かえる作文帖

小説(掌編・短編)や随筆などを書いています。読んでくれると嬉しいです。

雑記(2020/11/24)

まだほんの小さい頃のある一日のある朝の、朝と言ってもまだ陽が地平線の下にあるそんな時間に目が覚めて、と言うのも物音がしたからそのために目を覚ましたわけなのだけど、物音の方に目を向けるとその物音は私の父が釣具を携えて今にも家から出ていこうとする音だったのだけど、それを耳にし目にした私はまだ幼かったから(、かつまだ父のことを好きだったから)、世間一般の子どもがよくやるようにして、子アヒルが親アヒルの真似をするようにして、つまり、要するに、「ぼくも行く」って心地になったわけだけど、そう考えた次の瞬間にはふたたび強い眠気が去来して、それはぼくのまぶたを引き下げて、ぼくは「ぼくも行く」の発話の言いさしを更に水にふやかしたような不定形の(イノセントな!)呻き声をあげ、まどろみのなか、ムニャムニャと、心地よく、ふたたび眠りに落ちてゆき、次に(最終的に)目が覚めたときにはもう父は釣りから帰ってきているし母はとうに朝食を作り終えてぼくが起きるのを待っているし(、ふたりともニコニコしながら僕が起きるのを待っていて)、陽は地平線から切り離されて尚もぐんぐんと昇っていくところだった。朝だった。

 

以上のような思い出の断片は可能な記憶の一形態であるがそれは私のものではなく、要するに、上に書いたことは(少なくとも私にとっては)すべて嘘だ。私は上に書いた思い出を持たず、かつ現在の私は上に書いた虚構の(!)思い出から(a)健全な眠気と(b)若さと(c)のどかさと(d)好奇心と(e)気力とを取り去ったような生活をしており、要するに世界と決別している。

 

 

たとえばそれは今やすっかり馴染みになった不眠症のために渇ききったような脳髄を抱えてふらふらと街を歩くことだ。

たとえばそれは浅瀬のような夜の睡眠で一旦物音に目が醒めたならばふたたび眠気の尾を掴むことはないということだ。たとい眠れたところでそれはどこまでも続く浅瀬であり、深い海に潜るような睡眠にはもうお目にかかれないだろう。いくら無意味でもしかし浅瀬で潜水を試みるのだ。幾度も。

たとえばそれは臨時収入の二千円をスロットマシーンで数分で溶かしてしまうことだ。実家で食客をしている私に彼らが更なる温情として遣す小遣いを溶かす。二千円ではどうにもならないところまで生涯がどん詰まりの段階まで来てしまったから、投げやりにそれを使い果たす。人生が駄目になりきっていることはとうぜん散財を正当化しないが、ひたすらに目を背け、やるべき(とされている)ことをせず、やらないほうが良い、どうでも良いことばかりを、要するに私はスロットマシーンを淀んだ目で回し続ける。昔日のきらきらとしたメリー・ゴー・ラウンドはくすんだリールに取って代わられた。

 

 

知己に言われたことを覚えている。お前は穴の空いたバケツみたいな男だ。こうやって僕が(あるいは他の誰もが)お前を気にかけ、あるいはお前と思い出をつくっているにもかかわらず、お前がそれらを経験するそばからそれらは(お前のなかから)抜け落ち流れ出ていって、そうしてお前はいつも絶望をしている。お前の青春はなく、お前の人生は空っぽだと、そう言ってお前は絶望している。お前のなかを満たした(すくなくともお前のなかを通っていった)思い出や温情(愛?)はたしかにあったはずなのに、お前は何もかも、すぐに忘れてゆく。何もなかったかのようにお前はいつも絶望している。砂漠に水をやるような心地だ。穴の空いたバケツに水を入れる心地だ。何もお前のなかには残らないんだな。

私は何も言い返さ(返せ)ず、ただ静かに笑ってそれきり黙っていた。批判や否定は膠のように私のなかにこびりつき、佳い思い出ばかりがさらさらと、空いた穴から流れ出てゆく。