かえる作文帖

小説(掌編・短編)や随筆などを書いています。読んでくれると嬉しいです。

拝啓ファム・ファタル(上)

 私と彼女の逃避行およびその顛末について書いていこうと思う。あなたもきっと気に入ってくれるだろう。だが、なにぶん私は文章を書き慣れていないから、調子が出るまで読みづらいかもしれない。どうか我慢してほしい。実際私はどこから書き始めればよいのかわからない。少なくとも私の両親の生まれから話を始めるような必要がないことぐらいは理解しているつもりだ。どうしようか。

 ……さて、どうしようか考えたが、端的に私と彼女の出会いの場面から書いていくのが良いと思う。それで良いだろうか。というのも、すてきな書き出しを思いついているんだ、聞いてくれ。『それは見覚えのある顔だった』。どうだろう、良いと思うんだ。少なくとも私は良いと思う。実際私と彼女はそんな調子で出会った。ああ、私の話にきっとぴったりな書き出しだと思う。この書き出しでやっていこうか。

 

 

 それは見覚えのある顔だった。

「あなた背が高いし、いつもヨレヨレのTシャツばっかり着ているでしょう。だから教室の中じゃとても目立つのよ。今だってこの近くでいちばん目立っているもの」

 一人で飯を食い始めようとしたその瞬間、唐突に、向かいの席からそんな言葉を浴びせかけられ、顔を上げると目が合った、その女の顔に見覚えがあった。私は彼女を、ロシア文学と宗教学で幾度か目にしたことがある。しかしこうして学食で会うのは、もとい、彼女から言葉を掛けられること自体が、初めてだった。

「それに、その髭も酷いわ。まばらに伸ばした髭はみっともないって自分で気が付かないの?無精髭くらい毎日当たんなさいな」

 私ではない誰かに話しかけているのではと思った。だが彼女は確かに、他ならぬ私を見ながら続けた。

「それとも、無精髭のみっともなさを指摘してくれる友達も居ないのかしら、あなたには」

彼女は日頃この時間に昼食にするのだろうか。そうして学食で向かいに座った人間全員に、この調子で当たり散らすのだろうか。(そうと知っていれば今日私は昼飯を抜いたのに。)

 たまたま巡り合わせが悪かったのだろうか。というのも、普段だったら私はこの時間、つまり十二時台に学食へ行くのは避けているのだ。何故って、十二時から十三時までの昼休み、二限と三限の狭間であるそんな時分に学食に行けば、混んでいて居心地が悪いのは判り切っているし、それに空席もなかなか見つからなくて、仮に運よく空席を見つけることが出来たとしても、今の私みたいにこうやって、向かいの席のアグレッシブな異性に謗られる羽目にならないとも限らない。向かいの席の異性から謗られるのは珍しいケースかもしれないが、ならば現に私が直面しているこの謗りは何なのだろう。やはり巡り合わせが悪かったとしか考えられない。

 ほんとうに、本来ならば私はこの時間に学食には行かない。決して行かない。今日だって、ひどい寝坊さえしなければ、十一時半ごろ大学に着いて、まだ混むまえの学食で、いつも通りひとりで優雅に昼飯を摂る予定だった。そんな積りだったのに、こんな寝坊をしたばかりに、煩い学生で混みあったこんな学食で昼を食べる羽目になり、そんな学食ではひとりぶんの空席を見つけることにすら難渋し、やっと見つけた座席に座っていざ昼食を食べ始めようとすれば、向かいの席の話したことすらない女から容姿や孤独についての非難が飛んでくる始末だ。後悔してもしきれないが、いまさら後悔したところでどうしようもない。畢竟肝心なのは、受けた非難に対して私がどんな受け答えをするかであろう。

 彼女は私を馬鹿にして満足したのか、呆然とする私を尻目に、味噌汁を旨そうに啜っている。(学食の味噌汁が旨いはずないのに。)皿を見ると彼女は既にほとんど昼飯を食い終わっている。一方の私はイザ昼飯だ、という段階で出鼻を挫かれ、(それも全く話したことのない女から中傷を浴びて!)こうも言われっぱなしじゃあ収まりもつかず、一旦は手に取りかけた箸を置き、彼女に何と言い返してやろうか、アアそのバチバチに開けたたくさんのピアスお似合いですね、と皮肉を言うか、或いは、人の見た目についてトヤカク言うものではないですよ、と穏便に抗議するか、もしくは、あなたは身長が私よりもだいぶん低いから私よりかは目立ちませんね、とこうやるか、或いは、あなたも講義室でいつだって独りぼっちで知り合いらしき人すら居なさそうですよね、と挑発するか、あるいは、短い黒髪が綺麗ですね、と言ってやるか、いやこれは褒めてしまっているなぁ、と、まあ、その、いろいろと逡巡したすえに、しかし彼女の右隣に腰掛けている男は強そうな男で、今はそっぽ向いてオトモダチと話しているようだが、彼こそが彼女の友人だとか彼氏だとか、そんなことだってあり得るわけで、(こいつはきっとラグビー部だ、)或いは私が彼女に抗議した瞬間を見計らって私を恐喝するのだろうか、とか、彼女の左隣に腰掛けているキツネみたいな顔した女子大生、こいつもまたそっぽ向いてほかのオトモダチとペチャクチャやっているが、こいつも私が彼女に抗議した暁には私のほうをバッと見て、鬼の首を取ったかのようにまくしたててくるかもしれなくて、まあ、要するに、そんなことだって、ありえないわけではないから、私は、穏便に、かつ精いっぱいの皮肉を込めて、

「あの、初めましてですよね。どなたか人違いをなさっているのでは?」

と、日和見のような返答をした。

 ……ああ、何たる惨めさ!唐突な侮辱に抗議することすらも私はできなくて、男一匹としてこれほど情けないことはないが、(しかしあらかじめ言っておけば、今後私はもっと情けない境遇に陥っていくわけだが、)対する彼女は私の発言を聞くと、チラと目を上げ、味噌汁の椀を口から離して、容赦なく言うわけだ。

「目の前の人間をどうやって人違いするって言うのよ。それにそんなことどうでも良いわ。私の質問に答えなさい。そもそもあなたには友達が居るの?無精髭だとかそれ以前に、そもそも、あなたには友達が居るの?居ないの?」

 ……今にして思えば、私はこのころからずっと彼女に振り回され続けてきたわけだ。最後までそうだった。彼女のペースに巻き込まれ、私は彼女に譲歩しつづけていった。いや、譲歩という言葉は正しくないだろう。最初から私には、保つべきものや私自身なんてなにひとつありはしなかったのだ。だからこそ私は彼女に最後までついていった。だがそのことはいずれ分かる。とりあえずは話を進めよう。

「ええっと、あの、この席に座ったのが悪かったですか?その、空席のように見えたから、もしかしてここは貴女のお友達の席だったり、」

「いいえ。あたしはひとりよ」

「じゃあ僕が座るまえにここ空いてますか、と一声かけなかったことを、こうして貴女は怒っているんですか?」

「まさか。学食の空いている席なんだから好きにすれば良いわ。」

「でも僕に怒るような調子で僕の服装やら友達の居なさ加減を、貴女は言って、」

「別に怒ってなくってよ。怒ってたらあんたに味噌汁ひっかけてさっさと次の授業に向かってた。それよりもこんなしつっこい問答のほうにあたしは苛々してきたわ。あんたは見た目に気を遣わないくせして心ばっかりウジウジと繊細ぶるのね。あたしがあんたに話しかけたのは、いつもよく教室で見かけるみっともない格好のあんたがそうまでみっともない理由を知りたかったのよ。たまたまあんたがあたしの目の前に座ったこんな機会にね。さあ、これで三回目。いい加減答えてくれると嬉しいわ。あんたにはあんたの見た目のみっともなさを指摘してくれるような友達はいないの?」

 私は顔が真っ赤になるのを感じた。いくらなんでもあんまりじゃないか。こんな侮辱は初めてだった。彼女の右隣の男が私のほうをチラと見た。私は耐えがたくなって席を立とうとした。昼飯なんてどうでも良かった。この場所から、いや彼女から立ち去りたくて、だがすかさず彼女は私に、「待ちなさい」と声をかけ、

「次の授業は一緒よ、あんたはあたしに気がついてないみたいだけど。いまあんたが答えないっていうんなら別に構いやしないけど、あたしあんたについてって、あんたが答えてくれるまで付き纏ったっていいのよ。幸い授業もいくつも被っているみたいだし。あんたはあたしから逃れられないし、あんたはあたしがこうして付きまとう限りあたしの問いに答えなきゃならないのよ。」

 私は、立ち上がりかけた腰をふたたび降ろした。爆破解体されたビルが沈むように壊れていく気分だった。彼女はそれを見てうっすら笑みを浮かべながら、

「さあ、話しなさい。あんたはあたしに物語らなくてはならないの。あんたに友達は居るの」

 どうしようもなかった。私は私のみっともなさを彼女に話すほかないようだ。こうしていつまでも付き纏われても困ってしまう。いや困るどころでは済まないだろう。

「僕にも友だちは、一人だけど、たしかに居ました」

「『居ました』ってことは今は居ないのね。死んだの?」

「まさか、縁起でもない。居ました、って言ったのは、つまり、僕とそいつが、そいつの名前はイシヅキ、つまり、ええっと、石ころの石にムーンの月で、石月って名前なんですけど……」

「良いわ。その調子で話し続けて。」(彼女は私のほうに目も向けず、昼食の皿の千切りキャベツの食べ損ないを箸でつまみながら言った。)

「……それで、その石月って奴と、友達だったんだけど、疎遠になっちゃったんです」

「それで?」

「それだけですが……」

「あのねえ、」と彼女は言い、私のほうに目を上げて、一拍置き、続けた。「それはさっきも聞いたわよ。イシヅキとあんたが疎遠になったんでしょ?あたしがさっき『それで?』って言ったのはね、イシヅキとあんたがどう疎遠になったのかそれを物語れって、そういう意味で言ったのよ。要するにあんた今友達居ないんでしょ?大学だけじゃなくて高校中学小学生のときの友達は?」(私は、みんな縁が切れてしまいました、と小さく返事をした。)「そう。友達も居ないのね。家族は?こんな辺鄙な大学くんだりまで出てきて、あんた今一人暮らし?そんなヨレヨレの服と無精髭ってことはあんた一人暮らしでしょ?」(私はハイ、と更に小さく返事をした。)「じゃあ尚更よ、あんたはあんたのことを話す相手も居ないわけ。分かる?あんたは全くの一人ぼっちなの。あたしの言ってること、合ってる?あんたは今まったくの一人ぼっちよね?」(私は、オッシャル通リデス、と消え入るような声で返事をした。彼女の左隣に座っている女子大生の口元が笑みを抑えきれずに歪んだ。盗み聴きしやがって!)「そう。だったら今あんたには良い機会が訪れているのよ、あんた気づいてる?気づいてないでしょう。あんたはあんたのことを、ましてやあんたの交友関係について誰ひとり聴いてくれやしない状況であるにも関わらずあたしがそこに現れてあんたの話を聴いてやる、ってそう言ってるわけよ。あたしの言ってることわかる?あんたはあんたのことについて語る絶好の、またとない機会を得たわけ。まったき孤独なあんたがよ。じゃあせめて精いっぱい物語んなさい。せめてあたしが愛想を尽かさないように、あんたのことを、あんた自身のことを、小説か何かみたいに、豊かに、面白く、物語んなさいよ。」

 私は気が遠くなるような思いだった。彼女の右隣のラグビー部も、彼女の左隣の女子大生も、どうやら彼女の知り合いですらないようだから、彼ら彼女らのグループ同士で話しているそぶりだが、いや、彼ら彼女らのそのグループの誰も彼もが、私と彼女の会話のなりゆきに聴き耳を立てているようだった。私は彼女に、いや、彼ら彼女らすらも前にして、私がどうやって石月と疎遠になったのかを(あまりに惨めに!) 話さなくてはならないようだ。

「僕と石月は高校時代からの友達だったんです。僕らは高校時代から親しくて、高校生の時分には気の合う知己らと一緒に、つまり仲良しグループみたいなのが出来ると思うのだけど、そういう仲良しグループのなかでも、僕ら二人、とくに仲が良かったんです。」

「さっきも言ったけど、」と彼女は口を挟む、「なるべく面白い調子で語んなさいね。あたしが席を立たない程度に、あたしの興味を引くように」

「……さっき僕は嘘をつきました。貴女に物語るために、話を単純にしようと思って嘘をついて、つい先ほど僕は彼と、高校時代から仲が良かった、とそう言ったのだけれど、じつは高校時代は全然、とりわけ仲が良かったわけではなかったんです。もちろん、仲たがいしていた、ってわけではないのだけど、単に、そう、単に僕と石月は、同じグループに属してはいたけれど、ただの、知り合いだった。」

「へえ、」と彼女は言い、続けて、「良いわね、その調子で続けなさい。今のところは良い感じよ。その調子で続けて。」

「……僕と石月はべつに仲良くなかったから、示し合わせたようにおなじ大学に行くことはなかったのだけど、その、石月は頭が良かったから、後期入試で同じ大学に入ってきたみたいで、」

「それは余分ね、」と彼女は言って、続けて、「べつにイシヅキの頭が良いとかそんなのどうでも良いの。何て言えば良いんでしょうね。その、」(ここで彼女は彼女の昼飯の皿に浮かぶドレッシングの油をぐるぐるとかき混ぜながら言っていた、)「なんてあんたに言えば良いのかしらね、……そうだ、わかったわ!イシヅキとあんたの思い出を話しなさい、それもいちばん心に残ってるやつを。時系列に沿って順番になんてつまらないから、あんたがイシヅキとやったこと話したことの中でいちばん印象に残ってることを話しなさい。事実を羅列するのは駄目よ、どうせサークルの新歓や基礎クラスでパッタリ顔を合わせてワーびっくりしたー、でそのまま仲良くなった、とかそんななんでしょう。凡庸ね。面白くないわ。話し方によっちゃマシにはなるでしょうけど、あんたきっと話すのも下手でしょう。だからいちばんの思い出を、あんたなりに面白くなるように気を配りながらあたしに話しなさい。そうすりゃ多少ましにもなるでしょう。さあ話して」

「一番印象に残っているのは、」

「だめ、やり直して」

「やりなおす?」

「話始めから気を配れって言ってるのよ。……落ち着いて。あたしはあんたに話をせがむし、あんたが話さないのは許さないけど、べつにあんたをパニックに陥れよう、ってわけじゃないのよ。落ち着いて話しなさいね。でも話すのを止めちゃだめよ」

(ここで彼女ははじめて私に優しい言葉を(比較的優しい言葉だ)かけてくれたから、つまり、もともとが理不尽極まりない出会いだったし、乱暴に私を晒しあげるように罵倒する彼女が、ああ、これがアメとムチって言うのかって思いながら、アメが、『落ち着いて』、のその言葉、その言い方のやさしさが、身に沁みるように嬉しかった。だから私は頑張って面白く話そうと思った。あなたは私を単純だと思うかもしれない。その通り私は単純だった。異性から話しかけられてうれしい、という感情も大いにあった。どういうわけか知らないが、彼女は私の話を聞きたがっている。エキセントリックなこの女に、私は私の話を聞いてほしいと、どういうわけだかそう思いはじめていた。)

「……雪の止んでいた晩でした。ある冬の夜中、僕と石月は居酒屋からの帰り道だったんです。疎遠になるまえ僕たちは、よく二人で酒を飲みに居酒屋に行って、その晩もそうでした。僕ら二人は行きつけの居酒屋で、夜も遅くまで飲んで、話していました。

 楽しかったんです。石月と酒を飲みながら話していて、今やどんな話で彼と盛り上がっていたのか、具体的にはほとんど思い出せないけど、たしかテクスト論とか、サリンジャーとか、ボルヘスとかチェーホフの話をしていたと思います。いっぱしの教養人気取りで、一丁前に僕たち、文学の議論をしていました。これまでに何万回も繰り返されてきて、これからも何万回と繰り返されるであろう、若い文系大学生の、凡庸な、そのくせ本人たちだけは優れた議論だとおもっている、要するに傍からは聞くに堪えない議論をして、でも僕らは、話している側からすれば、楽しかった。

 僕らは店を出てからも、帰り道、歩きながら話していました。夜も遅い雪道には人が居なくて、車もほとんど通らないからあまりに静かで、コンビニの灯と街灯、それと信号機の灯りだけが、静かでまっすぐな街並みに、どこまでも続いているんです。信号待ちで立ち尽くしているその合間に会話が途切れて、ちょうど信号が赤から青に切り替わりました。貴女知っていますか、信号灯が赤から青へと切り替わるときには、かすかにカチッって音が鳴るんです。」

「ねえ、」と彼女は口を挟む、「あんた昼ごはん食べないの?あんたの味噌汁もらって良い?」

「貴女が話せ、って言うから僕はご飯が食べられていないのだけど」

「別に食べちゃダメ、なんて言ってないわ。好きにすればいい。ただ一瞬でも話すのを止めちゃダメよ。あんたはあたしに話し続けるの。味噌汁もらうわね」

私が嫌だと言うよりも早く彼女は私の味噌汁を取り、旨そうに啜った。(学食の味噌汁が旨いはずないのに。)それから私の方を見て、

「何あたしを見てんの、話しを続けなさい。いまあんたとイシヅキは居酒屋の帰り道よ、それで?」

「僕もおなかが空いているのだけど」

「話していれば空腹も紛れるわ。話しつづけて。聴いてあげるから」

「……そうして飲み屋の帰り道、僕と石月は深夜の街の、とりわけ人気のない箇所に差し掛かったんです。さっきも言ったように冬だったから、雪や氷で道もよく滑って、それに僕ら二人酔っぱらっているものだから、千鳥足、何回も滑って、でも転びはしないで何とか歩いていたんです。

 しかし結局僕は転びました。石月と並んで歩いていて、雪道を見ながら歩いていた視界が、瞬間、唐突に、うすぼんやりと暗い夜空に切り替わったんです。僕は尻もちどころか背中、頭まで雪道に寝かせるようにして、綺麗にすっころんじまったらしかった。

 唐突に、気持ちよく転んだんです。夜の空にはちぎれ雲が浮いていました。車の音も聞こえないし、道には僕ら二人きりで、暗い冬の深夜です、僕は転んで石月は立ち止まっているから、まったく静かでした。なんの音もしない。星の見えない暗い夜空です。僕はなんだか妙に感動しちまって、すぐには起き上がらないで、すこし転んだまま横になっていました。さいわい体はどこも痛くなくて、上手に転んだんですね、静かな夜に道端に転んで、空を見上げていたんです。それで、うまく説明できないが、身に染みるような感動が僕の心を占めていったんです。

