かえる作文帖

小説(掌編・短編)や随筆などを書いています。読んでくれると嬉しいです。

裁きの部屋で(掌編)

机ひとつ、パイプ椅子ふたつ、卓上灯ひとつ、ガラス瓶ひとつ、それと男がふたり、それ以外には何もない、がらんどうの薄暗い部屋である。部屋の中心にはちいさな机が置かれ、それをとおして向かい合って男二人がパイプ椅子に腰掛けている。男のひとりは背が高く、スーツを着こなし、体格、容姿、ともに恵まれ、きんいろのうつくしい髪をみじかく刈り込んでいる。若さのみなぎる容貌の、しかしその眉は顰められ、向かい側に座る男を見つめながら、まるで何か不満でもあるかのように、貧乏ゆすり、その長い脚を小刻みに上下に揺らしている。もう一方の男、ぼろぼろのつなぎの服を着たその男は醜いせむしで、顔の皮膚は年月を経て垂れ下がり、ちぢれた長い髪は白く、ただ、総てを諦めたような穏やかな表情を浮かべ、机の一点をしずかに見つめている。机の上には白々しいひかりをはなつ卓上灯と、液体のはいったガラス瓶が置いてある。

 

さきに沈黙を破ったのは若いほうの男だった。

「博士、あなたは、自分のしたことをわかっているのですか?あなたともあろうひとが、どうして、どうしてこんなものに手を出したのです」

そう言って彼は机の上に置いてあったガラス瓶を指し示す。中には、黄金色の粘り気のある液体が入っている。

「この国で、いや、この時代において、これに手を出すことが、どれほどの罪を伴うことか、博士ならとうぜんおわかりでしょう。あなたともあろう方が、いったい、どうして……」

「ダーガーくん、だったかね、君の名前は?」

「…ええ、そうですが」

怪訝な顔をするダーガーの目を見ることなく、その穏やかな表情を崩すこともなく、博士は静かに語り出す。

「君は、鏡をみたことがあるか?」

「……博士、それは一体」

「君は鏡を見たことがあるだろう、おそらく好き好んで、何千も、何万回も。だったら、儂の姿も、儂の曲がった背も、儂のおぞましい顔も、君ははっきり見ることができる、そうだね?」

 

博士はしずかに続ける。

「儂はここ暫く、儂の顔を見ていない。若い頃は、必要にかられて、或いは一縷の望みをかけて、鏡を見ることも度々だった。だが、儂は、いつでも儂のままだった。それは、君がいつも君であるのと同じことだが、儂が儂であることへの絶望を、儂ほどに知っている者は居やしないよ。」

「…ダーガー君、きみは、君に差し伸べられる手を、君を抱きしめる手を、無数に知っているだろう。それは、君が選り好みさえしなければ、いつでも君のそばにある。そうして君はそれを知っている。それを当然のことだと思っている。だが儂は、儂に差し伸べられる手の一本も、儂を抱いてくれる手の一本も、ついぞ知らなかった。儂に差し伸べられる手の一本でもあるならば、儂はその手に、儂のもつ総ての知識も、財産も、何もかもを掴ませてやったろう。儂はその手に縋るようにして、儂はその手を、ダーガー君、きみが路傍の草のように見向きすらしなかったそれを、どれほどに求めたかを、君はわかりやしないだろう。」

「ですが博士、それは、博士がこれを使うことの言い訳には、」

「最後まで聞いてくれ、君。」

「……ダーガー君、儂はだね、たといまやかしでも、一時の幻影でも、儂に差し伸べられた手、その模造品に、片端から縋り付いていったよ。酒を飲んだ。煙草を吸った。女を買うこともあった。だが、儂は、儂を抱きしめる手は、ついぞ無かった。」

「そうして、最後にこれが残った。儂はこれに、縋った。だがこれも、儂を救いはしなかった」

 

それきり博士は黙り込んだ。薄暗い部屋をふたたび沈黙が支配し、それを破ったのは、やはりダーガーだった。

「……ほんらい、これに一度でも関わった人間は、極刑に処されます。九割は死刑で、残りは終身刑です。……ですが、博士は、この国に、多大なる貢献をしてきました。ですから、特赦の申請をして、もうふたたびこれに関わるようなことをしないと誓えば、あるいは罪が軽く、もしくは免除すらされるかも知れません。」

ダーガーの言葉を聞くと、博士は驚いたように視線を上げ、しかしふたたび、何もかも諦めたような穏やかな表情になり、言った。

「ダーガー君、きみは、儂の言葉を全くわかってはいなかったようだ。儂は、もはや、何も誓えやしないよ。よしんばこれに関わることが二度と無かったとしても、儂はまた、これに似たようなものに手を出すだろう。儂は、儂を救ってくれそうなものには、片端から、縋るような思いでいて、それが君らの法を破ったとしても、儂はそれを、止めることはしないだろう。君らは秩序を守るために、法のもとで儂を罰する。厳罰をもって儂に対処するほかないのだよ。秩序を守るためにはそうする他ありはしないし、儂はそれを解っていながら、それでもなお、儂は、儂を救ってくれる望みの、多少なりともあるものに、片端から、手を伸ばしていくほかないのだよ……」

 

ダーガーは唖然とした様子で聞いていたが、博士が話しを終えるや否や、怒ったように席を立ち、部屋を出ていった。部屋に取り残された博士は、ダーガーが忘れていった黄金色の「それ」に気付くと、しずかに微笑み、手を伸ばし、「それ」を飲み干した。