かえる作文帖

小説(掌編・短編)や随筆などを書いています。読んでくれると嬉しいです。

物書きの先生と私(掌編)

原稿用紙の前で懐手をしてウンウン唸っていた先生は、おもむろに唸るのをやめると、散歩に行ってきます、と言って立ち上がり、外に出る準備をしはじめた。以前いちど先生の散歩を許したとき、そのまましばらく雲隠れを決め込まれたことがあって、そのときはずいぶん困らされたものだ。だから私は周章てて先生に、散歩なら私もお供します、と告げた。すると先生は準備の手を止め、ふと私のほうを向き、そう言うだろうと思いました、と言いながら、すこし困ったような顔で笑った。

「併し、」外に出ると先生は言った。「ずいぶん涼しくなったものですね。こんな時間なのに早や暮れかけているし、……ほんの暫く外に出ないだけで、こうも季節に置いていかれるとは思わなかった」

私は先生に、そう蟄居ばかりしていればそりゃ置いてゆかれもしますよ、と言った。それを聞いて先生は、ではもうすこしこの軟禁を緩めていただきたいものですね、なんて言うから、私は、書くものさえ書いていただければどこへでも行っていただいて結構です、と告げた。すると先生、また困ったように微笑みながら、弱ったなぁ、と頭を掻いて呟いた。それから少し黙って歩いてから先生は言った。

「そこいらで一服していきましょうか。」

先生と私は公園のベンチに腰掛けた。私たちのほかには誰もいない公園だった。先生は紙巻き煙草を取り出すと、ぼんやりとそれを喫いだした。美味しいですか、と私が訊くと、先生はエエ、と曖昧に返事をした。

先生と私が座っているベンチの向いには砂場が有った。その砂場のすぐ横で、一匹の猫が夕陽を浴びながら寝転んでいて、先生はいつからかその猫を眺めるともなく眺めながら、相変わらず煙草を喫っていた。

私が手持ち無沙汰にしているのに気付くと先生は、私に煙草の箱を差し出して、一本どうです、と尋ねた。私が、私は吸わないですから、と言ってそれを断ると、先生は珍しいことに尚も粘って、「ではこれを機に一本だけ試してみるのはどうですか、或いは良い経験かも知れないですよ」なんて訊いてくるものだから、私はそれを固辞してから、言った。

「そろそろ書くことが思い浮かびましたか。もうだいぶ息抜きをしていますし、ぼちぼち戻って何か書きましょう」

その言葉は先生の急所を突いたようだった。先生は私を泣きそうな顔で一瞥すると、急に老け込んでしまったかのように背を丸め、ふたたびぼんやりと、生気の欠如した眼差しで猫を眺めはじめた。(猫は眠るのをやめて起き上がり、身体をほぐすように伸びをしていた。)

私は先生を、今度は励まそうと思って言った。

「私は先生が書くものを毎回楽しみに待っているんですよ。先生の書くものは題材も、その書き方も面白くて、愛嬌があって、要は私は先生に期待しているんです。だからこそ、先生が原稿用紙の前で懐手したり、散歩したり、或いはこの間みたいに逃げ出したり、そういうことをしているのが、仮令それが書くために必要なことであったとしても、私には、妙にじれったい」

先生は、そうですか、とだけ呟いて、相変わらず伸びをしている猫を眺めていた。私は続けた。

「もし私が先生に代わって、先生のように闊達な文章を書くことが出来たら、どんなにか良いだろうと思います。あのようにものを書き進めることはきっとこの上ない喜びでしょうし、それに、一つの自足した世界を小説として作り上げることも。そうしてそのような一つの完結した宇宙が、ほかならぬ自分の手で作り上げたものだとしたら。そのようにして作り上げた宇宙を、つまり自分の作品を、他の大勢から羨望されるようなその作品を、自分の一部でもある小宇宙を読み返す心地は、いったいどんなにか素晴らしいものでしょう」

私がそう話している途中のある箇所で、先生の身体がピクリと動いた。心なしか猫を眺める先生の表情も強張ったように思えた。私が喋り終わると、先生は私をチラと見た。それから先生は煙草を棄て、猫を眺めながら話しはじめた。

「ものを書くというのは、あなたが想像だにしないほど、あまりに淋しい営みなんですよ。書くということ自体がそうであるのは言わずもがな、今こうしてわたしが取り組んでいる文章も、つまりあなたが小宇宙と言ったそれは、書き終えてしまえばわたしとは完全に独立して、あまりに孤独に、ただ在るのです。それはわたしからも完全に独立している、閉じ切った宇宙です。筆を置き、最後の句点を打ち、ため息をついたその瞬間、つい先ほどまでわたしの一部であったそれは、途端に冷たく、余所余所しいものとなって閉じ切ってしまう。仮令その小宇宙を誰かが誉めてくれたところで、もはやそれとわたしは今や、全くの別物なのです。孤独な営みをとおして、自分の一部を自分とはまったく別な孤独としてひねり出す。そんなものは、まるで、……まるで、」

そこまで言って先生は口を噤んだ。そうして新しい煙草に火を点けた。

向かいに目をやると、猫は砂場に入って糞をしていた。私と先生に見つめられながら猫は、プルプルと震えながら排泄を終え、それから後ろ足で糞に砂をかけ、振り向きもせず去っていった。

少しすると先生は立ち上がり、煙草を踏み消しながら言った。

「先に戻って続きを書いていますね。日が沈むときっと寒くなりますよ」

 

私は先生が去ってからもしばらく、砂にまみれた猫の糞を見つめていた。