 それから僕は起き上がって石月とまた歩き出すわけだけど、僕は何とかしてあの感動を、つまり、綺麗に転んで夜空を見上げて路上に横たわりあまりに静かな、あのときの感動を、石月に伝えようとしたんです。もう文学の話なんてどうでも良かった。転倒に伴った感動を石月にも共有してほしかったから、僕は僕の足りない言葉の限りを尽くしてどう感動したか伝えようとするのだけど、僕は話すのが下手くそだから、石月にもいまいちピンとこないようで、……ほら、今だって貴女もピンときていないでしょう。単に雪の街の深夜に転んであまりに静かだった、そんなことにどうしてあれほど感動したのか、僕はうまく説明できない。でもほんとうに、静かな晩に転んで、なぜだか嬉しいような心地がした。」

「よくわかんないわ。あんたが言うとおりピンと来ない」

「ですよね。その場に居合わせた石月も、僕がどう感動したのか理解してくれはしなかった。彼は僕がひどく酔っ払っているものだと考えたようで、次に見えたコンビニに僕を引っ張っていって、僕に水を買ってくれたんです。実際僕は酔っていたから水を買ってもらえるのは嬉しくて、僕は彼に言うんです、『あとチキンも食べたい』って。そしたら彼、水に加えてコンビニチキンも買ってくれて、そう、彼は、水とチキンを私に買って、奢ってくれたんだ。彼はとても優しかったんです。彼は僕に水を飲むように言って、それからチキンを貪る僕を、憐れむように見ていたんです。でもそんな優しい彼も、僕がいったい何に感動していたのか、理解してくれなかった。僕の言うことを酔っ払いの繰り言としか思ってはくれなかった。」

「そう。」

「そうなんです」

「……それで、そんな優しいイシヅキとあんたはどうして疎遠になったの?」(彼女は私から奪った味噌汁の器に張りついたワカメを箸でつまみながら言った。)

「石月にカノジョが出来たんです」

それを聞くと彼女はヘヘッと(微かに)笑って、それから言った、

「じゃああんたはカノジョが出来たイシヅキに捨てられたのね。何遍もいっしょに、二人きりで居酒屋に行っていたイシヅキに」

「いえ、違うんです」

「あら違うの」

「ええ、違うんです。……石月は彼女が出来てからも僕と仲良くしてくれたんです。でも、石月の中身がまるきり変わっちまっていて、要するに、石月はカノジョの話しかしなくなっちまったんだ。僕がドストエフスキーの『白夜』を読んだよ、って話をすれば、彼はアアオレもこないだそんな風に彼女と長々と話したんだ、ってカノジョの話をしはじめて、僕は『白夜』の話をしたいのに石月のカノジョの話を聞かされている。僕がバタイユの『眼球譚』を読んだよ、って話をすれば、(いずれも彼が僕にかつて薦めてくれた小説です、)彼はアアオレもこないだ彼女と初めて寝てさぁ、ってカノジョの話をしはじめて、僕は『眼球譚』の話がしたいのに、石月のカノジョの話を聞かされている。しまいには石月、僕の見た目にまでケチをつけはじめて、『おまえももう少し見た目に気を遣えよ、ほらその無精髭を剃ったりしてさ。そうしないと彼女の一人も出来やしないぞ』なんて私に言うようになって、それで僕は、心底辟易しちまった。石月のなかの魅力的比重がそのままカノジョに注がれてしまったようで、そんな石月と、僕は、だんだんと会わないようになって、石月がこんど飲みに行こうよって連絡してこようが、どうせカノジョの話ばかりするのだから、僕はそれを断って、疎遠になっていって、唯一の友だちの石月と疎遠になっていって、それで、僕は、結果的に、こうしてひとりになっちまったんです。」

 学食を見渡すとだいぶ空いてきていた。昼のピークは終わったようだ。彼女の右隣の男も、左隣の女も居なくなっていた。いずれも次の授業に向かったのだろう。

「そう。……それで、」と私の向かいの彼女は言い、続ける。「それであんたはあんたの無精髭をミットモナイって言ってくれる唯一の友達を、失ったわけね」

「そういうことになりますね」

「そんな襟周りがヨレヨレのシャツを着てるのもそういうわけね」

「このシャツは気に入っているんですけど、さすがに何年も着ているからみっともないですか、やっぱり」

「ええ、非常にみっともないわ。無精髭と相まって最低ね。あんたとイシヅキの話はつまんなかったけど、そのヨレヨレのシャツよりはマシだったわ」

「それは良かったです。僕としても話した甲斐がありますね。……ところでもうすぐ次の授業、三限がはじまる時間だから、そろそろ行きませんか。僕は何も食べていないですが、まあ、良いです、貴女は僕と次の講義が一緒ですよね、(貴女がそう仰ったんですものね、)そろそろ次の教室に向かいませんか」

と、私が言うと、彼女は時計を見て、

「ああ、たしかにもう昼休みも終わりね」

「そうなんです。行きましょうか」

「行かないわ。」

「行かないんですか」

「ええ」

「じゃあ僕は行きますね」

「駄目よ、あんたも行かないの。」

と言って、急に彼女はテーブル越しに身を乗り出して私の左手首を掴んだ。私は異性に腕を掴まれるのはあのときが初めてのことだったから、ドギマギして、しかし私は未だ真面目で不器用だった、講義に行かなければならないと思い込んでいて、

「どうしたんですか、次の授業は貴女も一緒ですよね、行きましょうよ」

と私は言うのだけど、彼女、それを聴くとヘヘッ、とまた笑って、

「駄目よ。あんたは次の授業には行かないの。あんたあたしを、あたしが掴んでるこの手を振りほどける?出来ないでしょう、あんたはそんな乱暴なことはできないわよね。あんたは勇気もないし、あんたは淋しいの。だからあんたはあたしをふりほどけないのよ。あたしはイシヅキみたいにカノジョの話をしたりしないわ。あたしあんたの話を聞いてあげる。あたしあんたが気に入ったわ。あんたの見た目は最低だけどね。あんたのウジウジしてるところも嫌い。でもあんたが今こうして一人ぼっちなところだけは気に入ったの。あんた、あたしについてくれば良い。見た目はあたしが整えてあげるわ。そうすれば多少マシにはなるでしょう。あんた、これからずっとあたしと一緒に居なさい。少なくとも、次のしょうもない授業なんてサボれば良いの。あたしと一緒にね。大丈夫、安心してサボれば良いわ。と言うよりあたしがあんたを行かせない。三限がはじまる時間まであたしあんたを離さないわ。どうしても三限に出たいっていうなら止めないわ、あたしの手をふりほどいて次の教室に向かいなさい。そのときはあたしにふたたび話しかけないでね、あたしもあんたを無視するわ」

「滅茶苦茶なことを、仰るんですね」

彼女は私の言葉を聞き流して、私の手を掴んだまま、もう片方の手で髪をかき上げた。彼女のピアスが眩しく光った。

 時計を見ると十三時三分前だった。多くの学生は既に慌ただしく出ていった。私と彼女はそれきり黙りこんだ。私は何も言えなかった。椅子に座ったまま硬直して、私は彼女の手を振りほどけず、振りほどこうともしなかった。彼女は私の手を掴んだまま、私と目を合わせなかった。

 そのまま長いこと経った。五分経った。(長い五分だった。) 彼女はふと時計に目をやると、私の手を離して、

「三限は始まってるわね。あんた遅刻して行くの?」

「……いえ、遅刻して教室に入って、教室じゅうの人から見られるようなことが、僕は苦手だから、今日は、良いです。それにそもそも、貴女が僕の手を掴んで、」

「じゃあ今は暇なのね」

「……四限までは暇です」

「そう、そしたら」、彼女は言い、続けて、「しばらく外に出ましょうか」

「でも僕はまだ昼ごはん食べられてないですよ、ほらこんなに残ってて、」

「良いから。あんたはあたしについてくればいいの。食器もプレートも片付けないで置いておけばいいわ。行くわよ」

「でも、」

「でももムカデもないの。黙ってあたしについてきなさい。……いや、黙らなくても良いわ、つまりね、あたしのいうとおりにあんたはしていれば良いの。それでたくさん話をしましょう。あんたの話をたくさん聞かせて。それ以外はぜんぶあたしの言う通りにして」

反抗する気力もなかった。私は、頑丈な首輪を嵌められた鬱病の大型犬のように彼女の後ろをついていった。
 


 しばらく外に出ましょう、と彼女は言っていたから、私はほんの散歩のつもりでついていって、四限には出るつもりでいたのだけれど、出ずに終わった。そのまま彼女との逃避行が始まったのだ。そのはじまりのことをあなたに詳しく教えてあげよう。
 

 

 学食を出ると晴れた六月の昼だった。学食に入ったときと同じだ。最近は晴れた六月が続いている。気持ちのいい初夏だから、大学の樹々も青く繁って散歩にはちょうど良い。

 私が通っていた大学には小さな川が流れていた。(敷地の広い大学だからそういうことがある。たとえば川のほかにも牧場がある。牧場に行けば牛も居る。) 川の周りにはゆるやかに芝生が広がって、休み時間の大学生や観光客、幼稚園生(なんと大学のなかに幼稚園もあるのだ) の憩いの場所になっている。私はこの憩いの場所の近くを通り過ぎるばかりで、この中に憩ったことなど一度もなかった。ひとりで憩ってもどうしようもない。ひとりでここで憩おうとしても周りには友達同士やカップルがたくさん居て耐えがたい。誰も彼もが楽しそうに見える。私一人で入ったところで周りの目が気になって、憩うどころでないだろうから、これまでに足を踏み入れることがなかった、そんな場所に、彼女に連れられるがまま、やって来た。

 川沿いのベンチに私と彼女は腰掛けた。水のせせらぐ音が聞こえる。とおくで男子大学生三人組がフリスビーを投げてはしゃいでいる。川の向かい側では数人の幼稚園児が保母に見守られながら遊んでいる。

「ここにはよく来るんですか」

「いいえ」

「気持ちの良い場所ですよね」

「そうね」

「僕はここでこうやって休むのは初めてなんですよ、お恥ずかしいことですが」

「そうでしょうね」

「……僕は、人とベンチに並んで座って、静かに、話したり話さなかったりすることを、のどかなことを、してみたかったんです」

「イシヅキとはしなかったの」

「石月とは、ふたりで酒を飲みに行くように仲良くなったのが、秋ごろのことだったから、今みたいな時期にここで、つまりその、ここは過ごすには今くらいの時期がいちばん良いと思うんだけど、そんなことは、……要するに、しなかったです」

「へえ」

 風が吹いて彼女の髪が揺れた。フリスビーを後ろに取り損ねた大学生が走って取りに行った。

 川の向かいでは幼稚園児たちがキャアキャアと黄色い声で跳ね回っている。そのうちのひとりがおぼつかない足取りで川へ向かって駆けるのを、保母が危ないよ、と声をかけ、止める。別の幼稚園児がバッタさんだ、と声を上げ、捕まえようとしている。

「のどかですね」

「そうね」

「……僕はまた何か貴女の気に障るようなことをしましたか」

「いいえ。……すこし考えごとをしていたの。今も少し悩んでる。ちょっとだけ静かにしていて。ごめんね」

「ええ、構いませんけど」

 バッタさんだ、と言った幼稚園児がバッタを捕まえようと駆け回っては屈みこみを繰り返している。なかなか捕まえられないらしい。と、そこに、別の幼稚園児が現れて、彼もまたバッタを追いはじめる。二人してバッタを追いかけて、そうして後から来た園児が先にバッタを捕まえた。

「決めたわ。……ねえ、あんたの学生証を見せて」

「僕の学生証ですか?」

「そうよ。ほら、出して」

私は彼女に言われるがまま学生証を取り出して、彼女に渡した。(電子マネー機能のついたカード型の、プラスチックの学生証だ。) バッタを捕まえ損ねた園児がバッタを捕まえた園児に、それちょーだい、と言っている。対してバッタを捕まえた園児は、これぼくのだよ、と言って譲らない。ちょーだい、ちょーだい。いやだよ、いやだよ。それが何度か繰り返される。

「学生証の写真だと、」と彼女は言い、続けて、「学生証の写真だとあんたも髭をちゃんと剃ってたのね」

「そりゃまあ、その頃は僕もまだ、若かったから」

 バッタを捕まえ損ねた園児は繰り返される意味のない問答にしびれを切らし、実力行使と言わんばかりに、力づくでバッタを奪い取ろうとする。もちろん奪われる側もただでは渡そうとしない。バッタを握りしめ体を振るい、必死に抵抗する。バッタちょうだいよ、やめてよ、と言いながら二人の園児がもみ合っている。そんな喧嘩に気が付いた保母が、二人の園児を引き離しにかかる。喧嘩する園児とそれを引き離そうとする保母に、そこにいた園児のほとんどが注目する。

 そんななか、ある一人の園児だけが喧嘩には目もくれず、こちらをじっと見つめている。

「高校生のころの写真?」

「そうです、大学入試のときに撮ったのを、そのまま学生証の登録に使いまわしたやつです」

「そう。」

風が吹いて彼女の髪が揺れる。ピアスに日が当たって銀色に光る。

一人の幼稚園児がこちらを見ている。

「じゃあ、これ折っちゃうわね」

 やめなさい、と保母が言う。喧嘩しないの。どうしたの?

「おっちゃう?」

 一人の幼稚園児がこちらを見ている。

「そう、折っちゃうの」

そう言うが早いか、突然、彼女は私の学生証をパキッ、と二つに折ってしまった。私の学生証はまっぷたつに割れた。

 驚いて、私はしばらく口を利けなかった。

 川の向かいでは保母に引き離された園児がふたりして泣いている。保母はふたりから事情を聞こうとするが、バッタを奪おうとした園児が大泣きしていてしばらく喋れそうにないことを見て取るや否や、彼女はもう片方の園児から話を聞く。バッタを握りしめ、しゃくりあげながら、あのね、ぼくのバッタ取ろうとしたの、と彼は保母に告げている。あのね、ぼくがつかまえたバッタ、取ろうとしたの。

 一人の園児がこちらを見つめている。私はことばを取り戻す。

「なんで、どうして僕の学生証を折っちゃったんですか。何やってるんですか」

「良いのよ、こんなもの。騒ぐようなことじゃないわ、捨てるわね」

そう言って彼女は私の学生証を川へと投げ捨てた。ふたたび私は絶句した。

 彼女が学生証を川へ投げ捨てるのを目撃するや否や、私たちを見つめていた園児はびっくりしたように目を見開いた。口まであんぐり開けていた。それからすぐに正気付き、立ち上がると、保母のほうへと駆けていった。保母の袖を引いて園児は言う。あのね、あのひとね、ごみを捨てたよ。川にね、ごみを捨てたよ。だが保母は喧嘩した園児の事情聴取と仲裁に忙しく、余計な園児を相手取る余裕がない。ちょっと待っててね、と言ったきり、喧嘩した二人に向き直る。

 私は捨てられた学生証を川から拾い上げるために立ち上がろうとしたが、彼女は私の腕を掴んで、引き留める。立ち上がれずに、私は言う。

「どういうつもりなんですか、一体貴女は。僕の、……僕の学生証が」

「そうキャンキャン騒がないで、みっともないわよ。小さい子供みたいに騒ぐのね。やめなさいな。あんた図体ばかり大きくてほんとうに小心者なのね。」

「そういう話じゃないでしょう、人の学生証を折って捨てるなんて、」

「じゃああんたもあたしの学生証を折って捨てれば良いわ」

彼女は財布から学生証を取り出すと、それを私に手渡した。

「はい、どうぞ」

わけがわからなくて、彼女の学生証を持ったまま、私は彼女の顔を見つめていた。

「ほら、あたしのも折っていいわよ。それで川に捨てて」

 彼女の瞳に日が差して、真っ黒だと思っていたその瞳は、日が差すと明るい焦げ茶色をしている。

 先ほどの園児は保母に話を聞いてもらえないことを理解すると、またくるりとこちらへ向き直って駆けてくる。そうして川へと手を伸ばし、流れ損なって澱みに浮いている私の学生証の片割れを拾い上げる。

 喧嘩をしていた児童のもう片方が泣き止んで、鼻をすすりながら保母に言う。あのね、ぼくが取ろうとしてたバッタなの。でも、さきに取っちゃって、くれなかったの。

「なにマゴマゴしているの。あたしの学生証をあんたが折るのよ」

「でも、僕は、もう、訳がわからないですよ、学生証を折られて、こんどは僕が貴女のを折るとか、そういう問題じゃないと思うんです」

「いいからあたしの言うとおりにして。」

川から私の学生証を拾い上げた園児はそれを持ってふたたび保母のもとへと駆けていく。せんせえ、ほら、ごみ捨ててたんだよ。このごみ。ほら。みて。保母はまた面倒くさそうにちょっと待っててね、と言うが、園児が持っている私の学生証の片割れに目を留めると、にわかに興味を引かれたようで、しげしげとそれを見つめる。

「じれったいわね、何を悩んでるの。あたしが良い、って言ってるんだからあんたは黙って折ればいいのよ」

「でも、僕は、」

園児が保母に言う。あのおねえさんがこれ、捨てたの。川にね、投げたの。園児が指さす私たちを、保母は疑るような目で見る。

「もう一度言うわね。私の学生証を、折りなさい」

「でも、」

保母と園児がこちらを見ている。

「折りなさい。」

どこかでものが割れる音がする。

「はやく折って」

川にね、ごみを捨てちゃだめなんだよね、せんせえ。

「お願いだから」

 私は彼女の学生証をふたつに折った。

「良いわ。そのままふたつとも川に投げて」

私は彼女の学生証を川に投げた。

「偉いわ。あんた最高ね。……さあ、それじゃあ行くわよ」

彼女はニコニコしながらベンチを立って、呆けたようにしている私の手首を掴み、私を立たせて、それから私たちは、いや、彼女と、彼女に手を引かれる私は、大学を、後にした。

 後ろからあの園児の声が聞こえる。ほら、また捨てたよ!せんせえ見てた?あのひとたち、また川に、ごみを投げたよ……。

 

 

