かえる作文帖

小説(掌編・短編)や随筆などを書いています。読んでくれると嬉しいです。

下馬評的エヴァ評(評論?)

アメリカで映画『アバター』が公開された際、映画内で描写される光景のあまりの美しさと、自身の日常生活の平凡さとの間のギャップに耐えられず、観賞後抑うつ状態に落ち入る人が相次いだという。「抑うつ状態」だなんて少々大げさであるような気もするが、しかしそれに類似するような感覚(、つまりひとつの「閉じた」映画の世界から我々の日常に戻った際、目に映るものすべてが平板に見え、日々の出来事すべてが退屈に思えるような感覚)を持つことは、とくに珍しいことでもないだろう。

幸いにして私が今回のエヴァ、『シン・エヴァ』を観た後に、前述したようなギャップ、つまり映画-日常間のギャップで煩わされるようなことはほとんど無かった。既にエヴァを観た人々には分かってもらえると思うが、終盤におけるメタフィクション的描写(特撮ステージを模した場所で戦うエヴァ二機や、ミサト宅の居間がハリボテであることの示唆等)の連発や、最終ショットの宇部新川駅の実写映像のために、『シン・エヴァ』は、エヴァンゲリオン的世界として「閉じた」ものではなく、現実世界へと「開かれた」ものと化している。或いは、終盤の描写全般や宇部新川の実写映像が、『シン・エヴァ』という作品と現実の世界との間の橋渡しとなっていると言っても良い。それらの描写は、映画から現実へのソフトランディング(軟着陸)の役割を果たしているのだ。つまり『シン・エヴァ』が現実世界へと「開かれた」作品であるために、我々は、たとえば映画館を後にして目にする「いつもどおりの」街並みに、とりわけガッカリするようなことがない。現に私も観賞後、いつも通りの街並みを歩きながら、平然と帰路に着いた。

……いや、嘘だ。平然と帰路についたわけではなかった。正直に言えば、私は幾分ガッカリしながら家に帰ったのである。もちろんそれは映画-現実間のギャップによるものではない。だが私はガッカリしていた。では一体、何のために?

おそらくそれは、エヴァが「開かれた」作品であるという、まさにその事実のためにである。

 

私はEOE公開の翌年に生まれた。要するにエヴァの呪縛の対象外の人間だった。『シン・エヴァ』で浄化されるべきターゲット層(=アニメ版をリアルタイムで視聴していたような層)からは全く外れている人間である。

エヴァにおける「当事者」、つまり十年単位でエヴァの完結を待ち望んでいたような人々と比べれば私は全き部外者でしかなかったが、しかしそれでも私はエヴァの完結を、私と同年代の人びとのなかでは楽しみにしていた方だと思う。Qでの超展開からどのようにして物語を畳むのか、ゲンドウとの和解は為されるのか、ポッと出の真希波をどのように物語の内部に回収するのか、等々。新劇の結末は、アニメ版の「おめでとう」では無いだろうし、旧劇の「オタクは現実に還れ」でも無いだろうと勝手に思い込んでいた。前作のようなメタ行為を繰り返しはしないだろうと思っていた。あくまで新劇エヴァは、新劇エヴァという枠組みのなかで風呂敷を畳むものだと思っていた。つまり私は、「閉じた」物語である新劇エヴァが、「閉じた」物語のままどのような結末を迎えるのか期待していたのだ。

……或いは私は、私自身が「エヴァの呪縛」にかけられることを期待していたのかもしれない。不幸にも(幸運にも?)エヴァの「当事者」(=リアルタイムでアニメ版を観ていた人びと)たりえなかった私は、エヴァが「好き」ではあったものの、その好意はあくまで「好き」止まりであった。エヴァを愛しているとすら言えるような「当事者」に対する引け目があった。エヴァのためにその生涯を動かされたような「当事者」と比べれば、私の抱くエヴァへの感情はほんの些細なものであった。だからこそ私は『シン・エヴァ』に期待していた。『シン・エヴァ』がすぐれたものであれば、私はそれに魅せられて、そのためにエヴァの二次的な「当事者」になることが出来るかもしれないなどと思っていた。(要するに私は、庵野がその作品をとおして現実に帰そうと手を尽くしていた人々、つまりエヴァに翻弄された「当事者」に、逆説的な流入を果たしたかったのだ。)私は期待に胸を膨らませて3月8日を迎えた。

だが現実は私の望んだとおりにはならなかった。エヴァはその物語を「閉じる」ために、現実世界へと「開かれた」作品として終結を迎えた。「開かれた」手法をつうじて伝えられるメッセージ、旧劇と相似形のそれ(=現実に還れ)はエヴァの「当事者」ではない私には響くものではなかったし、「当事者」になることを望む私にも受け入れがたいものだった。旧劇と比べれば懇切丁寧なその手法も、いずれにせよ私には受け入れ難かった。

何よりも私はその「開かれた」手法が気にくわなかった。私はエヴァエヴァの世界として「閉じた」まま終結を迎えることを望んでいたのに、私が終盤で目にしたのは野暮で無粋なメタフィクションの数々、挙げ句の果てには宇部新川駅だった。

私は一個のアニメーション作品として「閉じた」まま結末を迎えるエヴァを観たかった。メタフィクションの多用によって「閉じた」世界をむりやりに開く仕方ではなく、最後まで「閉じた」世界で完結するエヴァを観たかった。そのうえで私は、完結したエヴァの世界に、第二の「当事者」として浸っていたかった。エヴァを観たあとの日常の街並みが平板に見えることを望んでいた。エヴァで私の生涯が大きく動かされてしまうことを望んでいた。そうしてそうはならなかった。

今やもうエヴァは無い。シンジ君が消してしまった。私に福音は訪れなかった。シンジ君には真希波が居るかもしれないが、私には手を取る相手もない。現実に向き合う気力もない。私はひとりきりで補完するしかない。

だから私は日の当たらない小さな部屋に閉じこもり、かつてのエヴァの二次創作を読み漁っている。『シン・エヴァ』に背を向けて、在りし日の「当事者」たちの痕跡を幾度もなぞっている。