かえる作文帖

小説(掌編・短編)や随筆などを書いています。読んでくれると嬉しいです。

老人と桜の樹(掌編)

『M駅を降りて無人改札を抜け、右側にある獣道をおおよそ四十五分ほど歩けば、いつしか開けた野原が有って、その真ん中には見事な桜、子供が十人輪になったところで抱えきれないような太い幹、目に沁みるような花びらの鮮烈さ、今年で六十になる私だが、あれ以上の桜を、あの張りつめるようなうつくしさはほかに知らない。とにかく一遍、行ってみると良い。誰も居ない春の山ん中を掻き分け進むと、唐突に平地、その真ン中に一本きり、見る者を凍りつかせるような桜の樹……』

 

 

図書館の書庫の、ひんやりとした忘れ去られた一角の、埃を被ったまま久しい本の一冊を、何の気なしに開いてみると、隙間から、紙切れの一枚こぼれ落ちて、紙片には上のようなことが書かれていた。半信半疑、しかし宝探しのような心地、私はこういうのが好きで、だから私は翌朝、M駅まで汽車に乗り、二時間かけて、辿り着いた。書いてあったとおり、駅を出て右の獣道を掻き分け進み、三十分ほど経ったところで道は開け、嘘のような野原、その真ん中には、否応無しに目に飛び込む桜の木、私は独りで行ったものだから、その桜の木の、ぞっとするような美しさに引き込まれるように、首でも括りかねなくて、だが、幸いなことに、私はその広場に一人きりだというわけではなく、いや、私はひとりでこの桜を観に来たのだけれど、要するに、私より先にひとり、先客が居た。

 

背中の曲がった老人だった。私が来た山道を、二十そこらの青年ですら息が上がるようにしてきた獣道を、この老人は上ってきたのだろうか、不可解にも、だが、たしかに老人はそこに居て、桜の大樹の周りを不自然にウロウロと、肉塊のうえを旋回する蠅や羽虫かのように、歩き回っていた。

私は獣道と野原の境目に立ち、ぼんやりとその老人と桜の樹の嘘のようなとりあわせを、眺めていた。老人に桜の花吹雪が、空に知られぬ雪ぞ降りける、だが老人にその花びらが積もることはなく、桜の樹の静寂のもと、せむしの老人ひとりきりが動き回る。

しばらくすると、老人は、桜の樹の傍にもたせかけてある大きな鞄を探りはじめ、そこから赤い灯油タンクを取り出した。蓋を開け、その中身を桜の樹の根元に振り撒きはじめる。灯油タンク?……灯油タンク!

 

私は弾かれたように意識を取り戻し、早足で桜の樹に、もとい老人のもとへ近寄った。老人は私に気がつくと、瞬間警戒するような視線をむけ、だが、ふたたび桜の樹の根に液体をかける。私は老人に声をかけた、何をしているんですか!

 

老人は私に一瞬目を向け、だが桜の樹の根に液体をかけ続ける。私は同じことを言う。何をしているんですか!

 

老人は私を無視して液体を桜に注いでいる。私は呆然として、老人と桜の樹の根を交互に見る。やがてポリタンクは空になり、老人はそれを放り投げると、はじめてしっかりと私のほうに向き直る。老人は言う。見てのとおり、桜の樹に、灯油をかけていたんだよ。つぎはマッチを落とす。それだけだ。納得したか?

 

私は言う。どうして、そんなことをするのですか?桜の樹を、こんなに立派で、こんなにうつくしい桜の樹を、燃やそうとするだなんて……

 

老人は言う。桜の樹を燃やす?おれはそんな大それたことをしちゃあいないよ。おれは桜の樹の根に灯油をかけた。それから桜の樹の根にマッチを落とす。火のついたマッチをうっかり落とす。おれはお前が言うような、こんなうつくしい、こんな立派な桜の樹の下で煙草を吸いたくなって、マッチに火をつけ、だがおれはこんなせむしの老人だから、うっかりマッチを落としてしまう。そう、おれはせむしの醜い年寄りだから、うっかりマッチを落としてしまう……。

 

私は言う。そんなことをしたら、誰もあなたを赦してくれやしませんよ!世間に、お天道様に、それにこの桜の樹に、あなたは、どうして、何の権利があってそんなことをするつもりなのですか!

 

老人は言う。誰も行かない山の中の、誰も知らない桜の樹を、それがあんまりにも美しくて、思わず燃やしてしまったとして、それを誰が咎められると言うんだ?桜の樹自身?お天道様?そんなうそは止してくれよ、世間がおれを責めるかい?見たことのない桜の樹のために、世間がおれを責めたところで、おれは全く平気さね。

 

私は、ほがらかな春の日なのに、どこかうすら寒い心地がして、誤魔化すように老人に食ってかかる。あなたがいくらそう言ったところで、桜の樹を燃やすのは、これははっきりと、罪ですよ!だいいち、この山にも持ち主が居ます!桜の樹は我々の民族の誇りですよ!それを燃やすのは、二重の意味から、国家に対する反逆だ、赦しがたいことですよ!

 

老人はせせら笑うようにして言う。おれはこの樹を、おれがまだほんの小さいころから知っているよ。数えきれないほどにここに来た。だが、おれ以外の人間がここに居るのは見たことがない。図書館の本に、この桜の木のことを書いた紙を挟んでみたりしたが、誰も気づきやしなかったよ。誰ひとり、この桜のうつくしさなぞ、知りもしない、誰もかれも、ふしあなばかりだ!誰がこの山の持ち主か、おれの知ったことではないが、おれしか知らない樹を、おれが燃やしたところで、いったいどうして咎められるよ?国家が、民族の誇りが何だ?こんなうつくしい樹を知りもしない輩が、おれがこの樹を燃やしたところで、おれを罰することが出来るのか?どうしておれを罰するんだ?誰も知らないうつくしさを、おれひとり知りすぎているためにおれを罰するとでもいうのか?

 

老人はせせら笑うような表情を崩さずに、しかし、真剣な眼差しで私を見ている。桜の花びらはしんしんと降る。老人の肩にも、二枚、三枚と降り注ぎ、四枚目が肩にしずかに舞い降りたとき、老人は口を開く。

 

なあ、こんなきれいな桜の樹の下で一服したいな、マッチを持っていないか?

 

私はポケットからマッチと煙草を取り出して、老人にも煙草を一本くれてやる。私はマッチ箱を老人に手渡し、煙草を口に咥える。老人は私の煙草に火をつけ、彼自身の煙草にも火をつけたのち、桜の樹の根元に火のついたままのマッチを放り投げる。すぐに火はまわり、根、幹、枝、花弁、ごうごうと音を立てて燃え上がる。

せむしの醜い老人と私は、煙草を吸いながら、燃え続ける桜の樹をただぼんやりと眺めている。