 大学の門を抜けた。早足の彼女についていきながら私は訊く。

「どうして学生証を折ったんですか」

「あんただってあたしのを折ったでしょう」

「どこへ行くんですか」

「どこにも行かないために行くのよ、目的地なんて無いわ」

「目的地もなくさまようんですか」

「あんた野暮ね。そのとおりよ」

「そんなの、最後には破滅しかないじゃないですか」

「遅かれ早かれ人は骨よ。あんたまた大学に戻りたい?あたしは戻りたくない。」

「でも、」

「あんた、」と言って彼女は足を止め、私の方へと向き直り、続ける。往来だから人の目が集まって、私はそれを恥ずかしく思う。「あんたあたしに、ついてきてくれる?あたしはあんたにどこまでもついてきてほしい。あたしの、スローモーションの投身自殺みたいな、そんな逃避行に、ひとりぼっちのあんたについてきてほしいの。ねえ答えて。あんた、あたしについてきてくれる?」

「すると、……するとつまり、僕らこれから逃避行するんですか!」

「いまさら気がついたの!」(彼女はほんとうに驚いたような顔をした。) 「あんた鈍いのね。びっくりした。そうよ、逃避行するの。全部投げ捨てて、逃避行するのよ。あたしたちふたりで、どこまでも逃げるのよ。」

「逃避行だなんて、そんな、」

「あたしの学生証折ったうえに川に捨てたあんたが今さら何言ってんの。ついてきてくれるわね?」

「でも、」

「口ごたえしないで。ついてきなさい」

彼女はふたたび私の手首を掴んで歩き出した。私は子供のように手を引かれて歩くのが恥ずかしくて、

「ついていきます。ついていきますから、どうかそうやって僕の手を引いて歩くのをよしてくれませんか」

と言った。それを聞くと彼女はふたたび足を止め、振り向いて、

「良かった。ほんとうはね、あたしあんたに断られたらどうしようと思ってたの」

と言って笑い、私の手を引いたまま歩き続けた。
 

 

  *

 そうして彼女と私の逃避行が始まった。だが、その始まりは『逃避行』という言葉が一般に持つ繊細な美しさからはほど遠いものだった。ほんとうに、ほとんど美しい調子ではなかった。というのも、逃避行の一歩を踏み出した私たちは、まず、最寄りの駅へと向かった、とこう行くのが自然なうつくしい逃避行の流れで、何ならもっとうつくしく描写するならこれから私がこの章でおこなう記述はすべて不要だろう。彼女と学生証を互いに折って、その次の瞬間にははやくも電車内、それも空いた車両のボックスシートに向かい合わせに座っている、これがいちばんうつくしい。(何なら学生証を互いに折るあの瞬間を神聖な儀式のように描写することだって可能だった。) 小説のような美学に則って、不必要な描写をあらかた省き、彼女と私、ひたすらに逃避する、その逃避のあいまにすこし話して、黙り込み、電車に揺られ、ふたりなに思うとなくぼんやりと車窓を眺める、私たち、どこを目指しているのかわからない。あるいはもう、この電車は私たちの死に向かってひた走っているのかもしれなくて、けれども、たといそれでも、私は構わない。ふたりで死ねるならば、こんなやるせない世の中から逃避できるなら、それがいちばん幸せでしょう……、なんて物思いに沈み、西陽のなか電車は揺れて、みたいなのがうつくしい逃避行なのだろう。だがあいにく、この文章の、逃避行の主人公はどうやらこの私、どうしようもない男子大学生であった私と、それとよくわからない彼女、私は彼女と、今日唐突に学食でご飯をご一緒して、その流れでこれまた唐突に逃避行することになったのだが、そんな私と彼女の、それもこんな唐突な逃避行のスタートに、うつくしさなんてかけらもあるはずは無いのだ。……もっと言わせてもらうなら、うつくしい逃避行をしている彼ら、(別の小説に出てくるような彼らのことだ、)彼らだって絶対に服の準備やら何やら、そんな瑣末を、あなたの見ていないところで、語り手自身意図的に省いて、そうやってなんとか逃避行をうつくしく見せているだけに過ぎない。あなたにはわかってほしい。逃避行なんて本来、全くうつくしいものでも何でもない。たとえば彼女と私の逃避行は、まず銀行に赴き現金をおろすところから始まったのだ。

 ……なにもあなたにいじわるしたくてこんな章を挟むわけではない。ただ私たちの逃避行にはそういった夾雑物のようなステップが間々あった。逃避行について書くなら、私はそれをも(序盤くらいは)伝えなければならないと思う。だから私は今からそのことについて書いてあげよう。なに、ほんの短く済ませて駅へ向かうから、我慢して読んでほしい。

 

 

 四限までのほんの散歩のつもりで彼女についていったのに、私は私の人生を丸ごと彼女へと投げ出すことになった。私は呆然と、彼女に連れられるがまま街を横切り、そうして私たちは一軒の銀行の前で立ち止まった。(と言うより彼女が立ち止まったので私も立ち止まった。)

「貯金を全額引き出して。ぜんぶおろせないなら上限いっぱいまでで良いわ。」

そう言って彼女は私をATMへと押しやって、彼女自身も別のATMを操作しはじめた。当然私には引き出し限度に引っかかるほどの預金はないから、(バイトもせずに仕送りとお年玉貯金の切り崩しで生きていたのだ、)彼女に言われたとおりに預金をぜんぶ引き出して、ぜんぶで九万八千円あった。

「いくらあったの。貸して」

私は彼女に九万八千円を手渡した。彼女は、少ないわね、と言ってそれを封筒のなかにしまった。彼女の引き出した現金が入った分厚い封筒に私の現金が一緒くたに混ざった。

 彼女は言う。

「これで、このお金であたしたちふたりどこまでも逃げるの。これはもうあんたのお金でもあたしのお金でもなくてあたしたちのお金なのよ、わかるわね?誰がどれだけ出資したかなんて関係なくて、このお金で私たちは逃避行する、その、逃走資金を、あたしがあんたのぶんまで持っていてあげるわ。それで良い?あんたあたしを信じてくれる?」

私は何度もうなずいた。私には彼女を肯定する以外の選択肢なんて無いのだ。学食と学生証のくだりでそのことはよくわかっていた。だから私は彼女のいうとおりにしようと、彼女に抵抗する気力なんてもうないと伝えるために、何度も何度もうなずいた。

 何度も頷く私を見て彼女は「赤べこみたいね」と言い、それから、

「じゃあ、行きましょう」

と言って、またも私の手首を掴んで歩き出し、私たちは駅へと向かった。

 今でも私は彼女に握られた手首の感触を思い出せる。

 

 

 彼女は逃げ出したいと言っていた。そんな彼女に巻き込まれ、引きずられるようにして私も一緒に逃げ出した。彼女がそうであったように、私もはやく逃げ出したかった。ただ、彼女の目的は日常からの逃避にあったのだが、私は日常からも、彼女からも逃げ出したかった。日常から逃げ出すことは彼女のおかげでうまくいった。だが今度は、私は彼女に捕まってしまったのだ。彼女と逃げ出して彼女からは逃げ出せなかった話を、これからあなたに聴かせてあげよう。

 


 私たちは駅に着いた。特急を待つ駅のホームで彼女は随分とご機嫌だった。

「ねえ、これからあたしたち何処へでも行けるのよ。あんたわかる?あたしね、ずっと逃げ出したかったの。それもぜんぶ投げ出すようにして。キャンバスからカッターナイフで切り取るみたいに、背景なんか置き去りにして、あたしどこかに行っちまいたかったのよ。ずっとそんなことをしたかった。だからいまあたし嬉しいの。あたしたち、何処へでも行けるのよ。この封筒のお金が尽きない限りね。お金を翼にして飛ぶみたい。調子に乗って飛んでいって、そうして最後は死ぬんだわ。イカロスみたいね。いいえ、イカロスじゃないかもしれない。よくわからないの。あたし何を言いたいんだろう。……ねえ、あたしが今どれくらい幸せか、きっとあんたにはわからないでしょうね」

「いや、僕にだって少しは理解できますよ。貴女がいまどれくらい嬉しいかなんて、僕には知りようもないですが、少なくとも僕にだって、貴女と同じように、日常から逃げ出したいと思うことは、これまでに数えきれないほどありましたから。」

「……じゃあそんな日常からの逃避が叶ったのに、どうしてあんたはしょぼくれた犬みたいな調子なの?せっかく逃げ出せたってのに、耳を伏せて尻尾を垂らして、ずいぶんと憂鬱そうなのね。あたしが手を離したらあんたそのまま地面にへたりこんじまいそうだわ」

 彼女と私が乗る予定の特急列車が来るまでにはあと七分ある。彼女は私の手首を握っている。私たちはどうやらほんとうに逃避行をするらしい。

 私は先ほどから怖くてたまらなかった。彼女は本気で、『ほんものの』逃避行を望んでいるようで、そうしてそんな『ほんものの』逃避行の最後には破滅しかないのだから、私の恐怖は間違っていないだろう。私は破滅をしたくはなかった。(破滅よりは日常のほうが幾分マシだ。)彼女がイカれているのだ。

 私たちが乗る特急列車の到着時刻は刻一刻と迫っている。彼女は私の手首を握って嬉しそうにしている。私には彼女の手を無理矢理振りほどくようなことはできない。

「逃避行よ?駆け落ちみたいに逃げるのよ?もっと嬉しそうにしなさいよ」

 私は彼女からの最後の逃避を試みた。手を振りほどけないなら言葉で説得するほかない。だから私は彼女に言った。

「実を言うとね、僕はそんな、逃避行をしたくはないんですよ。貴女わかりますか、僕はすべて投げ出してまで逃避行をしたくはないんです。もちろん、日常からは逃げ出したい。そう思っています。それは貴女と同じです。実際、僕も一度、日々の生活がたまらなくなって、一週間ほど大学をさぼって、そうして一人で旅をしたことがあります。でも僕は貴女ほど過激ではないから、日常を投げ出すような心地で一週間、旅をして、それから平然と戻ってきて、次の日は一限から講義に出ました。その学期はちゃんと単位を全部修得して、……要するに、僕はその程度なんです。僕はそんな、息抜きのような、逃避行からは程遠いような些細な旅行、そんなガス抜きができれば、それで十分なんです。

 僕だって日常が嫌いです。いいえ、大嫌いです。可能ならすべて投げ出したい、と今日までそう思っていました。でも、貴女のために逃避行が真に迫った今になってやっと気が付きました。僕は、日常そのものが無くなってしまうことが、日常から逃げ出さないことよりも、もっと嫌なようだ。日常をひたすらに嫌悪しながらも、退屈で孤独な、どうしようもないこんな日常のうちに属しながらも、ただ単に、何もせず、日常に文句だけを言い続けたかった。現にこうして貴女に連れ去られようとしてそれがはっきりしました。僕は貴女のようにすべてを投げ出して心底うれしい心地にはなれないようです。帰りたい。僕を日常に帰してくれませんか。貴女が僕を離してくれないから僕は貴女についていっているだけで、貴女に掴まれた腕が、僕の枷になっているだけで、貴女が僕に愛想を尽かして手を離せば、僕は平然と日常に戻るでしょう。日常に戻って、日常に文句を言いながら、すべて投げ出すことに憧れながら、日常を送るんです。

 臆病なんです。どういうわけだかわからないけど、貴女は僕を気に入ってくれたみたいで、しかし僕はあなたの好意に値する人間ではない。それに、貴女は僕を無理やりに逃避行に巻き込もうとして、それを僕は、はっきり言います、すこし迷惑にも感じているんだ。……ねえ、僕を軽蔑しましたか?軽蔑しないはずがないでしょう。僕を放してくれませんか。僕は未だ僕の日常に戻れるところに居るから。いや、貴女だってそうだ。貴女も日常に戻れるところに未だ居ます。ふたりで戻りませんか?学生証は教務に言って発行し直してもらって、僕ら今からでも遅くはないです、大学に戻って、そうして僕たち友達になりましょう。教室や学食で会えばお互いに日常についての文句を言い合って、とおくに逃げてしまいたいね、なんて叶わない望みを言い合ったりして、そうやって、日々をやり過ごして生きてゆきましょう。あしたのロシア文学の講義はソローキンの作家論をやるんですよ。先週に先生がそう言っていたでしょう、覚えていますか。それを聞いて僕は今週の講義をすこし楽しみにしていたんです。貴女も、いや、貴女がソローキンを読んだことがあるか知らないけど、講義を受ければソローキンを読んでみたいと思うかもしれないですよ。

 僕はあなたと、日々を、凡庸な日々を過ごしたいです。今みたいにこうやって破滅に向かっていく仕方ではなくて、つまり、その、全部投げ出すことに憧れながらも、そんな逃避は決してせずに、日々の些細なことに喜んだり感じ入るようにして過ごしたいんです。あるいはときどき、息抜きのように旅行をしましょう。それくらいだったら僕だっていくらでも付き合いますから。あなたはそんな日々は気に入らないでしょうけど、でも、そんな凡庸な日常だって、やってみれば案外楽しいことだってあるかもしれないですよ。僕らまだ間に合います。戻りませんか。いまから大学に、日常に、戻りませんか?……ねえ、僕を軽蔑したでしょう。僕は貴女の逃避行の相手として、そもそも全くふさわしくないんですよ。どうか答えてください。いまから一緒に大学へ戻りませんか。それか僕のことをどうか、放してくれませんか。」

 駅のアナウンスが入る。あと三分ほどで特急列車がホームに着くらしい。アナウンスが終わるのを待って彼女は口を開く。

「軽蔑もなにも、」と彼女は言い、続ける。(先程よりも更に嬉しそうにして。) 「最初っからあたし、あんたにはなんにも、なにひとつ期待しちゃいないのよ。あんたはあたしを誤解しているのね。ひと目見たときからあんたがどうしようもない愚図だってあたし、判ってたのよ。無精髭のヨレヨレのシャツの男子大学生に、なにを期待出来るって言うの?軽蔑はもう充分済ませているわ。あたしがあんたの無精髭を、服装を、ウジウジと腐りきった性根を、凡庸な日々に文句言いながらなぁんにもしやしない無気力さを、気にいるとでも思った?じゅうぶん軽蔑してるわよ。あたしがあんたを尊敬しているとでも思った?だとしたら思い上がりも甚だしいわ」

「じゃあ、」と、私は、彼女が嬉しそうにそう言うのを知覚してほとんど絶望するように、だが一縷の望み、縋るようにして、尋ねる。「そんな軽蔑に値する僕をわざわざ連れていくことないでしょう。僕を、放してくれますか」

「いいえ放さないわ!あたしあんたを絶対に放さない!(彼女はほとんど叫ぶような調子だった。)もともと放すつもりはなかったけど、ますます放さないわ。なんでかわかる?わかんないでしょう。あんたあたしをなにひとつわかっていないみたいね。あんたは野暮で、鈍くて、まったく救われない人間だけど、あたしそれが嬉しいの。あたしね、あんたのことがますます気に入った。あんたのさっきの話を聞いて、あたしの逃避行の相手はあんたで良いと心底そう思ったの。

 あんたわかる?あんたのさっきの露悪的な話、あんた自身がいかに凡庸かを話す、そのしかたがあたしにどう思わせたのか、わかっている?さっきの話であたしが愛想を尽かして放してくれると思ったんでしょう。あんたまるきり逆の効果を生んだのよ。あたしますますあんたを気に入った。あんたのそのみっともなさ、鼻につく小心者、情けない小市民っぷりが、あたしね、大っ嫌いで、でも、それがそのまま大好きなの。惨めなあんたをあたし、今すぐにでも抱きしめたいと思ったわ。惨めなあんたの惨めさがあたしそのまま愛しいの。矛盾してるみたいだけど、これがあたしの正直なところね。アンヴィバレント、って言えば格好がついて良いかもしれない。あんたを軽蔑すればするほど、あたしあんたが気に入るの。

 あたしあんたが大っ嫌いだからあんたを無理やり連れていくし、あたしあんたが大好きだからずっとそばから放さないわ。あんたなんか大嫌い。だからあたしについてきて。あたしあんたを愛しているわ。大嫌いで大好きで、あたしあんたを気に入ったの。もう引き返せないまで遠くに連れていってあげるわね。どこまでもあんたの腕を掴んで連れていくの。あたしにむりやり連れていかれて、あんたは日常と仲違いして、それであんたには帰る場所がなくなって、そしたらきっと、今度はあたしに縋るようについてくるんだわ。最低ね。あんたに縋られるなんてぞっとする。でもそのときはあたし、あんたをもっと愛おしく思うんでしょうね。

 どこまでもあたしについてきなさいね。あたしがあんたの手を引っ張っていってあげる。あたしあんたを愛しているわ。気に入ってどうしようもないの。いつか無精髭も剃ってあげるわね。服も見繕ってあげるわ。……いいえ、違うわ。あたしね、あんたのものを、奪っていくの。みっともない無精髭も、襟のよれた服も、ろくに整えちゃいない髪の毛も。履き古したスニーカーも、メッキがはがれつつあるメガネも。そんなものぜんぶ、あんたからちぎり取って捨ててあげる。あんたに残るのはあんたの思い出だけよ。だからあんた、あたしについてきなさいね。あんたを連れて、あんたから日常の匂いのついたものを捨て去ってあげるから、あんたはあたしに思い出話でもしなさいね。あたし聴いてあげるから。あたしね、あんたを、絶対に逃がさないわ。あんたあたしのために死んで。あんたあたしのために生きて。あたしたち、これから死にに行くのよ。一緒に死んでね。一緒に死んでくれる?」

 私はもう、何の返事もできなかった。彼女がまくしたてることはまったく支離滅裂だったが、少なくとも私を放してはくれないことくらいは理解できた。彼女は私の手首をずっと掴んだままで、冷たいその手は、私の体温を、気力を、全て奪い去るようだった。ちょうど特急列車がホームに滑り込んで、私は彼女に引かれるがまま、特急列車に乗り込んだ……。

 私は彼女から逃げ出すことを諦めた。

 

 

 畢竟、彼女は私を手放してはくれなかったのだ。今後私は彼女に抵抗もせずについていくことになる。あなたはそれを納得してくれるだろうか。私の急な無抵抗をあなたは納得してくれるだろうか。或いは納得してくれないかもしれない。だが、そんなこと、私の知ったことではない。ある種の事実として私は、彼女についていかざるを得なかったのだ。
 じき彼女は私の手を引くことすらしなくなる。いや、私が彼女に手を差し出すようになる。それまではどうかあなた、あなたに私たちの逃避行を読んでほしい。或いはあなたは彼女を嫌な女だと思っているのかもしれない。だがもしそうだとすれば、それはあまりに一面的な評価だと私は思う。彼女は気が狂ってはいたが、と言うのもつまり、こうやって無関係な私を逃避行に巻き込んで連れ出していく程度には気が狂ってはいたのだが、彼女は、ねえ、……いや、止めよう。私がこれから物語ることを、あなたは単に読み続けてくれれば良い。私はあなたに物語ってあげよう。じき私は彼女を好きになる。好きになる、という表現は適切ではないかもしれないが、……どうでも良いや。私が彼女を好きになったように、あなたも彼女を気に入ってくれれば良いと思う。とりあえずは私の話を進めたい。

