かえる作文帖

小説(掌編・短編)や随筆などを書いています。読んでくれると嬉しいです。

高等遊民ごっこ(雑記)

何もしたくないから何もしない生活を送っている。学業も就職活動もアルバイトもしていない。それで何をしているのかといえば、本を読み散歩をして酒を飲み眠るだけの生活をしている。こんな生活は何もしていないに等しいから、畢竟私は何もしていない。(高等遊民ごっこ。)何もしない生活を許される身分でもないのだけど、何もしない生活を始めてからまだ日が浅いから、今のところは家族からも大目に見てもらえている。

だがもっとも、そろそろ大目に見てもらえなくなりつつある。じき雷が落ちるだろう。だが無駄だ。雷が落ちて、そんなので私がやる気を出す筈もない。無気力人間から超無気力人間にでもステップアップするのが関の山だ。或いは彼ら、尻に火がつくまで私に雷を落とし続けるだろうか。やってみれば良い。とにかくいくら雷が落ちたところで、いまさら何をする気にもならない。(この『雷が落ちる』はメタファーだが、じっさい私は雷にでも当たってさっさと死んじまいたい。)

 

はやく生涯が終われば良いのにと最近はそればかり考えている。鬱ではない。鬱のようには絶望していない。私は明るく絶望している。というのも、今送っている高等遊民まがいの生活こそがきっと、今後の私の生涯のうちの、一番マシな時期だろうという直感的な確信があるから、そのために私は、なぁんにもやる気になれやしない。収入こそ無いが衣食住は保証されている。散歩と読書とインターネットくらいしかやることはないが、散歩と読書とインターネット、これはもう充分すぎるくらいだろう。時間は有り余っている。労働がないからストレスもほとんど無い。目が覚めて、本を読み、散歩して、酒を飲み、眠る。適宜インターネット。こんな生活をもうしばらくだけ送って、それきりくたばっちまいたい。あと二、三年こんな生活を送れればそれで良い。余分な寿命は誰か無料で引き取ってくれないだろうか。それとも有料のお引き取りになるだろうか。人生リサイクル法。家電四品目。冷蔵庫みたいに。

 

冷蔵庫のように引き取られる私の寿命。

 

冷蔵庫の話をしよう。大学の街のアパートを引き払うとき、冷蔵庫の処分にはすこし苦労した。車を出してくれる友達も、いわんや冷蔵庫を貰ってくれる友人も居ないから、アパートに業者を呼んで引き取ってもらうのだが、最初に呼んだ業者が提示したのが8000円。パッと見て、容積を確認し、8000円払えば俺らが処分してやっても良いよ、と彼らは言う。8000円、8000円……、冷蔵庫と電子レンジを引き取ってもらう積りで業者を呼んで、電子レンジは無料で持っていってくれるという。冷蔵庫は8000円。私が8000円払うのだ。8000円。どこの業者でもやっぱりそれくらいはかかりますかね?探せばウチより安く引き取ってくれる業者さんもあるかもしれませんが、この冷蔵庫だと、ウチではこれくらいになりますね。さいですか、それじゃ電子レンジだけお願いします、冷蔵庫は一旦保留で……。それで無料の電子レンジは持ち去られた。

8000円払うのも癪だったから二軒目の業者を呼んだ。髭の生えた大男だった。私は彼に冷蔵庫を見せる。(マイナス8000円の冷蔵庫。)彼は冷蔵庫の上のドアを開け、プラスチックの棚板のひび割れを確認し、冷凍室を開けて製氷機の故障の有無を私に訊き、外側の汚れを確認してから、長々と、やはり引っ越しの時期ですから冷蔵庫の在庫が余っておりまして、それにこの機種はとくに在庫が多くて、云々、云々、なので、買い取りではなく無料でのお引き取りになりますが、……。無料!「ええ、それでお願いします。」「宜しいですか。」「ええ、ありがとうございます。」

それで冷蔵庫も片付いた。彼と一緒にアパートから運び出して荷台に乗せた。去りゆく軽トラックを有り難い思いで見送った。何たってマイナス8000円の冷蔵庫がタダになったのだから。

 

私の余分な寿命はいくら払えば引き取ってくれるのだろう。

 

何もやる気が起きず、どこにも繋がりがなく、脳みそは日がなうすぼんやりと霞んでいる。今の私はそんなふうだが、私だけじゃない、皆さんにもきっと、そんな時期がいつか、少しくらいはあっただろう。つまり、たとえば、久しぶりに外に出た昼下がりの街中で、皆さんはこんなふうに直観する。アアおれは、こんな街のなかで、おれひとりだけ、網に漏れたように、おれはもう、孤独で、コンクリートの街並みやアスファルトの硬さ、おれは建造物にでもなってそこいらにずっしりと立っているか、あるいは人間関係の糸にがんじがらめになっていたくて、つまりおれは、そのどちらでもなく、まったく、没交渉の、たとえるならば真空中にひとつっきりの水分子、いや違う、つまりこうやって昼下がりの街中で孤独を直観した、まさにそのおれこそが、孤独なおれで、たとえるならば、そう、空の青にも海のあをにも染まず漂っている、このおれの、しかし今日は天気が良い、お日様の光をアスファルトが照り返して、もう半袖で良いくらいだが、半袖になればまた怯えるように道を歩く、薄着になるほど人の視線が怖くて堪らない、そんな時期が、夏が、またぞろやってくればおれは、今よりももっと俯いて歩くほかなくて、

……っていうような具合に、要するに、寂寞や恥ずかしさが、五感をとおした外界の感触と入り混じって淋しい、そんな時期が、皆さんにだってきっといつか、あっただろう。いや、もしかしたら、皆さんにはそんな時期はなかったかもしれない。私としては、皆さんにもそういう時期があれば良いのにと思う。そんな皆さんとは私、きっと仲良くできるだろう。もっとも皆さんのほうで私とは仲良くしてくれないだろうが。

 

悠長な高等遊民ごっこの日々は随分と私の気に入っている。身近の人間から就職や、或いはせめてバイトでも……、とせっつかれることを除けばこの上ない生活だ。大体、どうして私が生きていくために他ならぬ私が働かなければならないのか、私にはてんでわからない。だからやらない。文句があるか。文句がない筈がないだろう。だから私は耳を塞ぐ。皆さんの賢明なアドバイスから顔を背けて薄く笑う。シラフで目覚めている時間が短ければ短いほど良いように、働いている時間も短ければ短いほど良いだろう。同様に人生自体も短ければ短いほど良い筈だ。私は早くくたばりたい。それも私の責任がなるべく少ない仕方でくたばりたい。雷に打たれて死にたい。不条理なトラックが私に突っ込んでくれば良い。そうやって死にたい。

 

自ら身罷る覚悟は未だに持てずにいる。

 

こうやって死にたい云々言い続けるのを、私はいつまで続けるのだろう。今年で24になる。死にたがりは若者の特権だ。私は若者ではなくなりつつある。年寄りの死にたがりはみっともない。

なんのやる気も起きない。明日目が覚めなければ良い。しかしまあ、目が覚めても良い。もし目が覚めたら、本を読み、散歩して、酒を飲み、眠る、そんな一日を過ごすだろう。もし目が覚めなかったら、何もしなくて良いわけだから、こんなに楽なことはない。だから私は、目が覚めなければ良いのになぁ、とうすぼんやりと思いながら今晩も眠る。不眠がちだから夜中に何度も目が覚める。そんなことを繰り返して翌日になる。朝になれば最終的に起床して、そうすればまた生きなければならない。面倒なことだと思う。早く生涯を終えたい。