かえる作文帖

小説(掌編・短編)や随筆などを書いています。読んでくれると嬉しいです。

ただぼんやりとした不安(随筆)

人生は旅にたとえられることが多い。だが、私はこの喩えを嫌悪する。こんな凡庸な、牛乳を拭いたぼろ雑巾みたいな臭いを放っている比喩を、もう充分に分別がついている筈の年齢の人間が使っているのをみると、たといそれが電車で隣に座っていた見ず知らずのサラリーマンの発言であっても、私は彼のために、そのしたり顔の愚かしさに、いたたまれなく、悲しくて堪らない。

しかし、あえてこんな馬鹿らしい比喩を使って話をするならば、いま私はひとりきりの旅の最中、淋しい一本道を歩いていて、雪がうすく積もっている、その道に、何か、ずっと、ぽたぽたと落としながら、だけれど私は、私にとってたいせつなそれを、何とは知れぬそれを、落とし続けていることに気がつかずに歩き続けていて、或いはそれは、感性だとか、幸福、純真、よくわからないけれど、そういう感情、生涯の豊かさの素になっているものかも知れなくて、たとえば、年をとるにつれて誕生日や元旦がつまらなくなっていくことは、要するに、こういう訳であるのかもしれない。


ずいぶんとたくさん、無くして、ここまで来てしまったものだと思う。私の旅は、しかし、そうスムーズなものではなくて、少し進んでは立ち止まり、身震いして、なにか大きなものが、私の身体から落ちてゆく。或いは肩に積もった雪がどさりと落ちたのかもしれなくて、しかし、それでは、身軽になったことを説明はできても、日々空しさが増していくことは説明できない。少し進んで、また身震いして、また何かが落ちて、落としてはいけないものを落としながら、私は、しかし、落としたものを拾おうと、腰を屈めることを知らない。


歳を重ねるだけ、生活はその実質を、それ自身の豊かさを、幸福を喪ってゆき、もう私はどんぐりや蝉の抜け殻を拾いあつめても、空虚におもうままで、この空虚さを、いったいいつから抱いているのだろう。日に日に増していくこれを前にして、やはり私は、なにか重要なものを落としながら歩いていて、とりかえしがつかないことだった。



空虚さを埋める方法を知っています。愛や恋、しんそこ安心できる友だち、犬や猫やうさぎを飼うこと、情熱を注げるなにか、いとおしき趣味。

私は雲を掴めない。



乱雑な机のうえ、だいぶ前に買った聖書が置いてあって、ほら、聖書って分厚いでしょう、机の乱雑さに紛れさせたくないものを、そこに置いたりするのだけれど、いまは聖書の上に、睡眠薬を載せている。


私はきっと、地獄に落ちるのだろう。



なにも私を救わない。或いは、私を救うものたちは、私の手の届く場所にはなくて、しかし私はなおも、空虚さを増しながら、いま現在もぽたぽたとなにか、たいせつなものを無くしながら、ひとりきり、それでも進んでいくほかない。


私の空虚さが私を飲み込んでしまうまえに、私がすべてを失うまえに、例えば私が中年になって、美点を全く喪った、醜いだけのぶよぶよの白痴になるまえに、私はいっそ、私の旅を止すことを思う。



死ぬことは怖い。しかし、死なねばならない。



私は何もかも喪うばかりで、たとえば、ほんの少しの挨拶を交わすだけの異性の存在すらない私に、この世はまぶしく豊かで、けれど私は、そのうちの、眩しさ、豊かさの、一つたりとも、得ることがない。


来年の三月、或いは四月のはじめあたり、私はきっと、身罷ります。いますぐに死なないそのわけは、私はなおも、この生涯に期待せずにはいられなくて、でも、もう、あと一年かそこいらで、はかない期待を抱きつづけるのもおしまいです。

死ぬことは怖いけれど、私は、死ぬほかない。いま抱いている感情、それは、もし私が私の空虚を埋められぬまま来年の春を迎えて、そのとき私は、ひとりでさっぱりと、最後まで孤独に、淋しいけれど、空虚さを抱いて、要するに、私は、うまく身罷れるのだろうか。それだけが、ただぼんやりと不安なのです。