 

 

 特急列車に乗った私たちは指定席に座った。二人がけの席の窓際に彼女は私を押し込んで、彼女は通路側に腰掛けた。

 特急列車は私たちの街を置き去りにして加速していく。もはやどうにも戻らない日常がとおく後ろに取り残されて、すぐ見覚えのない景色だった。見覚えのない景色を過ぎれば、また見覚えのない景色がある。これから先ずっとそんな調子で進んでいくのだと思うと、私はどうにも心細くて胃が痛くなる思いだった。(そういえば、彼女と学生証を互いに折ったあの川のほとりのベンチに、私はリュックサックを置き去りにしてきた。大して高いものではないが、高校時代から気に入って大学の一人暮らしにまで持ってきた、お気に入りの黒いリュックだ。今もまだベンチの横に置きっぱなしにしてあるだろうか。それとも誰かが落とし物として届けただろうか。いちばん良いのはリュックを見つけた誰かがそれを気に入って、そのまま持ち去ってくれることだと思った。)

 彼女が車内販売の売り子を呼び止め、缶ビールを二本買った。私たちの旅費を入れた封筒から千円札を一枚抜き出し、それで支払う。

「もう酒を飲むんですか、それも二本も」

「そうよ、そんで一本はあんたのぶん。祝杯を上げましょうね。ビールで良かった?」

「……ついでに何かおつまみでもあれば嬉しかったですね」

「それもそうね、忘れてた。車内販売でものを買うのはあたし初めてだったの。緊張したわ。次に売りに来たときに買いましょう」

「車内販売には緊張して、学食で僕に話しかけたときは緊張しなかったんですか」

「どう思う?……ねえ、良いからとりあえず飲みましょうよ」

 それで私たちは乾杯した。私も彼女も、カンパイ、と声には出さなかった。プルタブを開け、しずかに缶を触れあわせ、それから一口目を飲んだ。

 車内は空いていた。私たちを除けばこの車両に乗客は三人しかいなかった。もしかしたら四人か五人くらいは居たかもしれない。私から見えたのは三人だけで、いずれにせよ車内は空いていた。(実際、彼らが何人居ようがどうだって良い。この話に彼らは一切関係してこないのだから。)

「それで、話を戻すけれど」、と私は言い、ビールをもう一口飲んで、続ける。「僕に学食でああやって声をかけてきたとき、貴女はどう思っていたんですか」

「まだ秘密よ」

「僕は知りたいです」

「教えないわ」

「でも、」

「ねえ、」と彼女は言って私を睨み、「あんた知らないだろうから教えてあげるけど、そういうことはもっと親しくなった適切な時分に訊くものなのよ。それかあたしが話したくなったときに勝手に話すわ。今はそのどちらでもないの。あたしが話を逸らしたり言葉を濁した時点であんたに察して欲しかったけど、駄目みたいだからはっきり言うわね。気安くあたしの内面に立ち入ろうとしないで。とくにあのときあたしがどう思ってたかなんてそんなどうしようもない野暮なこと、今後金輪際訊かないで。全然親しくもないあんたにあたしの感情なんて絶対教えたくないの」

急に豹変したように彼女は言った。(私には彼女の感情の機微がまったくわからなかったのだ。)私が取り繕うようにして、

「でも、……ねえ、……僕たち、これから一緒に逃避行する仲なんですよ!」

と言うと、彼女は冷たい猫のように、

「この逃避行の資金が尽きるまでにほんの少しでもあんたと親しくなれることを、あたし祈ってるわ」

と言った。

「僕も、そうなれば良いなって、思います」

「そう、それは良かった」

 それきり私たちは黙り込んだ。せめて車内が空いていることが救いだった。恥ずかしさで私は顔が真っ赤になった。(学食で彼女と出会ったときのように。) 私はビールを口に含んだが、羞恥ばかり大きくてもう飲めたものではなかった。

 列車は次の停車駅を告げて減速し、止まった。乗客の乗り降りは無かった。ふたたび走り出した列車は日常をますます遠く置き去りにした。

 

 

 彼女に話しかけられてからまだ数時間しか経っていないのに、私はドッと疲れてしまった。(私の置かれた状況もだいぶ変わってしまった。)

 彼女と私は黙り込んだままだった。私は車窓を眺めながらビールをチビチビ飲んでいて、飲み終わったころにふたたび車内販売がやって来た。彼女は売り子をふたたび呼び止め、ハイボールとスナック菓子を注文してから、「あんたは何にするの」と何事も無かったかのように私に訊いた。私は追加で酒を飲むような気分ではなくなっていたが、せっかく彼女が何事もなかったかのように振る舞ってくれたのだから、私も何事もなかったかのように、「レモンの缶チューハイをお願いします」と言った。逃避行資金の封筒から千円札を出して彼女が支払った。今度も黙って乾杯をした。

「こんどはおつまみ買ったけど、これで良かった?」

スナック菓子の袋を開けながら彼女は言う。そのまま彼女は、座席付属のテーブルの上に袋を置いた。

「ええ、ありがとうございます」

私がそう返事をすると彼女はスナック菓子を二つ、三つと食べてから、

「さっきからあたしたち、なんか退屈ね」

俯いてそう言い、またひとつそれを摘んだ。銀色のピアスが髪の隙間にかすかに見える。

「今日は僕にも貴女にも色々あって、疲れているから」

「まだ逃避行も一日目なのになんだか辛気臭いのね。……そうだ!(とここで彼女は私の方を向く、)景気づけに何かあんたの話をしてよ。あたしね、あんたの話を聴くのだけはそんなに嫌いじゃないから」

「僕の話ですか」

「そうよ!」

そう言って彼女はハイボールを飲む。あおるように飲んでいるから彼女の小さな喉仏の上下するようすがよく見える。白く華奢な首の内部にうごめくその器官は不釣り合いに思える。

 私は何を話すかすこし考えてから口にする。

「電車に乗るまえ、一週間大学をサボって旅行したことがある、って話をしたのは覚えていますか。そのときの話なんてどうでしょう」

「良いと思うわ。なるべく面白くなるように話してね。」

「ええ、努力します」

彼女の表情がすこしほころぶ。それを見て私も気分を取り戻す。

 私は話しはじめる。

「去年のちょうど今くらいの時期でした。まだ石月と仲良くなるまえで、つまり大学に入ってすこし経った、六月あたり、ちょうどそのころです。僕はもう大学に耐えられなくなりました。大学に居れば言わずもがな辛かったし、夜になれば息を吸うたびにまるで苦痛を吸っているような心地だった。

 何がそんなに辛かったの、と貴女は訊くでしょう。要するに僕はひとりぼっちだったんです。それがあの頃はたまらなく辛かった。いや、今だって僕はひとりぼっちなのですが、孤独に慣れきった今はまだマシです。大学に入学したばかりのころの、人並みに大学生活を送ることが出来ると信じていた挙句のひとりぼっちは、僕にはとりわけ辛かった。」

「今じゃあんたにはあたしが居るけどね」

「ありがとうございます。そう貴女が言ってくれるのが僕には心底嬉しいんです。……ほんとうですよ!」

「良いわ、続けて」

「ええ。

 高校までまるで華やかじゃなかった僕も、どうせ大学に入ってもなんにも有りゃしないさ、なんてうそぶいていた僕だけれど、心の底では或いは、なんて期待していたんですね。僕自身としてもそうだったし、僕の両親も祖父母もみんな、大学は楽しいところだ、なんて決まって言うものだから、それを聞いて知らず知らずのうちに、決して満たされることのない大学への期待を更に膨らませていたんです。……ねえ、ところで今思い出したんですが、入学を控えた僕に祖母がなんて言ったか、貴女知っていますか?彼女は言ったんです、『おまえは優しいから、大学で悪い女に引っかからないように気を付けなよ』って、そう言ったんです!それが今じゃこうですよ、貴女とこんな逃避行なんかしているんだから!まさか祖母も、僕が貴女ほどの悪女に捕まって了うとは想像だにしなかったでしょうにね!」

 これを聞いて彼女はクスクスと笑ってくれたものだから、私はしめた!と思い、話を続けた。

「それで、大学生活への期待のうちに僕は入学したわけです。今思えば新入生っていうのはずいぶんな厚遇を受けていたものですね。後悔先に立たず、なんて使い古された雑巾みたいな言い回しをしたくはないのですが、実際あのころは交友関係を広げる機会にたいへん恵まれていたわけです。それこそ大学の基礎クラスとか、一年生限定の運動会だとか、第二外国語のペアワークだって隣の人とある程度は会話するわけですし、部活やサークル団体だって新入生歓迎会をこれでもか、ってくらいやっていて、……そんな機会を、私はぜんぶフイにして、というのも僕は、人と話すのが、怖くて仕方なかった。今だって人と話すのは怖いけど(貴女は別ですよ、そもそも出会いからして唐突でしたからね!)、あの頃は人と話したりするのが、今よりももっと怖かった。それで私は、何やかんやあって、いや嘘です、何にもないままに、淋しさや辛さのうちにひとりぼっちの大学一年生六月を迎えたわけです。それこそ、全く、何もなかった。

 大学生活の孤独に僕がどれくらい絶望していたか、いくつか例を挙げて話すのが良いでしょう。たとえばあの頃、僕は信号機が憎かった。信号機が憎かった、なんて言っても何のことだかわからないでしょう。今から説明しますが、つまりね、これもまた僕の孤独に関わってくることなのだけど、大学に行けば、いや、大学の中だけではない、大学の行き帰りの路上にも、大学生が、大学生の集団がたくさんうじゃうじゃと居るわけです。貴女もご存知の通り、この街は(いや、もう『あの街』ですね)ほんとうに大学生だらけで嫌んなっちゃいますよね。それで、そんな不愉快な街に跋扈する彼らの合間を、僕は、どうやっても集団に混じれない僕は、ひとりぼっち、縫うようにして歩き去るわけですが、すれ違いざま彼らの会話が嫌でも耳に入るわけです。それは『このあとメシ食いに行こうぜ』だったり、或いは『サークルがほんとうに忙しくて』だったりするわけですが、そんな会話の断片が、ひとつひとつ、僕の心に、妙にキラキラとして鋭く突き刺さって、だって、貴女わかってくれますか、それは僕が望んでいた大学生活の断片でもあるわけだ!彼らが夕飯を共にしたりサークルに勤しんでいる一方で、僕はひとり冷凍食品を食べて眠るだけの生活なんだから、ああ!

 僕はね、彼らの会話を聴くのも、いわんや彼らの姿を見ることさえ耐えがたかった。あんな街では僕はまっすぐ前を向いて歩けやしないんです。だから僕は、僕の内面へと丸まっていくほかなくて、傷ついた心をいたわるように、俯いて、背中を丸めて歩きました。そうすれば大学生の集団を真っ正面から見ずにすむし、彼らの楽しそうな会話にだっていくらか耐えやすくって、しかし、そんな僕にも前を向くように強制する装置が路上にはたくさん置いてある。そう、信号機です。僕がどんなに打ちひしがれて俯いて街を歩いていようが、横断歩道に差し掛かれば信号機があって、信号機はこんな僕にも前を向くことを強制するんだ。前を見ろ、背筋を伸ばせ!……僕はそれが憎くて堪らなかった!せめて傷が浅くなるように、背中を丸めて俯いて歩く僕にすら、信号機は前を見て、赤では止まれ、青では渡れ、そう居丈高に命令する、その傲慢さが、僕には、たまらなく辛く思えたんです。もちろん今ではそんなことないですが、あの頃の僕はこういうわけで、信号機を心底憎んでいたんだ。貴女は僕を滑稽だと思いますか。しかし当時は切実だったんです。

 このころの僕と信号機を巡ってもう一つちょっとしたエピソードがあります。つまりね、僕は、淋しくて辛くてたまらない大学に向かうために、その日も家を出て歩いていたわけです。僕の家と大学のあいだには車線分離の大きな幹線道路があって、大学に行くためにはそこを渡らねばならないから、僕は赤信号を眺めながらぼうっ、と突っ立っていたわけです。それで、待っていれば信号なんて大抵いつかは変わるものだから、ご多分に漏れずその信号機も赤から青へと変わるわけですね。それを眺めながら、つまり、僕は、信号が赤から青に変わったのを目にしたにも関わらず、青信号を見ながらただ、突っ立っていたんです。信号が青に切り替わったにも関わらずですよ!僕はしばらくの間、ぼんやりと、青を見ながら、横断歩道を渡らずに、突っ立ったままでいた。と言うのもね、そのとき僕の内部では、信号の『青』と『横断可能』の意味作用の結びつきが分離しちまっていて、『青』が何を意味しているのか分からなくって、ゼブラにどうにも踏みだせなかったんだ。しばらくそうやって突っ立っていて、それから青と横断可能の意味作用の結びつきをハッと思い出し、急いで渡ろうとするのだけど、僕は渡りきれずに中州に取り残されちまった。一度で渡り切れるはずの横断歩道を意味もなく二回に分けて渡ったわけですね。へ、へ、へ!おかしいでしょう!あまりに馬鹿馬鹿しいことですが、そんなふうになってしまうくらい、当時の僕はどうかしていた」

「いいえ、あんた今でもどうかしてるわよ」

と彼女は口を挟んだ。彼女は続けて、

「ねえ、あんたわかってる?あんた一週間旅した話をするって言ってたのに、あんたが孤独だった話ばっかりしてんだから。あたしね、あんたの旅の話を聴きたいのよ。あんたがどれくらい淋しかったかとか、信号機をどう思ってたかとか、そんなことには見切りをつけて、そろそろ旅に出ても良い頃じゃない?」

私は彼女の言うことも尤もだと思い、続ける。

「たしかに貴女の言うとおりです!そろそろ旅を始めましょう!僕はね、僕の孤独をひとに聞いてもらおうとする段になると、言葉が溢れ出てきちまって、止まらなくなってしまうんだ。このことは石月にも悪い癖としてよく指摘されました。さあ貴女の言うとおり、旅の話に戻りましょうか。

 さて、旅の話に戻ると言っても、思い立ったその日に即旅行!とはいかないのが僕なんです。つまりね、孤独や講義の単調さに耐えきれなくなった僕は出奔を決め込んで、まず何をしたかと言えば、そう、旅先へ向かう飛行機の予約を取ったんです。みっともないことに僕は、時間割とにらめっこして、欠席してしまうと致命傷になりうるような講義を欠席せずにすむように日程を決め、飛行機を取り、そして大学から一週間(正確には五日とすこしですがね、)逃げて旅をして、ふたたび帰ってきたんだ。貴女からしてみればこんな旅、逃避のトの字にも満たない、ガス抜きにしか見えないでしょうが、あの頃の僕にとってはそうではなかった。大学を一週間サボって旅に出るなんてことは、仮令それが計画的な営みであったとしても、僕には重大な決断でした。大それた、日常との決別に思われた!」

 私たちを乗せた特急列車は暮れなずむ陽を浴び走り続ける。置き去りにされたあの街を眺めるようなとおい目の彼女に見つめられ、私はむかしの旅の話を続ける。

「飛行機の予約を完了した瞬間、僕は僕自身の心が言いようもなく軽くなるのを感じました!日常からの離反、決別、逃避行!あのときの僕にはその旅が大胆な逃避行のように思われて、心底うれしかったんです。これから僕は逃避行するんだ、しかもあと数日以内に!逃避行のさなかにはどんな心地がするんだろう、どんなに解き放たれて幸福に思えるんだろう。講義の途中で、或いは通学路で、先走ってそんなことを繰り返し想像しては、心をときめかせていました。

 こうなればもう、以前に僕を苛み続けた大学生の集団なんて気になりもしません。何故って、こいつらが日中、すし詰めの、息が詰まる大教室で退屈な講義を受けているそのあいだ、僕は日の光をいっぱいに浴びて逃避行をしているんだから!彼らが過ごすサークルも、彼らの晩飯も飲み会も何だ、僕なんて逃避行をするんだぞ!そんな気分だから、逃避行の二日前まで僕は、最高の気分でした。大学で僕が良い気分で過ごせていたのなんて、あの頃くらいのものでしょう。

 ところが、出発の前日にそんな素晴らしい気分は一転、地の底にまで落ちることになります。いや、とりわけ何があって、というわけではないのですが、要するに僕は旅の出発を翌日に控えて、旅の終わりをも先走って想像しちまったんです。それではなはだしく気落ちして、おかしいでしょう、旅に出る前から旅の終わりを考えてガッカリするなんて!でも僕はそういう性根の人間だから仕方がない。旅の前日、講義を受けながら僕は考えるわけです。明日からの逃避行の輝きが大きければ大きいほど、逃避行が楽しければ楽しいほど、私の日常の暗さや孤独がいやましに際立って、そんな光のような逃避行が終わり、またぞろ日常に帰ってくれば、希望に欠如したやるせない日々に一体僕はどうなってしまうのか、果たして生きる辛さに耐えられるのか、そんなふうに思い悩んで、意識を戻せば僕は講義室にいるわけですから、それでもう、耐えられなかった。大学生の集団も講義の退屈もこれ以上は御免だとでも言わんばかりに僕はその日、四限と五限を意味もなく放りだして帰りました。ただ座って講義を聴いているだけのことすら出来ないような心地でした。旅を翌日に控えて気分がおかしくなっていたんでしょうね。

 さて、ここからやっと僕が旅した話に入るわけですが、その前にすこしお酒を飲んでもいいですか。話し続けて喉が渇いてきたから」

「ええ、どうぞ。あとお菓子も食べなさいね。あんたの話は悪くないわよ、続けなさいね」

彼女はほとんど慈しむように私を見ていた。それが私にはたまらなく嬉しかった。

 私は缶チューハイを飲み、スナック菓子をいくつか食べ、もう一度缶チューハイを飲んでから、旅の話を続けた。

 


