かえる作文帖

小説(掌編・短編)や随筆などを書いています。読んでくれると嬉しいです。

ポストモダン的孤独(掌編)

「いいかい君、これは、ぼくがぼくの経験から発見したことなのだけれど、幸福な人間を鈍い人間であると仮定するならば、不幸な人間は不幸によって鈍くなってしまった人間であり、いつ迄も感性の鋭い人間は、かれ自身、彼女自身で不幸であると思い込みつつも、その実幸福な人間に他ならない、っていうことだ。君、ぼくの言うことが、わかるかい?」

私は彼の言っていることが全く理解できなかったから、そのまま彼に、いいえ理解できません、と伝えると、彼は大げさにため息をついて、やれやれ、これだから思慮の浅い人間は、という態度で、眼鏡を人差し指でくいっと上げて、ふたたび、今度は嫌らしいほどにゆっくりと話し始めた。

「つまりだ、ぼくの言いたいことはだね。幸福な人間は基本的に感性が鈍いだろう。ほら、自虐だとかで笑いを取っていたひとが、その生活が充実して、恋人が出来たり、生活が安定してきた瞬間から、その発言のすべてがつまらなくなってしまうことが好い例だ。幸福は、感性を鈍くしてしまう。」

彼はテーブルの上のオレンジジュースを口に含み、続ける。私は端っこの方でぼんやりと立っているウェイトレスに目をやる。ウェイトレスは退屈そうにしていた。

昼下がりの、人が殆ど居ない喫茶店だった。私たちは、つまり、私と彼は、映画を観終わったあと、ここに来て、私はコーヒー、彼はオレンジジュースを頼んで、いま、こうして話しているのだけれど、いつもみたいに会話は彼の独擅場で、私はただぼんやりと、彼が話すことを聞いたり、聞かなかったり、或いはウェイトレスにぼんやりと視線を投げかけたりしている。

私がそっぽを向いていたって、彼はあいもかわらず話し続けていて、彼の顔を見てみると、ああ、不愉快なしたり顔で話し続けているものだから、ねえ、その口角の泡が、貴方は気にならないのか知ら。

彼は話し続けている。

「……要するに、幸福な人間がこうやって感性が鈍っていって、だが一方、不幸な人間だって、いつまでも鋭い感性でいられる訳ではないんだ。不幸な人間は、その永く続いている不幸によって、だんだんとその感性の鋭さが削られていって、無感覚になっていく。例えるならば、コンビニバイトを長く永くやっているひとの目が淀みきっていくように。」

彼は、私が彼のほうへ向ける、淀みきった視線にかけらも気を払わずに、不幸な人間を批判し続ける。何なら彼は、私がコンビニでバイトをし始めてもうすぐで二年になることだって、どうせ忘れているのだろう。そういえば彼は、いつだって自身の意見を話すことに無我夢中で、私の発言になんて、気を配ったこと、ありませんでしたね。


最初は、私は彼のこと、好きで好きで堪らなかったんです。

その腐臭を放っている嫌味ったらしさも、話すことばの凡庸さも、昔の私には、彼の天性の自信に思えて、なんの取り柄もない私は、彼に惹かれて、どうしようもなかった。根拠の無い自信を持って、その軽佻浮薄な意見を、下らない意見を、ペラペラと口八丁の彼が、魅力的に思えて、仕方なかった。

けれど、私はもう分かってしまったんだ。彼の言うことはどれも、救いようのない自慰行為で、彼の意見はすべて、自分自身がどれほど思慮深いか、どれほど周囲を見ているか、それを誇示しようとして、そのくせ彼は空虚だから、虚仮威し、今や私は、彼の言葉を聞くだけで、虚しくてこの上ない。


彼はまだ、話し続けている。窓の外は雨だった。

「では、ときどき僕たちの前に現れる、いつ迄も感性が鋭いままでいる、いわゆる天才、そういう人らは、どういう理屈でその感性を保っているのか?……僕が思うに、彼らは、彼ら自身不幸であると思い込みながら、その実幸福な人間に他ならないんだな。ほら、彼らが彼ら自身不幸であると思い込んでいる以上、彼らの感性は鈍くならないし、彼らが実質幸福である以上、その不幸ではない現実は、彼らの感性を鈍くはしない。

……僕の言っていること、君にはわかるかい?」

私は彼の言っていることをしっかりと聞いていなかったから、はっきりとしたことは言えないけれど、なんとなく、彼の言いたいことは掴めていたし、それに、彼の言いたいことが、いつも通りの、どうしようもなく仕方ないことなのは理解できた。そこで私は、彼への追従、その場しのぎのいつも通りの肯定にかえて、ねえ、私たち別れましょう、と彼に告げた。

私の返事がいつも通りの同意ではないことに気づいた瞬間、彼はそのしたり顔をやめて、その目をまん丸に見開いて、私のことを見つめてきたものだから、私はなんだか面白くなって、しっかりとした間を置いたあと、もう一度彼に、繰り返した。


ねえ、私たち別れましょう。


彼の顔、みるみる赤くなって、ぷるぷると震えだしたものだから、私は思わず笑ってしまいそうになって、その感情を飲み込むように、コーヒーを口にした。そのコーヒーが気管にはいりこんだようで、わたしは激しく、大笑いするように咳き込んだ。

彼は、顔を真っ赤に染め上げながら言った。

「ああ、そうか、そうなのか。君もぼくを、馬鹿にしていたのか、ああ、構わないよ!

しかし、これだけは言わせてくれ。きみは不条理だ、きみは、不条理だ!」

そう言い放つと彼は尻ポケットから財布を取り出し、数枚の千円札をテーブルの上に叩きつけて、何やらぶつくさ言いながら出て行った。彼が机にお金を叩きつけた瞬間、隅っこに佇んでうたた寝していたウェイトレスがビクッとして目を覚ましたのを見て、私は思わず、しばらくの間大笑いが止まらなかった。

ひととおりゲラゲラ笑って、正気に戻ると、机の上には飲みかけの私のコーヒーと彼のオレンジジュース、それと数千円が置いてあって、それは私たちの飲み物の値段を優に上回る金額だった。私は何やら、うまく言えないけれど、もやもやとした気持ちがしたものだから、彼が置いていった数千円をぐちゃぐちゃに丸めて、彼が残したオレンジジュースに、ふかぶかと突っ込んだ。私のその行為を見て、ウェイトレスは初めて笑った。