かえる作文帖

小説(掌編・短編)や随筆などを書いています。読んでくれると嬉しいです。

死化粧(掌編)

大学で、月曜四限のこの時間、宗教学をあたしはとっているのだけれど、いつも教室の隅っこのほう、おんなじ席にひとりきりで座っている、ある男の子が、あたしには気になってしかたがないのだ。
……誤解のないように言っておくと、これは貴女がたが或いは想像するような、惚れた腫れたでは決してなくて、たとえるならば、道端で、よほど長いこと油をさしていないのでしょう、ものすごい音を、ギーコギーコと音をたてているぼろぼろのママチャリに乗ってはしるひとがいたとして、そのママチャリを、および、どんなひとがそのママチャリを運転しているのか、思わず、振り返ってでも確認してしまうでしょう。
私がその、教室の隅っこに陣取っている男の子が気になって仕方ないのも、上に述べたような、錆だらけのママチャリに魅入ってしまうのと同じ理由で、……つまり、彼は、要するに、なんというか、ぼろぼろのママチャリを想起させるような、そういう男の子だった。
とりたてて容姿が悪いとか、スタイルがちんちくりんだとか、そういったわけではないんです。そもそも、容姿の悪さやスタイルの悪さは、ある程度までは、服装や髪型への気配りで補えるものだもの。……そう、気配り、それだ!さっき、あたしは馬鹿だから、気配りっていう言葉が出てこなかったのだけれど、つまり彼は、かれ自身への気配りが、極端に欠けているように、あたしには見えて、それがどうしようもなく気になった。
その男の子は、顔も決して悪くはないようだし、身長も高いほうみたいで、だけれど、毎週、教室で見かけるたびに、同じような服を着ていて洒落っ気がないし、寝ぐせをそのままにしているし、こないだなんか、無精髭を伸ばしたまんま、授業を受けていたんだもの。ああ、どうして!どうしてそんなにも、彼は、自分自身への気配りをしていないのだろう!寝ぐせを整えるなんて、彼の短い髪ならば、五分とかからず出来るだろうし、髭を剃ることだって、たしかに多少は面倒だろうけど、なにも一時間早起きしろって言っているわけじゃないんだから、ねぇ、どうしてそんな、身だしなみに気配りしないで外出できるの?いや、外出どころか、人が集まる大学に来るような、そんなことまで、どうして平然と出来るのか知ら!

あたしは、そんな彼のことが気になって気になってどうしようもないものだから、この前、とうとう、いつもの席に座っている彼のとなりに腰かけて、思いきって、話しかけてみたんだ。(ええ、誤解しないで!あたしは普段は知らないひと、それも異性に話しかけるようなまねをする人間ではないのだけれど、あの男の子だけは、ほら、特別でしょう、……特別だったんです!)
あたしが声をかけると、彼はあたしの方を向いて、眠そうな、いや、正気のない、どろっとした視線を向けてきて、あたしはもともと人と仲良くなるのが得意なほうではないもんだから、ひるんでしまった。
でも彼は意外にも、まるで、そうやって、知らないひとに唐突に話しかけられるのには慣れているかのように、あたしが次のことばを言うのを、しずかに、すこし微笑むようにして待っていて、あたしは、正直にいうと、不条理にも、すこし腹が立ったんだ。だって、その気配りを、いささかなりとも、彼の身だしなみに向けてくれさえすれば!
あたしは、ああ、事前に話しかける内容を考えておけばよかった、そうやって後悔しつつも、彼に、「あの、文学部ですか?」って、どうしようもないことをたずねて、彼はしずかにうなづきながら、「ええ、そうです。……(、彼はあたしがもじもじしてなにも喋ろうとしないことに気がつくと、続けて言った)、いちおう宗教学を専門にしてやっているのだけれど、入ってみてからわかったんだ、ぼくは別に宗教学を勉強したいわけじゃなかった。だから、この授業も、いちおう出てはいるけれど、ちんぷんかんぷんで」
そう言って彼はすこし笑った。あたしもつられて笑ってしまって、だけれど、彼の寝ぐせや無精髭を見て、笑いをすぐに、引っこめた。
あたしはなにか喋らなければと思って、話すことを考えていたのだけれど、おりわるく(、いや、幸運にも?)先生が入って来たものだから、あたしたちは前に向き直って、授業を受けた。

その次の週もあたしは、彼と話した。彼はあいかわらず寝ぐせをつけたまま大学に来ていて、しかも、無精髭はおそらく、先週から伸ばしっぱなしだった。あたしが彼のとなりに(どきどきしながら)腰かけると、彼はあたしに軽く会釈して、こんにちは、と言った。あたしが小さな声で、こんにちは、って挨拶を返すと、彼は、「今日の服は紺のワンピースなんですね、素敵だと思いますよ」、って私に言ってきて、あたしは、どうも、と返事して、それに何やら意味をなさない言葉を、まとまりなく、言い訳のように継ぎ足していった。彼は、そんな挙動不審なあたしのことを、静かに、微笑みをたたえながら、聞いていた。

その次の週も、月曜の四限、彼に会ったんです。……だけれど、彼はいつもとようすが違っていた。もとから短かった髪はバッサリと切り去って、それに、無精髭も、きれいに、あとかたもなく剃っていた。服装も、いつものおなじみの、くたびれた服ではなくて、黒のパンツに白いシャツ、それに黒い上着を、おろしたてであるかのようなそれらの服をぴっちりと着て、なんだか、ふだんの彼ではなかった。
あたしは先々週や先週と同様に、彼のとなりに座った。彼はちらりとこちらを見たきり、あたしに声はかけないで、とおくを、いや、どこか意味のない宙の一点を、睨みつけるようにしていた。あたしはすっかり縮こまって、ただ授業がはじまるのを待っていた。

授業が終わってからも、彼はあたしを気にもせず、すぐにカバンに荷物をしまって、教室から出て行こうとした。あたしは、しかし、……ふとあたしは、これを機に、もうふたたび彼に会えないような気がした。「あの!」あたしは彼に呼びかけた。彼は振り向いた。沈鬱そうな顔は、寝ぐせをなくして、無精髭を剃ると、やはり整っていた。だが、眼の下にはくまができていて、あきらかに焦燥しているようだった。
これまでの彼のようす、寝ぐせと無精髭とくたびれた服、けれども人並みに優しかった彼を思い出した。その姿が、今の彼の、瀟洒な格好をしているものの、どうにも精神の余裕を喪っているような彼の姿に重なった。

あたしは彼に、とつぜん脳裏によぎった言葉を、考えもせずに口にした。「あの、……死なないで下さいね。」
すると彼は、一瞬目を見開いて、それから、その焦燥した表情を崩した。いつもの彼の笑顔に似ていたが、彼はあたしになにも返事をせず、ただそうやって曖昧に笑った、いや、泣き笑いみたいな表情をしたきり、教室を出ていった。


その日以来、あたしは彼を見ていない。