 ……さて、ここであなたに思い出してほしいのだが、私と彼女はいま、『ほんものの』逃避行をしている最中であった。大学も将来も何もかも投げ捨てて行く、目的地を欠いた、『ほんものの』逃避行の過程として私たちは特急列車に乗っていたのだった。そんな逃避行を書くにあたり、畢竟肝心なのは列車の中での私の物語ではなく、私たちの行く末、『ほんものの』逃避行の成り行きとその顛末ではなかろうか。少なくとも私はそう思う。だから私は話を本筋に戻したい。私の『にせものの』逃避行ではなく、彼女との『ほんものの』逃避行を物語ろうと思う。結局大学に戻ることになる私の一週間の逃避行など、所詮マガイモノ、日常のガス抜きでしかなかったのだから。

 私は彼女のことを語りたい。彼女のこと、彼女との逃避行について語りたい。だからあなたに語ってあげよう。(あなたは私の『にせものの』逃避行になぞ興味を持つ必要は全く無いのだ。)

 

 

「……それで僕は旅の仕上げを断念し、代わりにすこし療養所で休むことになりました。まったく元気だったのに、先生は私が旅を続けるのをどうしても許してくれなかった。それに、旅を途中で投げ出して休むのも、まるきり嫌ってわけではなくて、つまり海沿いの綺麗な処だったから、真っ白なカーテンがはためいて、真っ白なシーツ、清潔なベッドに身を起こせば、水平線が望めます。すこし窓に近づけば階段の下に砂浜が見えて、砂浜を二、三十歩もゆけば青い海です。患者は僕以外、誰も居ませんでした。

 考えごとしながら歩いていた僕のせいでもあったのに、先生はまるで先生自身ばかりが悪かったように言うんです。決して僕を責めようとはしなかった。滔々とくり返される詫びごとを、最初こそくすぐったいような嬉しいような心持ちで聴いていました。

『なんなら二日と言わず一週間、二週間でも居てくれれば良い、予後が急に悪くなったらいけないから。いやはや私のせいで心底申し訳ない……』、云々、先生は言い続けるから、僕はそのたびに、じき大学に戻らなければならないことを告げる。すると先生は目を丸くして、『ああ、そうだった、そうだった!いやはや学士様にかえすがえすもとんでもない失態を、この度は私の全き過失で……』、云々、とまた続く。しばらくは苦笑いして耐えていたが、それこそ延々と続くから、しまいには僕は厭んなって、どうかそんなお気になさらないでください、散歩をしてきます、と言ってベッドから立ちました。先生がオロオロして『アア急に立ってはいけない!お散歩なら私が付き添って、』とか言うのを遮って、僕は病院着のまま砂浜に下りました。

 昼下がりの初夏の晴れた日で、浜辺には誰も居ませんでした。そうして僕の足跡ばかりが砂浜に続くんです。病院着まで真っ白だから、まるで白昼夢の幽霊かなにかみたいだな、なんて楽しい空想にふけりながら、僕は浜辺を歩いたり、立ち止まって貝のかけらを拾ったりしました。もっとも、療養所から離れていこうとすれば、先生が大声で、『遠くまで行っちゃいけませんよ……!』って僕を呼び戻すから、診療所の前ばかりでうろうろ歩き回っていたわけですがね。

 そうやってうすぼんやりと、気持ちよく散歩していると、頭までふやけたようになってゆき、つまり僕は、誰も居ない道路に明滅する信号機の気分になるんです。(僕は信号機を憎んではいたが、たとえば車も歩行者も誰も居ない道路の赤信号の点滅なんて、これはたまらなく愛おしい。過去も未来も持たないようにひとりぼっちで明滅する信号機、単純な、ある種の、淋しい現象!) 僕は僕自身が単純な機械であることをボンヤリと直観してゆきました。歩くだけの至極簡単な機械です。そんな純粋な機械のように歩いていれば、水で洗ったようにして、降り積もった埃も澱も、あわいから流れ去ってゆくんです。僕の思い出も、後悔も、それから孤独も、私から離れてさらさらと砂浜に溶けていくようでした。海の音と砂を踏む音ばかりが頭を占めて、かすかな発汗も心地よい。大学生活も逃避行も霞んでいって、あるのは白い浜辺に現在だけの、機械としての、或いは風が吹くような一現象としての僕なんです。日常から、逃避から、とおく隔たって、それでまったく満たされていました。海の音が繰り返し聞こえて、」

と、ここで列車のアナウンスが入った。じき終点に着くという。終点に着いたならば列車から降りなければならない。私は話の腰を折られて不満だった。

「一旦ここまでにして降りましょう。悪くなかった。あんたの話ね、とっても、……悪くなかったわ」

彼女は歯切れが悪そうに言う。

「ええ、……そうやって貴女が喜んでくれるのが僕は嬉しいです」

私は私の話の感想をもっと聴きたいと思うが、それを言葉にはしなかった。

 私は彼女の目を、顔を見る。彼女のピアスが髪の奥に揺れている。電車が減速しはじめる。

 彼女は逡巡し、それから、覚悟を決めるようにして、私に言った。

「……あたしね。今ならあんたに言ってもいいと思うわ。その、茶化さないで聴いてね。学食で最初にあんたに話しかけたとき、ほんとうはあたし緊張していたの。いいえ、『ほんとうに』緊張していたのよ。」

それが、私たちが特急列車に乗ったばかりのときに交わした会話の回答だと理解するまでに数瞬かかった。理解して、それから私は意外に思って、彼女に言った。

「そうだったんですか!そんなふうには全然見えなかったですよ、貴女は僕を罵るような調子だったでしょう。あれは、……あれは緊張していたんですね!」

「ええ、そうよ!あたしとっても緊張していた!それをね、恥ずかしいのをこらえていま、あんたに教えたのよ。……だからね、あたしたちが会ったときの話をするのはこれきりおしまいね。ねえ、あんた、もう二度とこの話をしないって約束してくれる?

 あたしね、あんたに言わなくちゃいけない、ってそう思って言ったのよ。ほんとうは会ったときにどう思ってたかなんて、あたし教えるつもりなかったの。だからね、もうこの話はふたたび蒸し返したりしないって、あんたきっと約束してね。あたしね、恥ずかしいのをこらえて、あんたに教えたのよ」

そう言って彼女はほんとうに恥ずかしそうに目を伏せるから、私は彼女に恥じらいなんて感情があるのが心底意外で、それ以上に、いや、それも相俟って、私は彼女を愛おしく思いはじめていた。

「ええ、約束します!約束しますとも!僕はもうふたたび学食を忘れましょう!」

そう私が言うのを聞くとすこしだけ微笑み、

「さあ、降りるわよ」

と言ってから、彼女は残りのハイボールをいちどきに飲み干した。(照れ隠しのような調子だった。) 私も彼女にならって缶チューハイを飲み干そうとして、しかし持ち上げるとずいぶん中身が残っているから、飲みきれそうにないようで、ハテどうしたものかとまごついていると、「あたしがそれもらうわね」と言うが早いか彼女はそれを奪い去り、たちどころに飲み干してしまった。(彼女のちいさな喉仏が上下する。)

「そんな飲みかたをしていたら中毒になりますよ」

半ば呆れながら私が言うと、彼女は肩をすくめて言った。

「じきにあんたもわかるわよ」
 

 

 特急列車を降りて夜だった。私たちは駅を出て、並んで街を歩いていた。

「糸ようじみたいな月ね」

見ると細い三日月だった。

「毛抜きでピッと抜いてしまいたい月ですね」

「月にずいぶんな言いようね」

「なに、貴女だって。」

 私たちは気分良く酔って歩いていた。

 

 

 

後半はこちら

https://fog.hatenablog.jp/entry/2022/09/07/171538

 

ニートニンゲンの歌(日記)

*五月二十四日

今日から日記をつけはじめることにした。五月二十四日、中途半端な日で、日記をはじめるのに丁度いい日だと思う。これが月初めや年の初めだったりすると、鹿爪らしくてやりきれない。一月一日から四日間日記を続けるのと、五月二十四日から二週間以上日記を続けるのでは、後者のほうがまずもって成功率が高いはずだ。そんな気がする。だから今日から始めたい。本日は中途半端でお日柄が良い。

せっかく誰も読みやしないブログを開いていることだし、ここに日記を、だいたい一日400文字くらいをめどに書いていこうと思っている。それくらいなら大した手間にもならないだろう。(もっとも、手間を取られて困るような生活でもないのだが。)畢竟私はニートだから、時間だけなら有り余るほどに持っている。日記なんて書いてもしかたがないような気もするが、少なくとも惰眠や単純なスマホゲームをするよりは有効な時間の使い方だろう。そして私の生活には惰眠や単純なスマホゲームの時間が多すぎる。だから日記を書こうと思う。すると総体としての一日の質が、ほんの少しだけ、目盛ひとつぶんほど上がる。ピョコッ。それで私はニートの罪悪感から少しだけ解放されて毎晩眠りにつくことができる。ニートの逃避としての日記。

小学生の夏休みには一行日記の宿題があって、四十日ちょっとの休暇の毎日の記録の記入を課せられたものだが、海に連れて行ってもらったとか焼き肉を食べたとかなら格別、大体は「今日は何もなかった/しなかった」が列を成して並んでいるだけの、まったくしょうもないだけの日記であった。さて、いま私は大学卒業後の無職で、ニートで、プー太郎で、長い長い夏休みで、毎日が小学生の頃よりも何もない生活だが、何もない一日を「何もなかった」で済ませない程度の文章的成長は経た筈だ。小学生の頃に毎日四百字の日記を課せられたとすれば私は愕然としただろうが、今の私には四百字程度、屁でもない。せいぜい文章や内容に気を遣って書いていこうと考えている。希死念慮にまみれているしょうもないニートにも、その程度のことはできるはずだ。

……今日は御託ばかり書いて疲れた。日記らしい日記は明日から書こうと思う。今日はこれでおしまい。

 

*五月二十五日

無気力が日増しに強まっている。正直こんな日記を書くことも今日の私からすればひどく馬鹿らしく感じられて、昨日のぶんを消して終わりにしようとも思ったけれど、こんな日記でも書いていかない限り、私はそれこそまるきり何もないニートになってしまうから、せめてしばらくのあいだは続けていこうと思う。

最初にも書いたが、無気力が日増しに強まっている。ニート生活の隠れ蓑として4月のはじめごろに買った公務員試験の教材も、最初の頃こそ真面目に取り組んだりもしていたが、近ごろは10分ほども我慢できない。無気力が増大していって、終いには教材を開くことすらできなくなるだろう。そんな無気力が今日はとくに顕著にあらわれて、夕方には大体私は自転車に乗って運動がてら少し遠くまで行くのだが、今日はそれすらもまともにこなせなかった。道中の最初のゆるやかな坂道で、なんだか億劫になってしまったから、早々に転進、サイクリングを諦めて、フードコートでコーヒーを飲むことにした。別にコーヒーを飲みたいわけでもないのだけど、コーヒーを飲むくらいのことしか出来そうにない。そうやってぼんやりと、フードコートでコーヒーを飲んで、家に帰った。フードコートでは子供の声が耳について不愉快だった。

 

*五月二十六日

何もせずとも腹が減り疲れが溜まっていくのと同様に、髪の毛だって日々欠かさず伸びていって、前回の散髪から数十日、そろそろ耐えがたくなってきたから床屋に行った。(私のような無職の髪の毛が伸びたところでどうしようもないのに、髪は毎日愚直に伸びる。淋しいと思う。)スーパー銭湯に付属の床屋に行ったから、散髪のあとは風呂に入った。昼過ぎのこんな時間であるにも関わらず、風呂場にはそれなりに人が居て、誰も彼もみな私のような無職なのかと思ったが、当然そんなはずはないだろうから、要するに、彼らの身分を邪推するだけ無駄だった。しかし他人のことなどどうでも良い、とにかく陽の高いうちから風呂に入るのは気分が良くて、ときおり家族からイヤミたらしく言われるように、私はほんとうに結構なご身分だった。帰り際、付属の食堂でビールでも飲んで帰ろうかと思ったが、懐にそんな余裕はなかった。風呂上がりの一杯を飲む余裕もない、結構なご身分の私だった。

 

*五月二十七日

イオンモールのテナントのアイス屋だか何だかの横を通りかかって淋しかった。客二人と店員一人がカウンター越しに会話していて、おそらく商品受け渡しの最中だったのだろう、店員が客に何やら説明していた。会話の内容は聞き取れなくて、……だがそんなことはどうでも良い。会話の内容やその場の状況なんてどうだって良い。私が何を淋しく思ったのか、それはつまりアイス屋の店員たる彼女が他ならぬアイス屋の店員として働いているというその事実についてであって、なんと言えば良いのだろう、畢竟こんな洒落たアイス屋だか何だかで働いている彼女は恐らくお洒落なアイス屋で働きたい!だとかそんなことを思ってバイトに申し込み、そうして実際にこうやって働いているのだろうが、翻って私を見れば、私にはその、たとえばアイス屋で働きたい!と思ったうえで実際にアイス屋で働くような、要するに、自分の人生を自分自身で決めていく力だとか、そういったものがまるでなくて、生涯を切り拓いていく力とでも言えば良いのか知らん、そんなものが私からは失われて久しいし、それどころか、そんな行動力の欠如のみにとどまらず、今や行動力の源になる筈の、何をやりたい、といったぼんやりとした意志すらほとんど薄れてしまって、私は、ただ、もう、何もしたくない。行動力の無さにかまけて何もしないでいるうちに、意志にまで無気力が染み込んでしまって、どうにもならなくなってしまった。アイス屋で働く店員を横目に、行動力もない、意志薄弱な、無気力なだけの私が際立つようで、無性に惨めで、それが淋しかった。

 

*五月二十八日

日々同じように退屈な生活を送っていると夜の、或いは昼寝の際に見る『夢』が、この夢というマヤカシが、私個人の情動に占める割合を徐々に増していく。とりわけ良い夢を見た日の朝は、たとえば今日のような日には、朝食を終えればすぐに部屋に舞い戻ってベッドにうずくまり、目を閉じて今朝の夢を思い返して、情動の再演、存在しない思い出の感触を何度も何度も辿りなおす、むなしいだけの営みを、……しかし快楽の泉が今や夢くらいにしかない惨めな男の振る舞いを、いったい誰が責められよう!

今朝見たのは大学のごくはじめごろに片思いしていた女の夢だった。もう五年ちかくも顔を見ていない女が夢に出てくる、そんなことも私の夢においてはいっこうに不思議ではなくて、(なんなら高校時代の同級生だって未だに夢に出てくる始末なのだから!、)というのも、現実の私には新しい交友の一切がなく、そのために夢においては過去の私に強い衝撃を与えた数少ない人物が時間の遠近を問わず何度も何度も登場する羽目になる。

現在も未来も空しい私のような人間には、過去にしか依るべきところがない。過去、それも過去を基にした夢の中にしか私の憩える場所はない。

 

*五月二十九日

日がだいぶ長くなっていることに気がついた。ふだん私は十七時ごろには散歩やサイクリングから家に帰ってそれきり窓の外を見ることすらしないから、だいたい何時ごろまで陽が出ているのか知るすべもなくて、もとい、そんなことを知る気もないから、今日ひさびさに夕方を眺めていたら夕方があまりに長くて驚いた。要するに私は今日、家族に連れられて夕ご飯、外食に行って、国道沿いの焼肉屋、窓の大きな店だったから外の様子がよく見えて、青空がだんだんと夕方のようすを帯びてゆくのを焼肉と酒のあいまに眺めようとしていても、夏が近づいているこの時期の青空は長いあいだ青いままで、結局青空が夕暮れらしくなるのを目にする前に夕ご飯はお開きになった。

日が長くなって結構だと思う。むかし私は夏が好きだった。大学生になったら大好きな夏を、その風情を思い切り感じてやるぞ、私は自由になりたいんだ、ってそんな思いも果たされずに、私は大学生活をほとんど無意味なようすで終えて、結局こんなニートをやっている。ニートになってはじめての夏がそろそろ来る。これもきっとしょうもないまま終わるんだろう。大いに結構なことだとおもう。

 

*五月三十日

シラフで目覚めている時間なんて短ければ短いほど良いのだから、毎晩毎晩酒を飲んで、以前は曲がりなりにも休肝日、酒を飲まない日を作ったりもしていたのに、今や文字通り毎晩欠かさず酒を飲んで、おそらく二ヶ月近くもそんな調子でやっている。そんな生活をしていると、ただでさえ出来の悪い脳味噌がますます駄目になっていって、たとえば以前であれば私はもう少しマシな調子で文章を書いたりしていたのに、今ではこうやって、機知もない、ペーソスもない、味わいもない、単純な絶望のフルマイを繰り返すようなものばかり書いて、こんな日記をいくら書いたってまるでしかたがないのに、しかし、……そもそもこれは日記なのか?日常に差異がないからこうやって思ったことでも書くほかないのだが、……今日は風が強かった。窓を開けた寝室でゴロゴロしていると風の強く吹く音が外から聞こえて、アア風が強い日だ、と思いながら、眠った。昼寝。一時間弱眠った。夢は見なかった。

 

*五月三十一日

夏休み、いや、この夏休みは比喩だったり或いは実際のものだったりするのだけれど、要するに、長期間の休み、朝から晩までヒマ一辺倒の時間が積み重なっているそんな日々をすべてまとめて『夏休み』と呼称することにして、この定義に従えばいま私が送っている日々も夏休みに他ならないわけだけれど、そんな夏休みの楽しみのひとつとして、長く眠っていられることが挙げられる。昨日も書いたことだが、シラフで目が覚めている時間なんて短ければ短いほど良いのだから、たとえば私は近ごろは毎日夜十時に寝て朝の七時に目が覚める。(九時間の睡眠!)それから朝食を喰らい、本を読んで、それから今日は九時半から十一時ごろまで二度寝した。

退屈な無職暮らしでどこまでも眠れる気分でいる。朝寝、二度寝、昼寝、それから夜の本睡眠、本睡眠?……どうでもいいや。とにかく、今日は朝遅くから昼前までの二度寝をして、気持ちがよかった。しかし近ごろは二度寝や昼寝の後などにはどういうわけだか動悸や吐き気がするようになって、身体が睡眠を拒んでいるのか、こんなもの、Okey Dokeyならぬ嘔気動悸じゃないか知らん!へ、へ、へ!……、誰か早いところおれを殺してくれれば良い。

 

*六月一日

誰に頼まれたわけでもないのだから止めたいならさっさと止めれば良いのだけど、その、端的に言えば日記に飽きた。一週間前の私は『ヘヘッ、毎日400字の日記書くのなんて余裕だぜぇ、舐めんなヨォ!』くらいの気概でいたのだけれど、ほんとうに、こんな日記、書いたところでまるでしょうもないし、記録に残しておきたい出来事もないし、日中は同じようなスマホゲームをしているか、或いは同一の思考の反復を繰り返しているばかりで、それにもう、私は、日記はおろか、大概のことが億劫になっちまって、たとえば今日は一歩も外に出なかった。これ以上続く必要のない生涯がダラダラと続いていて、終わりが見えないし、こんなもの、まるきり、長すぎる。皆さんのように生涯を楽しむ術を知らないし、今さら生涯を楽しむ気概も起きないから、こうやって、いつものようにベッドの上でウジウジしていたら、そのまま今日が終わっていた。サッサと終わってほしい生涯がいつまでも続いて気分が悪いし、終わりを切望しながらみずから終わらせる勇気はない自身のテッテ的な無能力が厭わしい。(勇気も努力も、或いは享楽も、天分の要素に大きく関わるのだから!)

