かえる作文帖

小説(掌編・短編)や随筆などを書いています。読んでくれると嬉しいです。

夜汽車(掌編)

ふだんは人いきれであろうホームに(、なぜなら仮にも大都市のターミナル駅だから、)けれども、今晩はあたりを見回しても、私以外誰も居ないものだから、或いはこの、吹雪と言っても良いような天気のせいかも知れない。まして夜も遅いから、辺鄙な所へひた走る、こんな特急電車には誰ひとり乗らないのか知らん、そんなことを、思いつくままぼんやりと考えていた男は、酷い雪のなか、それでもさして遅れやしなかった夜汽車に、音もなくプラットフォームに辷り込んできたその夜汽車に、ぶ厚い外套の、襟を立てたまま乗車した。
汽車のなかは暖かくて、これではあまりに暖房が効きすぎてはいないか、なんて思いつつも、曇る眼鏡で視界が妨げられ、しかし、やはり暖かいのは有り難い。男は黙って、けれども微笑みを抑えつつ、外套を脱ぎ、客車へと足を踏み入れた。
座席はロングシートで、男はこの、横へ横へと進んでいくような座席の感覚が、進行方向と並行に、どこまでも置いていかれてしまうような、ロングシートの生真面目さとでも言ったら良いのだろうか、そんなものが苦手で、だから、淋しい夜の線路のうえに置いてゆかれでもしないように、理性では判ってはいるものの、それでも、長座席のその、進行方向とは逆の端に(、車内はプラットフォーム同様に人っ子ひとり居ないような様子で、席を自由に選べたものだから、)網棚の上に外套を置き、静かに腰掛けた。男が座るのと同時に夜汽車は滑らかに動き出し、速度を上げて、外の雪が、ますます鋭角に降りだした。
やがて、いかにも眠そうな車内放送が流れ出した。人の見当たらない汽車のなかの空虚さにこだまして、それでも汽車のガタンゴトンの音のなか、男は車掌の声に耳を澄ませて、どうやら、この汽車には食堂車も車内販売も無く、次の駅迄もずい分と遠いらしい。まあ、仮に次の駅に着いたところで、こんな吹雪の晩だもの、駅の売り子も休業していることだろう。男は急に手持ち無沙汰に感じ始めた。麦酒を持ってこなかったことを後悔した。
夜汽車は走る。せめて文庫本の一冊でも持ってきたならばどんなにか気晴らしになっただろう、男は包まれるような暖かさのなか、しかし耐えがたい退屈に嫌気がさして、まるで助けを求めるかのように、黙って車内を見回した。すると直ぐに、男が座っている座席の対角、同じくロングシートの端に、深夜の蛍光灯の灯りのような肌をした少女が、膝の上に手提げ鞄を携えて、いつのまにか座っているのが目に入った。退屈で仕方のない男が、彼と同様に酒も文庫も持ち合わせていない、けれどもどこか愉しそうに座っている少女を見つめていると、彼女は男の視線に気づいたようで、彼のほうをふと見ると、(ぶつかる視線、)男にやわらかく微笑みかけた。男は急いで視線を逸らし、地面とほぼ水平に降る車窓の雪を、ひたすらに眺めるふりをした。

夜汽車はひたすらに走り続ける。外の暗い寒さ、ひどく降りつづける雪とは裏腹に、暖かい車内、やさしく男を照らす橙色の車内灯に、男はいつか、一度だけ訪れたバーのことを思い出していた。

雪のちらつく晩だった。男は、その日偶々知り合った知己と、街へと飲みに繰り出すことに急遽決めて、だが男はいつも、外食と言えば近所の寂れた定食屋に、彼以外の客を見たことのない、どうして未だ潰れずにいるのかわからないような店で晩飯を取るばかりだったから、街のほうの、洒落た店などひとつも知らない。そこで男は、知己に何もかも委ね、そうして行き着いたのがそのバーだった。
雑居ビルの九階でエレベータを降り、なにやら自分にはとうてい似つかわしくないような扉を、平然とくぐる知己に続いて店に入ると、そこは隠れ家のような、ほんとうにここは、繁華街の雑居ビルのなかにある店なのか?
明らかな断絶を、男は扉の外と中との間に認めた。扉の中には、街のなかの下卑た様子、嫌悪に値するような客引きの影も、騒々しさも、欠片も無かった。ただ、一人の紳士が、カウンターの端で、澄んだ酒を飲んでいた。男とその知己は、カウンターで、バーテンダーに促されるままに酒を飲んだ。男はバーテンダーと二言三言喋るうちに、何やらよくわからないままに出てきた酒を、舌へ載せるようにゆっくりと飲み、けれどもかなり強い酒だったようで、杏仁のような甘い風味を嗅ぎながら、男は心地よく、まるで、温泉に入っているような心地に誘われた。
貸切の温泉の、その湯船の真ん中で、男は肩まで躰を沈める。立ちのぼる湯気がぼんやりと周囲を霞ませて、どこまでもこの湯船が続いているように思わせる。
脳髄が融けてしまいそうな快楽のなかで、男は、湯船に浸かるこの快楽が天国ならば、地獄はいったい何であろうかと考える。それはおそらく、冬の日の、暖房もつかないアパートの一室のユニットバスで、狭い湯船にうずくまってシャワーを浴びていると、寒さとシャワーのあたたかさの差の大きさに身動きが取れず、縋るようにシャワーを浴び続けるのが止まらない、男の学生時代の思い出が、ふと立ちのぼる湯気のまにまに浮かび上がった。そうして、この想起は、そのまま幸福な湯船のあいまに溶けて消えていった。幸福の瞬間に不幸を想起することは、概して無力な行為である。男は、なお一層お湯の中へと身体を沈め、ため息をつき、静かに眼を閉じる……

男は、汽車の揺れ、とりわけ大きなそれに揺られて目を覚ました。彼の対角に座っていた少女はいつか停車した駅で降りたのだろうか、影も形もない。車内放送のアナウンスが、聞いたこともない駅名を告げる。
夜汽車は、吹雪のなか、走りつづけている。