かえる作文帖

小説(掌編・短編)や随筆などを書いています。読んでくれると嬉しいです。

風前に塵を積む(掌編)

きょうは精神科へ行ってきた。いつも通っている精神科で、あたしには不眠の気と抑うつ感があるからだ。そうして、抗うつ剤睡眠薬を処方してもらって、それを飲み続けていて、けれども最近、睡眠薬を飲んでいても何だかとても寝つけないし、それに、毎晩あたしは絶望的な気分になってやるせなくて堪らない、そう伝えたら、お医者様、ふむ……ってすこし黙考したあと、おかしいなぁ、もう大学は春休みでしょう?今回はすこし睡眠薬を減らそうと思っていたんだけれど、しかし……、ストレスって訳でもなさそうだし……、だなんて考え込んじまったから、困らせてしまって申し訳ないナァなんて思いつつも、あたしだって眠れずに毎晩深刻な夜を過ごしているのだから、どうか、あたしのために悩んでくれますように、って思ってしまった。

お医者様はひととおり悩んで、二、三あたしになにかどうしようもないことを訊いたあと、わかりました、傾眠の作用がある抗うつ薬をお出しします、寝る直前に飲んで下さいね、と仰った。その代わりに、もうすぐ一年の付き合いになる、小さくて白く光るまん丸いお薬が取り止めになって、今度いただいた傾眠傾向のある薬だとかは、けれども、楕円のかたちをしていて、ずんぐりむっくり、色も濁ったようなベージュをしていて、どうも好きになれなさそうだ。

 

帰りぎわ、スーパーに立ち寄って、数個の菓子パンと水を買った。菓子パンは朝ごはん用で、水は飲料水代わりだ。あたしは毎朝、菓子パンをひとつきり食べて、昼は何も食べず、そうして夜は、冷凍食品を温めるか、或いは適当に外食をする。大学があるうちは昼ごはんも食べたりするのだけれど(、なぜならそうしないと体力がもたないから)、もう最後の講義もおわったし、どうせ一日中家でぼんやりと過ごすだけなのだから、昼ごはんなんて、要らない。

……しかし、一日中ぼんやりと過ごす春休みが、待ちに待った春休みだいうのに、気分は晴れることなしに、それどころか、不眠も憂鬱も深まるばかりで、これは一体、どういうわけなのだろう?

 

 

驚くほどによく眠れた!正直なところ、あたしは今回の薬にも大した期待は寄せていなかったのだけど、飲んで三十分も経たないうちに寝つくことができて、朝起きてからも眠くて堪らず、二度寝、三度寝を繰り返し、気づいたら昼、ああ、嬉しい!あたしは、出来ることならもうずっと眠っていたいし、何故かって、起きている間なんて退屈でしょう、春休みなんて昨日一日で飽きてしまった。あとはただ、独り暮らしのやるせなさを、(あたしはバイトをしていない。仕送りで糊口をしのぐ生活だけれど、精神がもちそうもないから、バイトなんて、とても出来ないのだ。そんな生活に静かに積もってゆく埃のようなやるせなさを、)あたしは日中、ただ眠るか、或いは携帯を触るか、そんなふうにしかやり過ごす方法を知らないから、目が覚めて午後一時、みたいな今日のような状況がこの上なく幸福で、何故って、しのぐべき退屈な時間が少なくて済む!あたしは冗談でなしに、一日がぜんぶで十二時間くらいしか無かったら、どんなにか良いだろうと思っている。

こういうわけで、あたしは午後一時に目が覚めて、携帯を触ったり夕飯を(冷凍食品のチャーハンを)食べたりしているうちに夜になって、例の傾眠抗うつ薬を飲んで、寝た。夢は見なかった。

 

 

きょうは久し振りに外に出て、なぜならもう家の冷凍食品を食べ尽くしてしまったからだ。スーパーに行くと人が多くて、くらくらした。携帯で日付を見ると、きょうは日曜日だった。人の多さに納得した。

冷凍食品をカゴいっぱいに詰めてレジに並び、いざ自分の番になって、「袋は二枚ください」って言おうとしたとき、とっさには声が出なくて驚いた。そういえば、この数日間、誰とも会話をしていない。喉を振り絞るようにして声を出し、けれど、あたしはあたし自身の声が、あたしのものではないような気がした。

家に帰って冷凍食品を冷凍庫にしまい、携帯を触ったり夕飯を(冷凍食品のピラフを)食べたりしているうちに、夜になったから、薬を飲んで、寝た。

 

 

睡眠薬や傾眠傾向のある薬は素晴らしき哉、だって一日のおわりを自身で決めることができるのだもの。あたしはまだ、不眠になって日が浅いから、どんな薬でも最初のほうはわりかし効いて、飲んでから一時間のうちには寝付くことができて、こういう長い大学生の休みには、そんな薬が何より嬉しい。その気になれば、起きている時間が一日のほんの七、八時間で済む。まあ、その七、八時間ですら、あたしのような人間には、永遠のように思われて、今もこうして、息をするのさえ辛く感じる。まだ夜の七時だけど、もう薬を飲んで、眠ってしまいたく思う。

 

……毎日が、まるで泥でも飲んでいるみたいだ。

 

 

部屋の掃除をした。いくらやっても綺麗にはならないから、てきとうなところで妥協してやめた。妥協しつづけた結果があたしの今の生活だ。でも、腐りきった性根はいまさらどうにもならない。

根腐りした樹木を想起した。もう、枯れて朽ちるのを待つだけなのだから、はやく誰かが切り倒してくれればいいのに。

 

 

睡眠薬がききづらくなってきた。

一日が長い。小学生のころのあたしは、あたしであったことにかわりはなくて、それでも、毎日が楽しく、あっという間だったはずだけど、あれはいったい、どういうわけだったのだろう。すくなくとも、むかしのあたしは、息を吸うことが、こうも辛いものではなかった。

 

 

携帯で映画を観た。牢獄のなかを題材にした映画で、彼らはあたしよりもよっぽど充実して見えた。ここは牢獄のなかよりももっと辛い現実なのかもしれない。

彼らはやるべきことをこなして、ひとの輪のなかに属している。

あたしは?

 

 

隣の部屋から、ひとの集団の笑い声や、ギターを弾くおとが聞こえてきて、苦痛で、しかし、あたしが気にしすぎなのだろうか。

眠ることは、これは、あたしが幼稚園のころからひそかに思っていることだけれど、眠ることは、眠っているあいだは、死んでいるのと同じで、毎晩毎晩死ぬことは、死んでいられることは、救いなのかもしれないが、それを考え出すと、怖くてしかたない。

睡眠薬が、きゅうに恐ろしいものに思えてくる。

君らは、眠ることが、怖くはないのか?

あたしには、そう問いかける相手も居ない。

 

 

全部終わりにすることにしました。睡眠不足や、或いは睡眠それ自体への恐怖も、息を吸うたびに苦痛そのものを吸っているかのような感覚も、長い永い春休みとも、あたしを苦しめる何もかもとは、これでお別れです。名残惜しさはかけらもなく、かえってせいせいします。後ろ髪を引く後悔のひとつも無いことを思うと、わざわざお金を払ってまで睡眠薬抗うつ薬を飲んで生き延びてきたのが、しんから阿呆らしく思えます。苦痛に苦痛を塗りたくるようなもので、……まあ、とにかく、これですべて幕切れです。あたしはこの世の何もかもに愛想が尽きて、……いや、御託はお了いにしよう、では、見果てぬ夢を、ふたたび覚めない眠りを!