 

*六月二日

夏みたいな天気だよ、と聞いたから昼下がり、外へ出るとほんとうに夏のような空だった。青空に入道雲じみた雲が浮かんでいて、青空に入道雲が浮かんでいればそれはもう夏なのだから、要するに私は夏に居た。ただ、気温だけは夏のようすを伴わなくて、白い半袖シャツと七分丈のズボンの私に、この夏はちょうど快適だから、或いは思い出のなかの夏の温度と言っても良い。夏の青空を思い出すとき、(これは私だけかもしれないが、)空の青みと雲の白さが情景として浮かび上がるばかりで、呼吸が苦しくなるような暑さは同時に惹起されず、熱の伴わない奇妙な夏、これが私の記憶の夏で、それが他ならぬ今日の天気だった。

盛夏の熱を伴わない記憶の夏、今日のような天気を初夏とするならば、そしてそれが可能であるならば、私はずっと初夏に居たい。……いや、ずっと初夏、それはそれで淋しいような気もして、つまり、夏の盛り、あまりの暑さに呪詛を吐きながら、(滝のような汗、)陽炎の立ち昇る道を延々と歩くようなそんなことだって、私には懐かしい。いざやって来ればすぐ辟易して根を上げたくなるのがわかっているのに、夏の盛りが、その暑さが、どういうわけだか私には恋しく思われる。

 

*六月三日

天気予報で午後から荒れると知っていたから今日の午後は外に出ないで漫画や本を読んでいた。部屋でひとり、むかし好きだった漫画を読み返して、むかし好きだった随筆や小説をパラパラと捲り、そんな調子で過ごしていると、雷鳴や雹まで降りだしたものだから驚いた。雷の音は言わずもがな、家の窓や外壁をバラバラと打つ雹の音にはいつまでも慣れそうにない。

札幌で一人暮らしをしていた時分には雹の音なぞ一度も聞かなかったような気がする。或いは私が忘れているだけかも知れなくて、しかし、どうだって良いことだから、これ以上は書かない。ただ雪が音を吸い込むというのは本当のことで、雪の降り続ける午後三時ごろの道を歩いていると、それがどこまでも私ひとりきりの道であって、すれ違うひとも通り過ぎる車もないと、人ひとりぶんの隙間だけ踏み固められた歩道の雪道を細々と歩きながら、その静かな雪道で、なんとも言えず淋しい気分になったものだった。

……実際にそれを過ごした身としては凡そ虚しいだけの大学生活だったけれど、今となっては、その、つまり、今や遠くなってしまった情動の記憶が、それが良い思い出か悪い思い出かに関わらず、思い出すたびすべて丸ごと懐かしくて愛おしい。

 

*六月四日

大学生は赤子の次によく眠るというが、ニートは大学生の次によく眠る。前日午後十時から今朝七時までの九時間を眠り、朝食を食べ、ボンヤリし、昼食を食べ、それから二時間の昼寝をした。この時点で午後三時だった。

長い昼寝のあとは決まってふさぎの虫に取りつかれる。頭がボンヤリとし、何となく吐き気もあって、苛々がたしかな弱火のように心の奥底を焦がすようで、こんなふうになってしまえばもはや散歩にでも出るほかないから、散歩に出た。買いたい漫画があったから、或いは全巻セットがお値打ち価格で落ちていやしないか知らん!なんて思いながらブックオフに行って、当然そううまくはいかず退店、そのままベンチに腰掛けてスマホAmazonで全巻セットを購入した。(六巻セットが千円だった。)帰り際、イオンの前を通りかかると、繋がれた犬、老人のような顔をした小型犬が、風を受けながら、四本足を踏みしめて立っていた。

 

*六月五日

六月五日の日記です。……六月五日、……六月五日!?????!??? 六月五日なんですか!???!???!!??? 大学の卒業式が三月の二十五日とかそこいらで、いや、とうぜん私は大学の卒業式なんかには出席しなかったのだけれど、この際そんなことは関係なくて、要するに、大学の卒業式の日がすなわち私のニート生活が始まった日であるわけだから、つまり私は、二か月、と、十日ほど、既にもう、ニートを、やっている、……って、コト????

充分なくらい私は生きた。それでこれ以上不愉快な生活を続けるくらいならくたばりたい。あと二ヶ月かそこいらか、それくらい経った頃にキッパリと身罷ってしまいたいと思う。これまで何ひとつ成してこなかった私のことだから、どうせ今回だって上手くいかないのだろうけど、今回くらいは成功して、それきり息の根が止まればいいのに、とそう思う。首を括って生涯を終わりにしたい。終わりで良い。私は私の生涯が終われば良いとそればかり願っている。

 

*六月六日

ゾロ目の日だと気がついてフとパチ屋に行きたくなったが止した。パチ屋でひと勝負するには手持ちがあまりに心細くて、憂さ晴らし、代わりに何をしたかといえば、雨のなかしばらく散歩をした。いつものようにイヤホンをつけてそこいら中を一時間強散歩して、靴もズボンもビチャビチャにした。

すべて風が強かったのがいけない。外に出て、傘を差しながらしばらく歩いて、アアこれはよろしくない、ただでさえ雨なのに風も吹いて散歩には全く向いていない日だと、そう気がついていながらも、引き返しはしなかった。私が散歩したい気分なのにこんな天気を寄越しやがるお天道様が悪いってことは決まりきっているのだから、知ったことかと思いながら散歩を続けた。(こんな気分の日にパチ屋に行くと財布が丸ごと空っぽになる。今更ながら散歩にして正解だった。)県道沿いにも公園にもひとの姿はほとんどなくて、ただひとり、公園でカラフルな傘を差した中年の背中を遠く見た。

それから家に帰って風呂に入り、酒を飲みながら夕飯を食べた。

近ごろはずっと吐き気が続いている。早逝したい私の意図を身体のほうで汲んでくれているのだろうか。だとすれば有難い。早く楽にしてほしい。病気になったら苦しんだ挙句死ぬのだろうか、しかし、だとしても、苦しんだ挙句死ぬほうが、苦しみながら生きていくよりもまだマシなような気もする。

 

*六月七日

大学三年生の夏休み前に精神を駄目にして以来ずっといじけたように暮らしているから、要するに私は実質三年間もニートの暮らしを続けており、履歴書的な空白期間は未だ二ヶ月半にも満たないが、畢竟肝心な点はこんな無気力が三年も続いているその事実にある。そうやって長いこと若い身空を丸ごと無為に暮らしていると、どういうわけだか年寄りのような気分になって、近ごろはどうして私は年寄りでないのかと訝しく思うようにすらなった。十年一日の快適な日々、散歩、読書、飲酒、睡眠、これだけで満ちたあまりに退屈な、それでいて気楽で愛おしい日々を、年寄りのように、死ぬまで続けていたいのに、私が無駄に若いばかりに、そうは問屋が卸さない。私は棺桶に片足を突っ込んだ気分で暮らしているのに、それで良いのに、そのまま身罷ってしまいたいのに、そういうわけにはいかない。不愉快でたまらない数十年を生きていくために、不愉快極まりない労働に従事することを強要される。厭で厭で堪らない。

 

*六月八日

ワクチン三回目接種の副反応で頭が痛く、一日中横になっていた。今日はこれ以上書けそうにない。

 

*六月九日

晴れた良い夕方だから公園に行った。自販機で缶のレモネードを買って木陰のベンチに座り、何をするでもなくボンヤリ過ごした。ニートのくせにレモネードを飲みながら公園のベンチでボーッとするなんて、ええかっこしいのようでいささかしゃらくさい気がしないでもなかったが、やってみると存外に気分が良くて、と言うのも、……なんて言えば良いのだろう、その、要するに、たとえば家の中と公園では時間の経ちかたからして違っていて、つまり家の中では時計が時間を経たせる一方公園では風が吹き木がそよいで、それで時間が経つともなく経っていた。(時間が時間本来の質を取り戻して、とでも時間がただ経っていて、とでも、何とでも言えば良い。)そうやってのどかに時間が経つことではじめて高い空を悠々と飛ぶ一羽の鳥に目が向く。或いは鳥の鳴き声の種類の多さでも良い。そしてこういったことに気が向くのを余裕と呼ぶならば家に居る私には余裕が無くて、なんてことにも余裕が出来て初めて気がつく。兎に角、良い気持ちだった。

しかし満足する前に公園を引き上げた。どこからかいじけた息子を伴った怒鳴り散らす父親が現れて、ああいう悪意と野暮の塊が混じれば公園の時間は公園の時間としての歩みを止める。拗ねた息子と怒鳴る父親の応酬は到底耐え難かった。どうして怒鳴るのを止めて数秒でも空や木を眺めないのか。ああいった神経質な怒鳴られかたをした子供が私のようなニートになる。

 

*六月十日

住宅地の前を歩いていると一台の車がヌッと出てきた。黒いファミリーカーで後部座席の窓はスモークガラスになっている。全体として黒い印象ばかりを与える車の、半開きのスモークガラスの上辺からは、しかし例外のようにふたつの手がのぞいていた。そのちいさい可愛らしい手は幼子の手で、すぐに私は車内から覗く幼女の顔にも気がついた。(要するに窓へ手をかけた幼子が車から外を眺めていたのだ。)口許は見えなかったからはっきりとは分からないが、細めた目元はきっと笑っていたように思う。家族に連れられてドライブだろうか。それで外を見て嬉しいのか。そうやってドライブしながらだったらこんな曇り空の何もない田舎道を眺めることさえ子供には楽しいことなのだろうか。それで楽しい田舎道を眺めていたら私のような惨めたらしい無職を目にして、それでも子供は楽しいのだろうか。

私と幼子のそんな窓越しの対面はほんの二秒にも満たなかった。車は私の前をゆっくりと曲がると、すぐ走り去って見えなくなった。

 

*六月十一日

それで何もない日というものが仮にあるとするならば今日こそがまさにその何もない日で、誰もが知っているように何もない日を日記に書くのは難しい。併しその何もない日とやらにほんとうに何もなかった試しはなくて現に今日だって朝目が覚めてから本を読んだり酒を飲んで、その本を読んだり酒を飲んだりすることが何もないことであると言えば嘘になる。

……と、こうやって、近ごろは吉田健一のような文章を書くことに気が向いている。彼が食べ物や旅について書くエッセイがもとより私は好きだったのだけど、近ごろは敬愛の情がにわかに高まって、自分のほうでも彼のような文章を書きたくなってきた。単に読点を少なくするだけでなしに、文章の論理展開をも真似ることで、なんだかそれっぽくなって、そうして、嬉しい。いつか私も吉田健一のような、味のある文章を書ければと思う。それも、単なる模倣に留まらない、それでいて読み応えのある文体で何かを書きたい。

 

*六月十二日

ニートだから一日に少なくとも三十分くらいは身罷ることを考える。手段はもう決めていて、いよいよ身罷ることになった際にはビニール紐で首を括ろうと思っている。(むかし私が生まれるとき、臍の緒で首を括りながら生まれてきたと母から聞いた。蓋し先見の明があった赤ん坊の時分の私だったが、残念なことに死に損なって今もこうして生きている。)

とりわけ絶望しているとか、鬱だとか、そういうわけではないのだけど、要するに、おおよそ不愉快なことばかりのこんな生涯、さっさと終われば良いだけの生涯を、その不愉快を、縮めるためならまだしも、あろうことか長引かせるために、そのために労働を、これもまた不愉快なだけに決まっている労働を課せられる、それがまるきり許せなくて、そのために私は早々に死にたい。不愉快を長引かせるために不愉快を甘んじて受け入れる、こんなに馬鹿なことはないと思う。そんな悪い冗談には付き合っていられない。だから私は身罷りたい。(こんな私の考えをあなたはハナから受け付けないだろうか。だとすれば私はあなたが羨ましい。)

しかし、それでもいまいち覚悟が出来ず、結局いつも死ねないでいる。それで本を読んだりスマホを触ったり酒を飲んだりして日を潰し、夜には眠る。眠ればまた朝が来て、目が覚めたことを呪いながら起き、おんなじような希死念慮を抱えながらニートをやる。家族が私を憐れんだり心配する段階を超えて、軽蔑と呪詛ばかりを吐きかけるようになれば、そうすれば私は心置きなく首を括ることが出来るだろう。

 

*六月十三日

この日記を始めて今日で三週間になる。始めたての頃にはいくらでも書くことがある気もしていたが、三週間も経った今では日記に書くことがまるでなくて、いや、書くことがまるで無いとかそんな段階を超えて、毎日毎日書くことを強制されるこの日記が憎らしくすらなってきた。(自分で日記を始めると、そう決めたにも関わらず!)

日記、或いは文章全般に言えることだが、文才が無いなりに多少は読むに値する文章を書く場合には、ある瞬間を微分するような文章を書ければそれで充分で、あとは見せかたに気を配ったりすれば何とかなる。しかしこうも毎日毎日同一の波形を描いて日々が進めば微分のしようがなくて、となるともう、繰り言のように死にたいだとか書くことが無いだとかそんなことで文字を埋めるほかなくて、こんなのは小学生の頃の一行日記と変わらない。畢竟私は成長していないどころかただ衰えていくばかりで、……そうだ、これからは日記にならないような場合には単にエッセーじみたことでもすれば良い。しかしこれまでもそんな非常手段は幾たびも取っていて、……まあ、どうでも良いや。どうせ誰もまともに読みやしない日記だから、好きにやれば良い。

 

*六月十四日

マクドナルドのチーズバーガーを二つ注文して自らダブルチーズバーガーを作るやつをやった。チーズバーガーのバンズを一枚ずつひっぺがして合体させるとダブルチーズバーガーがひとつ出来て、ついでにバンズが二枚余る。それでダブルチーズバーガーよりも安上がりなのだから、人の目だとか意地だとかそんな類いのものを見ないふり、気にしないふり出来るならば、プライドを売り渡した代償として普通よりかは多少は得で、おまけに腹も余分に膨れる。

学生時代にはこういう空しい食事を何回かやったものだが、ニートになってからこんなことをするのは初めてで、いや、こんなのはニートにこそふさわしいことなのかもしれない。(このダブルチーズバーガーが皆さんの人生で、この虚無挟みバーガーが私の人生か。いや、これらふたつ、まとめて丸ごと私のみっともなさや惨めさだ。矜持を売り渡して作り出したこんな偽ダブルチーズバーガー、こんなものは虚無挟みバーガー同様に、まったく空虚なものでしかない。)

ダブルチーズバーガーを包み紙に包み直して、まず虚無挟みバーガーを先に食べると、当然なぁんにも挟まっていなくて、こういうものをフードコートでひとりきりモチャモチャと食べていると、なんだか、もう、どうしようもなくなってくる。

 

*六月十五日

近ごろもっぱら涙もろい。「涙もろくなったってことは私もきっと、感受性が前より豊かになったのかなぁ?へへへっ……」……否! 涙もろさから直接には"感受性が豊かになった"ことは帰結されない。畢竟我々は我々みずからが涙もろくなった場合に、果たしてそれが加齢や、或いは酒の飲み過ぎのせいで前頭葉が萎縮し、ために感情を抑制出来なくなって涙もろくなったのではないか、だとか、そういった類いのことを真摯に検討する必要がある。単純な身体反応からすぐに感受性の豊かさなどという肯定的判断を持ち出すことはあまりに安直で、そうして、さもしい。

さて私は近ごろ涙もろくなった。恐らく酒の飲み過ぎで感情の振れ幅が大味になってしまったのだろう。そうして私の涙もろさは感受性の全き劣化に他ならない。感情からは繊細な機微が失われ、閾値を越えれば反射のように涙を流す機械の如くなってしまった。アニメを見ながら単調に幾度か涙を流して、そのたびにひしひしと実感するのは、これが全く大雑把な涙、単に感情の雑さを示す涙に他ならないということで、たとえば高校生の時分に大好きな夏を想いながら身を切るような切なさを抱いたようにはもう決して、……いや、それで結局、感受性だとかそんなものは鈍ければ鈍いほど気が楽で済む。人の足音にビクビク怯えるようなことを今ではしなくて、別にこれで結構なのかもしれない。それで良いと思う。

 

*六月十六日

受験生の弟が居て彼は勉強を頑張っている。大学に入るために勉強をして、大学に入れば大学生活を楽しみつつもこれからの人生の基盤を築いて、そののち生涯も丸ごと楽しくやっていくのだろう。

私の弟は生きるのが上手い。あいにく頭はそれほどよろしくなくて、だから大したことのない大学に入るにも懸命に勉強をする必要があるのだけれど、そういう学力的なものを除けば、私なんかとは比べるべくもないほどに、彼は生きるのが上手い。何というか生活を楽しんでいくコツを知っていて、或いは私がそういったものを知らなすぎるだけなのかも知れないが、たとえば彼には普通に友達がいて、時折り遊びに行ったり頻繁にゲームのマルチプレイを一緒にやったりしている。気取った文学なんか読まずに流行りのアニメだとか音楽を受容して、どうせ彼女なんかも居る筈だ。

私はそういうのが羨ましい。私もそういう人間になりたかった。

 

*六月十七日

閉館時間まぎわの夕方の図書館でひとりの女学生を見かけた。セーラー服を着た彼女は小柄でおそらく中学生のようだった。しかしはっきりと見たわけでないからわからない。私のような人間に見つめられるのを女学生は潔しとしないだろうし、私のほうでも無職の引け目、彼女を見るのがなんだか畏れ多くて、目を上げて彼女の顔を一瞥することをしなかった。

