かえる作文帖

小説(掌編・短編)や随筆などを書いています。読んでくれると嬉しいです。

醤油を借りに(掌編)

何のことはない。

つまり、醤油を切らしてしまったのだ。

 

この醤油を造っていたところはしばらく前に潰れてしまったし、すこし遠出すれば或いはどこかで見つかるかも知れないけど、……いいや、前々から予見していたことじゃあないか。買い溜めしといた醤油が、最後のひと段ボール、最後の半ダース、最後の一本、そうして、最後の一滴。無くなりゆくものを前にして、ただ手をこまねいていただけなのは、他でもない、私じゃないか?今更になって、何をするというのだろう?

 

……別に、醤油が無くたって生きてゆける。これは本当。一調味料が無くなった程度で生きてゆかれないほどヤワじゃない。

ただ、生きるだとか生きないだとか、そんな大層なことを言うまでも無く、醤油が必要な理由がある。

つぎの食事の材料として、どうしても要るのだ。私はアレが食べたい。だが、アレの味わいの可否は醤油の存在が左右する。私はどうしてもアレが食べたい。だが醤油がない。醤油自体にはもう飽き飽きしているほどだが、最後に、最後にもう一度、アレが食べたい。

 

では、どうするか?

私はお隣に醤油を借りることにした。

 

 

亜光速航行の冷凍睡眠(もっともこの程度ならば冷凍昼寝だ、)から目覚めた私は、ちょうど別の銀河に居た。ひとつ伸びをし、首をこきこきと鳴らして、操縦席に着く。恒星を検索にかけ、そこから更に「適当な」惑星を探す。ああ、有った。ここにしよう。

 

その星は水と大陸に覆われていた。まだ生物の気配はない。しかし水があるのはたいへんに好都合で、私は手持ちの『パック入り!お徳用原始細菌』を、その星の海にまんべんなく注ぎ入れる。それからしばらく(数十億年ほど?)冷凍睡眠で時間を潰す。

次に目が覚めるとその星は巨大なトカゲに支配されていた。降り立って観察するも、文化レベル、知性レベルはともにゼロ、このまま待っていても日が暮れる。適度な大きさの隕石を牽引してぶつけ、爬虫類の帝国を終わらせる。冬の時代。新しい生物の予感に震えながら、またしても冷凍睡眠で時間を潰す。

冷凍睡眠がブザーを鳴らし、私を叩き起こす。時計を見ても未だ六千万年ほどしか経っていない。星に降り立って観察すると、二足歩行の哺乳類が闊歩しているのが目に入る。なるほど、知性レベルを感知して、冷凍睡眠から叩き起こされたわけだ。では仕上げといこう。

私は最も巨大な大陸のごく東側一帯に、大豆の種をたくさんばらまいた。

 

あとは醤油をいただくだけだが、ここからが中々難しい。脳肥大系の知的生物が文化的に成熟し、醤油を作る、ここまではほぼ確実なことだが、あまり急いてはいけないのである。(事実、醤油黎明期の醤油はひどい味がした。)かと言ってあんまりぼやぼやしていると奴ら、脳肥大系の知的生物ども、迷信を捨て去り宇宙進出など始めやがって、こうなってくると私の安全が多少怪しい。(何たって私は「宇宙人」だ。)時間で熟成させるほどに醤油は味を佳くするが、時間が経つごとに醤油を持ち帰れる可能性が僅かながらも逓減してゆく。要は見切りどきが重要なのだ。

(ああそうだ、ひとつ言い忘れていたことがある。途中で全星規模の総力ドンパチを始めたときは戦々恐々たる思いだった。忌まわしい汚染爆弾で、あの島国の醤油文化(何だかんだあの国の醤油がいちばん私の求める味に近づきつつあった)が壊滅させられてしまうものだと、私は半ば諦めながら観ていた。だが、(ほんとうに!)幸いなことに、醤油文化は失われなかった!)

 

 

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安田講堂が占拠されているのをテレビで見ながら豆腐を茹でていると、玄関の呼び鈴が鳴った。豆腐の火を止め、はあい、と返事して出ると、七尺もありそうな大女(しかも向こうが透けて見えるほどにしろい肌の!)が、困ったような笑顔で立っている。

 

隣に住んでいるものですが、醤油を切らしてしまって。すこしお借りしても…?

 

台所の戸棚から出した使いさしの醤油びんを手渡すと、大女は目を細くしてほほえんで、この醤油は美味しいですか?と尋ねる。とても美味しいですよ、と答えると、大女は、それはありがとう、たいせつに使いますね。と言って、正面の空き地に止めてあるえたいの知れない乗り物(?)に乗り込む。すると、そのいびつな乗り物は、音も立てずに凄い速さで空へと消えた。

 

女は呆気にとられ、口をぽかんとあけながら、考える。

お隣さん、あんな人だったか知ら?

 

だが白昼夢(白昼夢のような事実!)は直ぐに覚め、女は茹でかけの豆腐を思い出すと、いそいそとキッチンへ戻ってゆく。醤油瓶があの大女によって持ち去られたことにはしばらく気づかない。