだす。自分の心音も普段よりかはよく響き、重力が幾分増したようにも感じられて、つまり世界が実体を増して感じられるとでもいうのだろうか。傍らの壁に寄りかかって、そんな高尚な思弁に耽りながら吸うわけだが、馬鹿の考えは休憩みたいなものだから、つまり私はぼんやりしていて、灰を灰皿に落とす積りで、火種までも落っことしてしまった。苦笑して、火を点けなおしてふたたび吸うと、今度は煙が目に入り、痛い。キッチンの水道で目を濡らし、ふたたび、もといみたび吸いはじめるわけだが、なんともはや格好がつかない。誰が見ているわけでもないのに首をすくめる。淋しくてたまらない。

かてて加えて、てんで煙草に弱くなっちまっているようで、一本吸いきるよりも先に気持ち悪さが去来した。勿体ないからあと二口だけ吸おうとして、一口は口だけでふかし、もう一口は肺に入れ、それでもう、吸い切ったことにした。吐き気や重力が耐えがたい。火を消し、口をゆすぎ、キッチンから抜け出して、敷いておいた布団に倒れ込む。

……煙草を吸うと、いや、吸ったあともしばらくのあいだ、世界が身近に迫ってくる。音が巨きく聞こえ、肌触りも鋭敏になり、重力もいつもよりか強い。その重力に促されるまま布団に横たわった私は、荒い呼吸をしつつ耳をそばだてる。開いた窓から流れ込む外の営みもいつもより大きい。車が走り去る音の合間に、正体不明のひどく間抜けな音が聞こえた。間抜けな音が身に迫って聞こえたことが厭わしい。翻って家のなかでは、換気扇の音は言わずもがな、はすむかいに置いた扇風機が、私の脚から横腹までをそっと撫ぜ続けている。仰向けになれば蛍光灯の白い灯りが目に染みる。煙草の課した重力と吐き気が弱くなるまで、布団のうえの私はひとり、荒い息して蛍光灯を睨みつける。

そうしていると、じきに世界が余所余所しさを取り戻した。音も触覚も重力も、今や私をおびやかさない。吐き気も薄れた。私は起き上がり、風呂場に行って歯を磨く。煙草臭さを残さないため、いつもより念入りに歯を磨き、口をゆすいだ。

それからこの文章を書いており、そうして今、書き終えた。ある虚しい人間が晩に一本の煙草を吸った顛末である。