惹かれる本を探し歩いた本棚越しに幾度か彼女の影を見た。最近の若いひとはどんな本を読むのだろう、と思って彼女が少し気になった。最近の若いひと、なんて言えば私が年寄りみたいだけれど、実際私は、無職のわたしの生活はまさに定年後の年寄りのそれだから、私が彼女を若いひとと言ったところでたぶん間違いではないだろう。(或いは『年寄り』と『最近の若いひと』を相互理解の不能性から定義したって構わない。私はきっと女学生の考えなんて理解できないし、女学生のほうだって私のような年寄りじみた無職の思考なんぞはハナから相手にしない筈だ。私は彼女を若いひと、と呼び、彼女は私を年寄りじみたニートと呼ぶ。)

それで、その女学生の顔も、読む本も知らないまま、私は本を五冊だけ借りて家に帰った。たぶんそのうちの二、三冊くらいは一度もページを開くことなしに返すだろう。

 

*六月十八日

四年ぶりに従兄弟らと会って夕飯を食べたり遊んだりした。歳の離れた従兄弟だから難しい遊びや話は出来なくて、専らババ抜きやパズルをして遊んでいたのだけど、それでもなんだか楽しかった。素朴な楽しみとでも言えばよくて、こうして久しく会っていなかったひとと会う喜びや、成長したとは言っても未だ愛らしい従兄弟への親しみ、或いはババ抜きやパズルといった単純なゲームの質素な面白さ、そういうものが集まって、私の思考に結実したのは、……眼前の従兄弟とはほとんど関係のない思考、要するに私は、日常アニメの女の子として生まれたかった。私も日常アニメの少女らのように、益体のない会話やババ抜きやお菓子で満ちたパジャマパーティの晩を何度も経験したかった。アニメにおける女学生同士の距離感の近さ、ああいったものが羨ましい。彼女らが送るようなフワフワして素朴な、幸福な日々で、私も生活を満たしたかった。

日常アニメにも似た素朴な遊びを従兄弟としながら、私ばかりそんなことを考えていた。それでも従兄弟は楽しそうにしてくれていたし、私としても楽しかったから、総じて今日は良い日だった。

 

*六月十九日

日記なんていくら書いても虚しくて、こんなものはツイッターで充分だ。どうせ誰も読みやしないならツイッターのほうがまだ手軽で良い。飽きたので、今日をもって日記を止めることにする。四週間弱も続いて、私にしては長く続いた方だと思う。だから何だというわけでもないが、ただ、もう、それだけ。

終わり

高等遊民ごっこ(雑記)

何もしたくないから何もしない生活を送っている。学業も就職活動もアルバイトもしていない。それで何をしているのかといえば、本を読み散歩をして酒を飲み眠るだけの生活をしている。こんな生活は何もしていないに等しいから、畢竟私は何もしていない。(高等遊民ごっこ。)何もしない生活を許される身分でもないのだけど、何もしない生活を始めてからまだ日が浅いから、今のところは家族からも大目に見てもらえている。

だがもっとも、そろそろ大目に見てもらえなくなりつつある。じき雷が落ちるだろう。だが無駄だ。雷が落ちて、そんなので私がやる気を出す筈もない。無気力人間から超無気力人間にでもステップアップするのが関の山だ。或いは彼ら、尻に火がつくまで私に雷を落とし続けるだろうか。やってみれば良い。とにかくいくら雷が落ちたところで、いまさら何をする気にもならない。(この『雷が落ちる』はメタファーだが、じっさい私は雷にでも当たってさっさと死んじまいたい。)

 

はやく生涯が終われば良いのにと最近はそればかり考えている。鬱ではない。鬱のようには絶望していない。私は明るく絶望している。というのも、今送っている高等遊民まがいの生活こそがきっと、今後の私の生涯のうちの、一番マシな時期だろうという直感的な確信があるから、そのために私は、なぁんにもやる気になれやしない。収入こそ無いが衣食住は保証されている。散歩と読書とインターネットくらいしかやることはないが、散歩と読書とインターネット、これはもう充分すぎるくらいだろう。時間は有り余っている。労働がないからストレスもほとんど無い。目が覚めて、本を読み、散歩して、酒を飲み、眠る。適宜インターネット。こんな生活をもうしばらくだけ送って、それきりくたばっちまいたい。あと二、三年こんな生活を送れればそれで良い。余分な寿命は誰か無料で引き取ってくれないだろうか。それとも有料のお引き取りになるだろうか。人生リサイクル法。家電四品目。冷蔵庫みたいに。

 

冷蔵庫のように引き取られる私の寿命。

 

冷蔵庫の話をしよう。大学の街のアパートを引き払うとき、冷蔵庫の処分にはすこし苦労した。車を出してくれる友達も、いわんや冷蔵庫を貰ってくれる友人も居ないから、アパートに業者を呼んで引き取ってもらうのだが、最初に呼んだ業者が提示したのが8000円。パッと見て、容積を確認し、8000円払えば俺らが処分してやっても良いよ、と彼らは言う。8000円、8000円……、冷蔵庫と電子レンジを引き取ってもらう積りで業者を呼んで、電子レンジは無料で持っていってくれるという。冷蔵庫は8000円。私が8000円払うのだ。8000円。どこの業者でもやっぱりそれくらいはかかりますかね?探せばウチより安く引き取ってくれる業者さんもあるかもしれませんが、この冷蔵庫だと、ウチではこれくらいになりますね。さいですか、それじゃ電子レンジだけお願いします、冷蔵庫は一旦保留で……。それで無料の電子レンジは持ち去られた。

8000円払うのも癪だったから二軒目の業者を呼んだ。髭の生えた大男だった。私は彼に冷蔵庫を見せる。(マイナス8000円の冷蔵庫。)彼は冷蔵庫の上のドアを開け、プラスチックの棚板のひび割れを確認し、冷凍室を開けて製氷機の故障の有無を私に訊き、外側の汚れを確認してから、長々と、やはり引っ越しの時期ですから冷蔵庫の在庫が余っておりまして、それにこの機種はとくに在庫が多くて、云々、云々、なので、買い取りではなく無料でのお引き取りになりますが、……。無料!「ええ、それでお願いします。」「宜しいですか。」「ええ、ありがとうございます。」

それで冷蔵庫も片付いた。彼と一緒にアパートから運び出して荷台に乗せた。去りゆく軽トラックを有り難い思いで見送った。何たってマイナス8000円の冷蔵庫がタダになったのだから。

 

私の余分な寿命はいくら払えば引き取ってくれるのだろう。

 

何もやる気が起きず、どこにも繋がりがなく、脳みそは日がなうすぼんやりと霞んでいる。今の私はそんなふうだが、私だけじゃない、皆さんにもきっと、そんな時期がいつか、少しくらいはあっただろう。つまり、たとえば、久しぶりに外に出た昼下がりの街中で、皆さんはこんなふうに直観する。アアおれは、こんな街のなかで、おれひとりだけ、網に漏れたように、おれはもう、孤独で、コンクリートの街並みやアスファルトの硬さ、おれは建造物にでもなってそこいらにずっしりと立っているか、あるいは人間関係の糸にがんじがらめになっていたくて、つまりおれは、そのどちらでもなく、まったく、没交渉の、たとえるならば真空中にひとつっきりの水分子、いや違う、つまりこうやって昼下がりの街中で孤独を直観した、まさにそのおれこそが、孤独なおれで、たとえるならば、そう、空の青にも海のあをにも染まず漂っている、このおれの、しかし今日は天気が良い、お日様の光をアスファルトが照り返して、もう半袖で良いくらいだが、半袖になればまた怯えるように道を歩く、薄着になるほど人の視線が怖くて堪らない、そんな時期が、夏が、またぞろやってくればおれは、今よりももっと俯いて歩くほかなくて、

……っていうような具合に、要するに、寂寞や恥ずかしさが、五感をとおした外界の感触と入り混じって淋しい、そんな時期が、皆さんにだってきっといつか、あっただろう。いや、もしかしたら、皆さんにはそんな時期はなかったかもしれない。私としては、皆さんにもそういう時期があれば良いのにと思う。そんな皆さんとは私、きっと仲良くできるだろう。もっとも皆さんのほうで私とは仲良くしてくれないだろうが。

 

悠長な高等遊民ごっこの日々は随分と私の気に入っている。身近の人間から就職や、或いはせめてバイトでも……、とせっつかれることを除けばこの上ない生活だ。大体、どうして私が生きていくために他ならぬ私が働かなければならないのか、私にはてんでわからない。だからやらない。文句があるか。文句がない筈がないだろう。だから私は耳を塞ぐ。皆さんの賢明なアドバイスから顔を背けて薄く笑う。シラフで目覚めている時間が短ければ短いほど良いように、働いている時間も短ければ短いほど良いだろう。同様に人生自体も短ければ短いほど良い筈だ。私は早くくたばりたい。それも私の責任がなるべく少ない仕方でくたばりたい。雷に打たれて死にたい。不条理なトラックが私に突っ込んでくれば良い。そうやって死にたい。

 

自ら身罷る覚悟は未だに持てずにいる。

 

こうやって死にたい云々言い続けるのを、私はいつまで続けるのだろう。今年で24になる。死にたがりは若者の特権だ。私は若者ではなくなりつつある。年寄りの死にたがりはみっともない。

なんのやる気も起きない。明日目が覚めなければ良い。しかしまあ、目が覚めても良い。もし目が覚めたら、本を読み、散歩して、酒を飲み、眠る、そんな一日を過ごすだろう。もし目が覚めなかったら、何もしなくて良いわけだから、こんなに楽なことはない。だから私は、目が覚めなければ良いのになぁ、とうすぼんやりと思いながら今晩も眠る。不眠がちだから夜中に何度も目が覚める。そんなことを繰り返して翌日になる。朝になれば最終的に起床して、そうすればまた生きなければならない。面倒なことだと思う。早く生涯を終えたい。

最後のお散歩の追想(随筆)

明日には出ていくこの街の、今日は最後の散歩をした。朝の十時ごろから始めて、一旦家に戻り、ふたたび十四時前まで歩いたから、大体三時間は歩いていた。

歩いた時間なんてどうでも良い。私が書き残したいのは散歩に伴う心象のほうだ。五年居たこの街を、大学を、これで最後と思いつつ歩くと、景色は心的運動に、普段とは異なる働きかけを行なって、いや、心的運動が景色を異化して見せたのか。兎に角、普段とは異なる心象で街を歩いた。

要するに感傷していた。(単にそう言えば済むことをダラダラと書いた。)

これから私は、街を散歩しながら感傷していた、その感傷の内容を書き留める。

近ごろ物忘れが激しい。酒と睡眠薬のせいだろう。遠いことも近いことも忘れていく。今日のことを或いはふたたび思い出せないとすら思う。(実際大した記憶でもない。)だが、長い付き合いだったこの街との暇乞いを、単に忘れ去ってしまうのは惜しい。だから書き留めておきたい。書こうが書くまいが私はすべて忘れていくのだが、書き留めておけば、少なくとも、いつかの機会に読み返すことはできる。(昔に書いた文章を読み返すと、とおく忘れ去った情動の甦るようなことがときおりある。この文章もそうなれば良い。)

しかしこんなお題目もどうだって良い。私は冗長に語る癖ばかり身についた。端的にやっていこう。今日の感傷を、思いだした順番に、スケッチのように書きとめたい。時系列を辿ってダラダラと書くのは阿呆らしい。

 

大学のメインストリートの冬枯れした並木を歩きながら、そういえば私も、大学一年生の初夏の、まぶしい新緑のこの道を、期待に胸を膨らませて歩いたものだった。初夏のうつくしい並木だった。私は初夏を好きだった。大学で私の期待が満たされることはなかった。

大学祭のときは車道を開放して両脇に屋台が立ち並んだ。懐かしかった。人が多くて嫌だった。基礎クラスの出店の夜のシフトを終えれば、賑わう屋台をぜんぶ無視して、コンビニに寄って夕飯を買い、アパートで食べた。淋しかった。大学祭が嫌いだった。

私は何をしていたのだろう。

 

ひいきにしていた定食屋の跡地には雪ばかり高く積もっていた。私が唯一通っていた店だ。味も悪くなかったが、何よりも雰囲気が琴線に触れた。たいがいいつも空いていて、大学生の集団が居なかった。何度もここで夕飯を食べた。落ち着いていて好きだった。顔も覚えてくれていたと思う。いつも最低限の会話しかなかったが、一度だけ、いつもとは違う良い付け合わせをサービスしてもらったことがある。そのときは嬉しかった。

街を引き払う前日にこそ来たかった。カツ丼かラーメンを食べて、もう卒業です、って暇乞いをしたかった。ずっと好きで通っていました、いつかまた来ますね。そう言いたかった。

火事のニュースは全国区だった。帰省の実家のテレビで観た。そのまま閉店した。建物も無くなった。空き地になってからも何度も来た。誰も雪かきをしないから高く積もっている。何度来ても空き地だった。

 

古いアパートだった。五年前に越してきたときも、こんな晴れた冬だった。一目見て、あまりパッとしないなぁと思った。(内見もせず選んだから越してきたときに初めて直接目にしたのだ。)しかし同時にキラキラもしていた。ひとり暮らしや大学生活への憧れのせいか、あるいは単に積もった雪のせいかは知らない。雪が積もった街の晴れた朝は何でも綺麗に見える。

初めて目にした同じ場所からいま、このアパートを、引き払う前日の身としてもう一度見る。向かいのビルの影が差している。冬の朝の青空だからやっぱりキラキラして見える。

このアパートに五年暮らした。明日この街をいよいよ発つとき、最後に振り返って、もう一度だけ眺めるだろう。それきりふたたび戻らない。

 

大学沿いの一度だけ使った郵便局の横を通る。そのときはメンタルクリニックに行く途中で、今とは反対方向に歩いていた。夕方だったからおそらく四限が終わったあとだろう。ATMで預金をおろしてメンタルクリニックに行った。

どうしてこんなことを覚えているのだろう。

 

散歩して思ったことを書き留めたい。ついでに忘れ去ってしまいそうな思い出も書こう。たとえば思い立ったその日にゴムボールを買って公園でキャッチボールをしたことや、綺麗な喋りかたをする女性ふたりの会話が授業前の教室に心地よかったことや、北部食堂で入学早々知らない男三人で長々と話し込んで、まるで大学生みたいで嬉しかったことや、そんな思い出は私にも、それなりに、あった。人よりはすくない思い出だが、それに、後半になればなるほど、私の生活は失速していって、たとえば最後に一人旅らしい一人旅をしたのは二年生の初夏だった。だいたい、ちゃんとした一人旅自体、一年生の夏休みの北海道と、二年生の初夏の四国の二回きりだった。

私は五年かけて落ちていったのだと思う。五年かけて酒とギャンブルと睡眠薬にとりつかれ、学位を小指にぶら下げて帰る。

 

ここいらには一度、4DXの映画を観に来たことがある。

映画が始まるまでのあいだ、喫茶店で時間を潰していたことを覚えている。空いていて心地よい窓際の席でコーヒーを飲んで何やら食べていたことを思い出すと、なんだか泣きそうな心持ちがする。安らかな気持ちで映画が始まるまでの時間、コーヒーを飲むなんて、それも私は宙ぶらりんの大学生だったから、心配は何もなくて、ただコーヒーを飲んで映画を観ればそれで良かった。

ふたたびそんな身分になれない。

 

ひとりぼっちで始めたこの街の生活を、ほとんどひとりぼっちで終えて、あした去る。五年過ぎた。何人かの友人は出来た。(その多くは友人ではなくなった。)はじまりに膨らみがある紡錘形の日々だった。まったくいたずらに過ぎたわけではないが、だいたいは淋しかった。

いくつかの思い出はその輝きもて私の悲観的フリカエリを否定しようとする。だが総体としての私の日々は淋しさそのものではなかったか?そう問い直すと思い出は黙り込む。すぐに私は後悔する。(何も言わず思い出を輝かせておけば良かった。)

この先の生涯のことは知らない。今までより良くなることはないだろう。だったら、どうだって構いやしない。私は私のこれからの生涯が心底どうでも良い。

 

最後の散歩の感傷が、部屋で最後の晩を過ごす私の呪詛に取って代わられた。

もう止そう。

布団は捨てたから寝袋で寝る。この寝袋も明日には捨てる。部屋を見回せば何もなくて淋しい。こんな部屋で今晩は眠るのか。

私はこの街を去るのが淋しい。

しかしこれ以上この街に居ても何もならないことを知っている。

もう止そう。

最後の退屈(随筆)

いま私が送る日々は擦り切れた反復から成っている。

一冊の本がある。どのページも同一の文字列から成っている。この本を読むなら最初のページに目を通すだけで充分だ、二ページ目以降は最初のページの引き写しに過ぎないのだから。わざわざ何度もページを捲る必要はない。残りのページは一ページ目の反復に過ぎない。一ページ目を読んだならそれきりやめて、ほかの本を読み始めたほうがよい。

それをわかっていながら私は最後までページを捲る。同一の反復されるページを繰り返し繰り返し捲っている。どのページもほとんど同じだが、私はその本を、終わりまで淋しく捲り続ける。(ときおり誤植が紛れているが取るに足らない些細な差異だ。)

そんなふうにして近ごろ生活している。つまり、反復の本の同一のページを最後までめくるようにして。毎日同じように退屈した日々を送っている。そこにはほとんど差異はない。退屈だがどうにもならない。終わりまでページを捲らなければならない。

大学の講義は終えた。おそらく卒業はできるだろう。一人暮らしのアパートともおさらばだ。その一人暮らしのアパートを引き払う日までにはしかししばらく間があって、宙ぶらりんのそんな日々、私は同一のページを捲り続けるように暮らす。日々同じように空しい生活を送っている。単調な反復で、退屈で、贅沢な退屈で、嫌になるほど退屈で、退屈に私は食傷した。

……だがいつの日か私は、こんなやるせない退屈の反復すらを懐かしく思い返すようになるのだろう。こんな憂鬱な、孤独な、単調な、最後の空白を懐かしむ日が、今よりももっと悪い日々が。(それはきっと労働に追われる日々という形をとっている筈だ。)きっと最低には底がない。そして私の生活はこれからもっと悪くなっていく。暗闇の坂道を下っていく心地だ。ここが下り坂の終わりだと思いながら、しかし一歩踏み出すごとにもっと下がっていく。(私は足を止めてはならない。)

これは私の、大学を終えて一人暮らしのアパートを引き払うまでの目的のない日々の、モラトリアムのおしまいの、退屈な反復の日々の、最後の退屈な日々の、任意の一日の日記である。

こんな退屈な日々の反復はこれきりおしまいだろうから、そのなかの代わり映えしない一日を、果たされなかった青春の墓標かなにかのようにして、せめて書き留めておこうと思う。

朝に目が覚める。……嘘だ。朝でもなければ「目が覚める」といったハッキリした調子でもない。

昼過ぎに或る意識が水面に浮かび上がって大気に触れる。

明け方の小舟に一人の男が乗っている。朝ぼらけ、霞がかった春の早朝。湖岸からとおく漕ぎ出した彼は、湖の中心、舟のうえに立ち上がり、ジッと水面を見つめている。両手で一本の長い棒を携えている。彼は水面に向かってしずかにその棒を構える。

やがて水底から水面に私の「意識」がゆらゆらと浮かび上がってくる。「意識」が浮かぶにはまだ早い。彼は私の「意識」を長い棒もて水のなか深くへと沈めかえす。私の「意識」は水底に沈む。

しばらくするとふたたび水面に私の「意識」が浮かび上がる。まだ早い。彼は長い棒で「意識」を水底へと押し返す。

 

遠くでからすが鳴いている。

 

みたび水面へと私の「意識」が浮かび上がる。陽は高く上ったが、まだ早い。彼は長い棒で「意識」を水底へと押し返す。

それを何度か繰り返す。ときおり浮上する私の「意識」を彼は水底に押しかえす。何度も。湖面に水死体のような「意識」が浮上するたび、それを水中へと沈めるのだ。何度も。湖面に何度も浮かび上がる私の「意識」を、彼は何度も沈める。

八度目に私の「意識」が浮かんだとき、彼はふたたびそれを沈めようとはしない。正午だからだ。彼は私の「意識」を浮かび上がるまま放っておいて、岸へと漕いで帰っていく。私の「意識」は水面に、大気に触れる。ぶくぶくに肥えた水死体の如き私の「意識」はあらわになる。明け方から繰り返し浮かびきれずに沈められていた私の「意識」はようやく昼過ぎに浮かび上がる。

起床だ。

幾度目の二度寝を繰り返した私は、薄い睡眠を貪っていた私は、昼過ぎに起床する。お早う、の時間は過ぎ去って、こんにちは、の時間だが、どちらであろうが構いやしない、挨拶の相手も居ないのだから。

目が覚めてもすぐに活動をはじめるわけではない。もう数分だけ待ってほしい。寒いんだ。私は一瞬だけ布団から出てストーブを点火し布団に戻る。(俊敏なハチドリがとんぼがえりをするように。)少しして部屋が暖まり、それからようやく私は起き上がって、布団から出て布団を畳む。(今度は不機嫌な熊が巣穴から這い出るときのように。)

腹が減っているからなにか食べようと思う。インスタント茶葉やふりかけやコーンポタージュの素をまとめて粗雑に入れてある段ボールを、野良犬のような心地で漁ると、スーパーで買ったパンが出てくる。出てくる、と偶然か何かのように言ったが、出てくることはわかっていた。二日前に買った菓子パン。消費期限は二日前。半額シールがついている。すこしだけ封を開け電子レンジで温めて食う。菓子パンの味がする。空腹が収まらないからもうひとつ食べることにする。ふたたび野良犬の気分で段ボールを漁るとスーパーで買ったパンが出てくる。出てくる、と偶然か何かのように言ったが、これもまた出てくることはわかっていた。二日前に買った菓子パン。消費期限は二日前。これにも半額シールがついている。すこしだけ封を開け電子レンジで温めて食う。菓子パンの味がする。もうひとつ食べたくなるが、もう買い溜めが無いことを知っているから段ボールを漁らない。段ボールの中にパンは無い。諦める。人間のように服を脱ぎ人間のように服を着て、ストーブを消し外に出る。(二つ目の菓子パンを食べたことを後悔している。もともとあれは明日食う予定だったから。)

図書館へ向かう。

退屈と窮乏を持て余した人間は図書館にでも行くほかない。少なくとも私はそうするほかない。だからそうする。いつだってそうする。図書館は暖かくて無料で本が読める。淋しいと思う。

テロテロになるまで着古したジャンパーのポケットに手を突っ込んで俯いて歩く。この街の地面は信用ならないから俯いて歩くほかない。雪や氷でよく滑る。俯いて歩いてもよく滑る。五年間履いた冬靴の裏は擦り減って頼りない。滑るために歩いているのか。歩くための靴を買う手間も費用も惜しんだ結果がこれだ。情けないと思う。こんな雪道ともあとしばらくきりの付き合いで、未練はない。別段愛おしくもないが、かと言って雪道を去ってせいせいするとも思わない。生涯はずっと辛いのだろう。なんならいま、滑った勢いで頭を打って気持ちよく死にたい。

散歩中の犬を目にする。ジャコメッティの『犬』によく似た犬だったからアッ、ジャコメッティの『犬』みたいな犬だなぁ、と私は思う。私も犬になりたい。心持ちだけは私だってジャコメッティの『犬』なのだが、私は犬以下の雑魚でしかない。雑魚メッティ。……ところで、ジャコメッティの『犬』の喩えがすぐに出てくる私のわずかな教養に、自画自賛、どうだろう、なあ私にだって多少の美術の教養が、と、話しかける相手も居ない。俯いて雪道を歩く。

また滑って転びそうになる。

図書館に着く。図書館では本を読む。本を開き、ツイッターを開いて、それから本に戻る。また携帯を触って、本に戻る。また携帯を触って、

そんなことを二時間か三時間ほど続ける。

すると夕方になっている。

アパートへ帰ろうと思う。

酒とスナック菓子を買ってアパートに帰る。酒を冷やし服を脱ぎ風呂を済ませて晩飯を作る。

いつも私は鍋を作る。鍋ほど簡単なものは無いとおもう。鍋なら私でも作れる。水を張り、熱して、鍋の素を入れ、豚肉、豆腐、人参、白菜/キャベツ、肉団子(、春菊)(、ほうれん草)を入れ、しばらく煮込めば、少なくとも食えるものが出来上がる。どうせ酒と一緒に流し込むようにして喰ってしまうのだから代わり映えのない味気なさもどうだって良い。構やしない。酒を飲みながら晩飯を淋しく平らげる。

 

帰り道、私のすぐ目の前を、色の白い女学生が横切った。目が覚めるような心地がした。足許に踏みしだかれた汚い雪は言うに及ばず、路肩に積もる雪の色も、私の前を横切ったあの女学生のやわらかく、すこし朱の差した白い肌には、決してとおく及びはしない。こんな淋しい雪の街で人ばかりがうつくしい。

 

晩飯を食い終わっても私は酒を飲み続ける。スナック菓子と一緒に酒を飲む。ずっと酩酊できない。却って脳髄の芯がつめたく冴える。いくら飲んでも飲み足りない。一人暮らしのアパートで酔うとこんなにもつめたく淋しいのか。毎晩それを確認して、毎晩新鮮に驚いている。そして飲む。

酒を飲み続けて晩は暮れる。

昼過ぎに目が覚めた、憂鬱な、退屈な一日が、酒を飲んでいれば飛び去っていく。(酒は飲用タイムマシーンだ。)酒は素晴らしい。そんな素晴らしい酒も尽きた。もう晩も遅い時間になった。日付も変わる。酒は無くなった。もっと買っておけばよかった。だがもう無い。だからそろそろ眠ろうと思う。私は睡眠薬を飲んで電気を消して横になる。……明日もまた同じ日が来る。昼過ぎに目覚めて図書館に行き、夜は酩酊のうちに過ごす日だ。ただ明日は鍋の具材を買いに行かなければならない。冷蔵庫のなかは空っぽだ。昼飯のパンも無いからそれも買わなければならない。となると朝一にスーパーに行って半額のパンを買わなくては、いやしかしそれは面倒だから明日くらいは昼飯を抜きにしたって、などと考えているうちに、もう、眠っている。

ふたたび目覚めなければいいと思うが、翌日も目が覚める。毎日一度は目が覚める。一度どころではすまない、私は何度も目が覚める。そうして昼過ぎに最終的に起床する。

そんな日々を、繰り返している。

この街の深夜が好きだという話(随筆)

訳あって五年ほど学生として札幌の街に暮らしている。『訳あって』なんてわざわざ断るまでもないが、要するに、私は五年間、大学生としてこの街に暮らしている。出来が悪いから四年で大学を卒業できなかった。そんな留年無能大学生の繰り言として聞いてほしい。もとい、そんな無能大学生の繰り言こそを皆さんに聴いてほしい。友達もぜんぜん居なくなっちまった大学生の繰り言だ。よろしいか?よろしいね?

……それでね?その無能留年大学生が、どうしようもないその愚図が、今晩二十時、一人きりの酒盛りで飲み足りない酒を買い足しに、アパートを出てコンビニへ向かったわけだ。部屋着のスウェットのズボンをジーンズに履き替えて、上着として分厚いジャンパーを羽織ってコンビニへ向かった。(私は頻繁にこういった外出を行うのだよ。つまり、酒を買い足しに行くような外出を。)それで、近所のセイコーマートにひとり、ひとりきり、酒を買い足しに行くわけだが、こんな早い時間帯だと、コンビニやその付近に大学生の集団がそれなりに居るわけだ。

これは非常によろしくない。よろしくない、っていうのはつまり、『私にとって』よろしくない、っていう意味なんだ。何てったって私は大学生の集団が大嫌いで、私だって一応は未だ大学生の身分なわけだが、大学生の集団ほどにわずらわしくって厭わしいものはないと思うんだ。同意してくれるかい?同意してくれなくたって私はこの調子で続けるのだがね。しかし事実として大学生の集団は厭わしいと思うんだ。少なくともおれは。皆さんは大学生の集団が好きか?おれは大嫌いだよ。

それで、今晩は妙に大学生の集団がこの街に多いわけだ。雪山が歩道の路肩に高く立ち並ぶこんな街に、つまり雪が繰り返し降り積もったようなこの街には静けさこそがふさわしいのだが、大学生の集団はうるさいね、大学生の集団は道を塞いで騒ぐし、すれ違うにしても気を遣う、そんな大学生の集団がたくさん、二十時のこの街にはいくつもあって、みんな居なくなっちまえばいいのだが、要するに、大学生の集団がほとんど数少なくなる深夜、それこそ、深夜の三時ごろがこの街でいちばんうつくしい時間帯であると、おれは、そう思うわけだ。

或いは皆さんはおれの言うことに同意してくれないかもしれない。賑やかなほうが素晴らしいだろう、ってそんな安直な(?)ことをいうかもしれない。だが皆さん、いや、お前ら!

お前らは誰もいない深夜の淋しい交差点で信号機のひかりが(寂滅のように)赤から青へと切り替わる際のかすかな音を聴いたことがあるか。路肩の雪山越しに見える赤信号のあらわな眩しさを知っているか。コンビニの灯りとともにどこまでも続いていくような青信号のつめたいやさしさを知っているか。街灯と信号機とコンビニの灯りばかりが道を照らす深夜の淋しい雪の路上の街並みの、すれ違う人の決してありやしない路上を、友人とふたりながながと帰ったことがあるか。滑る雪道を真夜中に酔っ払いながら歩いていると、瞬間!、薄暗い雪道の路面を見ながら歩いていた視界が唐突に真っ暗な空に暗い雲が浮いている夜空に切り替わって、アアおれは背中をついて綺麗に転んだんだと自覚して、なんだか嬉しいような、そんな心地を知っているか。ふと立ち止まればどこまでもしずかな雪の夜中を知っているか。立ち止まれば静寂が肌を刺す冷たさとともにおれはあまりに孤独なあの、淋しさを、おまえは知っているか。コンビニに立ち寄ってコンビニチキンを買って食べればその油と肉の温かい、その幸せにも似た心地良さを知っているか。

 

とおくから除雪機の音がする。この街の深夜には除雪機の音が響く。睡眠薬を飲んでおれは、除雪機の音を聴きながら眠る。

 

ラノベ風ナンセンス(掌編)

オレは冴羽緑雨、16歳。どこにでも居る普通の男子高校生だ。

……不安だからもう一度言っておこうか?

オレは冴羽緑雨、16歳。どこにでも居る普通の男子高校生だ。

……念のため確認しておくが、「オレ」が「どこにでも居る」わけじゃないからな。先程の発話はそれを意味しない。先程の発話が意味するのは、「どこにでも居る」男子高校生のうちの一人が「オレ」である、ってことだぞ。わかるか?つまり世界中には「普通の男子高校生」がいくらでも居て、オレはそんな普通の男子高校生のうちの一人である、ってことだ。冴羽緑雨が何人もいるわけではないぞ?この冴羽緑雨があまねくどこにでも存在している、っていう意味ではない。もしおまえがそう思っているなら訂正したい。先程の発話はそれを意味しない。断じて違う。先程の発言でオレが企図していたところは、要するに、どこにでも居る男子高校生のうちの一人がこのオレ、冴羽緑雨ってことだ。理解できるか?「どこにでも居る」は「男子高校生」を修飾しているのであって、「オレ」を修飾しているわけじゃないからな。この説明で理解できるか?「どこにでも居る」は「男子高校生」を修飾していて、「オレ」という個人の属性のひとつが「男子高校生」で、……ああ、もう駄目だ。オレの言い方が悪かったんだな、最初からやり直そう。こういうふうにドツボにハマったときは長々しく説明するよりも、いっそ切り捨ててやり直してしまったほうが調子が出る。そういうものだ。オレの16年の人生のなかの数少ない学びのうちのひとつ。『駄目そうならさっさと見切りをつけるべし』。というわけで仕切り直しだ。

 

平凡な男子高校生はどこにでも居るわけだが、オレ、冴羽緑雨16歳もそんな男子高校生のうちの一人だった。(よし、これなら大丈夫だ。)『だった』と過去形で語るのには理由がある。まずはそこから話していこう。(よし、軌道に乗った。)

四日前のことだった。四日前にオレは風呂に入ろうとしていた。……いや、ちょっと待て、これじゃあまるでオレが普段は風呂に入らないみたいじゃないか。違うよ?違うんだよ。オレは毎晩風呂に入るよ、何も四日前にだけ風呂に入ろうとしたわけではない。あくまでいつも通り、いつもどおぉぉり風呂に入ろうとしたわけだ。四日前も。よろしいか?よろしいね?……それで、オレは四日前に風呂に入ろうとしていたんだ。風呂に入るにあたってオレはまず服を脱いだ。おまえがどうするかは知らないけどね。少なくともオレは風呂に入る前に服を脱ぐんだ。

そして結果的にオレが風呂に入ることはなかった。服を脱いでいる途中、そう、きついジーンズを脱ごうとしてジャンプしているときにうっかりバスマットで足を滑らせ、頭を打ってしまったんだ。死ぬかと思ったね。おまえもバスマットで足をすべらせてみるとわかると思うが、実際そんなヘマをやってみると、つまりバスマットで足を滑らせるようなことをやってみると、何かに頭がぶつかるまでのあいま、時間にスローモーションがかかるわけだ。ゆっくりと景色が傾いてって、ゆっくりと、アッまずい、って思いながら、景色が、傾いて、そこでおれは洗面所のカドに頭をぶつけて、……暗転。死ぬかと思ったね。

そんでオレは実際死んだわけなんだ。

オレは死んだ。

もう一回言おうか、オレは死んだ。

なんでそんなことがわかるのか?死んだ人間がどうしてこうやって物語っているのか?おまえはそう訊きたいんだろう。だがまあ、そう急かすなよ、ちゃあんと説明してやるからさ。

要するに、だ。オレは、なんと、異世界転生していたんだ!異世界転生といえば死後に神サマが転生させてくれるものだって相場が決まっているよな?と言うよりあのシチュエーションだったら死んで異世界転生したっていうふうに考えて当然だよな?だからオレは死んだんだ。わかるか?まあ死んだ死んでないは大事じゃないわけだ、そんなことに、そんな些事にかかずらっているのはおまえくらいのものだね。バーカ。おまえはバカだ。死んだ死んでないなんてどうでも良いじゃないか、バカめ。要するにオレ、冴羽緑雨16歳は、なんと異世界転生したわけだ!

オレは胸が躍ったね。異世界転生といえばだいたいアレだろう、オレは知ってるんだ、チートスキルで無双してモテモテハーレムムチムチパーティを結成するんだろう?いやあ素晴らしいね、チートスキルで無双してモテモテハーレムムチムチパーティ。男なら誰もが一度は憧れるようなそんな素晴らしい経験をする機会がこの冴羽緑雨16歳にも到来したわけだ。思わずニヤニヤしちまうね。

そんなことを考えながらオレが異世界の街並みのど真ん中でニヤニヤしていると、いつの間にかオレの周りを異世界のガーディアンが取り囲んでいるわけだな。警察かな?どうでも良いや。何しろ死んだときのままの格好で、つまりジーンズを足先に引っ掛けた実質パンツ一枚の格好をして、そのうえニヤニヤニヤニヤしているわけだからね、オレは。異世界であろうが何だろうが、そんな不審者の周りには警察なりガーディアンなりが集まるわけだ。よろしいか?よろしいね?それでオレはそのままガーディアンどもに連行されて、地下牢に閉じ込められたんだ。

オレ、冴羽緑雨16歳は、こんなとんでもない異世界スタートを切ることになったわけだ。何と地下牢スタートで、まあ良いさ、じき王女サマのもとに連行されて「アァ異世界転生の勇者サマ、アナタの協力が必要です、どうか我々を助けてください」って調子で話が進むんだろうな、って思いながら、地下牢に閉じ込められて、誰も居ない地下牢、オレはそろそろ腹が減ったからオーイご飯はまだですか、って声を出すんだが、誰も来ないどころか、監視すら居なくて、オイオイ良いのか脱獄しちゃうぞ?って思いながら、いや実際脱獄を試みたのだが、力も才覚も何ひとつありはしないから脱獄も出来ず、見回りのガーディアンすら一度も来やしなくて、アラこれは様子がおかしいぞ、って思いながらしばらく過ごし、物音ひとつしない地下牢でオレは一人きりで、まさか閉じ込めたままオレを殺すつもりなんじゃないか、って発想に至って、怖くなってひたすらに叫んだりしたのに、それでも誰も来なくて、叫び疲れて、枯れた喉でオレは、セメテ水ヲ下サイ……って呻くように声を絞り出し、もう何日経ったのかすらわからなくて、それでも誰ひとりオレのもとには来やしなくって、これはどうやら、もうどうにも、ならないようで、地下牢に閉じ込められたきり、オレ、冴羽緑雨16歳は、異世界の地下牢で餓死した。

オレはふたたび死んだわけだ。

オレはふたたび死んだ。

もう一度言おうか?オレはふたたび死んだ。そうして二度目の異世界転生は無かった。これきりオレの人生は終わった。